「経済と社会」の「頭」問題への現時点の個人的まとめ

「経済と社会」の「頭」問題について、現時点での個人的まとめです。この問題は折原浩先生とシュルフター教授の間で何度も論争が交わされましたが、尻切れトンボに終わってしまっているように思います。そういう意味でアマチュアの意見であっても公にする意味はあると思います。

(1) 「経済と社会」の旧稿は、第1次世界大戦後書き直されたものを除き、注釈すらほとんどついていない完全な手書きの草稿状態のもので、それがある「頭」に従って統一的になるよう十分な注意を払って書かれたとはとても見なし難い。

(2) 「理解社会学のカテゴリー」ではゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為を定義しているが、実際に良く出てくるのは、ゲマインシャフト・ゲゼルシャフトそのもの、あるいはVergesellschaftung(ゲマインシャフトが契約を結ぶなどしてゲゼルシャフトになること、ゲゼルシャフト形成)などであり、直接的に「理解社会学のカテゴリー」に依拠している部分は少ない。

(3) そもそも歴史に登場する人間集団で「行為」から見たその形成の経緯などほとんどの場合不明であり、ゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為などの定義は分析の役には立っていない。

(4) ヴェーバーに限らず、「経済と社会」の旧稿全体のような膨大なテキストに対して、あらかじめ全ての必要なカテゴリーを準備しておくことなどまず不可能。実際には「宗教社会学」で「教団」という意味でのゲマインデが新たに定義されたりなど、「理解社会学のカテゴリー」は「頭」とみなすにはあまりにも不十分。

(5) 既に何度も指摘しているように、ゲノッセンシャフトやケルパーシャフトなどの法制史等での重要カテゴリーは「カテゴリー」では定義されていない。

(6) 一方シュルフター教授の「双頭」仮説は、「社会学の根本概念」が戦後に書かれたものであることを考えれば執筆順で考えてそれが旧稿の頭を成しているというのは時系列を無視している。「旧稿」が書き進められていくにつれて徐々に歴史事象により適合する形で考えなおされたカテゴリー論が、さらにはミュンヘン大学の学生に教えた時の経験に基づく反省が「根本概念」に反映されている、というなら賛成出来る。しかしその場合でも「頭」というほどではないというのは「カテゴリー」論文と同じ。

(7) 「カテゴリー」論文のゲマインシャフト行為・ゲゼルシャフト行為は、ミクロ経済学でいう「限界効用」に近い。「限界効用」理論が実際的な人間や会社の経済行為の解明にはほぼ役に立たないというのは今日では常識に近いが、「ゲマインシャフト行為」「ゲゼルシャフト行為」は「限界効用」と比べても更に現実との接合が弱い。

ドイツ語を日本語に訳するということ。

während der Prophet ebenso wie der charismatische Zauberer lediglich kraft persönlicher Gabe wirkt. を折原浩先生は「預言者は、カリスマ的呪術師とまったく同様、もっぱらただ、かれの即人的な天賦の才によって活動する 。 」と訳しています。正確には創文社の訳を折原先生がそのまま採用してしまったものです。(例によって「即人的」は除く。)ここでの新たな問題はGabeを「天賦の才」と訳していることです。冒頭でカリスマと同じと言っているのですから、ここで言っているのは生まれつきの才能という意味ではなく、当然神から得た戒律(モーセの十戒)や神の言葉を得て、と訳すべきです。私の訳は「預言者は、カリスマ的呪術師とまったく同様、もっぱらただ、その者個人に神より賜わったもので影響を及ぼす 。」にしています。

他の例では、der Prophet dagegen kraft persönlicher Offenbarung oder Gesetzes Autorität beansprucht. を折原浩先生は「預言者は、即人的な啓示ないし原則によって権威を要求する。」と訳しています。(例によって(笑)「即人的」は無視して)ここでのGesetzesは当然上の文にも出て来た戒律・律法と解釈すべきと思います。またAutorität beanspruchtは「権威が自分に属すると主張する=自らを権威付ける」ということ、つまり「預言者は、個人的な啓示ないし戒律(律法)によって自己を権威付ける 。」ということです。「権威を要求する」は意味不明です。要するに翻訳というものは辞書に載っているそれぞれの単語の意味をつなぎ合わせることではない、ということです。

既にこれまで訳が存在するものの新しい訳を出すのであれば、その古い訳の間違いをそのまま持ち込まないように気を付けるべきと思います。

折原浩先生の日本語訳の特殊さ

「宗教社会学」でヴェーバーが「預言者」の定義を述べている所、折原浩先生の訳は
「われわれはここでは、「預言者」という言葉のもとに、自分の使命として宗教的教理ないし神の命令を告知する、純然たる個人・即人カリスマの担い手、を理解することにしたい。」

原文は
“Wir wollen hier unter einem »Propheten« verstehen einen rein persönlichen Charismaträger, der kraft seiner Mission eine religiöse Lehre oder einen göttlichen Befehl verkündet.”

