折原浩訳の問題点(212)

ヴェーバーがルターについて言っているderb-sinnliche Naturは「粗野で肉欲的な」ということで、かなりの程度ディスっています。折原訳の「抑制が不可能な自然の感性が露呈しており」は綺麗事にしすぎ。(笑)原文の侮蔑調がまったく消えています。
それから、ここのルターの引用はかなり問題で、資料操作に近いレベルです。また訳注に書いたように、タルムードの方もそんな強い宗教的な戒告ではありません。

原文
Die strikte Ablehnung zwar nicht aller und jeder Askese (vor Fastern, Betern, Büßern bekundet Muhammed seinen Respekt), wohl aber jedes Mönchtums (rahbanija) im Koran mag, soweit dabei die Keuschheit in Betracht kommt, bei Muhammed persönlich ähnliche Gründe gehabt haben wie in den bekannten Aussprüchen, in denen Luthers derb-sinnliche Natur hervortritt; also in der auch dem Talmud eigenen Überzeugung, daß, wer mit einem bestimmten Alter nicht verheiratet sei, ein Sünder sein müsse.

折原訳
コーランにおいては、なるほど、どんな禁欲もことごとく拒否されるのではないとしても(ムハンマドは、断食者・祈祷者・懺悔者には、敬意を表している)、およそ修道院制(ラーバニヤ)は厳格に拒否されるが,これはおそらく、[修道院における]貞潔戒が問題とされるかぎり、ムハンマド個人に、ルターの周知の言葉に表明されているのとよく似た理由があったからかもしれない。ルターの言表には、抑制が不可能な自然の感性が露呈しており、「一定の年齢に達しても結婚していない者は、罪を犯しているにちがいない」というタルムードに特有の確信とも、軌を一にしている。

丸山訳
あらゆる禁欲を厳格に拒否することはないにしても(断食者、祈祷者、懺悔者に対してはムハンマドは敬意を表している)、しかしクルアーンにおいては全ての禁欲的修道院制[ラフバーニーヤ]が拒否された[1] のは、そこにて貞潔さが考慮されている場合には、ムハンマドにおいては個人的に、ルターの有名な言説であって、そこに彼の粗野で肉欲的な性質が現れているものと似た理由を持っていたと思われるが;つまりタルムードにおいてもまたそれ独自で論証されている、ある一定の年齢に達して結婚していない者は、罪を犯していることになる、ということである[2]。

[1] クルアーン57:27の一部「だが禁欲の修道院制は,かれらが自分で作ったもので,われがかれらにそれを指示してはいない。アッラーの喜びを得たいばかりにしたことだが,かれらはそれも守らねばならないようには守っていなかった。」

[2] ルターは聖職者の結婚禁止に反対して自身も結婚しているが、「独身者は罪を犯している」といったことまでは言っていない。ルターが言っているのは「良心に従って独身のままでいられるなら、そうしてよい。貞潔を保てないなら妻を娶れ」程度、一方タルムードでは、Kiddushin 29bに以下の記述がある。”When will he marry a woman? Once he reaches the age of twenty and has not married, He says: Let his bones swell, i.e., he is cursed and God is no longer concerned about him.”なのでここに引用されているのはタルムードのものであり、ルターの有名な言説ではない。またこのタルムードも要は父親に向かって、息子が早く結婚出来るようにしてやりなさい、と説いている箇所であり、独身者を直接糾弾しているものではない。また前にもあったが、ヴェーバーはムハンマドを「性欲を制御出来なかった」者として描写するのが前の箇所にも出て来ていた。

 

折原浩訳の問題点(211)

(1) die getauften Judenは、洗礼を受けたユダヤ人→キリスト教に改宗したユダヤ人のこと。折原訳の「洗礼派に改宗した」は意味不明。なんでユダヤ人がそんな特殊なプロテスタントに改宗しないといけないのか。大体この訳者、ヴェーバーのTäufer(再洗礼派)をいつも「洗礼派」と間違って訳しています。(洗礼派=バプティストは別にいます。)

(2) 「教育同盟」→これは固有名詞ですから、こんな風に訳すべきではありません。例によって訳注も「説明要」だけ。

(3) 「たとえばドイツでは、そうした改革派のユダヤ教徒が、」→ここは改革派ユダヤ人、キリスト教に改宗したユダヤ人など全部を含めた「正統派以外のユダヤ人」ぐらい。

