翻訳革命

ヴェーバーに限ったことではなく幅広い分野で一種の翻訳革命が起きているような気がします。例えば文学ですが亀山郁夫のドストエフスキー新訳、吉川一義によるプルーストの「失われた時を求めて」の詳細な訳注付きの新訳、あるいは酒井昭伸によるフランク・ハーバートの「デューン」シリーズの新訳。いずれも共通しているのが旧訳が1960年代くらまでのものが多いということです。どう考えてもあの当時の日本人の平均語学力より今の方が上ですし、しかもインターネットでほとんどのことが調べられますので。
はばかりながら、私の出したヴェーバーの2つの論文の翻訳もその新しい翻訳に入るものと思っています。

折原浩先生訳の問題点(2)

「宗教社会学」の折原浩先生訳とそれを変更した私の訳を提示します。
どちらが分かりやすいか比べてみてください。ヴェーバーを必要以上に難解に見せているのが、一つには日本語訳のせいであることが良く分かると思います。
ちなみに、wiederholtを「再度」と訳すのは明らかな誤訳で、創文社の訳が「繰り返し」と正しく訳しているのをわざわざ誤訳に変更しています。

原文
Aber regelmäßig ist es in der Hauptsache doch die priesterliche Bekämpfung des tiefverhaßten Indifferentismus, der Gefahr, daß der Eifer der Anhängerschaft erlahmt, ferner die Unterstreichung der Wichtigkeit der Zugehörigkeit zur eigenen Denomination und die Erschwerung des Übergangs zu anderen, was die Unterscheidungszeichen und Lehren so stark in den Vordergrund schiebt. Das Vorbild geben die magisch bedingten Tätowierungen der Totem- oder Kriegsverbandsgenossen. Die Unterscheidungsbemalung der hinduistischen Sekten steht ihr äußerlich am nächsten. Aber die Beibehaltung der Beschneidung und des Sabbattabu wird im Alten Testament wiederholt als auf die Unterscheidung von anderen Völkern abgezweckt hingestellt und hat jedenfalls mit unerhörter Stärke so gewirkt.

折原訳
しかし、識別の徴表や教説を際立って前面に押し出す動因は、通例、主要にはやはり祭司の闘いである。すなわち、自他の区別に冷淡な宗派上の無関心を憎んで止まず、信奉者の熱意が冷める危険と闘い、自宗派に所属することの重要な意義を強調して、他宗派への移行を困難にする、という闘いである。その先例をなすのは、トーテム団体あるいは戦士団体の仲間内で施される、魔術的に制約された入れ墨である。外面的にこれにもっとも近いのが、ヒンドゥー教のゼクテ [信徒結社]で仲間の額に施される識別彩色である。ところが、旧約聖書では、割礼と安息日タブーの保持が、再度、他民族との区別を目的として力説され、いずれにせよ未曾有の効力を発揮した。

丸山改訳
しかし、一般に規則的に、[ある宗派の]識別の手がかりや教説が非常にはっきりと前面に現れてくるのは、祭司たちが、[信徒たちの]信仰上の無関心主義への深い憎悪という形で、信者の熱意が冷めていくことに抗う闘いを繰り広げ、さらに自宗派にとどまり続けることの重要性を強調し、他宗派への移行を困難にしようとすることの結果としてである 。その先例をなすのは、トーテム団体あるいは戦士団体の仲間内で施される、魔術的な理由による入れ墨である。外面的にこれにもっとも近いのが、ヒンドゥー教のゼクテ [信徒結社]で仲間の額に施される識別彩色である。ところが、旧約聖書では、割礼と安息日タブーの保持が、たびたび他民族との区別を目的として提示され、いずれにせよ極めて強力に作用した 。