ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(48)P.268~271

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第48回です。ここの議論も非常に分かりにくく、日本語訳も何度か見直しています。ここから分かるのがポエニ戦争の後の北アフリカが様々な混乱を巻き起こすと同時に、新しい制度を産み出す母体ともなっているということで、ヴェーバーはグルントヘルシャフトというドイツ史用語を使用していますが、要するにラティフンディウムという大土地所有制度とコローヌスという小作人の発生をここでの混乱の中に起源を求めているように思います。まあ最終章を読まないとその辺はまだはっきりしませんが。
==================================
ager privatus vectigalisque と ager stipendiariorum を区別するものは、前者は[一度契約したら]没収されることがない、ということである。それに対して後者を通常の賃借耕地から区別しているのは、所有についての期限が定められていないことと、そして一旦譲渡された土地の法的な地位の固定とそれによって監察官による賃貸し地としての管理下に置かれない、という2点で国家が課税対象とする他の土地一般から違っているということであり、更にはまた同様に耕作という本来の目的以外には全く使用出来ないということで、それは[抵当設定するといった]法律上の手段も含んでおり、またそれに関する訴訟も行うことが出来ない、ということである。そのことから私にはこの状況は次のように把握出来ると思われる。それはローマの国家に対しての解体された諸ゲマインデの位置に大地主[グルントヘル]が登場して来ている、ということであり――というのは多数の小区画の土地所有者に対する[まとめての]土地の譲渡においては、それらの者がシチリア島での例のように無条件に法的に賃借人として取り扱われた、ということは考え難く、――またこういった地域が本来であれば諸ゲマインデにされたであろうやり方と同じように、ある決まった継続的な税支払いを現金でかあるいは農作物、アフリカでは穀物で、行うということを引き受けることと引き替えに譲渡されたのであると。

以上のことによって譲渡された所有地はローマの領土として取り扱われたのであり、従ってそういった大土地所有制度[グルントヘルシャフト]での所有物については正規の法的手段による訴えを起すことは出来ず、そういった土地に対してはただ公的測量図に基づく行政上の処理だけが許されていたのであり、その処理については測量人達は controversia de territorio [領土についての争い]として知っており、第1章で詳しく述べたサルディーニャ島の Patukenser と Galienser ≪どちらもサルディーニャ島に住んでいた種族≫の間での土地の境界を巡る争いについてその語が使われているのを見て取ることが出来るが 103)、それは結局は公的測量図に記載された境界について、行政処分としての現物執行と土地の返還という結果につながったのである 104)。

103) C. I. L., X, 7852
104) この制度が実際の所、本質的な傾向として見た場合に際立って特徴的なことは、しばしば他の関連で引用して来たフロンティヌスの著作の次の部分(ラハマンの p. 53):
Inter res p[ublicas] et privatos non facile tales in Italia controversiae moventur, sed frequenter in provinciis, praecipue in Africa, ubi saltus non minores habent privati quam res p[ublicae] territoria: quin immo multis saltus longe maiores sunt territoriis: habent autem in saltibus privati non exiguum populum plebeium et vicos circa villam in modum munitionum. Tum r[es] p[ublicae] controversias de iure territorii solent mouere, quod aut indicere munera dicant oportere in ea parte soli, aut legere tironem ex vico, aut vecturas aut copias devehendas indicere eis locis quae loca res p[ublicae] adserere conantur. Eius modi lites non tantum cum privatis hominibus habent, sed ed plerumque cum Caesare, qui in provincia non exiguum possidet.
[イタリアにおいては公共の土地と個人の土地との間で、争いが容易に起きることはないが、しかし属州、特にアフリカではそれがしばしば発生する。そこでは[測量されていない]森林や放牧地が私有地として公共の領域よりも大きくなっている:いや実際にはそれどころか、多くの者にとってはその広大な森林や放牧地の方が公共の領域よりもはるかに大きい:しかしながらそういった私有の森林や放牧地には相当数の平民が住んでおり、またそういった平民の家の周りにはまるで砦を成しているかのように村落が形成されている。同様に諸ゲマインデは領域についての争いを起すことが良くある。それはある土地について、その一部だけがローマによって与えられて割当てられたとすべきだと宣告したり、村から徴兵したり、または輸送を行わせたりそのための多くの者を徴用すると宣告する場合であり、その土地を自分のものだと主張しようとする場所でそれらのことを行うのである。こういった土地に関する訴訟事は、個々の人間が所有している土地に関してだけでなく、多くの場合属州において少なからぬ土地を占有している皇帝との間でも起こる。]≪res publicae は通常は共和国であるローマのことであるが、ここでは文脈から、「諸ゲマインデ」、つまり元々その土地にあった地域集団、と解釈した。≫

