私は「ローマ土地制度史」の日本語訳の序文で「日本におけるマックス・ヴェーバー研究はご承知の通り、実質的には1930年代後半に梶山力が「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の翻訳を開始したことから始まっており、初期の研究者の多くは内村鑑三の流れを汲む無教会主義のクリスチャンでした(例えば梶山以外に、大塚久男、内田芳明、関根正雄など)。」と書きました。
しかしヴェーバー研究に留まらず、日本における聖書を学問的に研究する流れにも、無教会主義は大きな影響を及ぼしています。簡単に図示すると、
内村鑑三(1861年~1930年)→塚本虎二(1885年~1973年)→関根正雄(1912年~2000年)、前田護郞(1915年~1980年)→佐竹明(1929年~2024年)、荒井献(1930年~2024年)、八木誠一(1932年~)、田川建三(1935年~2025年)
という流れになります。佐竹明以降の四人はおそらく無教会主義ではありませんし、田川建三に至っては「神を信じない」と公言している人です。塚本虎二は岩波文庫の「福音書」の翻訳者として知られています。
そして佐竹明、荒井献、八木誠一の3人は私の出身学科である教養学部教養学科ドイツ科の1953、54、55年の卒業生です。
そもそもこの流れを作ったのは、1949年に東大の教養学部長になった(1951年には東大の総長にもなった)矢内原忠雄です。矢内原忠雄自身がその前の東大総長であった南原繁と同じく、内村鑑三の教えを受けた無教会主義のクリスチャンです。そして矢内原忠雄が教養学部で一般教養を教えるだけではなく、卒業生を出したいということで教養学科を創設し、その大学院に西洋古典科を作り、戦争中ずっとドイツにとスイスに留学していた、同じ無教会主義の前田護郞を招聘します。その元でドイツ科から3人の聖書研究者が育った訳です。なお田川建三は3人と同じコースを取りたくて前田護郞を訪ねていますが、「それだったら佐竹明君に聞いてみたまえ」と冷たくあしらわれて、宗教学の大畠清の勧めもあって本郷の宗教学科に進み、大学院で駒場の西洋古典科に進んでいます。(ちなみに、私の推測ですが田川建三が荒井献をある意味ヒステリックに批判するのは、3人とは違うコースで来たということである種の外様意識があったのではないかと思います。)
私は教養学科時代の最後の学期に半年だけですが、荒井献先生から教えを受ける機会がありました。その私が今「宗教ゲマインシャフテン」の日本語訳をしているというのも、何かの縁を感じます。まあ聖書学については門前の小僧以外の何者でもありませんが。
また、戦後のアノミー状態で、知識人に大きな影響を与えたのはマルクス主義とキリスト教だと思います。日本でのマックス・ヴェーバーの受容というのはこの両方に深く関係している訳です。