折原浩訳の問題点(70)

超速ペースで70回目達成です。(笑)

ここも原文の構造がまったく見えていません。1番目の文の da と、2番目の文の wo が呼応しているので、wo以下の所では、~になる、と言っているので切って訳してはいけません。また最後のdassも、derart~、dass~という構文で、「このように~されるのでその結果」ということですが、そういう訳にはまったくなっていません。
また、Unterlassenは「思い止まる」ではなく単に「しないこと」、Schulung und Lehreは訓練と指導です。Lehreが来るといつも「教説」と訳すような一語一訳主義は問題です。

原文
Auf einem anderen und indirekten Wege kann eine ritualistische Religiosität da ethisch wirken, wo die Erfüllung der Ritualgebote das aktive rituelle Handeln (oder Unterlassen) des Laien fordert und nun die formalistische Seite des Ritus zu einem umfassenden »Gesetz« derart systematisiert wird, daß es einer besonderen Schulung und Lehre bedarf, um es überhaupt genügend zu kennen, wie es im Judentum der Fall war.

折原訳
儀礼主義的な宗教性は、いまひとつ別の間接的な道を通って、倫理的に作用しうる。それはすなわち、儀礼上の命令を十全に果たすために、平信徒にも能動的に儀礼行為をおこなうこと (あるいは逆に、思い止まること) が要求され、儀礼の形式主義的な側面が、ひとつの包括的な「律法」にまで体系化されて、「律法」を遵守する前提として当の「律法」を知るためだけにも、特別の訓練と教説が必要とされる場合である。ユダヤ教が、その事例に該当する。

丸山訳
儀式における諸命令の遵守が、平信徒に積極的な儀式上の所作(あるいは行わないこと)を強要し、そしてそれにより儀式の形式主義的な側面がある種の包括的な「律法」にまで合理化される場合には、ある儀式主義的な信仰が、ある別の、間接的な経路で倫理的な影響を及ぼすことが出来るが、その結果として[別の間接的経路である]律法が必要とするのは、その律法を一般的な意味で十分知るための特別の訓練と指導であり、それはユダヤ教において起きたことであった。

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