折原浩先生訳の問題点(3)

今回は誤訳というより語彙の選定の問題です。

Sie kann aber auch individuelle Belehrung über konkrete religiöse Pflichten in Zweifelsfällen sein, oder endlich, in gewissem Sinn, zwischen beiden stehen, Spendung von individuellem religiösem Trost in innerer oder äußerer Not.

折原訳
とはいえ、それは、具体的な宗教的義務について疑いが生じた場合に、当の義務にかかわる個別的な教化でもありうる。さらには、これらふたつの場合の、ある意味における中間項、すなわち、内的ないし外的な窮境における個別的な慰藉の分与でもありうる。

丸山訳
しかしそれはまた、具体的な宗教的義務について判断に迷う場合には、当の義務に関する個別的な助言でもあり得るし、さらに状況によっては、これら二つのある意味中間的なもの、即ち内的または外的な苦境に陥っている個人に対して宗教的な慰めを施すことでもありうる 。

「内的ないし外的な窮境における個別的な慰藉の分与」って原文をより難しくて読む人に余分な努力を強いるような訳だとは思いませんか?何故もっとこなれた日本語が書けないのか理解に苦しみます。これぞ悪い意味での翻訳調でしょう。

大学文系学部不要論の実証?

試しに「大学文系学部 不要」でググってみたら、トップで表示されたのが次のページ。
https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/C_00186.html

何と東京大学のHPで、「東京大学教員の著作を著者自らが語る広場」だそうです。
そこにあったのは吉見俊哉という人の「「文系学部廃止」の衝撃」という集英社新書の内容を著者自身が語っているものです。で、そこに書いたあった内容に笑ってしまいました:
「こうした視座を、本書は文系的な知の歴史をたどりながら明らかにしている。中世の大学における「神学」「法学」「医学」に対し、リベラルアーツが持っていた根底的な役割。近代の出版と結びついた哲学や人文学の発展。19世紀以降の産業革命と理工系的な知の拡大のなかで、初めて自然科学と人文社会科学がはっきりと分離し、後者の存在価値が問われるようになっていったこと。そして20世紀初頭、マックス・ウェーバーをはじめ新カント派の人々によって、人文社会科学は「価値」の学であるという結論に達していったことを再確認した。」

ここをご覧になっている方には改めて説明は不要でしょうが
(1) ヴェーバーは新カント派の影響を強く受けているけど、新カント派そのものとまでは言えないし、筆頭に来るような代表者でもない。
(2) 言うまでもなくヴェーバーは「価値判断」と学問を切り離す価値自由を提唱したのであり、人文社会科学が「価値」の学だとはまるで言っていない。

奇しくもGoogleがこのページをトップに出して来たのは「御意。仰る通り、大学の文系学部はもう不要です。その証拠ページを出します。」という高度なSEO(検索エンジン最適化)?をやった結果としか思えません。(笑)
ちなみにこのページの日付は2018年になっており、7年間放置状態です。もはや大学の自己修正機能が停止しているとしか言いようがありません。

数学者岡潔のIdealtypusアプローチ

以下は https://ameblo.jp/vario08/entry-12911987994.html にあった、数学者の広中平祐さんの回想記事ですが、読んでみてヴェーバーの言っている「理念型」の「理想的」な学問への適用とはまさにこういうことなんじゃないかと思いました。

