折原浩訳の問題点(209)

— die übrigens (wie im Katholizismus) durchaus nicht universell anerkannt war —の所を、折原訳は「ちなみに、人間の不十分さは、ユダヤ教においては、どこまでも普遍的に認められたわけではなく、この点でカトリックの場合とは異なっていた。」と訳して、ユダヤ教に限定していますが、これは明らかな間違いで、universellは他の世界宗教においては、ということです。実際に「儒教と道教」でキリスト教の宣教師が人間の不完全さ=原罪を中国人に説いても、それはほとんど受け入れられなかった、というのが出て来ます。なので訳は「--それはその他の場合では(カトリックの教義におけるのと同様には)決して普遍的には認識されてはいなかったのであるが--」となります。

原文
Dann aber deshalb: weil hier in der Tat, wie im Katholizismus, das Tun des einzelnen Gesetzmäßigen ein Produzieren der eigenen Heilschancen ist, mag auch (hier wie dort) Gottes Gnade die menschliche Unzulänglichkeit — die übrigens (wie im Katholizismus) durchaus nicht universell anerkannt war — ergänzen müssen. Die kirchliche Anstaltsgnade war, seit dem Verfall der alten palästinensischen Beichte (theschuba) weit unentwickelter als im Katholizismus, und diese Selbstverantwortlichkeit und Mittlerlosigkeit gab der jüdischen Lebensführung in der Tat notwendig etwas wesentlich Eigenmethodischeres, Systematischeres als der durchschnittlichen katholischen.

折原訳
いまひとつには、ユダヤ教においても、じっさいにはカトリックの場合と同様、律法に適う個々の行為が、たとえ(双方いずれにおいても)人間の不十分さが神の恩恵によって補填されなければならないとしても、[それでもあくまで、人間の個々の行為が]自分の救済の可能性を生み出す[現実根拠と見なされている]という事情が、方法的-体系的禁欲への動機づけを弱めた。ちなみに、人間の不十分さは、ユダヤ教においては、どこまでも普遍的に認められたわけではなく、この点でカトリックの場合とは異なっていた。教会のアンシュタルト恩恵は、パレスチナにおける古い回心 の衰微以来、カトリックの場合に比してはるかに未発達のままであった。して、この [自分の外部にあるアンシュタルトには頼れず、自力で恩恵を獲得しなければならないという] 自己責任性と、仲保者の喪失とは、じっさいユダヤ教徒の生き方に、カトリック教徒の生き方に比べれば、本質上いっそうの自己方法性 [自分で自分を方法的に制御していく自律的な生き方] と、いっそうの体系性とを、与えずにはおかなかった。

丸山訳
しかしさらには以下の理由の故に:実際の所、ユダヤ教でもカトリックにおけるのと同様に、個々の律法に適った行為が、その者自身の救済のチャンスを産み出すものであるからであり、それはまた(ユダヤ教でもカトリックでも)神の恵みが、人間の不十分さを--それはその他の場合では(カトリックの教義におけるのと同様には)決して普遍的には認識されてはいなかったのであるが--補完しなければならなかったであろう。教会によるアンシュタルトしての恵みは、古い時代のパレスチナ式の回心[theschuba[1]]が衰退して以来、カトリックの場合と比べるとはるかに未発達であったし、こうしたユダヤ教においての自己責任性と仲介者が不在であったということは、ユダヤ人の生活実践に対して、平均的なカトリック教徒に比べて、実際の所必然的に何か本質的に自分で方法体系を定めていく態度や、体系的なものを与えていた

[1] 一般的な表記はתשובה/Teshuvah/テシューバー。単なる懺悔・告解[Beichte]ではなく、間違った方向から引き返し、正しい道に戻るというニュアンス。