「ローマ土地制度史」の日本語訳(25)P.176~179

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第25回目です。今回の箇所もローマ法の所有権に関する専門的な議論が続き、非常に難解で苦労しました。ラテン語の部分はいつも自分でまず訳してからChatGPT4oにも訳させてそれを比べて最終的な訳を決めていますが、今回の禁止令についてChatGPT4oは「あなたかあるいはあなたの家族が誰かを追い出してその土地を占拠した場合」と主語と目的語を逆にした訳にしていました。言うまでもなく、個人とその家族が耕作を行っていたのを、何かの暴力でその土地を取られた場合の救済命令を述べているであり、このように非常に有用な生成AIですが、やはり人間のチェックが必要です。
今回の箇所はドイツ語も難解で、Besitzintermistikum (所有権についての一時的措置)とか Rattenkönig von Sponsionen (複雑にもつれあった保証関係)とかの辞書にも無い語が多く、これらも ChatGPT4o と相談しつつかつWebでも調べて何とか意味を解読しています。
今回の所は特にこの論文が「ローマ法」に関する論文なんだということがはっきりします。ヴェーバーはこの論文によってローマ法の講義資格を得ていますから当然ですが。このことからもこの論文の本題は土地を巡る所有の争いをローマ法がどう解決したかということであり、「農業史」ではないということが分ります。ヴェーバーは「古代社会経済史」で「古代のほとんどすべての社会的な闘争は、究極的には土地所有と土地をめぐる闘争である。」(日本語訳 P.468)と書いています。(ゲシュペルトを下線に変更)
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(ボニタリー所有権者の土地は)獲得から2年経ってようやく、その土地をケンススに登録する権利が認められ、また個人所有権としての保護の対象となった。こういった全ての措置はただ土地を(面積としてではなく)具体的な区画として購入した場合のみに認められていたのは今や明白である:Mancipation はそれ自体非常に便利な所有権移転の手続きであり、それが利用可能だった場合は、ただ7人もの証人≪実際は5人で7人はヴェーバーが何か別の仕組みと混同している可能性有り≫を呼び寄せる面倒さは、まずはともかく(Mancipation 無しでの)購買契約を結び、そして土地を引き渡してもらい――しかしながらその2つの手続きは後に訴訟になった場合に証拠となる書面を取り交わす形で行われ――そしてその後の2年の経過を待つ、といった(Mancipation ではない場合に)必要な手続きをわざわざ執り行うことの動機には通常なっていなかった。それに対して、こういった Mancipation ではないやり方は次の場合には大いに意味があった。それはその土地の購買者が時効成立の2年間が経過するまでの間において、その特定の地所で引き渡しの対象であったものを継続して保持することが確実だった場合で、かつ測量図やケンススへの登録や、または Mancipation の証拠書面を根拠にした耕地に関する規制に基づいての、その土地の面積や場合によっては境界線の変更の訴えに対抗して、十分にその土地の取戻しが可能となっていたような場合である。それはつまり、デンマークの土地法においての Reebning ≪既出≫の際に、各 Stufland ≪既出≫の権利を保持出来た場合と同じである。前述のより古い時代のプーブリキウス訴権の布告は今や変更が必要となり、土地を獲得した者は、2年の時効期間が満了する前において既にクイリーテース所有権者と同等の権利を得たのである。ただケンススへの登録のみがクイリーテース所有権が認められるまでは行うことが出来なかったが 72)、それは執政官がそれについて何も指示しなかったからである。

72) クイリーテース所有権と Uskapion のケンススとの関係について更なる史料を希望する者は、それを usukapio pro herede ≪相続財産について、相続人がいない、または相続人が相続しない場合に、その財産をある者が一定期間占有することで所有権を得ることが出来るもの≫から引き出すことが出来る。この場合は遺産、つまり被相続人のフーフェの権利の全体について扱われているのであり、その他の Uskapion のように個々の物についてではないが、この場合は単なる占有が1年続けばそれで十分であり、元のフーフェによる農地所有者の死による所有権の停止といった法的根拠なしに、Uskapion の時効を満たしたものとされた。この理由としては、あるフーフェがその所有者の死後直接的な意味で、ケンススに対しても神々に対しても誰も正当な所有者がいない、という事態が許されていなかったからであり、それ故に本来の正当な相続人が1年以内にその権利を行使しない場合は、わずか1年後にはその占有者は単純にそのフーフェの所有者として認められ登録されたのである。
これに対して生きている人間同士の(生前の)売却においての時効までのより長い期間は、それほど問題になることはなかった。何故なら時効が成立した場合に所有権を得る者がその期間が満了して成立した所有権を証明するまでは、元のクイリーテース所有権者がフーフェの権利者あるいは所有者として、元の土地の面積に対して単純に有効な権利を保持していると見なされた≪所有の空白期間が無かった≫からである。usucapio pro heredes について公法的な意味で特徴的なことは、プブリキアーナ訴権の布告における言い回しによれば、ここでの時効による権利取得予定者は、時効成立までの期間において、プブリキアーナ訴権と同様な法的手段を持っていなかったということである。Uskapion の時効が成立するまでは今や次の2つの権利が相互に対立した。つまり de jure の[法律上の]クイリーテース所有権者の「期間限定所有権」であって公法的な意味で有効だったものと、引き渡された土地面積を善意で持っていた者の実質的な[de facto の]所有権の対立である。

