折原浩先生による他者の誤訳指摘

折原浩先生が内田芳明氏の「古代ユダヤ教」についての誤訳指摘をそのHPの中でしています。
http://hkorihara.com/z46%20(2).htm

念のため、手元にある当該の岩波文庫(2017年11月6日版)で該当箇所を確認しましたが、この時点で既に折原浩先生が主張する内容に翻訳は改められています。(内田芳明氏は2014年7月に亡くなられています。)上記の批判は2023年2月のものですが、折原浩先生は最新の版の内容を確認せずに以前した批判を繰り返したことになります。

私がこの批判に違和感を持っていたのは、内田芳明氏はその著書の中でトレルチの「ルネサンスと宗教改革」を日本語訳した時に、匿名の人から誤訳を指摘した手紙をもらい、それに真摯に対応したことが述べられていたからです。なので誤訳の批判に対して誠意をもって対応していないかのような批判はおかしいと思います。

なお、手元にある別の1999年版では確かに折原浩先生が指摘されるような訳になっています。

p.s.
この部分について、ChatGPT5は以下のように、元々の内田芳明氏の訳を正しいとしています。

3. 折原浩氏の批判の問題点

折原氏は次のように論じます:

「むしろこの sie が Bedenken を受けて、『疑念がますます優位を占めた』と訳せば自然だ。」

確かに、文法的にはそう読めます。しかし――

  • 「疑念が優位を占める(die Bedenken gewannen die Oberhand)」という表現はドイツ語としては不自然です。
    通常、die Oberhand gewinnen は「勢力が優位に立つ」「集団・陣営が勝る」など、人間集団・理念的勢力に使う表現で、Bedenken のような抽象名詞にはあまり用いません。

  • さらに、直前の「競争が終結した(erhielt ihren Abschluß)」という文と連動させると、「疑念が優位を占める」とは意味的に接続が悪い。

    ======
    私もこのChatGPT5説に賛成です。
    何故なら直前に「疑念が完全に無くなることは無かった。」と「後に弱まっていったものの完全に0にはならなかった」ということを述べておいてすぐその後で「疑念がますます優位を占めた」とするのは矛盾しているからです。またこの段落はキリスト教とユダヤ教の改宗者獲得競争がどうなったかということを述べているのが主題であり、ユダヤ教側の改宗者獲得に関する疑念がメインではありません。ヴェーバーがsieを使ったのはこの段落の冒頭のKonkurrenzに引っ張られた、つまり「(キリスト教側から見た)競争が勝利を得ることになった。」という意識でついsieにしてしまったと私は解釈します。KonkurrenzとOberhandは一種の共起語(近接して出現する確率が高い語の組み合わせ)です。それに対しBedenkenとOberhandは通常結び付かない組み合わせです。
    折原浩先生の立場では「ヴェーバーが文法ミスをする筈がない」でしょうけど、私は実際に2つの論文を日本語訳して、ヴェーバーが文法ミスをする場面は何度も経験しています。
    ChatGPT5と私の意見が正しいなら、折原先生の批判は元々正しく訳していたのをわざわざ誤訳に導いてしまったことになり、罪作りです。

「理解社会学のカテゴリー」と「経済と社会」の本文が合っていないもう一つの例

「理解社会学のカテゴリー」論文では、「諒解」というものが定義されその典型例の一つとして「言語」が挙げられています。諒解に基づくのが「団体」です。しかしヴェーバーの「支配の社会学」の冒頭部に「言語」が登場しますがそこではLiteratursprachgemeinschaft(世良訳では「文学上の言語共同社会」)として言語に対してはゲマインシャフトが使われています。そして国家(アンシュタルト)によって言語ゲマインシャフトが統制される例としてドイツから分かれたオランダがその言語(本来はドイツ語の方言の一つ)をオランダ語とした、というのが挙げられています。一方で団体のメルクマルが諒解であることを考えると、言語はある時は団体である時はゲマインシャフトである、という矛盾したことになってしまいます。シュルフター教授が「諒解」は「経済と社会」の途中で使われなくなったと主張していますが、この箇所はそれを裏付けるものだと思います。

