折原浩訳の問題点(47)

ここは、折原センセがグノーシス主義についてまるで理解していないことを示しています。ちなみに創文社訳もデミウルゴスについてギリシア語の原義しか説明しておらず、こちらも同様に分かっていません。ヴェーバーが100年以上前に、ほぼ正確に書いていることを、日本の訳者が理解していないとは嘆かわしいです。(ちなみにグノーシス主義のナグ・ハマディ文書は1945年に発見されたもので、ヴェーバーの時代にはその内容はまったく知られていません。)大体折原センセは日本におけるグノーシス主義研究のパイオニアである荒井献先生と同時期に駒場キャンパスで教えていたので、その気があれば聞けたと思うんですが。ヴェーバー自身が、アーダルベルト・メルクス、アドルフ・ダイスマン、エルンスト・トレルチなどから自分にはないキリスト教関係の知識を得ていたのに比べるとかなり劣ります。そもそも折原訳は単にドイツ語を日本語に置き換えているだけで、背景にある知識を自分で調べようとする姿勢がまるで感じられません。

(1)「一従属的な世界創造者(ヤハウェまたは「デミウルゴス」)の価値が劣っていることから発生する。」→従属的ではなく、「下位の」世界創造者、「価値が劣っている」ではなくその神自体が低劣であるということ。下記の私の訳注を参照してください。
(2)「触発される」ではなく、もっとダイレクトに「接触する」である。
(3)「不浄な質料」→変な哲学用語ではなく「不浄な物質」

私は訳注に書いた本だけでなく、荒井献先生の「トマス福音書」も読んでいます。

原文
Ungerechtigkeit, Unrecht, Sünde, alles also was das Problem der Theodizee entstehen läßt, sind Folgen der Trübung der lichten Reinheit der großen und guten Götter durch Berührung mit der ihnen gegenüber selbständigen Macht der Finsternis und, was damit identifiziert wird, der unreinen Materie, welche einer satanischen Macht Gewalt über die Welt gibt und die durch einen Urfrevel von Menschen oder Engeln oder — so bei manchen Gnostikern — durch die Minderwertigkeit eines subalternen Weltschöpfers (Jehovas oder des »Demiurgos«) entstanden ist.

折原訳
不義・不正・罪など、およそ神義論の問題を発生させる全てのことは、偉大にして善良な神々の清浄な光が、神々に対して自立している闇の力や、それと同一視される不浄な質料の力に触発されて生ずる、混濁の結果である。この不浄な質料が、悪魔的な力に、世界支配の権能を与えるのであるが、それはもともと、人間や天使の原罪や、――数多のグノーシスが説くところでは――一従属的な世界創造者(ヤハウェまたは「デミウルゴス」)の価値が劣っていることから発生する。

丸山訳
不正・過失・罪といった神義論の問題を発生させる全てのものはそれ故、偉大で良き神々の光に満ちた純粋さが、神に対して独立している闇の力と、それと同一視される、サタンの力に世界に影響を及ぼす権能を与える不純な物質、の双方と接触して混濁した結果であり、そして人間または天使の原罪によって、または--多くのグノーシス主義者においては--下位の世界創造者(ヤハウェまたは「デミウルゴス」[1])の劣等さによって生じたのである。

[1] 本来はギリシア語で「職人」「製作者」「造物主」の意。グノーシス主義では、至高神とは別の下位の世界創造者を指すことが多い。グノーシス主義のナグ・ハマディ文書の一つである「ヨハネのアポクリフォン」に書かれた神話では、ソフィアと呼ばれた知恵の女神が、自分だけで新たな神を生み出そうとし、それに失敗して不完全な神を流産して生み出してしまう。その神は蛇とライオンの外見を持つ奇怪なもので、ソフィアはその子を他の神に知られるのを恐れ神々の世界(プレーローマ界)の外へ投げ捨てる。この捨てられた神は「ヤルダバオート」という名前を付けられ、そして自分で世界を創造し、自分だけが唯一の神だと思い込む。つまり「ヤルダバオート」は旧約聖書のヤハウェのことであり、グノーシス主義ではヤハウェは無知と傲慢に満ちた神とされている。グノーシス主義ではデミウルゴスは、このヤルダバオートと同一視された。参考文献:大田俊寛「グノーシス主義の思想 <父>というフィクション、春秋社」

折原浩訳の問題点(46)

今日の所は、ヴェーバーの言っていることがおかしいのと、例によって折原訳がおかしいのと両方。
1.マンダ教、グノーシス主義、マニ教は元々ユダヤ教やキリスト教から発祥していると考えられており、例えばマニ教においてのゾロアスター教の影響は後の話です。(更に言うならゾロアスター教の二元論と、グノーシス主義やマニ教の二元論はかなり性格が違い、一緒にまとめるのは粗すぎる。)ちなみにマンダ教もグノーシス主義の一派です。

2.折原訳の「キリスト教と世界制覇を争う寸前にあったように見える、マニ教の壮大な概念構想」の「キリスト教と」は原文にない。またauch in der mittelländischen Antikeとあるように「古代地中海世界『でも』」であり、マニ教は遠く中国までも伝わった世界宗教であり、キリスト教とだけ覇を争っていた訳ではありません。ゾロアスター教や仏教とも勢力争いをし、その教義を中に取り込んでいます。ちなみに全集の注もキリスト教との関係にしか触れていません。この全集の編集者は知識が西洋中心に偏っていると感じます。

原文
Zunächst der Dualismus, wie ihn die spätere Entwicklung der zarathustrischen Religion und zahlreiche, meist von ihr beeinflußte vorderasiatische Glaubensformen mehr oder minder konsequent enthielten, namentlich die Endformen der babylonischen (jüdisch und christlich beeinflußten) Religion im Mandäertum und in der Gnosis, bis zu den großen Konzeptionen des Manichäismus, der um die Wende des 3. Jahrhunderts auch in der mittelländischen Antike dicht vor dem Kampf um die Weltherrschaft zu stehen schien.

折原訳
そのうちには、まず二元論があり、これは、ゾロアスター教の後期の発展段階や、おおかたゾロアスター教の影響を受けた西アジアの信仰諸形態に、多かれ少なかれ首尾一貫して含まれていた。後者の主要な事例としては、バビロニアの宗教が(ユダヤ教およびキリスト教の影響を受けて)行き着いた、マンダ教やグノーシスの最終的諸形態、また、紀元三世紀の終わりには、古代地中海世界においても、キリスト教と世界制覇を争う寸前にあったように見える、マニ教の壮大な概念構想、などが挙げられよう。

丸山訳
まず挙げられるのは二元論であり、それはゾロアスター教の後期の発展に見られるのと、数多い、多くはゾロアスター教に影響された近東の信仰の諸形態に多かれ少なかれ一貫して含まれているが、その中でも特にバビロニア宗教(ユダヤ教とキリスト教に影響された)の最終形態である、マンダ教と、グノーシス主義が挙げられ、更にはマニ教においての大構想までがそうであり、マニ教は3世紀の終わりから4世紀初めにかけて、古代地中海世界においても支配的な宗教の地位に就く寸前の状態にあったように見える。