理念型とフラット・キャラクター(加筆再掲)

私の「理念型」の理解の仕方の説明として、別のブログに書いたものを引用します。
文学におけるフラットキャラクターというものを知ったのは、作家の小林信彦がその処女作である「虚栄の市」についてある評論家が「登場人物の一部が類型的すぎる」と批判したのに対し、小林信彦が「それはフラットキャラクターだからだ」と反論したことによってです。
文学におけるフラットキャラクターの使用は、
(1)ラウンドキャラクターと差を付けることでラウンドキャラクターをより目立たせる。
(2)フラットキャラクターが常に読者の期待に応える行動・発言をすることで、読者に読みやすくさせる。
(3)作家が小説を作る上での省力化
というメリットがあります。
これに対し、私が社会科学で文学におけるフラットキャラクターと同等の位置にあると考えるのが「理念型」です。私にとっては理念型はあくまでも議論のスタートで主題を分かりやすくさせる、ということからスタートするのであり、その後論を詳しくすることでその内容をより明確化し意義を説き明かします。
これに対比されるものとしては、文学作品でのフラットキャラクターだと私は考えており、例としてはディケンズの有名な「クリスマスキャロル」のスクルージ爺さんが挙げられます。ご承知の通り、物語の前半ではスクルージ爺さんは典型的なフラットキャラクターで「吝嗇」の象徴です。(今でも英語でスクルージ爺さんみたいな人、というのはケチのことです。)しかし物語の後半でこのフラットキャラクターは三人のクリスマスのスピリットとの出会いで次第にラウンドキャラクターとなり、最後は人類愛に目覚め、「クリスマスの楽しみ方を一番知っている人」に変遷します。社会科学における理念型もこのようなプロセスを踏むのが常道ではないのでしょうか。

理念型とフラット・キャラクター
Posted on 2018年7月15日
今、フランスの歴史家のイヴァン・ジャブロンカが書いた「歴史は現代文学である」を読んでいます。この本は歴史を科学的に扱おうとして19世紀以降歴史と文学が切り離された物を、もう一度結びつけようとする試みでなかなか興味深いです。
それでちょっと思いついたのですが、社会学で「理念型」(ドイツ語でIdealtypus)という方法論みたいなのがあります。歴史の現象を解釈する上で、観念的に作り出された一種の純粋型のことです。昔は「理想型」と訳されていましたが、「理想」というと価値判断が伴っているようですし、また「売春宿」のIdealtypusもあり得るということで、ニュートラルな「理念型」という訳に落ち着いています。
で思ったのが、この「理念型」の元は、文学における「フラット・キャラクター」(平面的キャラクター)じゃないのかということです。この「フラット・キャラクター」はE.M.フォースターの造語で、対照にされるのは「ラウンド・キャラクター」(立体的キャラクター)です。フラット・キャラクターは、フォースターはディケンズの小説の登場人物はほとんどそうだとしていますが、ある類型的な性格や社会的地位をもっていて常に読者が期待するような行動をする人のことです。(ラウンド・キャラクターはそれとは違い、性格などが次第に変化して深まっていくようなタイプのキャラクターです。)例えば「クリスマス・キャロル」の(改心する前の)スクルージ爺さん、「ディヴィッド・コパフィールド」の悪役のユライア・ヒープ(ロックバンドのユーライア・ヒープはこの名前を借りたものです)、貧しいながらいつも何とかなると思っている楽天家の代名詞ウィルキンズ・ミコーバーなんかが、まさしくフラット・キャラクターです。
マックス・ヴェーバーは有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、「資本主義の精神」を読者にわかってもらうための「理念型」としてベンジャミン・フランクリンを使います。しかし、それは実在のフランクリンというより、キュルンベルガーという作家の書いた「アメリカにうんざりした男」という詩人レーナウのアメリカ体験を元にした小説に登場する「カリカチュア化されたフランクリン」であり、まさしくフラット・キャラクターそのものです。
もちろん、「理念型」は人間だけに使うものではないのですが、少なくとも小説におけるフラット・キャラクターの使用の方が社会科学よりはるかに先なんではないかと。

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