それからちょっと私自身が考えたこととしては、「諒解」は全てゲノッセンシャフトとして考えれば辻褄が合うのではないか、ということです。つまり言語ゲノッセンシャフトや貨幣(通貨)ゲノッセンシャフトです。ヴェーバーが無理矢理「諒解」という概念を考え出したのは無意識の内でゲノッセンシャフトを使いたくなかった可能性が想定されます。(ゲノッセンシャフトの提唱者ギールケは、ヴェーバーの博士号論文の査読者の一人であり、ヴェーバーが書いた「中世合名合資会社成立史」の言い訳だらけの結論部は、そのギールケの批判への応答だと思います。このように私はヴェーバーはギールケに対するある種の苦手意識があったように思います。まあこれは仮説ですが。)

実はそれで思い出したんですが、私は1986年1月に提出した私の卒論(ドイツ語)の中でGeldgenossenschaftという概念を既に定義しています。この卒論はカール・ポランニーの特定目的貨幣と汎用貨幣という分析の視点でドイツの第1次世界大戦後の大インフレ期と、世界第不況期のナチスによる外国為替政策の中での近代通貨の特定目的貨幣への逆行を分析したものですが、特に大インフレで各種緊急貨幣というものが地域毎にそれぞれ作られたという状況を説明するために定義したものです。でも結局本文では使っていません。先行して定義したカテゴリーを現実に当てはめると、必ずしもその通り綺麗にはいかない、ということで、ヴェーバーの場合も同じことかと思います。

ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ5

まだまだ続きます。ヴェーバーの宗教社会学の怪しい記述。今日のは「他方、定型としては純然たる「呪術師」のもとでも、たとえばアメリカ先住民のハーメッツ族の兄弟団のように、修業期と教説とをそなえているものもある。」(折原訳のインディアンは先住民に変更)

これに対して私が付けた注釈は:

Heinrich Schurtz(1863~1903年)の”Altersklassen und Männerbünde: Eine Darstellung der Grundformen der Gesellschaft”にある記述をヴェーバーが間違って引用しているもので、正しくはカナダのブリティッシュ・コロンビアの先住民クワキウトル族の秘密儀礼Hamatsaでハーメッツ族という部族は存在していない。Hamatsaはクワキウトル族の冬季儀礼の中心を担う秘密結社であり、入会には長期間の修行・教育が必要とされたが、これを「呪術師」と捉えるのは疑問。なおこの冬季儀礼で同じく行われる顕示的消費が有名なポトラッチである。なおヴェーバーの論考に度々メンナーハウスが出てくるのはこのSchurtzの本が元でこのHamatsaも一種のメンナーハウス的結社である。

となりますが、この部分は、
(1) 私はこんな事例まで研究していますよと言う顕示欲の現れ
(2) しかもその引用と解釈がまったく正しくない
という意味でヴェーバーの最悪の部分が出ている箇所と思います。
折原浩先生は例によって何の訳注も付けずスルー、創文社の訳も同じくスルーです。

 

もう一つ折原浩先生の「理解社会学のカテゴリー」解釈への疑問

以前も紹介しましたが、折原浩先生は「理解社会学のカテゴリー」について以下の解釈をされています。
「「これは別件ですが、「カテゴリー論文」で規定されるのは、まさにいくつかのeinigeもっとも一般的な基礎範疇(「シュタムラーが本来――規範学と経験科学とを混同せずに――言うべきであったこと」)にほかなりません。「家」、「近隣」、「氏族」その他、「普遍的な種類のゲマインシャフト」にかんする基礎概念ではありません。① たとえば、突然の驟雨に通行人が一斉に雨傘を広げる、相互間に意味関係」はない、自然現象への「斉一反応」、②「無定形のゲマインシャフト行為」、③「慣習律に準拠する諒解(ゲマインシャフト)行為」、④「制定秩序に準拠するゲゼルシャフト(的ゲマインシャフト行為」という四基礎範疇を定立し、社会関係一般の 「合理化」尺度を「類的理念型}として設定し、「旧稿」本論における具体的適用にそなえているわけです。」」
しかし、「理解社会学のカテゴリー」の中のどこに一体「合理化の尺度」と言った説明があるのでしょうか?また折原浩先生はこれ以外にカテゴリー論文で「ゲマインシャフトはゲゼルシャフトの上位概念である」ことも強調されます。この上位概念という日本語が紛らわしいですが、要はゲゼルシャフトはゲマインシャフトの特殊な場合ということであり、ゲゼルシャフトがゲマインシャフトに内包されるということです。そうであればこの2つは水平的な関係であり、合理化の尺度の発展段階とする折原説は矛盾しています。また「諒解」はきわめて曖昧模糊とした用語であり、ヴェーバーは団体のメルクマルにしていますが、これが上記のようなゲマインシャフトとゲゼルシャフトの間に入るようなものだとどこに書いてあるのでしょうか?更には①と②は無理矢理段階を作るために入れられたもののように見え(特に①はヴェーバーが例として出しただけでカテゴリーでも何でもない)、私が記憶する限り「経済と社会」の中には登場しないと思います。大体が多くの歴史に登場する人間集団は既に確立したものとして登場するのがほとんどで、その設立時の動機がある程度はっきりしているのは中世イタリアの誓約ゲノッセンシャフトぐらいかと思います。(それでこのゲノッセンシャフトはカテゴリー論文では定義されていない。)私から見れば以上のような折原浩先生の議論は全て「理解社会学のカテゴリー」を無理矢理「経済と社会」の頭に仕立て上げようとする拡大解釈の産物だと思います。