同様に当然のこととして大土地所有制度[グルントヘルシャフト]の中でのその他の土地の権利に関することの調整はその大土地の地主の責務であったに違いなく、しかし常にそこから除外されるのは、また課税されている諸ゲマインデにおいては、当然のことながらそういった調整は属州総督の管轄であったということであり、それはローマ国家の利害に関わることが問題になっている場合や、あるいは関係者の請願に応じてそういった案件に関わることになったのである。そういった類いの土地所有について相続と売却が可能であったということは非常に疑わしく思える。複数の土地区画の一部を切離して売却することは、ローマの国家に対しては存在しなかった行為として見なされたが、それはその売却者が地主への税金支払いが出来なかったために拘禁された場合に限ってのことである。その結末がどうなったかは最終章にて取上げる。相続人への土地の所有権の移転はそれとは違って疑わしく思われるものではなかった;国家の側から見れば、税金さえきちんと支払ってもらえるのであれば、国家が行う調整の中身としては相続関係者の要請に基づいてそれを認可する、ということだけであった。おそらく可能であったと思われることは、売却にあたっては元々所有権の確認が必須だったということで、そこからおそらく生じたのは後の永代小作制[Emphyteuse]においての領主への、公有地の優先買取権を行使しなかった場合の手数料の支払いである。というのは後の時代には次のことが見出されるからである。それはゲマインデの団体には明らかに許されなかった元老院によるアフリカにおいての大規模な土地所有について、それが封土を与えられた者の名簿に基づいて、それぞれの者に対して土地が与えられており、その中では該当する地主に帰属する権利として、特に非定期的な市(いち)の開催権が記録されており 105)、そのことから考えて自由な売却が許されていた可能性は、全体のこの制度のその他の部分の状況から見て、ほとんど無かった、と言えよう。

105) C. I. L., VIII, 270 のBeguensis ≪不明、おそらく北アフリカの地名≫の放牧地での市(いち)について、参照:ヴィルマンス≪Gustav Wilmanns, 1845 ~ 1878年、アフリカの碑文の研究者≫、Ephemeris Epigraphica, II, p. 278。

その他の点では、そういった名簿は全ての土地割当てに対して公式の測量図に添付すべきとされた公文書と言える。ここにおいてこの制度で生み出された土地所有者の全体像を一言で言えば、これまで記述した理解の仕方が正しければ、納税義務者であり、ここでは従って大規模な永代貸借料の支払い者達、それについては ager privatus vectigalisque の制度においての実質的な土地の所有者であったろうと推定して来たのであるが、その者達に類似した者達であり、しかしながらただ法的には所有者としてそこまではっきりと確立されたカテゴリーではなかった、ということである。次のことは特徴的である。つまり、この手の小規模な土地の所有者について、それが属州の元々の住民であろうとローマ市民であろうと、同じく取り消し可能な賃借人として扱うことは、一方では大規模な地主は国籍によって区別されていたのであるが、両方を小規模地主としてまとめて考えた方がよりよく理解出来る、ということである。この制度についての結論については、つまりここで主張して来た小作農の個人的な権利設定のための課税義務付き土地所有という法的概念の形成があったに違いなく、かつ実際にそうであったと言うことであるが、それについては最終章で論じる。―帝政期の時の経過の中で、都市ゲマインデにおける属州の土地の大部分は、そして取り分け植民市においても、組織化が進んだのである。―

