折原浩訳の問題点(49)

なんでこの方はこの程度の難しくもない短い文章を正しく訳せないのですかね。
(1)「転じてしまう」なんて書いていません。「~の形で」ということ。
(2)「傾向」は原文にありません。
(3) 「倫理的志向性をそなえた宗教にも、ほとんどつねに見出されるものである。」→「倫理的な志向を持ったほとんど全ての宗教に見出される。」
勝手に原文の意味を変えてしまっています。

原文
Uneingestandene Einschränkungen der göttlichen Allmacht in Gestalt von Elementen dualistischer Denkweise finden sich in fast allen ethisch orientierten Religionen.

折原訳
そのようにして、神の全能を知らず知らず制限して、二元論的思考法を構成する諸要素に転じてしまう傾向は、倫理的志向性をそなえた宗教にも、ほとんどつねに見出されるものである。

丸山訳
神の全能を二元論的思考の諸要素の形で無意識の内に制限することは、倫理的な志向を持ったほとんど全ての宗教に見出される。

折原浩訳の問題点(48)

ちょっと長いですが、
慎重さに欠け、構文も理解しておらず、日本語も変、という三拍子揃っています。

(1)der Reinen und Erlesenen
ここは「清浄な者たち」と「選ばれた者たち」の並列ですが、それを勝手に「選ばれた清浄な人々」とまとめてしまう。

(2)Tendenz zu einer rein ethischen Wendung zeigt
「純粋に倫理的な尺度に基づく表現になりがち」を、「もっぱら倫理的な方向に転ずる」と断定に変えているのとまた「転ずる」では意味が分からない。

(3)spirituell は宗教的・二元論的文脈なので「精神主義的」はあり得ず、誰が考えても「霊的」。

(4)Materiellen, Körperlichen
ここも「物質的なもの、肉体的なもの」の並列を「質料的なもの、つまり身体的なもの」に勝手にまとめている。また「質料的」もここでは明らかに「物質的」の意味。変な哲学用語で訳すべきではない。ちなみに「いっそう粗野な」もここは比較級の絶対用法と解釈した方が自然で、「非常に粗野な」ということ。

(5)Lichtreich
これは決して誤訳じゃありませんが「光の国」と訳すと、私以下の世代はほぼ全員M78星雲を連想するので(笑)、私は「光の領国」にしました。

原文
Der schließliche Sieg der lichten Götter in dem nun entstehenden Kampf steht meist — eine Durchbrechung des strengen Dualismus — fest. Der leidensvolle, aber unvermeidliche Weltprozeß ist eine fortgesetzte Herausläuterung des Lichtes aus der Unreinheit. Die Vorstellung des Endkampfs entwickelt naturgemäß ein sehr starkes eschatologisches Pathos. Die allgemeine Folge solcher Vorstellungen muß ein aristokratisches Prestigegefühl der Reinen und Erlesenen sein. Die Auffassung des Bösen, welche bei Voraussetzung eines schlechthin allmächtigen Gottes stets die Tendenz zu einer rein ethischen Wendung zeigt, kann hier einen stark spirituellen Charakter annehmen, weil der Mensch ja nicht als Kreatur einer absoluten Allmacht gegenübersteht, sondern Anteil am Lichtreich hat, und weil die Identifikation des Lichtes mit dem im Menschen Klarsten: dem Geistigen, der Finsternis dagegen mit dem alle gröberen Versuchungen an sich tragenden Materiellen, Körperlichen fast unvermeidlich ist.

折原訳
ただし、現に発生している闘いにおいて、光の神々が最終的に勝利を収めるであろうことは――厳格な二元論を破ることにはなるが――おおむね確定している。不浄なもののなかから光を取り出して絶えず浄化することが、苦悩に満ちてはいるが避けることのできない世界過程である。[暗黒の力にたいする光の神々] の最終的な闘いという観念からは、当然ながら、きわめて強烈な終末論的情熱が発生する。
こうした観念からは、一般的な帰結として、選ばれた清浄な人々の貴族主義的な威信感情が生まれるほかはない。端的に全能な神という前提のもとでは、悪の観念がつねに、もっぱら倫理的な方向に転ずるが、この二元論のもとでは、むしろ顕著に精神主義的な性格を帯びることになろう。それというのも、人間が、被造物として全能の絶対神に対峙するのではなく、光の国に参与していることになるれば、一方では光を、人間におけるもっとも曇りのないもの、つまり精神的なものと同一視し、他方では暗黒を、それ自体としていっそう粗野なあらゆる誘惑をそなえた質料的なもの、つまり身体的なものと同一視することが、ほとんど避けがたいのである。

