最近サンスクリットを少しずつ勉強し始めています。その練習問題に出て来た句。
शत्रोरपि गुणा ग्राह्या दोषा वाच्या गुरोरपि।
śatrorapi guṇā grāhyā doṣā vācyā gurorapi
敵の美点でさえ認めるべきであり、師の欠点でさえ指摘すべきである。
まさにここにぴったり。(笑)
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最近サンスクリットを少しずつ勉強し始めています。その練習問題に出て来た句。
शत्रोरपि गुणा ग्राह्या दोषा वाच्या गुरोरपि।
śatrorapi guṇā grāhyā doṣā vācyā gurorapi
敵の美点でさえ認めるべきであり、師の欠点でさえ指摘すべきである。
まさにここにぴったり。(笑)
今日は小ネタですが、相変わらず継続して誤訳が出てきます。
religiös gewendetは「宗教上の言い回しによれば」ではなく、「宗教的にはまったく逆になり」です。要するに本来は神に近付き救済財を得るためのものであった手段が結局は神に見捨てられた状態へと「反転する」ということです。
Wendungなら「言い回し」という意味がありますが、動詞のwendenにはそういう意味はなく「向きを変える、逆に進む」という意味です。後細かいことですが「急転」というのも原文にはありません。私は「推移する」と訳しましたが、原文は「交代する」となっています。Aの状態がBの状態に変わる、ということです。
原文
Denn wie jede Art von Rausch, die orgiastische Heldenekstase ebenso wie die erotischen Orgien und der Tanzrausch unvermeidlich mit physischem Kollaps wechselte, so die hysterische Erfülltheit vom Pneuma mit dem psychischen Kollaps, religiös gewendet: mit Zuständen tiefster Gottverlassenheit.
折原訳
それというのも、どんな種類の陶酔も、狂騒的な英雄エクスタシーであれ、性愛的な狂騒であれ、踊り狂う陶酔であれ、身体の虚脱状態への急転を避け難く、それとまったく同様、霊に充たされたヒステリー状態も、心的な虚脱状態に、宗教上の言い回しによれば「神に見捨てられて深淵に堕ちた状態」に急変するほかはなかったからである。
丸山訳
その理由は、全ての種類の酩酊がそうであるように、狂躁的な英雄エクスタシーとまったく同様に性的な狂躁、そして踊りによる狂躁は、避け難いこととして身体的な虚脱状態へと推移するのであり、それ故にヒステリー的に霊が充たされた状態で、それが精神の虚脱と一緒になっている場合は、宗教的には反転し:もっとも遠く神から見捨てられた状態へと変わる。
はい、今日もデタラメな折原訳です。
1.「きわめて多様な外皮に包まれていた」なんてどこにも書いてありません。ここは前の文の「日常と非日常の性向[Habitus]の間の矛盾を除去する」を受けて、その二つの間を「埋める、充填する」ということです。
2.ここでHabenは明らかに経理用語の「貸方」なのに、折原訳は単に「所持」にしてしまっています。所持ならBesitzなどを使う筈です。ヴェーバーが経済学者でもあることを完全に失念しています。私の解釈では救済財がまさに企業における「資本」のように簡単には増減しないというイメージも含まれているのだと思います。「中世合名・合資会社成立史」のテーマがまさに、合名会社の「特別財産」である資本金がどのように生まれたかの分析でした。まあ折原センセはそこまで気がつかないでしょうが。(折原センセだけじゃなく「中世合名・合資会社成立史」を読んでいない人は全員。)
後で出てきますが(全集P. 322)、ヴェーバーは救済財の「所有」と言いたい場合には、きちんとBesitzを使っています。
die Konzentration auf das Heilsgut und dessen Besitz
原文
Aus der unermeßlichen Fülle jener inneren Zuständlichkeiten, welche die Heilsmethodik erzeugen konnte, schälten sich schließlich einige wenige deshalb als eigentlich zentral heraus, weil sie nicht nur eine außeralltägliche, seelisch-körperliche Einzelverfassung darstellten, sondern das sichere und kontinuierliche Haben des spezifischen religiösen Heilsguts in sich zu schließen schienen: die Gnadengewißheit (»certitudo salutis«, »perseverantia gratiae«).
折原訳
救済技法が生み出すことのできた内面的な状態性は、きわめて多様な外皮に包まれていたが、そのなかから、理由あって最終的に外皮を破り、本来の核心として、現れ出たのは、ごくわずかであった。その理由とは、非日常的な個々の精神的・身体的状態だけではなく、宗教に特有の救済財のいっそう確実な継続的所持をも、したがって恩恵の確かさ(「救いの確かさ」「恩寵の持続」)を内包しているかに見えた、というところにある。
丸山訳
救済の方法論が産み出すことが出来た、そういった内面の安定状態の計り知れない充溢の中から、最終的にはいくつかの少量のものが、それ故に実際は中心から外へと、殻を破って頭を出すのであり、何故ならそういった充溢はただ非日常的な、霊肉の一体性を表現するだけでなく、特別な宗教的救済財が確実かつ継続的に貸方に計上されているように見える[1]からである:つまり救いの確かさ(”certitudo salutis”[救いの確信]、”perseverantia gratiae”[神の恵みの堅忍])である。
[1] ヴェーバーはここでは複式簿記のイメージで信者にとって救済財が「借方」(外から入って来るもの、資本のイメージ)に入れられると表現している。