折原浩訳の問題点(127)

これはずっと書こうかどうしようか迷っていたことですが、この訳者は文頭にaberが来ると、高い確率で「ところで」と訳します。しかし言うまでもなく、aberは多くの場合前の文章とは反対のことを言う(この場合ではカトリックで告解がそれなりの力を持っているという話とは逆に、ということ)場合に使います。それが「ところで」では単に話題を変えていることになってしまいます。はっきりいって小学生の作文の添削レベルですが、敢えて公開しておきます。

原文
Aber daß das Judentum einerseits, der asketische Protestantismus andererseits keinerlei Beichte und Gnadenspendung durch irgendeine menschliche Person und keinerlei magische Sakramentsgnade kennen, hat historisch jenen ungeheuer scharfen Druck im Sinn der Entwicklung einer ethisch rationalen Lebensgestaltung geübt, der beiden Arten von Religiosität, so stark sie sonst voneinander abweichen, gemeinsam ist.

折原訳
ところで、一方ではユダヤ教、他方では禁欲的プロテスタンティズムが、なんらかの人間によってなされる、いかなる聴罪も恩恵分与も、また、およそいかなる魔術的な秘蹟恩恵も、知らないということは、歴史上、倫理的に合理的な生活形成を発展される方向において、おそろしく強烈な圧力をおよぼした。ユダヤ教と禁欲的プロテスタンティズムというふたつの宗教性は、その他の点では互いに顕著に異なっているとしても、この圧力は、両者共通に認められる。

丸山訳
しかしながら、一方でユダヤ教が、他方では禁欲的プロテスタンティズムが、何らかの人間的ペルソナによる告解と恵みの贈与を知らず、更に魔術的な秘蹟による恩恵も知らないということは、歴史的に、あの強大で激しい、倫理的に合理的な生活の形成を発展させるという意味での圧力を及ぼしたのであり、この二つの信仰の種類は、それ以外では相互に非常に異なっているにもかかわらず、この点に関しては共通なのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA