cuius nomen expenditur の訳

久しぶりに「中世合名・合資会社成立史」ネタ。前から気になっていた、合名会社の商号に出資者の名前が入るという意味での表現で”cuius nomen expenditur”というのがあって、私は「その者の名前が(重要な情報として)載っている」と訳しました。これが本当に正しいかずっと気になっていたのですが、ChatGPT4oに今日確認してみたら、ChatGPT4oも賛成してくれました!
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中世の合名会社の発祥に関する議論で、初期の「商号」(=出資者の名前を全て列挙したもの、つまり合名)で”cuius nomen expenditur”という表現が出て来ます。ここでのexpenditurはどういう意味ですか?私は「(重要な情報として)そこに載せられている」と解釈しました。

ChatGPT

「expenditur」というラテン語の語源と文脈から、あなたの解釈「(重要な情報として)そこに載せられている」は適切です。

「expenditur」はラテン語で「支払う」や「使う」を意味する「expendere」から派生していますが、文脈によっては「評価される」、「考慮される」、「掲げられる」といった意味にもなります。ここでは、出資者の名前が商号として重要な情報としてリストアップされ、考慮されるという意味で使われていると考えられます。

したがって、「cuius nomen expenditur」は「その名前が(重要な情報として)掲げられる」や「その名前が商号として掲示される」といった意味になります

「ローマ土地制度史」の日本語訳(27)P.184~187

ローマ土地制度史」の日本語訳の第27回目です。ついにというか、ヴェーバーが学説彙纂の時代の法文のあるものの一部を後からの変造であると決めつけ、実際にはそれが元々の法文から存在している、という例が出て来ました。この章全体で、ローマが成立する前にゲノッセンシャフトやフーフェが行われていたと決めつけたり、ヴェーバーの勇み足とでもいう議論が目立ちます。
なお、「中世合名・合資会社成立史」の訳の時は、昔貿易をやっていた経験が役立ちましたが、今回の場合は宅建を取っていて不動産取引の経験も多少あることが役に立っています。
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フーフェの基本法に対しての決定的な違反

それ故に Usukapion がより古い時代の土地に関しての基本法に対しての原理的な違反だとしたら、どのようにそれが共通経済においての争いの調停においてまず第一に作り出されねばならなかったかは、それは次のことが起きるや否や、より最終的かつ決定的なケースとして作り出されていたのである。そのこととは、それまで独立していた諸ゲマインデとその領域が、それらは元々ローマの法原則に従って分割されたりも割当てられたりもしていなかったのであるが、それらが[ローマの]完全市民の団体の耕地の中に取り込まれ、ローマの土地法の管轄下に置かれケンススに登録されるようになった、そういうことが起きた時である。半市民≪ムニキピウムの住民でローマの市民権が与えられたが、投票権までは与えられなかった者。モムゼンがそう命名した。≫の諸ゲマインデにおいては周知の通りこういった違反は起きていなかった:カエレ≪現代のチェルヴェートリ。ローマとエトルリアの戦争でエトルリア側に付き、BC353年にローマに併合され、その市民に半市民権が与えられたという説がある。≫の耕地は、その住民への投票権無き市民権[civitas sine suffragio]の付与によってケンススの登録の対象にはならず、いずれにせよその地における土地所有者が完全市民[adsidui]の団体の中へと、つまり土地トリブスの一員とはされなかったという意味であり、カエレ人の表[Tabulae Caeritum]≪ローマ市民で懲罰の結果その投票権を剥奪された者のリストをこう呼んだ。≫はトリブスのケンスス登録の外側において作られていた。また別のこととして、そういったゲマインデは、シュノイキスモス≪古代ギリシアでポリスが村落の合併によって発生したこと≫を発生させることなく、完全にローマ社会の中に組み込まれ消失したのである。そのような[シュノイキスモスを発生させた]ゲマインデの例としては、それはまたローマへの同化の時期がはっきりしていない場合であるが、そうはいっても最古の例の一つであるが――例えばガビイ≪ローマ東方20Kmの古代ラテン都市。BC5C頃ローマと同盟関係になった。≫であり、それは十二表法が作られた後ではもはや主権を持ったラテン都市国家としては機能しておらず、それについては多くのことが知られ、何故ならば彼らは血統の違う氏族としては扱われておらず、また半市民のゲマインデでも無かったからである。しかしその一方で彼らの耕地が取上げられたり、または Viritanassignation ≪既出≫の対象になったということも逆に何も知られていないのであるが。ここにおいては――そしてより後代の同様のケースにおいては、さらにはまた半市民が完全市民の団体に編入された際においても――そこの耕地は耕地測量の観点では ager arcifinius ≪既出≫であったのに違いなく、ケンススやローマで取引上使用される書式に関して対象外とされたのであり、そしてこのことが間違いなくウァッロー≪既出≫による土地の種類の分類(1. L. 5, 33)が導入された理由に違いない:Romanus[ローマの土地]、Gabinas[ガビイの土地]、peregrinus[外国人の土地]、hosticus[敵国の土地]、incertus[不確定の土地]84)。

84) 私はこの5つのカテゴリーは次のことを意味していると考えたい。ager Romanus はつまり割当てられた土地であり、ager Gabinus は完全な地権はあるが未測量・未割り当ての耕地、ager peregrinus は同盟している国々の耕地、ager hosticus はカテゴリー上は最後に来るもので、それはローマと[同盟関係にはないが]通商関係にあった国に属する耕地であり、そして最後に ager incertus は法的にはローマに支配されていない外国の耕地である。ager Gabinus の予期される比較劣位の状態は、境界線が設定されておらず割り当てもされていないことと関係がある。この名称は「カエレ人の」表と似たような言い回しである。――ガビイが u.c. 331または375年において既に市民ゲマインデであったということは、ベロッホ≪Karl Julius Beloch、1854~1929年、ドイツの古代史家。≫が主張したように、これらの年において、Antistii ≪Antistia gens、ガビイ出身とされる平民の氏族の一つ≫が、それは碑文によればガビイ出身の氏族であるが、ローマにおいて公職者として言及されている、ということと適合している。しかしもちろんこのことは完全な論証にはなっていない。

ローマ式のやり方で割り当てられた耕地が、また金額としても評価され登録されることが許されるようになり、また Uskapion によって獲得された土地区画が同様に特別な金銭評価を許されたということから 85)、ケンススへの登録の許可を得ることもそれ自体困難なことではなくなっていた。

85) 金銭評価に基づいた土地台帳の作成は、土地区画への Usukapion の許可と長期的に見た土地割り当て原則の廃止という観点で必要性のあることであった。(もちろんそれらは、だからといって金銭評価による土地台帳作成の例えば唯一のとか、またはもっとも本質的な理由ではなく、多くの中の一つである。)

いまやしかし、ケンススへの登録が可能になったということの結果はまた、元々伝統的に必要とされていた諸手続きを全て度外視するような[新たな]引き渡し形態にはほとんど適合していない[昔からのフーフェの]耕地に対して、Manzipation をその購買に適用出来るということでもある。もしかするとより古い時代のボニタリー所有権を保護するためのプブリクスの布告は、まさにその種の耕地をローマの耕地領域に収容することを目的として発布されたのかもしれない。いずれにせよこれらのことが示しているのは、[土地における]locus 原理の広範囲での勝利であり――、それは先に論じたその表現の意味においてであるが――、それは測量人達が ager arcifinius を controversia de loco の本来の発祥地として取り扱っていることからも裏付けられる。ローマの土地法を借用して ager arcifinius に適用することは、そこからさらにはるか先に進むこととなり、もっとも広範に行われたのが u.c. 643年の土地改革法によってであり、それは ager publicus に対する所有のあり方を変更したのであるが、また別の機会は同盟市戦争の結果としてであり、その際には完全市民団体に収容された同盟市における全ての耕地を、ager optimo jure privatus ≪クイリーテース所有権を持つ、もっとも強い所有権が与えられた土地≫に変えたのである。

controversia de modo と(ここでそう名付けた)面積原則は、おそらくBC1世紀においての暴力的な Viritanassignation ≪既出≫を経験する前に、実務的には行われなくなったのではないだろうか。Manzipation はかつては、それについては既に見て来たように、面積としての土地を売買することを可能にする手段で、それは[ヴェーバー当時の]我々が株の信用取引でその時々の相場価格で取引きするのと同じで、それは言ってみるなら手間はかかるがある種の儀式性を持った制度として、AD337年のコンスタンティヌス大帝による法(C. Th. 2 §1 de contrahenda emptione [売買契約について]3,1) 86) が、今後は[土地は]面積と所有権に基づくという以外のやり方で、隣人による境界線の証明に準拠して売却される、として Manzipation を禁止するまでは存続したのである。ここでの儀式性という意味は、それが土地取引における何かの抜け道的なやり方[in exquisitis cuniculis]として理解されるべきではない。