です。問題は「個人・即人カリスマ」です。この訳一体何ですか?普通に訳せば”einen rein persönlichen Charismaträger”は「ある純粋に個人としてのカリスマの持ち主」です。何故か折原浩先生はpersönlichを文脈も見ず100%「即人的」と訳し、私はそれをこれまで全部別の訳に変えています。おそらくは「即物的」の反対の意味での造語でしょうが、この「即人的」はまるで意味不明ですし、それをまたここではわざわざ「個人・即人」と重ねています。ヴェーバーはここで別に哲学を論じている訳ではなく、persönlichはごく一般的な意味で使っているとしか解釈しようがありません。大体、哲学の語だって本来は日常語ですよ。ハイデガーのDaseinは文字通り「そこにあること」という意味でしかなく、「現存在」とかの日本語にすると途端に意味が分からなくなります。また、折原浩先生、「最終総括」で「推転」なるマルクス主義者御用達語(元はヘーゲルらしい)を使われていましたが、これも元はÜbergangで「夏から秋への移り変わり」という時の「移り変わり」という意味に過ぎません。こういうおかしな訳がこれまでヴェーバーの文章を実態以上に難解だと思わせることに貢献して来たのだと思います。

p.s.
Googleで「”即人的” site:http://hkorihara.com」で検索すると多数出てくるので、この訳に限ったことではなく「即人的」は昔から使っていたということが確認出来ました。おそらくはsachlich=即物的の反対語としての造語なんでしょう。そう考えると理解出来なくもないですが、問題は最初に読んだ人はそんなことは分からないということです。それからヴェーバーがいつも同じ語は同じ意味で使っているなんてことはありえないということです。それをいつもある語が出たらそれに同じ日本語を当てるのは、これもヴェーバーのテキストをある意味「聖典」化している訳です。

「宗教社会学」折原浩訳、丸山補訳、R2

折原浩私家版訳「宗教社会学」の丸山補訳版のR2(P.60まで)を公開します。
ここもひどいですね。特にインドや中国・日本に関する記述はほとんどデタラメばかりです。こういう論文からヴェーバーの「合理化」の考え方が出て来たことを考えると、その合理化論も根底から見直す必要がありそうです。

20251019_宗教社会学補訳R2.pdf

ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ7

まあヴェーバーの「宗教社会学」について、突っ込み所のネタが尽きることは当分ありません。
「それというのも、不覚にも精霊を刺激して、当人に乗り移られるとか、あるいは別人にもつぎつぎに乗り移られて、魔術的な危害を被ることがないように、いずれにせよそういうきっかけを与えないようにしなければならない。その結果、該当者は、肉体的にも社会的にも隔離されて、他人との接触を避けなければならず、場合によっては、なんと本人も、自分自身の人格との接触を許されなくなる。この理由で、たとえばポリネシアのカリスマ的諸侯のように、自分の食物も [自分に憑依した] 魔力で汚染されないように、自分では食せず、他人に注意深く食べさせてもらう、ということもしばしばある[1]。」

これについて私が付けた訳注は以下。ちなみにオペレッタ「ミカド」の初演は1885年でヴェーバーは21歳。音楽好きなヴェーバーですし当時欧州で非常に流行ったオペレッタでもあり、おそらくは観ている可能性が高いと思います。要するに当時の欧州の日本もポリネシアも中国も一緒くたにする風潮にヴェーバーもそのまま影響を受けていたようです。

[1] 出典はおそらくはフレイザーの「金枝篇」か。ポリネシアではなく日本の太古の「ミカド」が自分で体を動かしてはいけず、体を洗うのも寝ている間に従者が行うという記述がある。(この辺りギルバート&サリヴァンのオペレッタの「ミカド」を想像させる。「ミカド」にはナンキ・プーとかヤムヤムとかのポリネシア風の名前の人物が多く登場する。)いずれにせよフレイザーの記述自体が単なる言い伝えレベルであっておそらく神道などでの「斎戒」の話と混同しており、「しばしばある」ような事例ではまったくなく、例によってヴェーバーによる誇張である。

