今度こそMWGの全集の間違った注釈

In naturalwirtschaftlichen Verhältnissen nobilitiert aber überhaupt, sahen wir, nicht der Besitz als solcher, sondern die freigebig gastfreie Lebensführung.
(自然経済的な諸状況において、前に述べたように、しかし一般にそういった財産の所有がではなく、物惜しみしない、客をもてなす生き方が人を高貴にするのである。)

のsahen wirの参照先を全集注は最初の全集の209ページとしています。しかしそこに書いてあるのは、

Der große Besitz ferner lockt, einfach weil er Besitz und als solcher Träger einer sozialen Position ist …

「大所有は、まさに所有であるがゆえに社会的地位の担い手となる」と上記の文章とは反対のことです。

色々調べましたが、おそらく可能性のある参照先は以下です。

„Klassen“, „Stände“ und „Parteien“(「階級」、「身分」、「政党」)
最初の全集のP.635
Aber die ständische Ehre muß nicht notwendig an eine „Klassenlage“ anknüpfen, sie steht normalerweise vielmehr mit den Prätensionen des nackten Besitzes als solchem in schroffem Widerspruch.

濱島朗訳(みすず書房「権力と支配」P.226)
「だが身分的名誉は必然的にある「階級的地位」に結びつくとはかぎらない。かえってそれは、露骨な所有自体の要求ときびしく矛盾するのが普通である。」(漢字を新字体に変更)

ただここもそのものずばりではありません。要するにヴェーバーがここで述べているのは、気前の良さが身分的威信につながるという、言ってみればポトラッチ的なことです。ここは元々sahen wir ではなく、sehen wir でした。なので今の全集が勝手に間違った所を参照先として辻褄を合わせるために変更した可能性があります。ヴェーバーはこの論文の最初の方でクワキウトル族の「ハマチャの兄弟団」について言及しているので、同じクワキウトル族の話である「ポトラッチ」を知っていた可能性は十分あると思います。