所有保護の土地制度史的意味

それでは Uskapion の時効が成立する前において、土地の占有とまた具体的な土地区画の獲得に対して何の保護も与えられなかったのであろうか?(逆に)フーフェの権利を与えられていた者は、例えばあるそれまで彼の所有物として存在していたある面積の土地を、法的な根拠無しに奪われたり、不法に占拠されたり、該当の耕地領域に対して、丁度 controversia de mode がそうであったように、常に測量のやり直しという手段に訴えなければならなかったのであろうか?そういった状況は、耕地ゲマインシャフトが成立する際の耐え難き法の混乱状態だったのかもしれない。ただもちろんこういった形の権利の保護は、通常の正規の訴訟手続に従って行うことは出来なかった。というのもこの正規の手続きにおいては、ただクイリーテース所有権のみが有効であるとあれたのであり、そしてこういった訴訟手続きの対象となったのは、それ故面積原則に基づくある一人の者の支配という形での、ただ総体としての fundus であり、つまりはフーフェの権利の認可であり、そして面積の大きさ、つまりフーフェ農民の個々の耕地領域(ケントゥリアの中から分離された耕地の中においてや、または耕地ゲマインシャフトの中で「獲得」またはそれに相当する[ばらばらになった土地の]一本化においての)においての割り当て地の要求権であった。そして同様に、ある土地区画の所有に対しての保護は、それぞれのフーフェ農民のそれぞれに異なった権利の保護であり、獲得した土地またはケントゥリアについて新しく測量を実施すること(”Reebning”)は認められ、そしてまさにそうだからこそ、というのはそこではある単なる de jure の[法律の上だけでの]一時的な所有状態だけが付随していたから、またただ所有状態に対しての特別に認められた、自分にとっては損害となる法的請求を招いたのであり、しかしながらある特別な、個々の所有者の実質的な権利状態を法的に詳細に意味があるように記述して確認する、ということにはならなかったのである。ある特定の面積の土地に対する実質的な権利が本来存在しないのだとしたら、いつでも行われうる測量のやり直しの可能性のために、所有状態の全体は、ある厳密に考えて純粋な事実に基づくものであり、権利としてはただ面積として表現された持分へのそれとしてのみが有効だったのである。ここで我々が知っている法的手段の内、どのようなものが当時の耕地における分割状態を承認する上で有用であったのかを詳しく検討してみると、直ちにそこに現れてくるのは所有に関しての(各種)禁止令である。周知のように、土地区画に対して制限を加え、また土地の所有者がその権利を侵害しようとする者に対して利用することが許されていた Interdictum de vi ≪暴力による不法な土地の占有に対し、回復を命じるもの≫は次のように命じている 73):”Unde in hoc anno tu illum vi dejecisti aut familia tua dejecit, cum ille possideret, quod nec vi nec clam nec precario a te possideret, eo illum quaeque ille tunc ibi habuit restituas.”[その場所でこの1年の間に、あなたがその土地について暴力による侵害を受けたり、あるいはあなたの家族がそういう侵害を受けた場合、あなたが(元々)その土地を暴力によってでもなく、秘密裏にでもなく、また借用という形でなく所有したのであれば、その場合はその土地は全てあなたの所有に戻される。]実務的な見地から観察した場合、つまりは個々の所有者についてその時点の前年において発生している所有状態は、「暴力」[vis]という概念に当てはまる形での権利の侵害に対して、保護されるということである。その土地における耕作との関係については、耕作を行っている家族が(暴力によって)追い出されたことについてのはっきりした言及から明確に認めることが出来る。2番目のケースである具体的な土地区画についての違法な占拠(の禁止)は、interdictum de precario [借用物返還命令]がそれに該当し、ローマの土地経済において最古の時代から重要ではあるが社会的にはしばしば悲劇的な役割を演じてきた借地人(小作人)を対象とするものであった:Quod precario ab illo habes … id illi restituas. [そこで土地を借りている者は…それを返還しなければならない。]ここではつまり、事物の本性≪法までにはなっていない社会の公序良俗のルール≫に従う形で、(前年に所有していたといった)時間の限定は含まれていない。もっとも確からしいと思われることは、この禁止令はある第三者に対し、後に実際的ではなくなった第三者に対しての特別な布告を、常に暴力と借用によって獲得された場合と一緒にして悪意ある所有状態、更には秘密裏の占拠[clandestina possesio]と名付け、確かに所有状態の保護を1年前までの状態までに限定したものであろうということである。それ故にここで見て取れることは、土地の所有者に対してその者によって耕作されている面積について暴力による奪取、秘密裏の占拠、そして借地人による占拠などに対する保証が与えられているということである。というのはその面積、土地が所有権争いの対象になっているということは、まずは事実関係そのものが争われ、その後また測量人達によって、彼らは彼ら自身の判断基準から rei vidicatio ≪物に対しての返還請求≫と(上記の)返還命令が等価であり、その時々の状況に応じて実務的に利用出来る可能性があると見ていたのであるが、奪われた土地は返還されるべきとはっきりと宣言されたのである 74)。

73) レネル≪既出≫の Restiitution [返還]に拠る。

74) フロンティヌス p.44. De loco, si possessio petenti firma est, etiam interdicere licet, dum cetera ex interdicto diligenter peragantur: magna enim alea est litem ad interdictum deducere, cujus est executio perplexissima. Si vero possessio minus firma est, mutata formula ex jure Quiritium peti debet proprietes loci. [もし土地の占有が請求者に取って確固たる事実である場合は、禁止令の公布が許可される。その際に他の手続きは禁止令に従って慎重に行われるべきである。というのも禁止令を求めて訴えを起すのは大きなリスクが伴い、その執行は非常に面倒だからである。もし真の所有者が誰かがより確かでない場合は、書式を変更して、クイリーテース法に準拠してその土地の所有権を請求すべきである。]

これまでに考察してきた2つのやり方以外に考慮すべきは3つの禁止令であり、それらは元々はどういった場合においても(財産)保全命令と見なし得る禁止令である:Uti possidetis eum fundum quo de agitur, quominus ita possideatis, viin fieri veto,[お前達が所有している土地について、これまでと同様に所有し続けようとすることを侵害する目的で、暴力を行使することを私は禁ずる、]この禁止令は公有地に対して――そこにおいてそれは所有状態の成立状況を――つまり locus を――それまでに既に生じていた何らかの侵害を無視して保護しようとするものであったが、多くの場合は実務的な意味を持っていた 75)。しかし後には”quod nec vi nec clam nec precario alter ab altero possidetis”[お前達がお互いに暴力によってではなく、秘密裡にでもなく、また借用によってでもなく所有している場合は]という留保条件の追加と法学者によるそれへの解釈によって所有を再認可する応急的な法的手段になった、ということが一般に起こったのである。多種多様の土地の所有に関する禁止令の実際的な意味と歴史的な発展についての更に立ち入った議論は、そういう研究の立ち位置を考えてその研究を行うことが望ましいと思える場合であっても、ここでは試みることは出来ず、それについての特別な詳論は現時点では保留にしておかなければならない。しかしそうではあっても次のことは私には疑いがないことと思われる。それはローマ法のpossesioの所有の構造は、それは一方では所有に関しての手続きに該当する諸決定においての法的に見ての[de jure]暫定的措置という性格であり、他方では詳細まで定められた手続きであって、それ自身がまた複雑にもつれあった保証関係を伴っており、(例としては)競売やその他の禁止令が定める諸手続きであり、ローマ法で決定されなければならなかった所有に関する根本原則は、全てのそういった特性で、それは古代においての土地法での所有に関する手続きの位置付けから説明されるものであり、しかしそれは我々が使っている(ヴェーバー当時のドイツでの)所有に関する仮処分とはまったくもって適合していないものである。

75) というのはその禁止令は、その時の時点における所有状態の調査とその確認ということを行うという目的を持っていたのである。次のことは私には決して疑わしいものではない。つまり、所有に関する禁止令の主要な適用領域は、デルンブルク≪Heinrich Dernburg、 1829~1907年、ドイツのローマ法学者≫がそう主張しているように、ager publicus [公有地]であった、ということである。しかし公有地だけに限られていた訳では決してなかった。

75a) “funditus”≪根本から、根底から≫のフーフェ法に拠る意味についての研究が不足している。