折原浩訳の問題点(65)

最近、ほとんど1日辺り複数のポストになって来ています。
ここもひどいです。
(1)最初の文は、先に述べたようなともかくも避けることの出来る例に比べてより深くに進んでいるのは、であって「それだけ避けられない」なんてそんなことは一言も述べられていない。ともかく余計な付け加えが多いです。
(2)「気分の充実した帰依へとで最大限に醇化」→およそ意味不明の日本語。醇化も書くなら「純化」。「帰依」が仏教用語だけにそれに「気分の充実した」が付くとほとんどお笑いです。お坊さんに「どんな帰依のことですか」って聞いたら困るでしょうね。(笑)
(3)Stimmungsgehaltは「気分内容」ではなく、「情緒的没入感」ぐらいだと思います。要するに小説を読む時にその主人公の気分と同化してしまうとかありますが、儀式の最高潮で参加者をそういう風に同化させること。つまりGehalt=中身、というよりhaltenの過去分詞的に「保たれている、つかまれている」意味を含めて訳すべきだということです。英語に spellbound(魔法にかけられた、うっとりした)という表現がありますが、この-boundとちょっと似ています。Stimmungも元のstimmen(同調する、一致する)から訳を考えるべきです。 単にStimmungとGehaltの意味を足せばいいってものではありません。(この語に関してはDudenの説明と用例を確認しています。)
(4)「力点が置く」ってそもそも日本語としても間違ってますが。ご自身での校正の跡がほとんど認められません。要するにこの方多数本を出されていますけど、この手の校正は全部出版社任せで自分で最後まで責任をもって校正した経験自体がないんでしょうね。

原文
Tieferliegend aber als diese immerhin vermeidbare Konsequenz ist der Umstand: daß die rituelle Erlösung, speziell dann, wenn sie den Laien auf die Rolle des Zuschauers oder auf eine Beteiligung nur durch einfache oder wesentlich rezeptive Manipulationen beschränkt und zwar gerade da, wo sie die rituelle Gesinnung möglichst zu stimmungsvoller Andacht sublimiert, den Nachdruck auf den »Stimmungsgehalt« des frommen Augenblicks legt, der das Heil zu verbürgen scheint.

折原訳
この帰結はともかくも避けることができるが、つぎのような事態は、いっそう深い基礎に根ざしているので、それだけ避けられない。すなわち、儀礼上の救済が、とりわけ平信徒を儀礼の見物人の役割に限定する場合、あるいは、平信徒の参与を許すとしても、本質的に受動的な、単純な所作に限定する場合、しかもまさしく、儀礼上の心意を、気分の充実した帰依へとで最大限に醇化し、救済を保証すると思える敬虔な瞬間の「気分内容」に力点が置く場合である。

丸山訳
しかし今のべたようなともかくも避けることの出来る結果のものより更に一歩進んだ儀礼主義とは次のような場合である:儀式による救済で、特別に平信徒を見物人の役に限定するか、あるいは平信徒の儀式への参加をただ簡単なあるいは本質的に受動的な所作だけに限定し、それもまさに、儀式の志向を可能な限り情緒に溢れた敬虔な信仰へと純化する場合に、まさに救済を保証するかのように見える敬虔さに満ちた瞬間へ、の「情緒的没入感」を強調する場合である。

折原浩訳の問題点(64)

本当にこの方は原文を素直に読まないで曲げたり、余計なことを付け加える傾向が強いです。
(1)「帰依」(Andacht)は本来仏教用語(帰依仏、帰依法、帰依僧)なので使うべきではない。「敬虔な」で良い。
(2)「儀礼主義的な」というより原文は「儀式(偏重)主義者の」。
(3)Dieser äußerste Typusは前の説明を受けて「こういった極端な類型」であり、「敬虔な帰依がこの方向で徹底されたとすれば、その類型は、」のように、この極端な類型を更に徹底するなどという解釈はあり得ない。

原文
Die Konsequenzen einer ritualistischen Andachtsreligiosität können sehr verschiedene sein. Die restlose rituelle Reglementierung des Lebens des frommen Hindu, die für europäische Vorstellungen ganz ungeheuerlichen Ansprüche, welche Tag für Tag an den Frommen gestellt werden, würden bei wirklich genauer Durchführung die Vereinigung eines exemplarisch frommen, innerweltlichen Lebens mit intensivem Erwerb nahezu ausschließen. Dieser äußerste Typus der Andachtsfrömmigkeit bildet darin den äußersten Gegenpol gegen den Puritanismus. Nur der Besitzende, von intensiver Arbeit Entbundene könnte diesen Ritualismus durchführen.

折原訳
儀礼主義的な帰依宗教性の帰結は、きわめて多種多様でありうる。敬虔なヒンドゥー教徒の、余すところのない儀礼的な生活規制は、ヨーロッパ的な考え方からすればまったく途方もない要求を、敬虔な信徒に日々課すことになるが、そうした要求がじっさい厳格に遵守されたとすれば、現世内における模範的に敬虔な生活と、精力的な営利追求活動とを両立させることは、ほとんど不可能であろう。敬虔な帰依がこの方向で徹底されたとすれば、その類型は、ピューリタニズムの[敬虔という点では等価な]類型と、その点で、極端な対照をなす。集約的な労働から免れている有産者以外には、そうした儀礼主義に徹することはできないであろう。

丸山訳
儀式偏重主義者の敬虔な信仰の結果は、非常に様々であり得る。敬虔なヒンドゥー教徒が絶え間なくその生を儀式上の規則でがんじがらめにすることは、それはヨーロッパ的なイメージでは全く途方もないほどの様々な要求に見えるが、それは敬虔な信者に日毎に課され、その実際での厳格な実施においては、模範的に敬虔な信者の現世内的生活において、集中して生業に勤しむことと両立させることはほとんど無理である。このような敬虔な信心の極端な類型はこの点で、ピューリタニズムとの極端な対照関係を成している。日常の生業の仕事から解放されている資産家だけが、こうした儀礼主義を貫徹することが出来る。

「ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の第1.20版を公開

「ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の第1.20版を公開しました。
まだ決して完全とは言えないとは思いますが、この版を一応の校正完了版とします。
「宗教ゲマインシャフテン」の翻訳が完了したら、再度見直すことも有り得ますが、当面これでフリーズします。