「理解社会学のカテゴリー」の欠陥、再追加

「理解社会学のカテゴリー」を実際に読んでいない人が「「経済と社会」の頭は「理解社会学のカテゴリー」を置いて読まねばならない」という主張を聞くと、どんなに立派なカテゴリー論なのかと勘違いするかもしれませんが、そこで定義されているカテゴリーは目次に出ている通り、「ゲマインシャフト行為」、「ゲゼルシャフト関係」(定義無し)、「ゲゼルシャフト行為」、「諒解」、「アンシュタルト」、「団体」の6つだけです。前の投稿で書いたようにどこにも「ゲマインシャフト関係」などというカテゴリーはありません。

それに何より、最初の「ゲマインシャフト行為」自体の定義もかなり破綻しています。ヴェーバーの「ゲマインシャフト行為」の定義は以下:
「人間の行為が当人の主観において他の人間の行動へと意味の上で関係付けられている場合、われわれはそれを「ゲマインシャフト行為」と呼ぶことにする。」
この定義が奇妙なのは「ゲマインシャフト」というタームが使われているにもかかわらず、定義されている内容は、一人の人間が他の人間との関係で何らかの意味を持って行う行為が全て該当してしまうことです。普通ならまず「ゲマインシャフト関係」が定義され、「その成員の間で」上記のように行われる行為が「ゲマインシャフト行為」であるというなら理解出来ますが、ここの定義はそうではありません。
更にはヴェーバーが例に出すものがまた混乱に拍車をかけます。ヴェーバーは2台の自転車が交差点でたまたま衝突した時はゲマインシャフト行為ではないが、2台がお互いに回避行動を取った場合はそれはゲマインシャフト行為であると言います。この定義からは「ゲマインシャフトというものはゲマインシャフト行為によって動的に生成される」としか読めません。しかし、例えば衝突の相手がたまたまその日そこに旅行して来ていた人だった場合、そもそもゲマインシャフトが生成されるのでしょうか。しかも仮にゲマインシャフトが生成したとしても、それは一体どのくらいの時間持続するのしょうか。
また具体的な「ゲマインシャフト」を考えた場合でも、例えば家族は典型的なゲマインシャフトと考えられますが、配偶者に限定すれば二人は何らかのゲマインシャフト行為を契機として夫婦になったのであろうから、ヴェーバーの定義でも通ります。しかしそこに子供が生まれた場合、子供は生まれながらにしてその家族ゲマインシャフトに組み込まれるだけであって、ゲマインシャフト行為は何の役目も果たしていません。
以上のようにヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」は整然とした理論的な定義にはまったくなっていないいわば試作品のようなものに過ぎないということは明らかです。ましてやそんなものが「経済と社会」の頭になっているなど、空想の産物以外の何物でもありません。

また発見:折原先生のおかしな説明

また折原センセの「理解社会学のカテゴリー」についてのおかしな説明を発見。折原センセは「ゲマインシャフト関係はゲゼルシャフト関係の上位概念である」と説明します。
http://hkorihara.com/toujitsukou.htm 「『経済と社会』(旧稿)の社会学的基礎範疇と体系的統合」「これらは、「カテゴリー論文」で定立され、「旧稿」に適用された基礎範疇――すなわち、「ゲマインシャフト関係」を「ゲゼルシャフト関係」の上位概念とし」)
しかし、
(1)ヴェーバーは「ゲマインシャフト関係」は定義も言及もしていません。
(2)「ゲゼルシャフト関係」は何故か定義なく突然「ゲゼルシャフト行為」の定義の中で登場します。
(3)ヴェーバーが言っているのは「ゲマインシャフト行為」が「ゲゼルシャフト行為」の上位概念ということだけです。

折原センセの説明はヴェーバーが定義していない「ゲマインシャフト関係」を「ゲゼルシャフト関係」の上位概念としており、関係と行為を混同しています。

おそらくヴェーバーがゲマインシャフト、ゲゼルシャフトを直接定義しなかったのは、テンニースのあまりにも有名になった概念を書き換える新しい定義を作る時間も自信もなかったからではないかと想像しますが、元著者が書いていないことを勝手に説明すべきではありません。こういう基本的な所から混乱しているのでは、「経済と社会」を「理解社会学のカテゴリー」で体系的に読むという意図は最初の一歩から失敗していると言わざるを得ません。

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