課税業務においてのゲマインデ自治のその後の運命

これまでの詳述の後で、ローマでの元首制≪初代皇帝アウグストゥスは自身をプリンケプス=第一人者と呼んで公式には皇帝とは称さなかった。このため帝政ではなく元首制と呼ぶ場合がある。≫の始まりまでの時代について、次のことが確からしいのであれば、即ち一般論として、そして例えばアフリカの属州での特別な事情から見て、発展傾向として属州のゲマインデの固定化とそれに伴った税収入の分配においての(相対的な)自治が、そのゲマインデ独自の税と同様に国税においても進行したということであるが、その場合でも帝政期が更に進行するにつれて、本質的には全く逆の発展が始まっていた。例えばアジア属州では疑いなくカエサル以降は課税地であった一方で、それ故に諸ゲマインデ自身による税徴収が復活していると、ヒュギヌスは何度も言及して来たある土地税についての箇所である p.204 で述べているが、そこでは不正な占有の結果として地主達の間での訴訟が起きていたらしいのであるが、それもヒュギヌスは土地の測量方法に関連付けているのであり、そこから分かるのはここにおいてはローマ国家による土地への課税がいずれにせよ相当程度までその時点で成立していたに違いない、ということである。概してヒュギヌスは ager arcifinius vectigalis ≪未測量であるが使用料を課せられた土地≫について語っており、そのカテゴリーがローマの測量上の分類に追加されたのであるが、それが追加されたのは、それが全くもって常に繰り返されるような現象として見て取れるものであったからに違いない。アウグストゥスによる測量もまた、土地税についての規則に拠ったという以外の意味は全く無かったのである。ごくわずかな文献資料が、それは土地税の成立に関したものであるが、どういうことかというと、税の対象である土地を、ある財産の集合に対して一定の額を課税する中での一つの構成要素として関係付けるのではなく、それ自体に対して課税するのであり、それはカラカラ帝≪カラカラ帝は属州民にもローマの市民権を大盤振る舞いした。≫よりも先の時代に成立したのであるが、今やそれは例外なく植民市に対して適用されたのである。まさにその例であるのが付図1として添付したアラウシオの碑文[地図]であり、更には新カルタゴの碑文もそうであり 106)、同様にシリアのカイサリア≪現在のイスラエルの領土内にあったカエサルにちなむ植民市≫ 107) に関しての学説彙纂の de censibus のタイトルの箇所もそうである。

106) 注釈57参照。
107) Divus Vespasianus Caesarienses colonos fecit, non adiecto, ut et juris Italici essent, sed tributum bis remisit capitis; sed Divus Titus etiam solum immunem factum interpretatus est. D. 8, § 7 de cens. 50, 15. [神君ウェスパシアヌス帝はカイサリアを植民市としたが、しかしイタリア権≪ローマ以外の都市に与えられた特権で、免税と住民へのローマ市民権の授与が行われた。≫は与えなかった。しかし住民に対して人頭税は免除した;しかし神君ティトゥス帝はまた、そこの土地も免税になったと解釈した。]

更にはイタリア権と土地への非課税が法的な要件として結びつけられていたのであれば、それはある土地がクィリタリウム所有権の法的有効性についての要件を満たしているのと同じことであったが、そしてそれらが実際に導入されたのであれば、更にはこの権利がまた疑いなく圧倒的に多くの事例で植民市に対して与えられたのだとしたら、その場合は次のことが想定出来よう。つまり地所の分配と測量が、それは間違いなく(第2章)帝政期における植民市での変化の実際的な中身となっていたが、具体的な土地区画に対しての課税額の固定化とまたはパンノニアでの状況からの類推としてある決まった土地の品質等級毎の1ユゲラ当たりの[固定]税額と、更には土地税に関しての国家の徴税義務の制限、それらと結びつけられていた。次のことはまた目的に適合していた:ローマの市民は[彼らにとって都合が良かったという意味で]より良き帝政期には、理論的なローマ市民の税として考えた場合、より一層直接税へと関係付けられたのであり、ある市民が土地を所有していて、そしてその土地に対して土地税が課せられていた場合は、あるいはその市民の土地に小作人が居た場合は 108) 、その市民は人頭税支払いの義務もあり、小作人への人頭税は地主としてその市民が立て替えて払っていた。

108) こうしたケースはアフリカにおいて起こったことであったに違いない、そこでは第三次ポエニ戦役の後に人頭税が一般的に課せられるようになっており、そうしたケースであった。

――その他の点についてはこうした状況がどのように発展したかについては知られていることが少なく、ただ皇帝直轄の属州に対しての属州税[provinciae tributarie]についての記述から推測することが出来るのは、そこでは土地に対しての課税の規制が、パンノニアに見られるような方向に向かって、非常な速度で進んでいた、ということである。個々の課税の実情が非常に多様であったことはしかし、それは実際に存在していた課税システムからの類推で結論付けられるように、ずっと継続してそうであったに違いないのであり、そしてディオクレティアヌス帝≪在位284~305年。四分割統治を初めて採用するなどの改革を進め、「3世紀の危機」という状況をひとまず乗り越えた。≫による改革がそれに続いてのであり、それについては新テオドシウス法の 23 が述べている通りであるが、そこではヌミディアに対する課税の規制において様々に異なった課税方法を統合したが、しかしそれでもお互いに異なる3種類の方式を残した:固定額の現金による納税、annona ≪一年毎の穀物等の収穫高に応じた課税≫と capitatio ≪その土地で耕作する農民の一人当たりいくらで行う課税≫の3種である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA