折原浩訳の問題点(116)

ここもまた、原文の論理構造を理解せず、勝手に組み替えた訳文にしている典型例。
ここの文は間に長大な形容詞句の挿入があるものの、構造は単純で、主語はDerwischorden、動詞はpflegen、目的語はeine Heilsmethodikというものです。それなのに折原訳では主語が救済技法になってしまい、かつまた形容詞であるorientierteが何故か「志向していた」と動詞として訳されてしまっています。pflegenもここは「育成する」ではなく単に「行っている」「実践している」です。
また「スーフィー教徒のインド-ペルシア的な」も間違っており、最後に「スーフィーの神秘的な救済の追求に方向付けられた救済の方法論」となってこの2つは直接的にはつながっていません。ともかく間違いだらけのひどい訳です。
またダルウィーシュを托鉢修道団と訳すのも不適です。普通それはフランシスコ会とかドミニコ会のことを指します。ちなみにインドに関しても托鉢僧とか訳していますが、それも訳すなら乞食(こつじき)僧です。

原文
Denn die innerweltlichen Derwischorden des Islam pflegen eine unter sich verschiedene, letztlich aber immer noch an der indisch-persischen entweder direkt orgiastischen oder pneumatischen oder kontemplativen, dem Wesen nach jedenfalls nicht in dem hier gebrauchten Sinne des Wortes asketischen, sondern mystischen Heilssuche der Sufis orientierte Heilsmethodik.

折原訳
イスラムの現世内的な托鉢修道団が育成した救済技法は、それ自体の内部にさまざまな変種を含むとはいえ、究極的にはやはり、スーフィー教徒のインド-ペルシア的な、直接に狂騒道的か・あるいは聖霊主義的か・瞑想的か・いずれにせよ本質上ここで用いられる語義において禁欲的ではなく、神秘的な救済追求に志向していた。

丸山訳
というのはイスラム教の現世内的なダルヴィーシュの教団は、それぞれの間で異なった、結局はしかし常になおインド・ペルシア的で、直接的に狂躁的かあるいは霊的または瞑想的な、本質的にはいずれにせよここで使用している言葉の意味での禁欲的なものではなく、そうではなくてスーフィーの神秘的な救済の追求に方向付けられた救済の方法論を実践している。