折原浩訳の問題点(53)

ここは、折原訳の無神経で間違った訳語選択と、ヴェーバー自身のおかしな議論の箇所です。

(1)折原訳はspiritualistischを「唯心論的」と訳しています。しかしここで説明されているのは明らかにグノーシス主義・マニ教的な二元論であり、それを唯心論的とは言えません。以下はWikipediaの「心霊主義」の項の説明より:「心霊主義はspiritualism(スピリチュアリズム)の日本語訳のひとつであるが、「唯心論」「精神主義」とも訳されるため注意が必要である。」私は「霊的な二元論」としました。
(2)ヴェーバー自身のおかしな議論については私の訳の訳注を参照してください。

原文
Die Zerspaltung der Welt in zwei Prinzipien besteht hier nicht, wie in der ethisch-dualistischen Vorsehungsreligiosität, in dem Dualismus der heiligen und allmächtigen Majestät Gottes gegen die ethische Unzulänglichkeit alles Kreatürlichen, und nicht wie im spiritualistischen Dualismus, in der Zerspaltung alles Geschehens in Licht und Finsternis, klaren und reinen Geist und finstere und befleckende Materie, sondern in dem ontologischen Dualismus vergänglichen Geschehens und Handelns der Welt und beharrenden ruhenden Seins der ewigen Ordnung und des mit ihr identischen, unbewegten, in traumlosem Schlaf ruhenden Göttlichen.

折原訳
さて、全被造物の倫理的不完全性に、神の神聖で全能な尊厳を対置する倫理上二元論的な摂理信仰、あるいはまた、全ての出来事を、光と闇に、明澄にして清浄な精神と、暗黒で汚濁をもたらす物質とに分割する唯心論的な二元論では、世界がふたつの原理に分裂する。ところが、古仏教においては、そういう分裂はなく、ただ、一方には、世界の無常な出来事と行為、他方には、夢も見ない眠りに安らぐ、永遠の秩序と同じく不動の神的存在という、存在論的な二元論があるばかりである。

丸山訳
輪廻転生の考え方においては、倫理的二元論の摂理信仰、つまり神の神聖で全能の至高性が全ての被造物の倫理的な不完全さに対置されるという二元論におけるように、二つの原理の間で現世が分裂するということは起きない。そして更にそれは霊的な二元論のように、全ての発生事象を光と闇の間の分裂、つまり清澄で純粋な霊と、暗くて穢れをもたらす物質との分裂として見るのでもなく、そこに見られる考え方は、無常である現世での発生事象と、そして永遠の秩序が終わることなく存続することと、その存続と同一視される不動の、夢のない眠りに安らぐ神的なものの、存在論的な二元論である[1]

[1] ここでのヴェーバーが古仏教を存在論的二元論とするのは、全体を二元論でまとめるために無理に作ったロジックにしか見えない。インドでの典型的な二元論ではブラフマンとアートマンの二元論があるが、これも「梵我一如」という言葉に示されるように結局は一つのものとされている。また「夢のない眠りに安らぐ神的なもの」は通常ブラフマンについてのヒンドゥー教的説明であって、これも仏教の説明には適当ではない。また重要なのは仏教は「無我」と言われるようにアートマン自体を否定している。

折原HPのとある記事より

折原HPに下記の記載有り、それによると少なくとも「宗教社会学」の英訳の内容の正しさをゼミでチェックしていたみたいですが、そういう作業を経てなおあの恐るべき誤訳だらけの日本語ですか、と聞きたくなります。(笑):
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小生、1968年春から「東大紛争」に直面し、関与を迫られましたが、当時とくに頻繁に接触して議論を交わした相手が、小生よりほぼ10~12年年少のゼミ生でした。 みな、たいへんな勉強家でした。1967年度のゼミでは、「ヴェーバー宗教社会学講読」と題してEphraim Fischoff訳のThe Sociology of Religion (1963, Boston: Beacon Press) を輪読し、「ヴェーバー宗教社会学」の内容と思考方法を会得しようと目論んだのですが、始めるとすぐ、報告を分担した学生たちが、英文テキストに続々と誤訳・不適訳 (らしく、意味が通らない箇所) を見つけ、「これでは駄目だ」というので、結局、大庭君、八木君ら、(ドイツ語の初級文法は修得し終えた) 二年生から始めて、ヴェーバー『経済と社会』(旧稿)「第六章」の難解なドイツ語原文にあたり、原意を汲み取ったうえで報告してもらい、各人の読解案を検討しながら「改訳ゼミ」を進めることになりました。