「とりわけユダヤ教の預言者たち、あるいはまた、たとえばモンタヌスやノヴァティアヌス 、さらにはまた、もとより顕著に合理的な特徴を帯びてはいるが、マニとマヌス 、他方、いっそう情動的な性格を帯びたジョージ・フォックス 、こういった人々はいずれも、そういう告知をなした[したがって、ここでの規定によれば、そのかぎり預言者に該当する]。」という預言者について述べている所で創文社訳の訳注はこの「マニとマヌス」の後者(前者はマニ教の創始者)を勝手にマヌに変えて、インド神話のマヌとしています。しかしインド神話のマヌは旧約聖書で言えばノアと同じで、大洪水をヴィシュヌ神から教えてもらって生き延び、人類の始祖とされる人です。ノアが預言者でないのと同じでマヌも預言者ではまったくありません。私の解釈は、Manusはマニのラテン語綴りのManesを間違えたもので、「マニまたはマネス」と書きたかったのだろうと解釈します。他の人はいずれも歴史上実在する人で、マヌスだけ神話の登場人物というのもまったく整合的ではありません。(ちなみに全集はここについてはテキスト欠損により解明不可、としています。)
月: 2025年10月
AbschichtungとAusschichtung
ハインリヒ・ミッタイスの「ドイツ私法概説」を読んでいたら、家族・相続・結婚の所で、Abschichtungという言葉が出て来ました。これは父が息子に財産を分与して息子が独立する(=新しい層を形成する)ことを言います。
ヴェーバーの「中世合名合資会社成立史」には一方Ausschichtungという言葉が出て来て、これが辞書に無い言葉なのですが、私は訳注で「現代のドイツ語辞書には無い単語。おそらくは初高ドイツ語で、原義は「層を形成すること」、ここでは息子に財産を分与することで、元の家ゲマインシャフトとは層関係を成す新しい家ゲマインシャフトを作ることを言っていると思われる。」としました。この解釈は反対側から見たAbschichtungが同じ意味を表していることからも正しかったようです。
ChatGPT5も私の解釈が正しいとしてくれました:
2. 「Ausschichtung」——ヴェーバー独特の古語的造語
ヴェーバーの『中世商事会社成立史』(Zur Geschichte der Handelsgesellschaften im Mittelalter)で出てくる Ausschichtung は、
現代ドイツ語にはほぼ存在しない語であり、彼自身の文脈的創造語(もしくは古語再生)と見られます。
原義と文脈
接頭辞 aus- は「外へ」「切り離して外に出す」の意。
Schichtung は「層」「層を形成すること」から派生して「分層化・階層分離」のニュアンス。
したがって、Ausschichtung = 共同体(Hausgenossenschaft, familia, gens)から財産的に一部を切り離して、新しい層=独立家を作る行為。
文献上の使い方(要約)
「Ausschichtung der Hausgemeinschaft bedeutet, daß ein Sohn oder Hausgenosse durch Zuteilung von Vermögen ausgeschichtet wird …」
(家ゲマインシャフトの Ausschichtung とは、息子または同居成員が財産分与によって分離されることを意味する)
→ つまり、あなたの訳注の説明
「元の家ゲマインシャフトとは層関係を成す新しい家ゲマインシャフトを作ること」
は語義的にも文意的にもまったく正しい読みです。
ヴェーバー学ではなく折原学
折原浩先生は「理解社会学のカテゴリー」を非常に重視しており、その中でも「諒解」を最重要視しています。例えば2008年の「ヴェーバー研究の「新しい風」に寄せて」では、
「二、松井著の意義と射程――「諒解」概念の展開可能性
松井著と小著とは、「カテゴリー論文」の基礎概念にもとづく「旧稿」の体系的読解をめざし、(「旧稿」を、著者ヴェーバーの「1914年構成表」に依拠して、①「概念的導入」篇、②「ゲマインシャフト」篇、および③「支配」篇に三分すれば)松井著が①と②、小著が①と③を集約的に論じ、その意味で相互補完関係をなしている。したがって、読者がいま「旧稿」全篇を体系的に読解しようとされるならば、小著をプロレゴーメナとする両著の併読が、ヴェーバー研究の現在の到達水準から道標を提供する案内として役立つであろう。
