折原浩訳の問題点(117)

ともかくもこの訳者は、文が長くなるととたんに構造が読めなくなって、勝手気ままに変に作り替えられた訳になってしまいます。
この文は特に後半が動詞が省略されて単なる列記になって読みにくいですが、要するに修道院の世俗外禁欲とプロテスタンティズムの世俗内禁欲を対比しているだけです。なので前半は、nicht…, aber… の繰り返しになります。それなのに折原訳のように「西洋の現世内禁欲が信徒に要求するものは」という原文の最後にあるものを勝手に冒頭に入れると、却って読む人には対比が見えにくくなります。
他にも、
(1)修道士の話であれば「純潔」ではなく「童貞」「貞潔」と訳すべきです。
(2)「封建制的な虚飾 に支出して」、まずこの人は封建制度的と封建的の区別がついていません。ここでは封建制について述べているのではありません。またOstentationは「虚飾」ではなく「見せびらかし」です。ポトラッチ(顕示的消費)とかも知らないのでしょうね。
(3)「修道院における行為の減殺」はまったく意味不明。Abtötung も要は禁欲のことですが、難行苦行的ということ。

原文
Nicht Keuschheit, wie beim Mönch, aber Ausschaltung aller erotischen »Lust«, nicht Armut, aber Ausschaltung alles rentenziehenden Genießens und der feudalen lebensfrohen Ostentation des Reichtums, nicht die asketische Abtötung des Klosters, aber wache, rational beherrschte Lebensführung und Vermeidung aller Hingabe an die Schönheit der Welt oder die Kunst oder an die eigenen Stimmungen und Gefühle sind die Anforderungen, Disziplinierung und Methodik der Lebensführung das eindeutige Ziel, der »Berufsmensch« der typische Repräsentant, die rationale Versachlichung und Vergesellschaftung der sozialen Beziehungen die spezifische Folge der okzidentalen innerweltlichen Askese im Gegensatz zu aller anderen Religiosität der Welt.–

 

折原訳
西洋の現世内禁欲が信徒に要求するものは、世界中の他の全ての宗教性とは異なって、「純潔」ではなく、あらゆる性的「快楽」の排除であり、清貧ではなく、富を不労所得源として享有し、封建制的な虚飾 に支出して、生活を心置きなく楽しもうとする、あらゆる誘惑の排除であり、修道院における行為の減殺ではなく、自分の生き方を醒めて合理的に制御し、現世の美や芸術、自分の気分や感情へのいっさいの耽溺を忌避することである。唯一の目標は、生き方の規律化と方法的制御であり、典型的な代表者は「職業人」であり、特有の結果は、社会的諸関係の合理的な即物化 とゲゼルシャフト形成 である。――

 

丸山訳
修道士においてのような童貞[貞潔]ではなく、全ての性的な「快楽」の遮断であり、[修道会や修道団の]清貧ではなく、全ての不労所得を受けること、また封建的な生を楽しむような富の見せびらかしの遮断であり、修道院の苦行的な禁欲ではなく、目覚めた、合理的に統制された生活実践と、現世においての美や芸術への、あるいは自分自身の気分と感情への、全ての没頭を避けることであり、それらは生活実践における諸要求、規律化、そして方法論であり、また一義的な目的であり、そして典型的な代表者が「職業人」であり、社会的諸関係の合理的な即物化とゲゼルシャフト化が、世界の全ての他の信仰とは対照的に、西洋の現世内的禁欲の特有の帰結なのである。--

 

折原浩訳の問題点(116)

ここもまた、原文の論理構造を理解せず、勝手に組み替えた訳文にしている典型例。
ここの文は間に長大な形容詞句の挿入があるものの、構造は単純で、主語はDerwischorden、動詞はpflegen、目的語はeine Heilsmethodikというものです。それなのに折原訳では主語が救済技法になってしまい、かつまた形容詞であるorientierteが何故か「志向していた」と動詞として訳されてしまっています。pflegenもここは「育成する」ではなく単に「行っている」「実践している」です。
また「スーフィー教徒のインド-ペルシア的な」も間違っており、最後に「スーフィーの神秘的な救済の追求に方向付けられた救済の方法論」となってこの2つは直接的にはつながっていません。ともかく間違いだらけのひどい訳です。
またダルウィーシュを托鉢修道団と訳すのも不適です。普通それはフランシスコ会とかドミニコ会のことを指します。ちなみにインドに関しても托鉢僧とか訳していますが、それも訳すなら乞食(こつじき)僧です。

原文
Denn die innerweltlichen Derwischorden des Islam pflegen eine unter sich verschiedene, letztlich aber immer noch an der indisch-persischen entweder direkt orgiastischen oder pneumatischen oder kontemplativen, dem Wesen nach jedenfalls nicht in dem hier gebrauchten Sinne des Wortes asketischen, sondern mystischen Heilssuche der Sufis orientierte Heilsmethodik.

折原訳
イスラムの現世内的な托鉢修道団が育成した救済技法は、それ自体の内部にさまざまな変種を含むとはいえ、究極的にはやはり、スーフィー教徒のインド-ペルシア的な、直接に狂騒道的か・あるいは聖霊主義的か・瞑想的か・いずれにせよ本質上ここで用いられる語義において禁欲的ではなく、神秘的な救済追求に志向していた。

丸山訳
というのはイスラム教の現世内的なダルヴィーシュの教団は、それぞれの間で異なった、結局はしかし常になおインド・ペルシア的で、直接的に狂躁的かあるいは霊的または瞑想的な、本質的にはいずれにせよここで使用している言葉の意味での禁欲的なものではなく、そうではなくてスーフィーの神秘的な救済の追求に方向付けられた救済の方法論を実践している。