折原浩訳の問題点(76)

ここも「人格を研磨-彫琢することが、なによりも重要」などという原文にない余計な付け加えをしているだけでなく、この付け加え自体が全体の論旨に反しています。この後に、要するに倫理的な行為・努力は「救済の方法論」の手段に過ぎないと言っているのに、それに近い「人格を研磨-彫琢することが、なによりも重要」は矛盾しています。これに続く箇所で「自分の人格への宗教的な働きかけ」と言っているのはカリスマ的覚醒における神秘的体験のことであり人格の研磨(これもそれを言うなら「人格の陶冶」でしょう)とかではありません。

原文
Auf die religiöse Arbeit an der eigenen Person kommt vielmehr alles an. Die religiös qualifizierten, sozial gewendeten guten Werke sind dann lediglich Mittel

折原訳
むしろ、宗教上の目標に向けて自分の人格を研磨-彫琢することが、なによりも重要となる。そうなると、宗教的な性質をそなえて社会に向けられるもろもろの善き業は、自己完成つまり「救済技法」上の手段にすぎなくなる

丸山訳
よりむしろ全てにおいて重要となるのは、自分本来の人格[1] に対しての宗教的な働きかけである。宗教的な価値を認められた、社会に向けられた善行はその場合単に次のことの手段に過ぎなくなる

[1] ここは次の文でデーモンに憑依されたり、霊界に連れ去られたりというのが出て来ることから、ペルソナ的な意味での「人格」であり、道徳的な意味のそれではない。

折原浩訳の問題点(75)

またひどいのが出てきました。原文の構造を勝手に変え、多くの場所で意味不明の訳をしています。

(1)Oder以下は別の文なのに、それをくっつけてしまっている。
(2)「善の「修練」による習得が原理上可能なものか、どちらかである」は可能かどうかではなく、可能である場合もあるという意味であり誤解を招く。
(3) Habitusの「(神から与えられた)霊的な力」の意味がまったく取れていない。
(4) positiv はここでは「積極的」ではなく「プラスの」、である。
(5)「外化され表現される」は日本語として意味不明、sich äußern は単に~において現れる、ということ。
(6)Gerichtetheit は「~に向けられていること」であり「心意が」は余計で不要。折原訳だと何か行為者が自分でそうするみたいになるが、ここは神の恩寵でそういう風に方向付けられていること、という意味。
(7)「ある方法に準拠して統一的に形成される生き方」も「ある統一され、方法的に整えられた生活実践」 で折原訳ではeinerが「方法」という書かれていない単語にかかるように読めてしまいます。

(私は心意倫理という訳は、理解は出来ますが、従来の心情倫理で十分意味としてはカバーされていると考えますので採用しません。)

原文
Aber sie ist es durchaus nicht immer, vielmehr ist sie meist die spezifische Form des ethischen Rigorismus. Der religiös positiv qualifizierte Gesamthabitus kann dabei entweder reines göttliches Gnadengeschenk sein, dessen Existenz sich eben in jener generellen Gerichtetheit auf das religiös Geforderte: einer einheitlich methodisch orientierten Lebensführung äußern. Oder sie kann umgekehrt durch »Einübung« des Guten im Prinzip erwerbbar sein.

折原訳
ただ、つねに必ずしもそうとはかぎらず、心意倫理はたいてい、むしろ倫理上の厳格主義に特有の形態である。その場合、宗教上積極的な性質をそなえたものと評価される人格全体の習性は、もっぱら神の恩恵による賜物であるか、あるいは逆に、善の「修練」による習得が原理上可能なものか、どちらかである。前者の場合、そうした賜物があるかどうかは、宗教的に要求される事柄に心意が全面的に向けられるあり方、つまり、ある方法に準拠して統一的に形成される生き方、に外化され表現される。

丸山訳
しかし心情倫理がいつもそうである訳ではまったく無く、むしろ大抵の場合は倫理的リゴリズムの特別な形態を取っていることが多い。宗教的にプラスの評価を与えられた総体での霊的な力は、その際にあるいは純粋に神からの恩恵としての賜物であり、その存在はまさに、宗教的に要求されることに対して、あの一般的に言われる方向付けられていることが:ある統一され、方法的に整えられた生活実践において現れるのである。またはそういう霊的な力は逆に善行の「訓練」によって一般的に獲得可能であるか、である。