ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ5

まだまだ続きます。ヴェーバーの宗教社会学の怪しい記述。今日のは「他方、定型としては純然たる「呪術師」のもとでも、たとえばアメリカ先住民のハーメッツ族の兄弟団のように、修業期と教説とをそなえているものもある。」(折原訳のインディアンは先住民に変更)

これに対して私が付けた注釈は:

Heinrich Schurtz(1863~1903年)の”Altersklassen und Männerbünde: Eine Darstellung der Grundformen der Gesellschaft”にある記述をヴェーバーが間違って引用しているもので、正しくはカナダのブリティッシュ・コロンビアの先住民クワキウトル族の秘密儀礼Hamatsaでハーメッツ族という部族は存在していない。Hamatsaはクワキウトル族の冬季儀礼の中心を担う秘密結社であり、入会には長期間の修行・教育が必要とされたが、これを「呪術師」と捉えるのは疑問。なおこの冬季儀礼で同じく行われる顕示的消費が有名なポトラッチである。なおヴェーバーの論考に度々メンナーハウスが出てくるのはこのSchurtzの本が元でこのHamatsaも一種のメンナーハウス的結社である。

となりますが、この部分は、
(1) 私はこんな事例まで研究していますよと言う顕示欲の現れ
(2) しかもその引用と解釈がまったく正しくない
という意味でヴェーバーの最悪の部分が出ている箇所と思います。
折原浩先生は例によって何の訳注も付けずスルー、創文社の訳も同じくスルーです。

 

もう一つ折原浩先生の「理解社会学のカテゴリー」解釈への疑問

以前も紹介しましたが、折原浩先生は「理解社会学のカテゴリー」について以下の解釈をされています。
「「これは別件ですが、「カテゴリー論文」で規定されるのは、まさにいくつかのeinigeもっとも一般的な基礎範疇(「シュタムラーが本来――規範学と経験科学とを混同せずに――言うべきであったこと」)にほかなりません。「家」、「近隣」、「氏族」その他、「普遍的な種類のゲマインシャフト」にかんする基礎概念ではありません。① たとえば、突然の驟雨に通行人が一斉に雨傘を広げる、相互間に意味関係」はない、自然現象への「斉一反応」、②「無定形のゲマインシャフト行為」、③「慣習律に準拠する諒解(ゲマインシャフト)行為」、④「制定秩序に準拠するゲゼルシャフト(的ゲマインシャフト行為」という四基礎範疇を定立し、社会関係一般の 「合理化」尺度を「類的理念型}として設定し、「旧稿」本論における具体的適用にそなえているわけです。」」
しかし、「理解社会学のカテゴリー」の中のどこに一体「合理化の尺度」と言った説明があるのでしょうか?また折原浩先生はこれ以外にカテゴリー論文で「ゲマインシャフトはゲゼルシャフトの上位概念である」ことも強調されます。この上位概念という日本語が紛らわしいですが、要はゲゼルシャフトはゲマインシャフトの特殊な場合ということであり、ゲゼルシャフトがゲマインシャフトに内包されるということです。そうであればこの2つは水平的な関係であり、合理化の尺度の発展段階とする折原説は矛盾しています。また「諒解」はきわめて曖昧模糊とした用語であり、ヴェーバーは団体のメルクマルにしていますが、これが上記のようなゲマインシャフトとゲゼルシャフトの間に入るようなものだとどこに書いてあるのでしょうか?更には①と②は無理矢理段階を作るために入れられたもののように見え(特に①はヴェーバーが例として出しただけでカテゴリーでも何でもない)、私が記憶する限り「経済と社会」の中には登場しないと思います。大体が多くの歴史に登場する人間集団は既に確立したものとして登場するのがほとんどで、その設立時の動機がある程度はっきりしているのは中世イタリアの誓約ゲノッセンシャフトぐらいかと思います。(それでこのゲノッセンシャフトはカテゴリー論文では定義されていない。)私から見れば以上のような折原浩先生の議論は全て「理解社会学のカテゴリー」を無理矢理「経済と社会」の頭に仕立て上げようとする拡大解釈の産物だと思います。