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岡先生は、「広中さん、そんな方法では、問題は解けません。もっともっと難しい問題にしていくべきだ。あなたのような態度じゃ、問題は解けませんよ。」と断言されたのである。「そんな方法」とは、こうである。
私はその時、一番理想的な問題はこれで、これはこういう形で解きたいが、今のところは欲ばり過ぎだから、これこれの条件をつけて、こういう形で解けたらいいと思う。しかしながら、それでも欲をいうように思えるから、もっと具体的な設定をして、これこれの段階までさがって、これを解ければ、ある程度役に立つだろう、そういう風に、問題を理想的な形から下へ下へさげる式で講演したのである。
しかし、その方法では解けないと、岡先生はいう。私は表面には出さなかったが、内心ではムカッとしていた。先生は数々の業績を築かれた偉大な数学者かもしれない。しかしこの「特異点解消」の問題にかけては世界広しといえども、私くらい時間をかけている学者はほとんどいない。また、この問題に関しての業績もいくつかあげているという自負が、私にはあったからだ。だが、何にせよ、偉い先生なのでその場を取りつくろうようにして、私は無言で頭を下げた。
すると岡先生は、こう言われたのである。「問題というものは、あなたのやり方とは逆に、具体的な問題からどんどん抽象していって、最終的に最も理想的な形にすることが大切だ。問題が理想的な姿になれば、自然に解けるはずですよ。」表現はこのとおりではないが、おおむねそういう意味のお言葉だった。
私は「ご忠告ありがとうございます」と頭を下げたが、腹の虫は容易におさまらなかった。正直いって、何を勝手なこといいやがる、という気持ちだった。
しかし、岡先生のその時の言葉は、少なくともこの問題を解く上では、的を射ていたのである。
私は米国に帰ってから、問題に対する考え方を少し変えてみた。理想的な形にしてみたのだ。そして数カ月ほどかけた結果、ついに全面的な解決を見ることができたのである。

「布置連関」のおかしさ

これも折原語でドイツ語のKonstellationを「布置連関」と訳しています。本人だけならまだしもこれを真似して使っている研究者が多数存在します。しかし、おかしいとは思わないのでしょうか?「布置連関」は言ってみれば「馬から落ちて落馬する」と同じ重言です。「布置」自体に「関連を持った配置」という意味が既に含まれています。例えば囲碁で「布石」と言えば、競技者がある戦略を持って配置する石のことです。誰も「連関布石」とは言いません。更にはユングの心理学でもまったく同じ概念が登場しますが、これの日本語訳は「コンステレーション」とそのままカタカナにするか、「布置」であることを付け加えておきます。

折原訳 persönlich =「即人的」の理由推測

折原浩先生の persönlich を「即人的」とする奇妙な訳ですが、ようやく根拠らしきものを突き止めました。
The Max Weber Dictionary: Key Words and Central Conceptsという本があって、元々この本の存在は折原先生に教えてもらったものです。(本の中に折原先生のドイツ語論文の一部の引用がある関係で献本を受けたようです。)この本にPersönlichkeitの項目があり、「ヒンドゥー教と仏教」の一部を参照しています。そこを見たら、要するにヴェーバーは西欧のPersönlichkeit(人格)や人格神といったものを例によって西欧独特と見ており、アジア宗教ではPersönlichkeitが例えば仏教における「我」のように通常は否定的に扱われているという議論をしています。ヴェーバーは「ここでは」Persönlichkeitを「責任主体性」「合理的自我」のような特殊な意味で使っている訳です。
ですが、これを根拠にpersönlich を「即人的」としたのであれば、これは完全にナンセンスです。

1.「宗教社会学」は第一次世界大戦前のいわゆる「旧稿」の一部で、そこに出て来る言葉を戦後に書かれた「ヒンドゥー教と仏教」での特殊な用語法に基づいて解釈するのは完全に誤り。

2. 「宗教社会学」でヴェーバーはそのような定義を一切しておらず、ネイティブが読んでもそんな特殊な意味を読み取ることはありえない。

3. しかも元の単語はあくまで名詞であり、その副詞形が同じ意味を保持しているというのもまったく根拠がない。

4.更には「即人的」という語はまったくの意味不明であり、「責任主体に関連するような」という意味にもまったく取れません。

1.についてはそもそも「経済と社会」の旧稿は戦後に書かれた「社会学の根本概念」ではなく戦前に書かれた「理解社会学のカテゴリー」を参照して読むべきと主張している人にしては完全なダブルスタンダードです。

またこの例からも分かるように折原先生はヴェーバーの思想的発展・変化を無視して、何か完成したヴェーバー社会学が存在するかのような幻想を元に、「ヴェーバーが使う単語はきちんと定義されており、常に同じ意味で使われる」といった、まったく証明も出来ないしかつ正しくもない思いこみがあるようです。以前も書いたように「経済と社会」という「完成した」「ヴェーバー社会学の教科書」を捏造しようとしていることからこういう発想が出て来るのだと思います。前にも言ったようにそれはもうヴェーバー学ではなく折原学に過ぎません。

p.s.
もう一つの可能性としては、即+なんとか、というのは単に1960年代の学生運動用語の影響かも。即物、即知、即時など。あるいは実存主義的翻訳?