86) 売却の儀式性という意味についてはあまり穿った見方をすべきではない。というのもそれは、それまで確かでかつ真正な所有権が、つまり確かな面積[certus modus]の反対である特定の土地領域が、その隣人によってそのことが証明された――つまり測量や境界を示す杭打ちによって土地の場所、正確な位置が証明されたということを意味するからであろうからである。実質的にはそれ故その関係性はいまや逆になっているのである:元々は測量というものは測量人によって売却の後に行われていたのが、いまや先行して行われなければならなくなったのである。”a vicinius demonstretur” [隣人によって証明された]というのは、まず隣人への照会とその承認に基づいて、売却者に対してその隣人によって確認された境界線の内部の土地の売却を認可するということを関連付けたという意味であろうし、実際にその可能性がある。しかしまた別の可能性としては、たとえこの表現が言葉の上では強制的な響きを持つとしても、それが意味するのは、ただ境界線は “a vicinius” [隣人によって]、つまり隣人の土地区画の境界線からその土地の境界線が確認されるというだけのことであり――それ故に私はここの意味を別にこう読むべきと解釈した。≪どう解釈したかは欠落。全集の注によれば「隣人からの情報に基づいて」≫この部分に続くのは以下のようになっている――ここは土地制度全体の目的として本質的な部分であるが――”usque eo legis istius cautione decurrente, ut etiamsi [subsellia vel ut vulgo aiunt] scamna vendantur, ostendendae proprietatis probatio compleatur” [それ故その法律の規定が適用される場合は常に、もし[subsellia [テーブル状の土地、測量人達の呼び方]または一般的な言い方では]scamna [と strigas で囲まれた土地]が売却される場合であっても、所有権の証拠が示されねばならない。]ここでの話は、subsellien の売却についてではないということは明らかであり、[]内の部分は疑い無く写字人≪法令を複写した人≫による文法的な解釈としての改竄であることは間違いない。≪全集の注によれば、この[]内の部分はオリジナルの法文に既に存在しており、ヴェーバーのここでの決めつけは間違い。ここもヴェーバー当時の学説彙纂の法文の多くの箇所が書き換えられているという誤った先入観による間違いの例。subsellia と scamna はここでは同じものを指している。≫そうではなくて、ここで述べられているのは、ager scamnatus 、つまり境界線が測量地図上にはっきりと描かれている地所の売却についてであり、それ故に “certa proprietas” [はっきりした所有権]と書かれており、それ故に法律の公布の理由について――テキストを参照――この ager scamnatus と同等の他の土地にも適用されたということは整合的ではなく、ここで語られてもいない。コンスタンティヌス大帝の時代においては土地についての課税上の観点からの様々な分類がもはや実用的なものではなくなっており、それ故また他の新しい観点による分類を使って統一されていた。――controversia de modo は特別な手続きとしては C. Th. 4. 5. の finium regundorum [境界線の確定]2, 26 (AD392年)によって廃止されており、その法令では locus は finis [境界線]の反対概念として、例えばフロンティヌスの p. 9. 2 などで書かれていた。

ローマにおける不動産取引

こうした[面積としての土地を売却するための手段という]動機付けは、Manzipationとその本質にとって特徴的なことであった。何故ならば実務的にはその意義は実際、人が自分の好む場所で、7人のローマ市民の証人≪実際は5人の証人と1人の秤持ちの合計6人≫を集めることが出来れば、[古代]イタリアの土地を、それがローマの領土[orbis terrorum]である限り、売却することが出来る、ということにあったからである。その結果として起きたことは、こういった面積ベースでの土地の売却においては、時によっては売却者が実際に所有している土地の面積以上の面積が売却されることがあったということであり、それはまさに[ローマの国による]面積単位での土地割り当ての結果起きたことと同じであり、例としては C. グラックスによる騒乱を巻き起こしたカルタゴの土地の割り当てにおいては、1ケントゥリアにおいて[多くの場合]その中に存在する以上の面積が割当てられたのである。――しかしこれらの Manzipation のもっとも重要な特性が引き起こした結果で主要なものは、ローマにおける不動産取引をある程度まで活性化させることが出来たということであり、このことはこの後の時代でも前の時代でもまたどこの場所においても二度と起きることがなかった。人はそこでは耕地図とケンススへの登録証を所持していた場合、この双方が ager assignatus における所有関係の情報を提供したのであり、そしてまたボニタリー所有権に関してもある一定の根拠となるものを提供したのであり、そして公的な小規模小作地の競売と、ager quaetorius ≪既出≫として[国の借金の返済の代わりとして]譲渡される土地の競売においても使われ、その結果はローマを世界の不動産取引所にしたのである。ここでは「取引所」という単語を自信を持って使うことが出来る。何故ならば 1.5 D. si mensor falsum modum dixerit 11, 1≪実際は11, 6≫(前掲のp. 168 ≪日本語訳 p. xxx≫参照)において、不動産の先物取引について詳細に語られている場合があるからであり、そして同様のものが lex commissoria ≪契約の不履行時の罰を規定している法律≫に基づいた取引の場合にも見られるし、そして “in diem addictio” ≪売主がある者と売却の契約をした場合に、一定の期間内により高い価格の買主が現れた場合は、元の買主との契約を取り消すことが出きる取引≫は、買主が契約解除の許可の取り決めに関して直接または間接に契約解除による返金を認めるので、実質的にそれは[ヴェーバー当時の現代の]取引所規則に定められた不動産におけるオプション取引とほぼ変わらない。≪オプション取引が正式な制度となるのは1980年代始めであるが、歴史的には既に例えばロンドンの取引所で17世紀末には行われていた。ヴェーバーはこの論文の3年後に「取引所」という労働者向けの解説書を出しており、取引所についてはこの論文時点でも相当程度精通していたと思われる。≫

しかしより本質的なことは、ローマはまた特別な場所で、そこにおいてローマにおいての土地の所有権についての特別なやり方による価値評価の機会が提供されたということであり、それについては言及済みである:つまり、国による[土地の]賃貸しや[民間のソキエタースなどに]何かを請け負わせる際の抵当設定としての利用である。全体的な法の発展に対してのローマの行政法の意義という点において、この抵当設定ほど特徴的なものは他にはほぼ存在しない。それはこの抵当の制度の実行においての手続きと、個人の物的信用の権利形態との比較という観点としてである。