折原浩先生の日本語訳の特殊さ

「宗教社会学」でヴェーバーが「預言者」の定義を述べている所、折原浩先生の訳は
「われわれはここでは、「預言者」という言葉のもとに、自分の使命として宗教的教理ないし神の命令を告知する、純然たる個人・即人カリスマの担い手、を理解することにしたい。」

原文は
“Wir wollen hier unter einem »Propheten« verstehen einen rein persönlichen Charismaträger, der kraft seiner Mission eine religiöse Lehre oder einen göttlichen Befehl verkündet.”

です。問題は「個人・即人カリスマ」です。この訳一体何ですか?普通に訳せば”einen rein persönlichen Charismaträger”は「ある純粋に個人としてのカリスマの持ち主」です。何故か折原浩先生はpersönlichを文脈も見ず100%「即人的」と訳し、私はそれをこれまで全部別の訳に変えています。おそらくは「即物的」の反対の意味での造語でしょうが、この「即人的」はまるで意味不明ですし、それをまたここではわざわざ「個人・即人」と重ねています。ヴェーバーはここで別に哲学を論じている訳ではなく、persönlichはごく一般的な意味で使っているとしか解釈しようがありません。大体、哲学の語だって本来は日常語ですよ。ハイデガーのDaseinは文字通り「そこにあること」という意味でしかなく、「現存在」とかの日本語にすると途端に意味が分からなくなります。また、折原浩先生、「最終総括」で「推転」なるマルクス主義者御用達語(元はヘーゲルらしい)を使われていましたが、これも元はÜbergangで「夏から秋への移り変わり」という時の「移り変わり」という意味に過ぎません。こういうおかしな訳がこれまでヴェーバーの文章を実態以上に難解だと思わせることに貢献して来たのだと思います。