本当にこの方は原文を素直に読まないで曲げたり、余計なことを付け加える傾向が強いです。
(1)「帰依」(Andacht)は本来仏教用語(帰依仏、帰依法、帰依僧)なので使うべきではない。「敬虔な」で良い。
(2)「儀礼主義的な」というより原文は「儀式(偏重)主義者の」。
(3)Dieser äußerste Typusは前の説明を受けて「こういった極端な類型」であり、「敬虔な帰依がこの方向で徹底されたとすれば、その類型は、」のように、この極端な類型を更に徹底するなどという解釈はあり得ない。
原文
Die Konsequenzen einer ritualistischen Andachtsreligiosität können sehr verschiedene sein. Die restlose rituelle Reglementierung des Lebens des frommen Hindu, die für europäische Vorstellungen ganz ungeheuerlichen Ansprüche, welche Tag für Tag an den Frommen gestellt werden, würden bei wirklich genauer Durchführung die Vereinigung eines exemplarisch frommen, innerweltlichen Lebens mit intensivem Erwerb nahezu ausschließen. Dieser äußerste Typus der Andachtsfrömmigkeit bildet darin den äußersten Gegenpol gegen den Puritanismus. Nur der Besitzende, von intensiver Arbeit Entbundene könnte diesen Ritualismus durchführen.
折原訳
儀礼主義的な帰依宗教性の帰結は、きわめて多種多様でありうる。敬虔なヒンドゥー教徒の、余すところのない儀礼的な生活規制は、ヨーロッパ的な考え方からすればまったく途方もない要求を、敬虔な信徒に日々課すことになるが、そうした要求がじっさい厳格に遵守されたとすれば、現世内における模範的に敬虔な生活と、精力的な営利追求活動とを両立させることは、ほとんど不可能であろう。敬虔な帰依がこの方向で徹底されたとすれば、その類型は、ピューリタニズムの[敬虔という点では等価な]類型と、その点で、極端な対照をなす。集約的な労働から免れている有産者以外には、そうした儀礼主義に徹することはできないであろう。
丸山訳
儀式偏重主義者の敬虔な信仰の結果は、非常に様々であり得る。敬虔なヒンドゥー教徒が絶え間なくその生を儀式上の規則でがんじがらめにすることは、それはヨーロッパ的なイメージでは全く途方もないほどの様々な要求に見えるが、それは敬虔な信者に日毎に課され、その実際での厳格な実施においては、模範的に敬虔な信者の現世内的生活において、集中して生業に勤しむことと両立させることはほとんど無理である。このような敬虔な信心の極端な類型はこの点で、ピューリタニズムとの極端な対照関係を成している。日常の生業の仕事から解放されている資産家だけが、こうした儀礼主義を貫徹することが出来る。