「経済と社会」旧稿の「再構築」への疑問

このサイトを始めたのは7年くらい前ですが、その時の目的の一つは、折原浩先生の「経済と社会」の旧稿の再構成仮説を検証してみることでした。
それからの7年間で、私のヴェーバーに関する理解も進み、また「中世合名合資会社成立史」と「ローマ土地制度史」を訳し終えたことで、少なくともヴェーバーの主要な学術論文についてはほぼ目を通したことになりました。更に最近、折原浩先生の「宗教社会学」の私家版に対する補注作業をやって知り得たこと、これらを合わせて現在の私の「経済と社会」の旧稿に対する考え方は以下です。

(1)「理解社会学のカテゴリー」は確かに旧稿で使われている用語の意味を把握するという意味では重要であるが、しかしその内容自体が短期間に作られ十分検討されたものではなく、問題のある定義も多く、なおかつゲノッセンシャフトやケルパーシャフトといったものに対する定義も欠けており、旧稿の「頭」と呼べるようなものではない。
(2)旧稿そのもの、特に「宗教社会学」については19世紀後半~20世紀初頭の欧州の宗教学の誤った考え方(例:宗教の進化論)やきわめて不足しているユダヤ教、キリスト教以外の宗教への知識に基づいて誤りの多い理念型をある意味でっち上げたような内容であり、とても現在においての「教科書」として再構築出来るようなものではない。
(3)ヴェーバーの思考は常に変化を続けており、例えば「理念型」の定義も二転三転しています。そういうダイナミックなものであるヴェーバーの学問を第1次世界大戦直前の限定した時期に固定して、その学問を再現する試みにどういう意味があるのか。言ってみれば活発に活動する生物のホルマリン漬けを作るような試みです。

上記を合わせて考えると、結局折原浩先生は、マリアンネが自分の亡夫の学問上の主要著作が存在しないのはおかしい、と思って旧全集の誤った二部構成の「経済と社会」を捏造したのと、ほぼ同じことを繰り返そうとしているだけではないのでしょうか?要するに「社会学」の「巨人学者」であるヴェーバーの、「社会学」の主著=教科書が完成していないのはおかしいからそれを同じく(マリアンネとは別の形で)「捏造」するという。少なくとも折原浩先生の「宗教社会学」の私家版翻訳を見ている限り、「ヴェーバーの言っていることはいつも正しい。」と言った間違ったバイアスが強く働いているように見えます。それから折原浩先生は現行の全集の「経済と社会」の取扱いを「頭のない四肢体」として批判しますが、現状まったく結論の出ていない旧稿の再構成問題という段階で、私には他の選択肢があったとは思えず、それを批判するのはおかしいと思います。

左の写真は私が所有するヴェーバー関係の書籍です。(約200冊)これらの内、ほぼ8割くらいは目を通しています。従って上記の意見は短期間の思い付きで言っているようなものではまったくありません。

折原社会学の問題点

折原浩先生の「宗教社会学」、今度はEidgenossenschaftを「誓約仲間団体」と訳していました。これは中野・海老原訳の「理解社会学のカテゴリー」の不適切訳を踏襲するものです。Genossenschaftを「仲間団体」と訳すのであればGenossenschaftsverbandは「仲間団体団体」になってしまいます。庄子良男さんによるギールケの「ドイツ団体法論」の日本語訳ではGenossenschaftは「ゲノッセンシャフト」で一貫して訳されており、変な日本語化はされていません。折原浩先生は創文社訳の「宗教社会学」が社会学的なタームが正しく訳されていないと言ってご自身で訳されることを試みたのですが、確かに「理解社会学のカテゴリー」に出てくるタームの訳にはこだわっていますが、ケルパーシャフトやゲノッセンシャフトのようなドイツにおける人間集団の重要ターム(法制史での常識語)については、実に適当かつ不正確な訳を当ててしまっています。これでは批判的な訳の意味がありません。このように狭い「ヴェーバー社会学」の殻(鉄の檻?)に閉じこもって周辺の学問に目を向けていないのが、折原浩先生の社会学の最大の欠点と思います。

ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ4

今日もヴェーバーへの突っ込みは続きます。(笑)
「政治団体のみでなく、職業上のゲゼルシャフト結成態も、まったく同様に、それぞれの特殊神や特殊聖者を戴いて礼拝する 。」とヴェーバーは書いていて、この内容だと職業団体が先でその後宗教団体になると読めますが、ハインリヒ・ミッタイスもギールケもイタリアの都市でのギルドは、元々特定の聖人を守護聖人として持つ人々の社交団体で、つまりは宗教的な団体形成が先だと書いています。すなわちヴェーバーの論は因果関係を逆にしています。「中世合名合資会社成立史」の時も、家計ゲマインシャフトから合名会社が成立したことを論じるのですが、何故かその家計ゲマインシャフトは全てギルドのメンバーであったという要素がまるっきり無視されています。ヴェーバーの書籍では晩年の講義録を除くと、ちゃんとしたギルド論の部分がすっぽり抜けています。もしかすると宗教は資本主義精神を生み出している反面、ギルドみたいな反資本主義的な制度も作り出している訳で、そこを深く突っ込むと「プロ倫」が土台から崩壊するのではというある種の予感があってギルドを論じるのを避けたとか。(笑)

「宗教社会学」折原浩訳、丸山補訳、R1

折原浩先生が訳されて、このサイトで公開している「宗教社会学」の折原私家版翻訳に対して、私が補訳として手を入れたものが30ページほど出来ましたので、途中段階として公開します。(これで全体の1/10くらい)本来なら私が手を入れた部分を折原浩先生に確認してもらうのが筋ですが、先月で90歳になられたということを考え、非常に負荷のかかる作業の依頼は困難と考え、敢えて独断で公開します。

既にいくつか紹介しているように、ヴェーバーの論理の飛躍ぶり、根拠の不明確さや誤りについてもかなり突っ込んでいます。また折原浩先生の訳注については社会学的な部分にはそれなりに注は付いているものの、宗教に関する、一般の人はまず知らないような事項にまったくといっていいほど訳注を付けておらず、私の方で補完しましたが、ここまでだけでもかなりの時間と労力を要しました。また残念ながら折原浩先生の不適切訳や誤訳も散見され、最初は訳注だけで本文はそのままにしようと思っていましたが、結局本文にも手を入れています。(どこを変えたかは、ちょっとした表記の変更など以外は明記しています。)

宗教関係タームの例:
・ウーゼナーの「瞬間神」
・アメノフィス四世(イクナトン)
・インドにおける装飾旋律にたいする「ラーガ」
・類似療法
・エレウシスの密儀
・ミディアン人
(こういうの訳注無くて全部すぐ分かる人は日本では10万人に1人もいないでしょう。)

また社会学的なワードであっても、Gebietskörperschaftsを「地域団体」と訳していたのには正直な所あきれました。ケルパーシャフトは法人格を持つ団体のことであってドイツ法制史の基礎的タームであり、ヴェーバーの定義する「団体」とはまるで相容れません。それに「地域団体」は普通Gemeindeを連想させます。折原先生に限りませんが、社会学者の法制史知識の欠如には驚きます。ドイツの社会学はギールケの団体法論などの影響を大きく受けているのにもかかわらず。

そもそもこのサイトの「オープン翻訳」はソフトウェアの世界のオープンソースを参考にしたものです。オープンソースの場合は間違いを訂正したり、あるいは新しい機能を付け加えたりした場合はその部分を明記した上で再公開することになっており、そのルールに従っています。

20251001_宗教社会学補訳R1.pdf

なお、この補訳を始める準備として、「ローマ土地制度史」の翻訳作業と同時にこの2年間に写真のような書籍を読んで来ています。ヴェーバーの宗教社会学三部作も再読しています。なので適当にWebで調べたものをそのまま書いている訳ではありません。