オープン翻訳の理念への誤解

ここの所、折原浩先生の「宗教社会学」私家版翻訳を厳しく批判しています。
この理由は、まず第一には先生が私のオープン翻訳という理念を正しく理解していないと思うからです。元々オープン翻訳はソフトウェアの世界でのオープンソースの考え方にならったものです。そこでは「無料である」ことが最重要なのではなく、
(1)開発過程をオープンにし、中身をソフトウェアエンジニアであれば誰でも分かるようにする。
(2)バグを発見した場合には開発者以外でも修正してそれを公開出来る。
(3)いつでも内容の改訂が可能。
(4)お互いがお互いのリソースを利用することで、全体で更に高度なソフトウェアを開発する。
といった理念に基づくものです。実際にオープンソースで開発されたWebサーバーソフトであるapacheやngnxは、商用であるマイクロソフトのIISに比べて機能的にまったく遜色ないだけではなく、実使用のシェアでもIISを上回っています。そういった意味で「安かろう悪かろう」のソフトウェアではまったくありません。オープン翻訳もまったく同じです。

折原浩先生のこの「宗教社会学」の私家版訳は、ご本人が「創文社から出版してもらいたかった」と仰っていますが、私がこれまで見た限りでは、見る目がある編集者であればこのレベルの日本語訳をそのまま採用する人はいないと思います。
問題点として
(1)しばしば奇妙な独自の単語を訳として使っている。(例:即人的な)
(2)創文社訳の誤訳・不適切訳をそのまま持ち込んでいる場合が多々ある。
(3)更には創文社が正しく訳しているものをわざわざ誤訳に変えてしまっているものもかなりの箇所ある。
(4)訳者の注釈は宗教学的なものについてはまったく付いておらず、社会学的なものについても最初の数ページだけで後は「○○という注釈が必要」というメモだけ。
を挙げておきます。要するに時間をかけないで適当に作った雑な訳ということです。
こういった批判は厳し過ぎるのかもしれませんが、ご自身が他者の翻訳についてあれこれ批判をなさっているので、ご自身にブーメランとして返ってくるのはある意味自業自得と考えます。
「オープンだから質が低くてよい」という誤解を持つ人がいるかもしれません。しかし真実は逆で、閉鎖的に作られた(これまでの)翻訳の方が検証も改善もなされず、誤訳が温存されやすい構造になっています。(これは折原浩先生がこれまで批判してきた通り。)私は「叩かれることを厭わず最善を目指して公開し続ける精神」こそが、ウェーバー研究の未来に必要だと確信しています。

キュルンベルガーの「アメリカにうんざりした男」についての補足

ヴェーバーのプロ倫で、「資本主義の精神」という理念型の描写に使われているフェルディナント・キュルンベルガーの「アメリカにうんざりした男」(Der Amerika-Müde, amerikanisches Kulturbild 、1855年)について補足します。

実はタイトルのDer Amerika-Müdeはその当時の欧州のドイツ語圏に存在していたDer Europa-Müde(ヨーロッパにうんざりした男)のもじりです。1848年がドイツ語圏での革命の年だったのはご存知と思いますが、その革命の目標だった共和制の確立、統一ドイツの確立の2つがどちらも実現しないまま革命は失敗します。この失敗の結果として失望した人達がDer Europa-Müdeです。
その同じ頃、アメリカで何が起きていたかというと、49ersという言葉が残っているようにカリフォルニアでゴールドラッシュが起きています。この49ersに似た言葉で、当時の欧州においてDer Europa-Müdeの人達が欧州で夢破れて、新天地のアメリカで一旗揚げてやろうとして多くのドイツ語圏の人がアメリカに渡っていますが、この人達のことをDie Achtundvierziger(48年族)と呼びました。一般に移民というと本国で食い詰めた人が多いイメージですが、このAchtundvierzigerはどちらかというと中上流階級の人が多かったことが特徴です。

