理解社会学のカテゴリー→ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの間

折原訳を読んでいると、Vergesellschaftungにしばしば「ゲゼルシャフト結成」とか「ゲゼルシャフト結成態」のような訳が当てられています。要するに折原センセはこの2つを一種の発展段階、階段状の進化だと捉えているんだと思います。しかし例えば「中世商事会社史」(中世合名・合資会社成立史)に、フィレンツェのアルベルティ家の遺産分割の話が出て来ますが、父親の死後、相続人である兄弟の間で契約が結ばれて家ゲマインシャフトがゲゼルシャフト化されるんですが、実はこの契約は父親の死後17年経ってからです。それでその契約で確かに法律的にはその時点がゲゼルシャフト(一種の合名会社)の成立ということになりますが、社会学的に見たゲゼルシャフトの形成はそのようにある一点で突然変化したのではなく、既に長い年月をかけて、費用の分担、ファミリービジネスの収益の分割といったゲゼルシャフト化が段階的に進展し、最後に契約という形になったのだと思います。

たまたま今日訳していた宗教ゲマインシャフテンの箇所に次のような記述がありました。「そういった宗教は常に実践的な合理主義を合理的な行為を次のようにまで高める、という意味で要求していた。それは外面的な生活実践の方法論的な体系化であり、さらには、それが修行僧のゲマインシャフトであれ神政政治であれ、地上の諸秩序を合理的に事物化しゲゼルシャフト化するという意味である。」
ここで、修行僧のゲマインシャフトがゲゼルシャフト化されるは分かりましたが、神政政治がゲゼルシャフト化っていう意味が最初良くわかりませんでした。しかし法社会学の「カノン法」の所の記述によれば、ローマ教会のカノン法を世俗法とは上手く分離した形でそれ自体の合理化を進めた、と評価している一方で神政政治をヴェーバーは「混ぜ合わせ」と描写しています。神政政治はそれ自体には既にある程度のゲゼルシャフト化の過程がもちろん含まれていますが、ヴェーバーはそれをまだ十分なゲゼルシャフト化が進んでいないとして、ここを書いているのだと思います。折原訳はここを「修道士ゲマインシャフトの秩序であれ、神政政治体制の秩序であれ、そうした秩序――の合理的な [脱即人的・即物的]事象化とゲゼルシャフト結成の強化、である。」と「ゲゼルシャフト結成」と訳していて、この訳だとそういう含意が十分に伝わりません。前にも、宗教ゲマインデである行為が持続して何度も行われることで実質的にゲゼルシャフト化される、といった記述が出てきましたが、ここでもやはりゲマインシャフト→ゲゼルシャフトの間は流動的な進化であると考えられています。

折原浩訳の問題点(108)

ついに108回目で、除夜の鐘の煩悩の数に到達しました。まだ解脱にはほど遠いです。(笑)
ここでヴェーバーが言っているのはアジアでの禁欲的な信仰の代表であるジャイナ教でさえも、最終目標は解脱という瞑想的なものに置いていた、ということで、折原訳の「禁欲的な救済技法でさえ、純然たる瞑想的神秘主義の究極目標に登り詰めているが」は技法が目標になる、としていて間違いです。

ここのヴェーバーの主張も独断的でかつ非論理的であり、それを言うなら「現世内禁欲を貫くカルヴィニストですら、その究極の目標は神によって永遠の命へと救われる神秘的な信仰であった」と書けるので、西洋とアジアの区別にはまったくなっていませんし、要するに方法論と目標がきちんと区別されないでごちゃごちゃにされています。それから、東アジアにおいての仏教が大乗仏教として阿弥陀仏とかを持ち出したことで、それが救済宗教になったのは事実と思いますが、それと瞑想はほとんど関係ないでしょ。むしろ瞑想にふけるのは禅宗みたいにそういう他力本願的なものが薄い宗派。
ヴェーバーは rein empirische Betrachtung (純粋に経験的な観察)と自分で言っているけど、他の宗教について2次文献・3次文献だけを読んだだけなのをそう表現することは無理です。(笑)

原文
Denn der Effekt im Handeln ist es, der uns angeht. In Indien gipfelt selbst eine so asketische Heilsmethodik wie die der Jainamönche in einem rein kontemplativen mystischen letzten Ziel, in Ostasien ist der Buddhismus die spezifische Erlösungsreligiosität geworden.

折原訳
それというのも、われわれにとって問題となるのは、行為にたいする効果だからである。
インドでは、ジャイナ教修行僧の救済技法のような、禁欲的な救済技法でさえ、純然たる瞑想的神秘主義の究極目標に登り詰めているが、東アジアでは、仏教が、独特の救済宗教性となった。

丸山訳
というのは、我々に関係があるのは、行為においてのその効果であるからである。インドにおいて、ジャイナ教の修行僧のような非常に禁欲的な救済方法論自体ですら、ある純粋に瞑想的・神秘的な最終目標[悟り]を頂点に置いているが、東アジアにおいては仏教は特別な救済宗教となった。

 

折原浩訳の問題点(107)

ここもごく基礎的なことが分かっていない例。「東洋的およびアジア的」って何ですか?morgenländischはオリエント的・近東的、という意味ですけど。それから「歴史上」を2回も言う必要はありません。

しかし、ここのヴェーバーの結論もひどいですね。単純化すればいい、というものではないと思います。いくらでも反例を挙げられます。

原文
Es ist nun der historisch entscheidende Unterschied, der vorwiegend morgenländischen und asiatischen, gegenüber den vorwiegend okzidentalen Arten der Erlösungsreligiosität, daß die ersteren wesentlich in Kontemplation, die letzteren in Askese ausmünden.

折原訳
ところで、歴史上、東西の救済宗教性を決定的に区別する歴史上の差異、すなわち、主として東洋的およびアジア的な種類の救済宗教性と、主として西洋的な種類のそれとを歴史的に区別する決定的差異は、前者が本質上瞑想に帰着しているのに対して、後者が本質上禁欲に流れ込むことである。

丸山訳
さて、歴史的に見て決定的な区別、すなわち主にオリエントとアジア的な救済信仰のあり方と、それに対して主として西洋のそれの区別は、前者は本質的には瞑想に行き着き、後者は禁欲に行き着くということである。