折原浩訳の問題点(89)

また出ました、Haben=貸方、が分かっていない不適切訳。
しかし、宗教社会学というより、宗教財政学、複式簿記で見た信仰の内訳。(笑)
まあ普通の会社に勤めた経験がない人は複式簿記って言葉で知っているだけで、実務的な借方・貸方(ドイツ語で Soll und Haben)の概念は分かってないでしょうね。(創文社訳もまったくきちんと訳せていません。)

原文
Im übrigen aber ist der positive Charakter der Heilsbewährung und also auch des praktischen Verhaltens, wie schon mehrfach angedeutet, grundsätzlich verschieden vor allem je nach dem Charakter jenes Heilsguts, dessen Haben die Seligkeit verbürgt.

折原訳
ちなみに、救いの確証の積極的性格と、そこに生ずる実践的振舞いの積極的性格も、すでにたびたび示唆してきたとおり 、とりわけ、いかなる性格の救済財所有が至福を保証するのか、その性格の如何に応じて、根本的に異なっている。

丸山訳
しかしその他、救いの確信と、それに基づくまた実際的な行為の積極的な性格は、既に何度も概説した通り、取り分けその貸方[への計上」が至福状態を保証している、救済財の性格によって根本的には様々なのである。

ヴェーバーのVirtuose概念の危うさ

今訳している所に、Virtuoseという概念が出てきます。音楽で言うヴィルトゥオーソ(名人)のことです。ちょっと引用します:
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宗教的な練達者[Virtuose]が、ウマル1世[1] の時代のイスラム教徒のように世界を征服しようとする宗教戦士団の仲間の一人であるか、あるいは大半のキリスト教徒のように、そしてそれより徹底はしていないがジャイナ教徒のような、現世を拒絶するような禁欲のそれであるか、あるいは仏教僧のように現世を拒絶する瞑想を行うそれであるか、古代でのキリスト教徒のように抵抗せずに殉教した者のそれであるか、あるいは禁欲的プロテスタントのように現世の中で自分の職業の有用性を示したそれであるか、ファリサイ派ユダヤ人のような形式的な律法遵守者のそれであるか、アシジの聖フランシスコのような現世否定の慈悲のそれであるか[2]、いずれにせよどの場合でも、練達者[Virtuose]は--既に確認した通り--真の救済の確証をただ、その者が自分自身で自分の練達者[Virtuose]としての心情を、試練の下で常に新しく確認する場合にのみ手に入れるのである。

[1] 在位634年~644年の第2代正統カリフで、聖戦を展開しイスラム教の勢力圏を拡大し、シリア・エジプト・イランを征服した。

[2] ヴェーバーはここで多数列挙してそれをVirtuoseの説明にしているが、まったく性格の違うものをただ列挙しただけで、定義としては全く破綻している。また特に仏教僧で悟った者は「救いの確証を不断に確かめる」といったことは絶対にしない。要するにここでヴェーバーがしていることは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でカルヴィニズムの信徒に使った説明を全宗教に無理矢理当てはめようとしているだけである。
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はっきり言ってここの説明はひどいです。ありとあらゆる宗教の登場人物を単にVirtuoseでくくって入れてしまっています。訳注に書いたように、仏教の悟りを開いた僧(阿羅漢)には全く当てはまりませんし、また殉教のVirtuoseって何?っていう感じです。また同じく訳注にあるようにここは単にプロ倫の説明をそのまま全宗教に使っただけです。「雑」な分析としか言いようがありません。