折原浩先生が何故「経済と社会」の構成について誤った方向(現時点での私の結論)に行ったかの一つの考察。
折原先生はヴェーバーの学問で興味があるのは「プロ倫」以降であると述べています。(以前安藤英治の「ウェーバー歴史社会学の出立―歴史認識と価値意識―」の話をした時に、この本はプロ倫「まで」を論じているが、自分はその逆でプロ倫「から」がどうなったかを研究していると言っていました。)
しかし「経済と社会」はプロ倫以降の研究だけに基づくものでは当然ありません。むしろ話は逆でプロ倫以前の広範な歴史研究(法制史・経済史)がバックになって、その決疑論的展開として「経済と社会」が成立しているのは明らかです。しかし「社会学者」である折原先生はあくまで「経済と社会」を社会学的著作とだけ偏った形で捉えたいと考えており、だからこそ最初の社会学理論の論文である「理解社会学のカテゴリー」こそが「経済と社会」の頭であるという考えに囚われていたのではないかと思います。
しかしたとえば「理解社会学のカテゴリー」で論じられるゲマインシャフトとゲゼルシャフトについても、既に最初の論文である「中世商事会社史」の中のアルベルティ家の遺産相続人達が、遺産分割についての契約を結んだ時に、ゲマインシャフトの合理化形態としてのゲゼルシャフトというのが語られているのであり、「カテゴリー論文」でいきなりこういった考えに至ったのではありません。折原先生を始めとする社会学者は安藤英治氏を例外として(但し安藤氏のヴェーバーの著作の理解に非常に問題が多いことは既に指摘済みですが)、ヴェーバーの初期の著作にほとんど関心を持たないどころか、読むことすらして来ませんでした。それが全ての誤りの原因と私は言わざるを得ません。このことは「ヴェーバーの学問で一番大事なのは理解社会学である」と主張する中野敏男氏についても同じことが言えます。
以上の指摘は「中世合名・合資会社成立史」と「ローマ土地制度史」を独力で日本語訳した私だから気付けたものだと思います。この前の投稿で指摘したように折原先生の例えばローマ史の理解は非常に低いレベルです。