丸山訳
光の神々の新たに発生した戦いにおいての最終的な勝利は多くの場合--それは厳密な意味での二元論を破壊することになるが--確定していた。苦しみに満ちた、しかし避け難い世界における過程は、光を継続して不純さから分離し浄化することである。最後の戦いという概念は自明のこととして、強い終末論的な熱情を発展させる。こういった概念の一般的な結果は、心の清い人々と選ばれた人々の貴族的な威信感情であるに違いない。悪人というものの把握は、それは単なる全能の神という前提の元では常に純粋に倫理的な尺度に基づく表現になりがちであるが、二元論においては強く霊的な性格を取るのであり、何故ならば人は被造物としてある全能者に対置されるのではなく、光の領国において持ち分を確保しているからであり、さらには光と人間の一体化は人間の内でもっとも清澄なもの、つまり霊的なものにおいて起こり、それに対して闇は全ての非常に粗野な欲望をそれ自身に担っている物質的なもの、肉体的なものと一体化するのは、ほとんど避け難いことである。

折原浩訳の問題点(47)

ここは、折原センセがグノーシス主義についてまるで理解していないことを示しています。ちなみに創文社訳もデミウルゴスについてギリシア語の原義しか説明しておらず、こちらも同様に分かっていません。ヴェーバーが100年以上前に、ほぼ正確に書いていることを、日本の訳者が理解していないとは嘆かわしいです。(ちなみにグノーシス主義のナグ・ハマディ文書は1945年に発見されたもので、ヴェーバーの時代にはその内容はまったく知られていません。)大体折原センセは日本におけるグノーシス主義研究のパイオニアである荒井献先生と同時期に駒場キャンパスで教えていたので、その気があれば聞けたと思うんですが。ヴェーバー自身が、アーダルベルト・メルクス、アドルフ・ダイスマン、エルンスト・トレルチなどから自分にはないキリスト教関係の知識を得ていたのに比べるとかなり劣ります。そもそも折原訳は単にドイツ語を日本語に置き換えているだけで、背景にある知識を自分で調べようとする姿勢がまるで感じられません。

(1)「一従属的な世界創造者(ヤハウェまたは「デミウルゴス」)の価値が劣っていることから発生する。」→従属的ではなく、「下位の」世界創造者、「価値が劣っている」ではなくその神自体が低劣であるということ。下記の私の訳注を参照してください。
(2)「触発される」ではなく、もっとダイレクトに「接触する」である。
(3)「不浄な質料」→変な哲学用語ではなく「不浄な物質」

私は訳注に書いた本だけでなく、荒井献先生の「トマス福音書」も読んでいます。

原文
Ungerechtigkeit, Unrecht, Sünde, alles also was das Problem der Theodizee entstehen läßt, sind Folgen der Trübung der lichten Reinheit der großen und guten Götter durch Berührung mit der ihnen gegenüber selbständigen Macht der Finsternis und, was damit identifiziert wird, der unreinen Materie, welche einer satanischen Macht Gewalt über die Welt gibt und die durch einen Urfrevel von Menschen oder Engeln oder — so bei manchen Gnostikern — durch die Minderwertigkeit eines subalternen Weltschöpfers (Jehovas oder des »Demiurgos«) entstanden ist.

折原訳
不義・不正・罪など、およそ神義論の問題を発生させる全てのことは、偉大にして善良な神々の清浄な光が、神々に対して自立している闇の力や、それと同一視される不浄な質料の力に触発されて生ずる、混濁の結果である。この不浄な質料が、悪魔的な力に、世界支配の権能を与えるのであるが、それはもともと、人間や天使の原罪や、――数多のグノーシスが説くところでは――一従属的な世界創造者(ヤハウェまたは「デミウルゴス」)の価値が劣っていることから発生する。