その48年族の元祖みたいな人に、オーストリアの詩人のニコラス・レーナウがいます。「アメリカにうんざりした男」は実はこのレーナウの体験をベースにした小説です。レーナウは親の遺産で生活していますが、ある時投機で財産の半分を失うという打撃を受け、それがきっかけで1932年にアメリカに渡ります。そこでオハイオ州で400エーカーの土地を買ってその賃貸料(レンテですね)で暮らそうとします。しかし慣れない国で手続きや契約に色々と苦労をしたみたいで、結局1年もしないくらいでアメリカを離れオーストリアに戻ります。(ついでに言えばその後自殺を図って精神病院に入れられその5年後に悲惨な最期を遂げます。)レーナウはアメリカをワインも芸術もない粗野な人達の国と思っていたようです。「アメリカにうんざりした男」はこのレーナウの話にかなり脚色を加えて書かれた小説です。

要するにこの本はベストセラーであるのと同時に、当時のドイツ語圏でのアメリカの見方、つまり経済的には繁栄しているけど文化の無い粗野な人達の国というものをある意味代表している訳です。ヴェーバーがこの小説のフランクリン描写を使ったのは、学術論文としてはどうかとも思いますが、当時のドイツ語圏の人に自分の言いたい「資本主義の精神」を理解してもらうには、最適な素材を使っている、ということは言えるかと思います。私に言わせるとプロ倫は純粋アカデミズムの産物というより、元から論争を引き起こすことを半分意図したかなりレトリカル、悪く言えばソフィスト的な作品だと思います。(発表誌も「社会科学と社会政策のためのアルヒーフ」であり、この雑誌自体が学問と政治ジャーナリズムの中間にあったようなものです。)つまりプラトンというよりゴルギアスです。

翻訳革命

ヴェーバーに限ったことではなく幅広い分野で一種の翻訳革命が起きているような気がします。例えば文学ですが亀山郁夫のドストエフスキー新訳、吉川一義によるプルーストの「失われた時を求めて」の詳細な訳注付きの新訳、あるいは酒井昭伸によるフランク・ハーバートの「デューン」シリーズの新訳。いずれも共通しているのが旧訳が1960年代くらまでのものが多いということです。どう考えてもあの当時の日本人の平均語学力より今の方が上ですし、しかもインターネットでほとんどのことが調べられますので。
はばかりながら、私の出したヴェーバーの2つの論文の翻訳もその新しい翻訳に入るものと思っています。

折原浩先生訳の問題点(2)

「宗教社会学」の折原浩先生訳とそれを変更した私の訳を提示します。
どちらが分かりやすいか比べてみてください。ヴェーバーを必要以上に難解に見せているのが、一つには日本語訳のせいであることが良く分かると思います。
ちなみに、wiederholtを「再度」と訳すのは明らかな誤訳で、創文社の訳が「繰り返し」と正しく訳しているのをわざわざ誤訳に変更しています。

原文
Aber regelmäßig ist es in der Hauptsache doch die priesterliche Bekämpfung des tiefverhaßten Indifferentismus, der Gefahr, daß der Eifer der Anhängerschaft erlahmt, ferner die Unterstreichung der Wichtigkeit der Zugehörigkeit zur eigenen Denomination und die Erschwerung des Übergangs zu anderen, was die Unterscheidungszeichen und Lehren so stark in den Vordergrund schiebt. Das Vorbild geben die magisch bedingten Tätowierungen der Totem- oder Kriegsverbandsgenossen. Die Unterscheidungsbemalung der hinduistischen Sekten steht ihr äußerlich am nächsten. Aber die Beibehaltung der Beschneidung und des Sabbattabu wird im Alten Testament wiederholt als auf die Unterscheidung von anderen Völkern abgezweckt hingestellt und hat jedenfalls mit unerhörter Stärke so gewirkt.