そのうえで松井著は、ヴェーバー研究の活性化をめざし、「カテゴリー論文」の基礎概念中とくに「諒解Einverständnis」に着目して、「ヴェーバー社会理論」のダイナミクスを復権させようとする。「鉄の檻」(「官僚制」)による現代人の「無気力な歯車」化といったステレオタイプにたいしても、(外からニーチェを持ち出すのではなく)「ヴェーバー社会理論」への内在を深めることによって、突破口を探ろうとする。しかも、「諒解」概念とその射程にかけては、佐久間孝正や中野敏男の「物象化論」を批判の俎上に乗せ、筆者の「没意味化論」にもとづく、「ゲゼルシャフト関係」の「頽落態」という「諒解関係」の捉え方にも、正面から批判を加える。松井によれば、ほとんどすべての「ゲゼルシャフト形成」は、「制定秩序」を「授与」されるゲマインシャフトの内部に、それ以前の(より「原生的」な)ゲマインシャフトを「取り込み」、「再編成」し、常態として「ゲマインシャフトの重層」構造を創り出す。「ゲゼルシャフト関係」の「合理的」秩序といえども、じつは「諒解」によって「妥当」するのであり、したがって「諒解」のカテゴリーこそ、あらゆる「ゲマインシャフト(社会)秩序」の存立と変動を解く鍵である。」
しかしながらこの「諒解」は「社会学の根本概念」では全く消滅しています。例えば「カテゴリー」論文でヴェーバーが諒解の例として挙げた言語については、「しかし言語の共通性は、それ自体ではまだゲマインシャフト関係を意味するものではなく、当該集団内の交通を容易にするだけであり、したがってゲゼルシャフト関係の成立を容易にするだけである。」と述べており、つまりは「ある人間集団が言語を共通にしているだけではそれはゲマインシャフト関係にあるとは必ずしも言えない。」ということです。(私が敢えていうならこれは言語ゲノッセンシャフトです。)なので折原浩先生が「諒解」こそ「あらゆる「ゲマインシャフト(社会)秩序」の存立と変動を解く鍵である。」とするのは、ヴェーバー本人が戦後重視しなくなっていたことを勝手に変えていて、もはやヴェーバー学ではなく折原学です。この点は非常に重要なので、折原浩先生がそう述べているんだからそれがヴェーバーの本当に主張したかったことなんだ、と思うべきではありません。
「経済と社会」の「頭」問題への現時点の個人的まとめ
「経済と社会」の「頭」問題について、現時点での個人的まとめです。この問題は折原浩先生とシュルフター教授の間で何度も論争が交わされましたが、尻切れトンボに終わってしまっているように思います。そういう意味でアマチュアの意見であっても公にする意味はあると思います。
(1) 「経済と社会」の旧稿は、第1次世界大戦後書き直されたものを除き、注釈すらほとんどついていない完全な手書きの草稿状態のもので、それがある「頭」に従って統一的になるよう十分な注意を払って書かれたとはとても見なし難い。
(2) 「理解社会学のカテゴリー」ではゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為を定義しているが、実際に良く出てくるのは、ゲマインシャフト・ゲゼルシャフトそのもの、あるいはVergesellschaftung(ゲマインシャフトが契約を結ぶなどしてゲゼルシャフトになること、ゲゼルシャフト形成)などであり、直接的に「理解社会学のカテゴリー」に依拠している部分は少ない。
(3) そもそも歴史に登場する人間集団で「行為」から見たその形成の経緯などほとんどの場合不明であり、ゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為などの定義は分析の役には立っていない。
(4) ヴェーバーに限らず、「経済と社会」の旧稿全体のような膨大なテキストに対して、あらかじめ全ての必要なカテゴリーを準備しておくことなどまず不可能。実際には「宗教社会学」で「教団」という意味でのゲマインデが新たに定義されたりなど、「理解社会学のカテゴリー」は「頭」とみなすにはあまりにも不十分。
(5) 既に何度も指摘しているように、ゲノッセンシャフトやケルパーシャフトなどの法制史等での重要カテゴリーは「カテゴリー」では定義されていない。
(6) 一方シュルフター教授の「双頭」仮説は、「社会学の根本概念」が戦後に書かれたものであることを考えれば執筆順で考えてそれが旧稿の頭を成しているというのは時系列を無視している。「旧稿」が書き進められていくにつれて徐々に歴史事象により適合する形で考えなおされたカテゴリー論が、さらにはミュンヘン大学の学生に教えた時の経験に基づく反省が「根本概念」に反映されている、というなら賛成出来る。しかしその場合でも「頭」というほどではないというのは「カテゴリー」論文と同じ。
