折原浩訳の問題点(114)

ここの折原訳、耕作兄弟団って何?というのと、ゲマインデ仲間という訳は、この論文ではゲマインデが地方団体と教団という2つの意味で使われている以上、どちらとも取れるような曖昧な訳は困りますね。ここは訳注にも書きましたが、祭儀の他の参加者は遮断して扉を閉めた中で神官達のみが踊ったということ。折原訳だと地方団体の他の成員を遠ざけてみたいに読めてしまいますし、「門扉」もおかしいです。要はどういう祭なのか自分で調べていないからこういう適当な訳になる訳です。

原文
Kultischer Tanz findet sich nur bei den ältesten Priesterkollegien und im eigentlichen Sinne des Tanzreigens nur bei den fratres arvales, und zwar charakteristischerweise hinter verschlossenen Türen nach Entfernung der Gemeinde.

折原訳
祭儀としての舞踏は、最古の祭司仲間のもとではおこなわれていたが、輪舞という本来の意味における舞踏は、もっぱら「耕作兄弟団fratres arvales」 仲間にかぎり、しかも特徴的なことに、門扉を閉ざしてゲマインデ仲間を遠ざけた後に、実施された。

丸山訳
祭儀での舞踏はただ最古の祭司団体においてのみ見出されるが、野外での輪舞の本来の意味ではただ、fratres arvales[1] [アルウァーレスの兄弟団]においてのみ、それも特徴的なこととして、扉を閉ざして他の祭礼参列者を遠ざけた中で行われた。

[1] 古代ローマで豊穣の神への祭典を12人の高位の神官が中心になって行ったもの。共和政期には廃れていたがアウグストゥスがそれを復活させた。豊穣の神デア・ディアに捧げる祭の第二日に神殿内で儀礼が行われ、その後閉じた扉の背後で、神官達のみが厳粛な踊り、三拍子の踊りを踊った後、頌歌を歌った。

折原浩訳の問題点(113)

また折原センセの世界史知識が怪しい例。
折原訳だとともかくも古代ギリシアは小規模ながら封建制ということになりますが、言うまでもなくそんな事実はありません。ヴェーバーは「封建制として見るのもほぼ無理である」と言っています。要するにローマのようなクリエンテース-パトローヌスのような主従的人間関係がほとんど発達しなかったと言っているだけです。
しかもここご丁寧に、メモ訳注で「「封建制」の概念を含めて、解説。」としています。(笑)

原文
Die Verhältnisse waren in jeder Hinsicht kleiner und minder feudal.

折原訳
社会的生活諸関係は、どの点をとっても、封建制としては見劣りするほど小規模であった 。

丸山訳
社会状況は、どう見ても、より小規模であり、封建的性格も弱かった。

折原浩訳の問題点(112)

ここもまた折原デコトラ翻訳の典型例。短い文章の中で以下の6箇所の誤訳、不適切訳。

(1)「都市貴族層が強い疑念を抱いてことごとく排斥した」なんて書いてありませんし、歴史的にもそういう事実はありません。せいぜい都市貴族層が「苦々しく思っていた」というぐらい。
(2) Innewerden は「感じ取ること、理解すること」であり「内在化した状態性」などという意味ではありません。辞書を引かないで想像で訳を作っています。
(3)Euphorieも「多幸症」と病気みたいに訳すのではなく、「多幸状態」「高揚」ぐらいです。
(4)Musik は言うまでもなく、「旋律」ではなく「音楽」です。
(5)Göttlichsten の最上級が訳されていません。
(6)Das Hellenentumはギリシアの民族性、文化、精神という意味でギリシア世界という意味ではない。

原文
Das Hellenentum schätzte, trotz aller Bedenken des Stadtpatriziates gegen den dionysischen Rauschkult, die Ekstase, die akut orgiastische als göttlichen Rausch, die milde Form der Euphorie, wie sie vor allem Rhythmus und Musik vermittelten, als ein Innewerden des spezifisch Göttlichsten im Menschen.

折原訳
ギリシア世界においては、急性の狂騒的陶酔を神的と評価するディオニュソス祭儀の法悦に対しては、都市貴族層が強い疑念を抱いてことごとく排斥したとしても、多幸症的エクスタシーの穏やかな形態、とりわけ律動と旋律に媒介される形態は、独特の神々しい感情が人間に内在化した状態性として、高く評価された。

丸山訳
ギリシア精神は、都市貴族のディオニュソスの陶酔的祭礼、エクスタシー、急性の狂躁的な神的な陶酔など全てへの疑念にもかかわらず、穏やかな形の高揚状態、特にリズムと音楽に媒介されるもののようなものを、特別の最高度に神的なものを感じ取った状態として評価した。

折原浩訳の問題点(111)

もはやあまり細かいのはわざわざアップしないようにしているんですが、それでも毎日のように誤訳が出てきます。

(1)der nicht schlechthin über 以下は、その前の ein Gott だけにかかるのを、折原訳は「非人格的な神的力・業因果律によって自足完結的に律せられる永遠の世界を超絶するのでなく、そこに内在している神」と全部勝手にまとめた誤訳にしてしまっています。

(2)unpersönliche はならいつものように「非即人的」としていた方がまだましで、ここの意味は「非人格的」ということではなく、「人間的なものではない」ということで、「人間を越えた」ということです。そもそも「人格」を使うとペルソナ(位)を連想させるので良くないです。

(3)vollendsをいつもこの方は「いわんや」と訳すんですが、そこまで強い意味ではなく、「更にはまた」ぐらいでいいと思います。私は「いわんや」と来ると、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を想像してしまいます。宗教関係の文献だけになおさら。(笑)

(4)Wendungの意味がまたも取れていなくて、ここは「法的な表現の仕方」という意味なのを「転換」と誤訳しています。

原文
Eine unpersönliche göttliche Macht oder ein Gott, der nicht schlechthin über, sondern innerhalb einer ewigen, sich selbst durch die Karmankausalität regulierenden Welt stand, oder das Tao, oder die himmlischen Ahnengeister des chinesischen Kaisers, und vollends die asiatischen Volksgötter konnten eine solche Wendung der Heilsmethodik nie produzieren.

折原訳
非人格的な神的力・業因果律によって自足完結的に律せられる永遠の世界を超絶するのでなく、そこに内在している神・あるいは中国の道・天にある皇帝の祖先の霊・いわんやアジアの民間の神々、これらはいずれも、救済技法のそういう [法的手続きへの] 転換を絶えて生み出せなかった。

丸山訳
人間を越える神の力が、またはある永遠の、自分自身をカルマ[業]の因果律で律する現世をただ越えるのではなく、そうではなくその内部に拠って立つ神が、あるいは道が、または中国の皇帝の祖霊が、そしてそれに加えてアジアにおける民衆の諸神が、そういった救済方法の[法的な]表現の仕方を生みだし得たことは一度もなかった。