 

Entweberung der Wissenschaftenー諸学問のヴェーバーからの解放

ここの所、ヴェーバー批判と同時に折原浩先生批判も何度もやっていますが、私がやろうとしているのは「Entweberung der Wissenschaften-諸学問のヴェーバーからの解放」です。同じことを、ドイツ科の大先輩である三島憲一先生(日本におけるヴェーバー受容の異常さを何度も指摘されています)は「偶像破壊」と仰っています。
もう21世紀も四半世紀を経過しつつあり、ヴェーバーが亡くなってから105年も経っています。いい加減に折原浩先生の世代の「ヴェーバー教」信仰は止めましょうよ。ヴェーバーが言っていることを頭から受け入れるのではなく、批判的に再検証すること、そこから学問は始まります。

ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ6

ついに極めつけのデタラメな文章を発見。
中国で風水思想によって合理的な行動が妨げられたという説明の後で
「日露戦争のさいにもなお、日本軍は、神占上不都合という理由で個々の勝機を逃したように見える 。」
だそうです。おそらく当時の雑誌などでのゴシップ記事をそのまま使ったんでしょうが、もう学者としてはダメダメですね。日本の近代化の程度についても完全に見誤って大衆レベルの偏見(要するに「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」)で書いています。

p.s.
おそらくはこれは、日露戦争の開戦直後に諏訪大社の御柱が倒れた(これが倒れると天下騒乱になるとされていた)のが新聞等で報じられたのが間違って伝わったのではないかと。

折原浩先生による他者の誤訳指摘

折原浩先生が内田芳明氏の「古代ユダヤ教」についての誤訳指摘をそのHPの中でしています。
http://hkorihara.com/z46%20(2).htm

念のため、手元にある当該の岩波文庫(2017年11月6日版)で該当箇所を確認しましたが、この時点で既に折原浩先生が主張する内容に翻訳は改められています。(内田芳明氏は2014年7月に亡くなられています。)上記の批判は2023年2月のものですが、折原浩先生は最新の版の内容を確認せずに以前した批判を繰り返したことになります。

私がこの批判に違和感を持っていたのは、内田芳明氏はその著書の中でトレルチの「ルネサンスと宗教改革」を日本語訳した時に、匿名の人から誤訳を指摘した手紙をもらい、それに真摯に対応したことが述べられていたからです。なので誤訳の批判に対して誠意をもって対応していないかのような批判はおかしいと思います。

なお、手元にある別の1999年版では確かに折原浩先生が指摘されるような訳になっています。

p.s.
この部分について、ChatGPT5は以下のように、元々の内田芳明氏の訳を正しいとしています。

3. 折原浩氏の批判の問題点

折原氏は次のように論じます:

「むしろこの sie が Bedenken を受けて、『疑念がますます優位を占めた』と訳せば自然だ。」

確かに、文法的にはそう読めます。しかし――

  • 「疑念が優位を占める(die Bedenken gewannen die Oberhand)」という表現はドイツ語としては不自然です。
    通常、die Oberhand gewinnen は「勢力が優位に立つ」「集団・陣営が勝る」など、人間集団・理念的勢力に使う表現で、Bedenken のような抽象名詞にはあまり用いません。

  • さらに、直前の「競争が終結した(erhielt ihren Abschluß)」という文と連動させると、「疑念が優位を占める」とは意味的に接続が悪い。

    ======
    私もこのChatGPT5説に賛成です。
    何故なら直前に「疑念が完全に無くなることは無かった。」と「後に弱まっていったものの完全に0にはならなかった」ということを述べておいてすぐその後で「疑念がますます優位を占めた」とするのは矛盾しているからです。またこの段落はキリスト教とユダヤ教の改宗者獲得競争がどうなったかということを述べているのが主題であり、ユダヤ教側の改宗者獲得に関する疑念がメインではありません。ヴェーバーがsieを使ったのはこの段落の冒頭のKonkurrenzに引っ張られた、つまり「(キリスト教側から見た)競争が勝利を得ることになった。」という意識でついsieにしてしまったと私は解釈します。KonkurrenzとOberhandは一種の共起語(近接して出現する確率が高い語の組み合わせ)です。それに対しBedenkenとOberhandは通常結び付かない組み合わせです。
    折原浩先生の立場では「ヴェーバーが文法ミスをする筈がない」でしょうけど、私は実際に2つの論文を日本語訳して、ヴェーバーが文法ミスをする場面は何度も経験しています。
    ChatGPT5と私の意見が正しいなら、折原先生の批判は元々正しく訳していたのをわざわざ誤訳に導いてしまったことになり、罪作りです。