(7) 「カテゴリー」論文のゲマインシャフト行為・ゲゼルシャフト行為は、ミクロ経済学でいう「限界効用」に近い。「限界効用」理論が実際的な人間や会社の経済行為の解明にはほぼ役に立たないというのは今日では常識に近いが、「ゲマインシャフト行為」「ゲゼルシャフト行為」は「限界効用」と比べても更に現実との接合が弱い。
ドイツ語を日本語に訳するということ。
während der Prophet ebenso wie der charismatische Zauberer lediglich kraft persönlicher Gabe wirkt. を折原浩先生は「預言者は、カリスマ的呪術師とまったく同様、もっぱらただ、かれの即人的な天賦の才によって活動する 。 」と訳しています。正確には創文社の訳を折原先生がそのまま採用してしまったものです。(例によって「即人的」は除く。)ここでの新たな問題はGabeを「天賦の才」と訳していることです。冒頭でカリスマと同じと言っているのですから、ここで言っているのは生まれつきの才能という意味ではなく、当然神から得た戒律(モーセの十戒)や神の言葉を得て、と訳すべきです。私の訳は「預言者は、カリスマ的呪術師とまったく同様、もっぱらただ、その者個人に神より賜わったもので影響を及ぼす 。」にしています。
他の例では、der Prophet dagegen kraft persönlicher Offenbarung oder Gesetzes Autorität beansprucht. を折原浩先生は「預言者は、即人的な啓示ないし原則によって権威を要求する。」と訳しています。(例によって(笑)「即人的」は無視して)ここでのGesetzesは当然上の文にも出て来た戒律・律法と解釈すべきと思います。またAutorität beanspruchtは「権威が自分に属すると主張する=自らを権威付ける」ということ、つまり「預言者は、個人的な啓示ないし戒律(律法)によって自己を権威付ける 。」ということです。「権威を要求する」は意味不明です。要するに翻訳というものは辞書に載っているそれぞれの単語の意味をつなぎ合わせることではない、ということです。
既にこれまで訳が存在するものの新しい訳を出すのであれば、その古い訳の間違いをそのまま持ち込まないように気を付けるべきと思います。
折原浩先生の日本語訳の特殊さ
「宗教社会学」でヴェーバーが「預言者」の定義を述べている所、折原浩先生の訳は
「われわれはここでは、「預言者」という言葉のもとに、自分の使命として宗教的教理ないし神の命令を告知する、純然たる個人・即人カリスマの担い手、を理解することにしたい。」
原文は
“Wir wollen hier unter einem »Propheten« verstehen einen rein persönlichen Charismaträger, der kraft seiner Mission eine religiöse Lehre oder einen göttlichen Befehl verkündet.”
です。問題は「個人・即人カリスマ」です。この訳一体何ですか?普通に訳せば”einen rein persönlichen Charismaträger”は「ある純粋に個人としてのカリスマの持ち主」です。何故か折原浩先生はpersönlichを文脈も見ず100%「即人的」と訳し、私はそれをこれまで全部別の訳に変えています。おそらくは「即物的」の反対の意味での造語でしょうが、この「即人的」はまるで意味不明ですし、それをまたここではわざわざ「個人・即人」と重ねています。ヴェーバーはここで別に哲学を論じている訳ではなく、persönlichはごく一般的な意味で使っているとしか解釈しようがありません。大体、哲学の語だって本来は日常語ですよ。ハイデガーのDaseinは文字通り「そこにあること」という意味でしかなく、「現存在」とかの日本語にすると途端に意味が分からなくなります。また、折原浩先生、「最終総括」で「推転」なるマルクス主義者御用達語(元はヘーゲルらしい)を使われていましたが、これも元はÜbergangで「夏から秋への移り変わり」という時の「移り変わり」という意味に過ぎません。こういうおかしな訳がこれまでヴェーバーの文章を実態以上に難解だと思わせることに貢献して来たのだと思います。
p.s.
