折原浩訳の問題点(217)

ここは”Wehe”と”über den widerspenstigen Feigenbaum”の訳の問題。どちらも新約聖書のイエスの逸話について言っている部分なので、その内容に沿って訳すべきです。まず”Wehe”は確かに「悲痛な叫び」という意味もありますが、ここはイエスが奇蹟を行ったのに悔い改める者が出なかった町に対する呪詛の言葉ですから、「悲痛な叫び」はまったくおかしいです。
また、”widerspenstig”は確かに辞書的な意味は「反抗的とか不従順」ですが、ここは季節ではないので実がなかったいちじくにイエスがある意味八つ当たりした場面なので、「反抗的ないちじく」はあまりにもいちじくが可哀想。(笑)「イエスの期待を満たさなかった」ぐらいでしょう。

原文
Deshalb erklingt das »Wehe« über die Galiläerstädte ganz ebenso wie der zornige Fluch über den widerspenstigen Feigenbaum, und deshalb wird ihm die Erwählung Israels immer wieder problematisch, die Bedeutung des Tempels zweifelhaft und die Verwerfung der Pharisäer und Schriftgelehrten zur Sicherheit.

折原訳
したがって、ガリラヤの町々にたいする「悲痛な叫び」は、反抗的な無花果の木に投げかけられる怒りの呪詛とまったく同様に響く。まさにそれゆえ、イスラエルは選ばれてある、ということが、イエスには再三再四疑問とされ、神殿の意義は揺らぎ、ファリサイ人や律法学者は神に見捨てられている、と確信される。

丸山訳

それ故に、イエスのガリラヤの町々に対する「災いの言葉[1]」は、まさにイエスの期待を満たさなかったいちじくの木に対して投げかけた怒りのこもった呪いの言葉[2] と同様に響くのであり、それ故に、イエスにはイスラエルの選ばれていることが繰り返し問題のあることとなり、神殿の意味は疑わしく、ファリサイ派と律法学者に永劫の罰が下さされることは確実なのであった。

[1] マタイ:11:20-24「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。’また、カファルナウム、お前は、 天にまで上げられるとでも思っているのか。 陰府にまで落とされるのだ。 お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」など。コラジン、ベトサイダの両方ともガリラヤ湖北側の町。

[2] マルコ:11:12-14。「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。’そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。」