折原浩訳の問題点(108)

ついに108回目で、除夜の鐘の煩悩の数に到達しました。まだ解脱にはほど遠いです。(笑)
ここでヴェーバーが言っているのはアジアでの禁欲的な信仰の代表であるジャイナ教でさえも、最終目標は解脱という瞑想的なものに置いていた、ということで、折原訳の「禁欲的な救済技法でさえ、純然たる瞑想的神秘主義の究極目標に登り詰めているが」は技法が目標になる、としていて間違いです。

ここのヴェーバーの主張も独断的でかつ非論理的であり、それを言うなら「現世内禁欲を貫くカルヴィニストですら、その究極の目標は神によって永遠の命へと救われる神秘的な信仰であった」と書けるので、西洋とアジアの区別にはまったくなっていませんし、要するに方法論と目標がきちんと区別されないでごちゃごちゃにされています。それから、東アジアにおいての仏教が大乗仏教として阿弥陀仏とかを持ち出したことで、それが救済宗教になったのは事実と思いますが、それと瞑想はほとんど関係ないでしょ。むしろ瞑想にふけるのは禅宗みたいにそういう他力本願的なものが薄い宗派。
ヴェーバーは rein empirische Betrachtung (純粋に経験的な観察)と自分で言っているけど、他の宗教について2次文献・3次文献だけを読んだだけなのをそう表現することは無理です。(笑)

原文
Denn der Effekt im Handeln ist es, der uns angeht. In Indien gipfelt selbst eine so asketische Heilsmethodik wie die der Jainamönche in einem rein kontemplativen mystischen letzten Ziel, in Ostasien ist der Buddhismus die spezifische Erlösungsreligiosität geworden.

折原訳
それというのも、われわれにとって問題となるのは、行為にたいする効果だからである。
インドでは、ジャイナ教修行僧の救済技法のような、禁欲的な救済技法でさえ、純然たる瞑想的神秘主義の究極目標に登り詰めているが、東アジアでは、仏教が、独特の救済宗教性となった。

丸山訳
というのは、我々に関係があるのは、行為においてのその効果であるからである。インドにおいて、ジャイナ教の修行僧のような非常に禁欲的な救済方法論自体ですら、ある純粋に瞑想的・神秘的な最終目標[悟り]を頂点に置いているが、東アジアにおいては仏教は特別な救済宗教となった。

 

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