折原浩訳の問題点(98)

また大文字で始まるHabenが出てきて、しかもここは»Haben«とまでヴェーバーはしているのに、折原訳は(創文社訳も)相変わらず「所持」という分かっていない訳。ヴェーバーは所持と言いたい時はちゃんとBesitzを使っています。ここで言われているのは、神秘的合一によって得られる「智」のことですが、ヴェーバーはそれが救済財と同じで貸方の一項目として存在することにより、そこから現世への位置決めや認識が得られると、完全に貸借対照表のイメージをここでも使っています。
それからこの辺りのWeltは全て「現世」と訳すべきですが、折原訳はWeltが単体で出て来るとすぐ「世界」になってしまっています。

原文
Seinem zentralen Wesen nach ist es vielmehr ein »Haben«, von dem aus jene praktische Neuorientierung zur Welt, unter Umständen auch neue kommunikable »Erkenntnisse« gewonnen werden.

折原訳
その核心にある本質からして、その知はむしろある「所持」であり、ここからして、世界にたいする実践的に新たな定位が、事情次第では、伝達が可能な新たな「認識」も、獲得される。

丸山訳
その中心的な本質からして、そういった智はむしろ、「貸方」の一項目なのであり、そこからあの実践的な現世への位置決めが、事情によってはまた新しい人に伝えることが可能な「認識」も勝ち取られる。

折原浩訳の問題点(97)

ここもまた、Habitusの意味がきちんと捉えられていないので、Gefühlshabitusが「感情の特定の習性」という意味不明の訳になってしまっています。
それから訳注に書きましたが、やはりヴェーバーは瞑想すらもキリスト教的「神秘的合一」でまとめてしまっています。仏教においては「無」の心には神も仏もないと思いますが。

原文
Die Kontemplation dagegen ist primär das Suchen eines »Ruhens« im Göttlichen und nur in ihm. Nichthandeln, in letzter Konsequenz Nichtdenken, Entleerung von allem, was irgendwie an die »Welt« erinnert, jedenfalls absolutes Minimisieren alles äußeren und inneren Tuns sind der Weg, denjenigen inneren Zustand zu erreichen, der als Besitz des Göttlichen, als unio mystica mit ihm, genossen wird: einen spezifischen Gefühlshabitus also, der ein »Wissen« zu vermitteln scheint.

折原訳
ところで、瞑想とはまず、神的なもののなかに、しかもそこにのみ、ある「安息」を求めることである。行為しないこと、突き詰めれば思考すらしないこと、なにほどか「現世」を思い出させるものは全て払拭して、ある空無の状態に到達すること、いずれにせよ全ての外的および内的行為を徹底して極小化して止まないことが、神的なものの所有、つまり神との「神秘的合一」として享受される内面的状態に到達する道である。したがって、この状態は、感情の特定の習性ではあるが、ある種の「知」を伝達する状態とも見られる。

丸山訳
それに対して瞑想とは、主として神的なものの中に、そしてただその中に「静寂」を求めるものである。それは行為しないこと、最終的には考えないこと、なんであれ多少であっても「現世」を思い出させるものを全て排除すること、いずれの場合でも全ての外的・内的な行為を絶対的に最小化することであり、そういったことが、神的なものの所有として、つまりその者においての神秘的合一[unio mystica[1]]として享受される、内的な状態に到達するための道なのである:その内的状態とはつまり特別な感情においての恩寵による魂の性向[Gefühlshabitus]であり、それがある「智」[Wissen]を導くように見えるのである[2]

[1] 神秘主義者の体験として言われる、神とその者とが一つに合一した状態のこと。

[2] この辺りの「瞑想」の説明、例によってキリスト教的「神秘的合一」で全てをまとめてしまっているが、例えば仏教の禅での瞑想の説明としてはナンセンスである。