丸山訳
不正・過失・罪といった神義論の問題を発生させる全てのものはそれ故、偉大で良き神々の光に満ちた純粋さが、神に対して独立している闇の力と、それと同一視される、サタンの力に世界に影響を及ぼす権能を与える不純な物質、の双方と接触して混濁した結果であり、そして人間または天使の原罪によって、または--多くのグノーシス主義者においては--下位の世界創造者(ヤハウェまたは「デミウルゴス」[1])の劣等さによって生じたのである。

[1] 本来はギリシア語で「職人」「製作者」「造物主」の意。グノーシス主義では、至高神とは別の下位の世界創造者を指すことが多い。グノーシス主義のナグ・ハマディ文書の一つである「ヨハネのアポクリフォン」に書かれた神話では、ソフィアと呼ばれた知恵の女神が、自分だけで新たな神を生み出そうとし、それに失敗して不完全な神を流産して生み出してしまう。その神は蛇とライオンの外見を持つ奇怪なもので、ソフィアはその子を他の神に知られるのを恐れ神々の世界(プレーローマ界)の外へ投げ捨てる。この捨てられた神は「ヤルダバオート」という名前を付けられ、そして自分で世界を創造し、自分だけが唯一の神だと思い込む。つまり「ヤルダバオート」は旧約聖書のヤハウェのことであり、グノーシス主義ではヤハウェは無知と傲慢に満ちた神とされている。グノーシス主義ではデミウルゴスは、このヤルダバオートと同一視された。参考文献:大田俊寛「グノーシス主義の思想 <父>というフィクション、春秋社」

折原浩訳の問題点(46)

今日の所は、ヴェーバーの言っていることがおかしいのと、例によって折原訳がおかしいのと両方。
1.マンダ教、グノーシス主義、マニ教は元々ユダヤ教やキリスト教から発祥していると考えられており、例えばマニ教においてのゾロアスター教の影響は後の話です。(更に言うならゾロアスター教の二元論と、グノーシス主義やマニ教の二元論はかなり性格が違い、一緒にまとめるのは粗すぎる。)ちなみにマンダ教もグノーシス主義の一派です。

2.折原訳の「キリスト教と世界制覇を争う寸前にあったように見える、マニ教の壮大な概念構想」の「キリスト教と」は原文にない。またauch in der mittelländischen Antikeとあるように「古代地中海世界『でも』」であり、マニ教は遠く中国までも伝わった世界宗教であり、キリスト教とだけ覇を争っていた訳ではありません。ゾロアスター教や仏教とも勢力争いをし、その教義を中に取り込んでいます。ちなみに全集の注もキリスト教との関係にしか触れていません。この全集の編集者は知識が西洋中心に偏っていると感じます。

原文
Zunächst der Dualismus, wie ihn die spätere Entwicklung der zarathustrischen Religion und zahlreiche, meist von ihr beeinflußte vorderasiatische Glaubensformen mehr oder minder konsequent enthielten, namentlich die Endformen der babylonischen (jüdisch und christlich beeinflußten) Religion im Mandäertum und in der Gnosis, bis zu den großen Konzeptionen des Manichäismus, der um die Wende des 3. Jahrhunderts auch in der mittelländischen Antike dicht vor dem Kampf um die Weltherrschaft zu stehen schien.

折原訳
そのうちには、まず二元論があり、これは、ゾロアスター教の後期の発展段階や、おおかたゾロアスター教の影響を受けた西アジアの信仰諸形態に、多かれ少なかれ首尾一貫して含まれていた。後者の主要な事例としては、バビロニアの宗教が(ユダヤ教およびキリスト教の影響を受けて)行き着いた、マンダ教やグノーシスの最終的諸形態、また、紀元三世紀の終わりには、古代地中海世界においても、キリスト教と世界制覇を争う寸前にあったように見える、マニ教の壮大な概念構想、などが挙げられよう。

丸山訳
まず挙げられるのは二元論であり、それはゾロアスター教の後期の発展に見られるのと、数多い、多くはゾロアスター教に影響された近東の信仰の諸形態に多かれ少なかれ一貫して含まれているが、その中でも特にバビロニア宗教(ユダヤ教とキリスト教に影響された)の最終形態である、マンダ教と、グノーシス主義が挙げられ、更にはマニ教においての大構想までがそうであり、マニ教は3世紀の終わりから4世紀初めにかけて、古代地中海世界においても支配的な宗教の地位に就く寸前の状態にあったように見える。