折原浩訳の問題点(55)

折原センセの常識に欠けていること、そして翻訳に当たって調べることをしないこと、にも関わらず適当な訳を当てはめるという悪いところが全部出ている誤訳です。 Schu Kingは「詩経」ではなく「書経」です。大体、孔子が「一言以て之を蔽う。曰く、思(おもい)邪(よこしま)無し」と評した詩経にお金の話とか財宝目録が出て来る筈がないのは常識で分かると思いますが。創文社訳は「中国の経書」、これは間違いではないが、調べないで逃げているのを、折原訳はそれを勝手に「詩経」にしてどうしようもない間違いにしてしまっています。なお、全集には正しく注釈が付いていますが、これも当然見ていません。正しい出典は私の訳注を参照願います。それから「財宝目録」も変。財産として重要なものの順番リスト(原典では五福)です。
写真は私の漢詩・漢文関係の蔵書の一部です。詩経も当然読んでいます。

原文
Reichtum, das, nächst langem Leben, höchste Gut in der Gütertafel des Schu King, hängt für die chinesischen Untertanen an der richtigen Ausführung des offiziellen Kultes und der eigenen Erfüllung der religiösen Pflichten, während irgendwelche Jenseitshoffnungen und Vergeltungen ganz fehlen.

折原訳
中国の詩経の財宝目録では、富が、長寿に次ぐ最高の財とされているが、中国の臣民にとって、富の取得は、公的な礼拝が正しく遂行され、各人が自ら宗教的諸義務を果たすことにかかっており、彼岸への希求や応報といった観念はまったくない。

丸山訳
書経では五福の最高財の序列で、富が長寿の次に来ており[1]、中国の臣下にとっては公的な祭礼を正しく遂行することと自分自身が宗教的な諸義務を果たすことが富の条件であり、一方で来世の色々な希望や報いといったような考え方は全く欠如していたのである。

[1] 「書経」の周書の洪範(大いなる法の意味)にて、五福として寿、富、康寧、攸好徳、考終命(長寿、富裕、安寧、徳を修めること、老いて天寿を全うすること)が出て来る。しかしそこでは五福以外にも五行、五紀、五事などが挙げられていて、一種の分類体系を示しているものに過ぎない。また五行にランキングがないように、五福も五つ並べただけであり、二番目に富が来ているからそれが二番目に重視されていたという解釈はこじつけである。更に注意すべきは、これはわざわざ書経を引用しなくても、世界の多くの文化では当たり前の項目であることで、むしろキリスト教などの方が特殊だと考えるべき。それに中国の官吏であっても儒教だけでなく仏教に帰依していた人もいたはずで、彼岸=涅槃への志向もあった筈である。中国の仏教は隋の時代ぐらいから広まり、初期の帰依者は皇帝や貴族であった。ヴェーバーの中国理解は限られた翻訳資料から単純な図式を作り出しているもので、かなりの西欧的な先入観を含んだもので注意が必要である。

折原浩訳の問題点(54)

また折原訳の変な日本語。massivst は「頑強このうえない功利的期待」ではなく、「これ以上ないほど剥き出しの、露骨な功利的期待」です。ゴツゴツした岩などが誰が見てもはっきりそう見える、という意味です。要するに通常我々が「救済」と聞いて想像する倫理的な性格をもったものではなく、まったくの現世御利益的なものと言っている訳です。そういう文脈が何故読み取れないのか、「頑強な期待」が日本語としておかしいと感じないのか、不思議です。

原文
Zahlreiche andere Religionen kennen »Erlösung« nur als eine in engen Konventikeln gepflegte Sonderangelegenheit, oft als einen Geheimkult. Auch bei religiösen Handlungen, welche als ganz spezifisch »heilig« gelten und ihren Teilnehmern ein nur auf diesem Wege erreichbares Heil versprechen, stehen sehr oft die massivsten utilitarischen Erwartungen an Stelle von irgend etwas, was wir gewohnt sind, »Erlösung« zu nennen.

折原訳
それ以外の数多の宗教では、「救済」が、狭い範囲の信徒集会で育成される特別の事項として、しばしば秘教的な礼拝として、知られているだけである。まったく独特の意味で「神聖」とみなされる宗教的行為で、その参加者にはもっぱらそこを通って救済に到達できると約束されている場合にも、頑強このうえない功利的期待が、「救済」と呼びならわされているものにとって代わっていることが、頻繁に見られる。

丸山訳
数多い他の諸宗教は「救済」を、ただ限定されたメンバーでの秘密集会にて取り上げられる特別な問題として、しばしば秘密の祭儀としてのみ知っている。また宗教的な諸行為においても、それらが全く特別に「聖なる」ものと見なされ、そしてその諸行為を行う者に対して、この方法によってのみ到達可能な救済が約束され、非常にしばしば、我々が通常「救済」と呼ぶものの代わりに、これ以上無いほど露骨な功利主義的な諸期待が存在しているのである。