「理解社会学のカテゴリー」と「経済と社会」の本文が合っていないもう一つの例

「理解社会学のカテゴリー」論文では、「諒解」というものが定義されその典型例の一つとして「言語」が挙げられています。諒解に基づくのが「団体」です。しかしヴェーバーの「支配の社会学」の冒頭部に「言語」が登場しますがそこではLiteratursprachgemeinschaft(世良訳では「文学上の言語共同社会」)として言語に対してはゲマインシャフトが使われています。そして国家(アンシュタルト)によって言語ゲマインシャフトが統制される例としてドイツから分かれたオランダがその言語(本来はドイツ語の方言の一つ)をオランダ語とした、というのが挙げられています。一方で団体のメルクマルが諒解であることを考えると、言語はある時は団体である時はゲマインシャフトである、という矛盾したことになってしまいます。シュルフター教授が「諒解」は「経済と社会」の途中で使われなくなったと主張していますが、この箇所はそれを裏付けるものだと思います。

それからちょっと私自身が考えたこととしては、「諒解」は全てゲノッセンシャフトとして考えれば辻褄が合うのではないか、ということです。つまり言語ゲノッセンシャフトや貨幣(通貨)ゲノッセンシャフトです。ヴェーバーが無理矢理「諒解」という概念を考え出したのは無意識の内でゲノッセンシャフトを使いたくなかった可能性が想定されます。(ゲノッセンシャフトの提唱者ギールケは、ヴェーバーの博士号論文の査読者の一人であり、ヴェーバーが書いた「中世合名合資会社成立史」の言い訳だらけの結論部は、そのギールケの批判への応答だと思います。このように私はヴェーバーはギールケに対するある種の苦手意識があったように思います。まあこれは仮説ですが。)

実はそれで思い出したんですが、私は1986年1月に提出した私の卒論(ドイツ語)の中でGeldgenossenschaftという概念を既に定義しています。この卒論はカール・ポランニーの特定目的貨幣と汎用貨幣という分析の視点でドイツの第1次世界大戦後の大インフレ期と、世界第不況期のナチスによる外国為替政策の中での近代通貨の特定目的貨幣への逆行を分析したものですが、特に大インフレで各種緊急貨幣というものが地域毎にそれぞれ作られたという状況を説明するために定義したものです。でも結局本文では使っていません。先行して定義したカテゴリーを現実に当てはめると、必ずしもその通り綺麗にはいかない、ということで、ヴェーバーの場合も同じことかと思います。

ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ5

まだまだ続きます。ヴェーバーの宗教社会学の怪しい記述。今日のは「他方、定型としては純然たる「呪術師」のもとでも、たとえばアメリカ先住民のハーメッツ族の兄弟団のように、修業期と教説とをそなえているものもある。」(折原訳のインディアンは先住民に変更)

これに対して私が付けた注釈は:

Heinrich Schurtz(1863~1903年)の”Altersklassen und Männerbünde: Eine Darstellung der Grundformen der Gesellschaft”にある記述をヴェーバーが間違って引用しているもので、正しくはカナダのブリティッシュ・コロンビアの先住民クワキウトル族の秘密儀礼Hamatsaでハーメッツ族という部族は存在していない。Hamatsaはクワキウトル族の冬季儀礼の中心を担う秘密結社であり、入会には長期間の修行・教育が必要とされたが、これを「呪術師」と捉えるのは疑問。なおこの冬季儀礼で同じく行われる顕示的消費が有名なポトラッチである。なおヴェーバーの論考に度々メンナーハウスが出てくるのはこのSchurtzの本が元でこのHamatsaも一種のメンナーハウス的結社である。

となりますが、この部分は、
(1) 私はこんな事例まで研究していますよと言う顕示欲の現れ
(2) しかもその引用と解釈がまったく正しくない
という意味でヴェーバーの最悪の部分が出ている箇所と思います。
折原浩先生は例によって何の訳注も付けずスルー、創文社の訳も同じくスルーです。