折原浩訳の問題点(125)

今日の所は、ほぼ全文問題を抱えています。
「人格総体の恒常的実践慣行」って一体何ですか?(笑)
何度も書いていますが、要するにカトリックにおけるHabitusの概念をきちんと押さえていないから、こういう珍妙な訳が出て来る訳です。

原文
Nicht der gesamte, durch Askese oder Kontemplation oder beständig wache Selbstkontrolle und Bewährung stets neu festzustellende Habitus der Persönlichkeit, sondern das konkrete einzelne Tun wird gewertet.

折原訳
人格総体の恒常的実践慣行が、禁欲か瞑想か、あるいはつねに醒めた自己制御と確証によって、絶えず改めて確立されなければならない、というのではなく、具体的な個々の所業が、そのかぎりで評価される。

丸山訳
全体としての、禁欲または瞑想によるか、あるいは持続的に目覚めた状態での自己制御と確証によって、常に新たに確立されるべきである人格の、恩寵による性向[Habitus[1]]ではなく、そうではなくて具体的な個々の行いが価値付けられるのである。

[1] 参考(再掲):基督教研究 第28巻、第3、4号「倫理性に於けるルッターと中世 --基督教倫理思想史の一齣--」今井晋
スコラ神学は、アウグスティヌスの見解を発展させて、サクラメントの儀式によって、奇蹟的に、人間に「注がれる」(ロマ書5.8)神の超自然的な恩寵の状態をハビトゥス(habitus)と名付け、サクラメントに依存するかかる超自然的な神の愛の協力が、始めて善き行為を真に功績ある行為、即ち永生に値する行為として価値づけるとしたのである。

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