マックス・ヴェーバーとファイヒンガー

ファイヒンガーの「かのようにの哲学」は彼が主宰していた哲学雑誌のKantstudienに連載されていたものです。問題はヴェーバーがこの雑誌を読んでいたかどうかですが、このページを見ると、この雑誌の編集をジンメルとヴェーバーの弟のアルフレートが手伝っていた、ということなので、これはもうヴェーバーが目を通していたのはほぼ間違いないですね。他にもディルタイやヴィンデルバントも編集メンバーであり、むしろヴェーバーが読んでいない方が不自然です。下記の表紙の写真は1899年のもの。

「理解社会学のカテゴリー」の欠陥、追加

「支配の社会学」を読みなおす途中で「理解社会学のカテゴリー」について考えたこと追加。 「カテゴリー論文」の問題点・欠陥は、あまりにもミクロな、「一つの」人間集団しか扱っていないこと。例えばゲマインシャフト関係はヴェーバーの定義ではゲマインシャフト行為によって(動的に)生まれるとされる。しかし現実の社会は複数の人間集団(ゲマインシャフト、ゲゼルシャフト、その他)の間のある意味パワーゲームであるが、「カテゴリー論文」はこうした複数の人間集団間にどういう力が働くのか、それは「ゲマインシャフト行為」とか「ゲゼルシャフト行為」というものではまるで定義出来ていない。例えば「支配の社会学」でヴェーバーは支配とはゲマインシャフト行為にもっとも影響を及ぼす要素である、と書いているが、実際の社会では支配する階層と支配される階層があって、支配の力とはその2つの人間集団の関係として作用するのであり、直接「支配」が個々の人間のゲマインシャフト行為を規制するのではない。カテゴリー論文はこうした複数の人間集団の関係をまったく扱っておらず、「経済と社会」のいわばマクロ的な分析とはまったく接続しない空想的カテゴリー論である。従って「カテゴリー論文」が「経済と社会」の頭となっているという仮説はこの点から見ても誤っている。

「経済と社会」再構成問題の状況整理

「経済と社会」へのテンブルックの批判の後に起きたことの私なりの整理。

(1)マリアンネとヴィンケルマンの編集の「二部構成」の「経済と社会」は難解で、部分的には参照されても全体を体系的に論じる人はいなかった。

(2)そこにテンブルックが二部構成はそもそも間違っており、後から書かれた「社会学の根本概念」で全体を解釈するのは間違い、また「経済と社会」は出版社からの頼まれ仕事でヴェーバーの主著でも何でもないと批判。(1976年)

(3)折原浩、シュルフターなどがテンブルック批判を受け、「社会学の根本概念」の代わりに「理解社会学のカテゴリー」に準拠すべきと主張。そしてテンブルックの「主著ではない」批判は受け入れなかった。

(4)これまで「経済と社会」が全体として理解されなかったのは「間違った頭」のせいで、「理解社会学のカテゴリー」という正しい頭に付け替えて読めば体系的に読めるという思い込みが、主として折原浩によって主張された。

(5)しかし本来まったく体系的には書かれていない「経済と社会」を、またそれ自体に問題の多い「理解社会学のカテゴリー」に準拠しても、結局状況として誰も全体の構成を明解に説明することは出来なかった。

(6)シュルフターは途中でそれに気付き、ヴェーバーのカテゴリー論は途中で変化していったとして「理解社会学のカテゴリー」と「社会学の根本概念」の双頭説に転換し、折原との間で論争が行われたが、現状尻切れとんぼ状態で終わっている。

(7)折原浩は「経済と社会」の全体どころか、「宗教社会学」に限定しても再構成は出来ておらず途中で新訳の作業を放棄した。

 

ヴェーバーの著作は体系的か?

再度折原浩先生から引用「ヴェーバーの「宗教社会学」を、基礎カテゴリーから体系的に読めるように」、しかしヴェーバーの論考、文章はそもそもそんなに体系的なものなのでしょうか?

向井守「マックス・ウェーバーの科学論」P.249
「全体として彼の理想型(注:向井は「理念型」ではなく「理想型」)を見ると、限界効用学派経済学、歴史学派経済学、マルクス主義経済学、さらには法学、政治学、宗教学についての巨大な知識を背景にして彼の思想がとめどもなく爆発的に噴火し、体系的には制御しがたく奔流しているような印象を受ける。」

ヴェーバー「ローマ土地制度史」第2章注102より
「(前略)この論文の大部分の記述と同様に、そこにおいては学芸における最も困難なこと、つまり”ars ignorandi”(重要ではない情報を無視し、本質的な部分に集中するという学問・討論上の技法) が何重にも失われてしまっているのである。私は次のことを確かに自覚している。つまり私の記述において明確化という意味で成功していない多くの命題が見出され、それらについては個々の[文献]調査によって再検証されなければならないということである。それについてはただ私が、ここで提示した見解について、それをより大きな因果連関の中で検討する試みをせず、ただそれを何としても記述しなければならないという強迫観念に駆られていたことに、自分で気が付いていなかったと言える。 」

この2つの例を見るだけでも、ヴェーバーの論文というのは頭の中に浮かんで来た様々な雑多な知識をとにかく並び立てなければ気が済まない、といったもので、「体系的」な論文とはおよそ正反対であることが分かります。(こういうと差し障りがあるかもしれませんが、双極性障害の患者の躁状態の時の思考パターンとしては非常に典型的です。)

折原浩先生のやろうとしていたのは、元々まったく体系的でないヴェーバーの「経済と社会」を無理矢理「理解社会学のカテゴリー」の概念で統一的に構成されていると事実に反することを仮定して解釈しようとした、「想像の産物」であることを再度強調させていただきます。

「経済と社会」はもっとも教科書を書いてはいけないタイプの学者が無理に教科書を書こうとした、元々無理ゲーです。(笑)