折原訳
しかし、識別の徴表や教説を際立って前面に押し出す動因は、通例、主要にはやはり祭司の闘いである。すなわち、自他の区別に冷淡な宗派上の無関心を憎んで止まず、信奉者の熱意が冷める危険と闘い、自宗派に所属することの重要な意義を強調して、他宗派への移行を困難にする、という闘いである。その先例をなすのは、トーテム団体あるいは戦士団体の仲間内で施される、魔術的に制約された入れ墨である。外面的にこれにもっとも近いのが、ヒンドゥー教のゼクテ [信徒結社]で仲間の額に施される識別彩色である。ところが、旧約聖書では、割礼と安息日タブーの保持が、再度、他民族との区別を目的として力説され、いずれにせよ未曾有の効力を発揮した。

丸山改訳
しかし、一般に規則的に、[ある宗派の]識別の手がかりや教説が非常にはっきりと前面に現れてくるのは、祭司たちが、[信徒たちの]信仰上の無関心主義への深い憎悪という形で、信者の熱意が冷めていくことに抗う闘いを繰り広げ、さらに自宗派にとどまり続けることの重要性を強調し、他宗派への移行を困難にしようとすることの結果としてである 。その先例をなすのは、トーテム団体あるいは戦士団体の仲間内で施される、魔術的な理由による入れ墨である。外面的にこれにもっとも近いのが、ヒンドゥー教のゼクテ [信徒結社]で仲間の額に施される識別彩色である。ところが、旧約聖書では、割礼と安息日タブーの保持が、たびたび他民族との区別を目的として提示され、いずれにせよ極めて強力に作用した 。

プロ倫におけるフランクリンについて

最近ずっとヴェーバーの批判をしているので、たまにはヴェーバーの弁護も。
今、ハインツ・シュタイナートの「マックス・ヴェーバーに構造的欠陥はあるのか:論破しがたいテーゼ」という本を少しずつ読んでいます。この本は例の羽入書と同じで、ヴェーバーのフランクリン描写が現実のフランクリンとは違うということをかなりしつこく追及しています。
しかし私に言わせればこういう批判はナンセンスです。何故ならヴェーバーは決してフランクリンの評伝を書こうとしている訳ではなく、プロ倫でのフランクリンは「資本主義の精神」という発表当時としてはほとんど奇矯に響く概念を「理念型」として説明するための例示の道具でしかないからです。以前、「理念型とフラット・キャラクタ-」というのをここにアップしました。ヴェーバーは主としてキュルンベルガーの「アメリカにうんざりした男」という当時のベストセラー小説の中の「カリカチュア化された」フランクリン像を主に使っています。この小説自体が欧州にある意味絶望してアメリカに渡ったものの(モデルは詩人レーナウ)、そこでの一種の拝金主義的な生き方にまるでなじめないどころか、最後は暴徒に(ドイツ移民が)皆殺しにされかけてほうほうの体で船で逃げ帰るという小説です。ヴェーバーはそうした大衆小説における一般的アメリカのイメージを理念型として使うためにわざわざこの小説の中のフランクリンを使っている訳です。理念型はあくまで議論のスタートですから、現実と完全一致している必要は基本的にはありません。
ついでにもう一つ羽入書の馬鹿げた批判は、要するにプロ倫の最大の価値は「ルターが召命を職業と訳した」ということをヴェーバーが発見した、という大きな勘違いです。実際はルターに関する訳語の分析はヴェーバーはほとんどグリムドイツ語辞書のBeruf他の項に依存して書いています。羽入はあれだけヴェーバーのOED依存を批判しておきながら、何故かグリム辞書依存は完全スルーしています。大体、イエスの出生の場面のルカの福音書をマタイの福音書と間違えるような人(「ローマ土地制度史」)が、「ベン・シラの知恵(集会の書)」みたいなクリスチャンでも読まないような外典なんかきちんと読んでいる筈がないです。このシラについてもグリム辞書に用例として出ています。
あれ、あまり弁護にはなっていない?(笑)