折原浩訳の問題点(71)

ここも原文にないことを勝手に補って書いています。「神なき不信仰の徒と同一視して憚らなかった。」ってどこにも書いていなくて、「~の性格がユダヤ人をそういう方向に誘導した」というだけです。「折原捏造超訳」とでも名付けますか。(笑)
それから、「国民学校」はないでしょう。いくらVolksだからといって、ご自身の子供の頃の語彙を使わないで欲しいです。しかも「現在の」と書いているから「えっ、現在に国民学校?」と二重におかしく感じます。現在って書くなら「ヴェーバー当時の現在の」って書くべきです。100年以上前に書かれたものなのですから。
von früher Jugend anを「幼年期から」とするのも若過ぎ。後に小学校が出て来るからせいぜい6-7歳くらいのことでしょう。私は「まだ年端もいかない子供の時から」と訳しました。これで想定されている年齢は合っていると思います。こういうのが「文化的」翻訳です。

原文
Daß der Jude schon im Altertum, wie Philo hervorhebt, im Gegensatz zu allen anderen Völkern, von früher Jugend an, nach Art unserer Volksschule, fortgesetzt intellektuell systematisch-kasuistisch trainiert wurde, daß auch in der Neuzeit z.B. in Osteuropa aus diesem Grunde nur die Juden systematische Volksschulbildung genossen, ist die Folge dieses Schriftgelehrsamkeitscharakters des jüdischen Gesetzes, welches die jüdischen Frommen schon im Altertum veranlaßte, den im Studium des Gesetzes Ungebildeten, den Amhaarez, mit den Gottlosen zu identifizieren.

折原訳
ユダヤ人はすでに古代においても、フィロンが強調した とおり、他の全ての民族とは対照的に、幼年期から、現代ドイツの国民学校と同じ方式で、体系的-決疑論的な知的訓練を継続的に受けた。また、近代においても、たとえば東ヨーロッパでは、同じ理由で、ユダヤ人だけが、体系的な国民学校教育を受けていた。これらのことは、ユダヤ教の律法が、聖典に精通する学識を重んじた結果であり、その性格からして、敬虔なユダヤ教徒は、すでに古代においても、律法にかんする教養をそなえていない者、すなわち「地の民」を、神なき不信仰の徒と同一視して憚らなかった。

丸山訳
ユダヤ人は既に古代において、フィロンが強調したように、他の全ての民族とは対照的に、まだ年端もいかない子供の時から、我々の[ヴェーバーの時代の]小学校と同じやり方で、連続的に、知的な体系的・決疑論的なトレーニングを与えられたということ、そしてまた近代においても例えば東欧で、この理由からただユダヤ人だけが体系的な小学校教育を享受していたということは、ユダヤ教の律法がこのように解釈され口伝されたという性格の結果であり、その性格はユダヤ人の敬虔な信者が既に古代において、律法の学習を行っていない者を、つまりアム・ハアレツ[地の民]を、神なき者であると見なすよう誘発したのである。

折原浩訳の問題点(70)

超速ペースで70回目達成です。(笑)

ここも原文の構造がまったく見えていません。1番目の文の da と、2番目の文の wo が呼応しているので、wo以下の所では、~になる、と言っているので切って訳してはいけません。また最後のdassも、derart~、dass~という構文で、「このように~されるのでその結果」ということですが、そういう訳にはまったくなっていません。
また、Unterlassenは「思い止まる」ではなく単に「しないこと」、Schulung und Lehreは訓練と指導です。Lehreが来るといつも「教説」と訳すような一語一訳主義は問題です。

原文
Auf einem anderen und indirekten Wege kann eine ritualistische Religiosität da ethisch wirken, wo die Erfüllung der Ritualgebote das aktive rituelle Handeln (oder Unterlassen) des Laien fordert und nun die formalistische Seite des Ritus zu einem umfassenden »Gesetz« derart systematisiert wird, daß es einer besonderen Schulung und Lehre bedarf, um es überhaupt genügend zu kennen, wie es im Judentum der Fall war.

折原訳
儀礼主義的な宗教性は、いまひとつ別の間接的な道を通って、倫理的に作用しうる。それはすなわち、儀礼上の命令を十全に果たすために、平信徒にも能動的に儀礼行為をおこなうこと (あるいは逆に、思い止まること) が要求され、儀礼の形式主義的な側面が、ひとつの包括的な「律法」にまで体系化されて、「律法」を遵守する前提として当の「律法」を知るためだけにも、特別の訓練と教説が必要とされる場合である。ユダヤ教が、その事例に該当する。

丸山訳
儀式における諸命令の遵守が、平信徒に積極的な儀式上の所作(あるいは行わないこと)を強要し、そしてそれにより儀式の形式主義的な側面がある種の包括的な「律法」にまで合理化される場合には、ある儀式主義的な信仰が、ある別の、間接的な経路で倫理的な影響を及ぼすことが出来るが、その結果として[別の間接的経路である]律法が必要とするのは、その律法を一般的な意味で十分知るための特別の訓練と指導であり、それはユダヤ教において起きたことであった。