Googleで「”即人的” site:http://hkorihara.com」で検索すると多数出てくるので、この訳に限ったことではなく「即人的」は昔から使っていたということが確認出来ました。おそらくはsachlich=即物的の反対語としての造語なんでしょう。そう考えると理解出来なくもないですが、問題は最初に読んだ人はそんなことは分からないということです。それからヴェーバーがいつも同じ語は同じ意味で使っているなんてことはありえないということです。それをいつもある語が出たらそれに同じ日本語を当てるのは、これもヴェーバーのテキストをある意味「聖典」化している訳です。
「宗教社会学」折原浩訳、丸山補訳、R2
折原浩私家版訳「宗教社会学」の丸山補訳版のR2(P.60まで)を公開します。
ここもひどいですね。特にインドや中国・日本に関する記述はほとんどデタラメばかりです。こういう論文からヴェーバーの「合理化」の考え方が出て来たことを考えると、その合理化論も根底から見直す必要がありそうです。
ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ7
まあヴェーバーの「宗教社会学」について、突っ込み所のネタが尽きることは当分ありません。
「それというのも、不覚にも精霊を刺激して、当人に乗り移られるとか、あるいは別人にもつぎつぎに乗り移られて、魔術的な危害を被ることがないように、いずれにせよそういうきっかけを与えないようにしなければならない。その結果、該当者は、肉体的にも社会的にも隔離されて、他人との接触を避けなければならず、場合によっては、なんと本人も、自分自身の人格との接触を許されなくなる。この理由で、たとえばポリネシアのカリスマ的諸侯のように、自分の食物も [自分に憑依した] 魔力で汚染されないように、自分では食せず、他人に注意深く食べさせてもらう、ということもしばしばある[1]。」
これについて私が付けた訳注は以下。ちなみにオペレッタ「ミカド」の初演は1885年でヴェーバーは21歳。音楽好きなヴェーバーですし当時欧州で非常に流行ったオペレッタでもあり、おそらくは観ている可能性が高いと思います。要するに当時の欧州の日本もポリネシアも中国も一緒くたにする風潮にヴェーバーもそのまま影響を受けていたようです。
[1] 出典はおそらくはフレイザーの「金枝篇」か。ポリネシアではなく日本の太古の「ミカド」が自分で体を動かしてはいけず、体を洗うのも寝ている間に従者が行うという記述がある。(この辺りギルバート&サリヴァンのオペレッタの「ミカド」を想像させる。「ミカド」にはナンキ・プーとかヤムヤムとかのポリネシア風の名前の人物が多く登場する。)いずれにせよフレイザーの記述自体が単なる言い伝えレベルであっておそらく神道などでの「斎戒」の話と混同しており、「しばしばある」ような事例ではまったくなく、例によってヴェーバーによる誇張である。
Entweberung der Wissenschaftenー諸学問のヴェーバーからの解放
ここの所、ヴェーバー批判と同時に折原浩先生批判も何度もやっていますが、私がやろうとしているのは「Entweberung der Wissenschaften-諸学問のヴェーバーからの解放」です。同じことを、ドイツ科の大先輩である三島憲一先生(日本におけるヴェーバー受容の異常さを何度も指摘されています)は「偶像破壊」と仰っています。
もう21世紀も四半世紀を経過しつつあり、ヴェーバーが亡くなってから105年も経っています。いい加減に折原浩先生の世代の「ヴェーバー教」信仰は止めましょうよ。ヴェーバーが言っていることを頭から受け入れるのではなく、批判的に再検証すること、そこから学問は始まります。
ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ6
ついに極めつけのデタラメな文章を発見。
中国で風水思想によって合理的な行動が妨げられたという説明の後で
「日露戦争のさいにもなお、日本軍は、神占上不都合という理由で個々の勝機を逃したように見える 。」
だそうです。おそらく当時の雑誌などでのゴシップ記事をそのまま使ったんでしょうが、もう学者としてはダメダメですね。日本の近代化の程度についても完全に見誤って大衆レベルの偏見(要するに「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」)で書いています。
p.s.
おそらくはこれは、日露戦争の開戦直後に諏訪大社の御柱が倒れた(これが倒れると天下騒乱になるとされていた)のが新聞等で報じられたのが間違って伝わったのではないかと。