(4) 「何世代にもわたって」→継続性の話ではなく、結果として「何世代を経た今でも」ということ。

(5) 「同化ユダヤ教徒」→キリスト教に改宗した人も含みますから、「ユダヤ教徒」はおかしい。

特に(1)はひどいです。

原文
Nicht die frommen, orthodoxen Juden, wohl aber die der Orthodoxie entronnenen Reformjuden, noch jetzt z.B. Zöglinge der Educational Alliance, und vollends die getauften Juden werden in der Tat gerade von den puritanischen Völkern, speziell den Amerikanern, früher ohne weiteres und trotz allem auch noch jetzt relativ leicht bis zur absoluten Spurlosigkeit des Unterschieds resorbiert, während sie etwa in Deutschland durch lange Generationen eben »Assimilationsjuden« bleiben.

折原訳
正統的で敬虔なユダヤ教徒ではなく、おそらくは正統派から離脱した改革派ユダヤ教徒、今日なお、たとえば「教育同盟」 の出身者や、ましてや洗礼派に改宗したユダヤ教徒たちは、まさにピューリタン的な諸国民によって、とくにアメリカ人によって、事実上吸収されている。しかも、以前にはまったく問題なく、今日なお、相対的には容易に、差異の痕跡をまったく残さないまでに吸収されるのである。ところが、たとえばドイツでは、そうした改革派のユダヤ教徒が、何世代にもわたって、まさに「同化ユダヤ教徒」のままでいる。

丸山訳
敬虔な正統派のユダヤ人ではないが、しかし正統派から流出した改革派ユダヤ人、今日でも例えばエデュケーショナル・アライアンス[1] で教育を受けた者達や、そしてさらにはキリスト教に改宗したユダヤ人は、実際の所、まさしくピューリタンの諸民族によって、特にアメリカ人によって、早い時期に直ちに、それにもかかわらず今日でも、相対的に容易に、違いの痕跡がほとんど見られない程に、吸収され、その一方でそういったユダヤ人はドイツでは、何世代を経た後でも依然「同化ユダヤ人」として留まっている。

[1] Educational Alliance、1889年にロウアー・マンハッタンに設置された、東欧のユダヤ系住民がアメリカに移民で入った時の支援センター。子供と大人に、英語、アメリカの歴史と社会、料理などについて教えた。

 

折原浩訳の問題点(210)

(1) menschenbezwingendenは「人間を圧倒するような」であり「人間として抑えようのない」ではありません。
(2) 「歓喜の叫びを」「行間から」「感得する」って日本語としてつながりません。
「行間を読む」は元の文章にははっきり書いていないことを読み解くことです。また「感得する」は「深い道理などをはっきりと感じ、悟ること」(明鏡国語辞典)です。ヴェーバーが言っているのはパウロ書簡のどの行を見ても、そこには律法から解放された圧倒的な喜びをすぐに感じ取ることが出来る、と言っているだけです。行間を読んだり、感得する必要性はまったくありません。日本語センスの怪しい方々に限って、国語辞書を引くという習慣がないように見えます。

Den menschenbezwingenden Jubel des aus dem hoffnungslosen »Sklavengesetz« mit dem Blut des Messias in die Freiheit Erkauften fühlen wir aus jeder Zeile, die Paulus schrieb. Die Möglichkeit christlicher Weltmission aber war die Folge. Ganz ebenso übernahmen die Puritaner gerade nicht das talmudische und auch nicht das alttestamentliche spezifisch jüdische rituelle Gesetz, sondern die sonstigen im Alten Testament bezeugten — schwankend, in welchem Umfang noch maßgebenden — Willensäußerungen Gottes, oft bis in Einzelheiten, und fügten sie zusammen mit den neutestamentlichen Normen.

折原訳
メシアの血によって、望みのない「奴隷律法」から自由の身へと贖い出された者たちの、人間として抑えようのない歓喜の叫びを、我々はパウロ書簡のどの行間からも感得する。キリスト教の世界伝道の可能性は、まさにそこで開けたのである。まったく同様に、ピューリタンが引き継いだものは、タルムードの律法や、旧約聖書中のユダヤ教に特有の儀礼的律法ではなく、旧約聖書に証示されている、まさにそれ以外の――どこまでが権威あるものかは、確定し難いが――しばしば細部にまでおよぶ神意の表明であり、しかもこれを、ピューリタンは、新約聖書の諸規範と接合したのである。

丸山訳
希望の持てない「奴隷律法」から、メシアの血によって自由へと購われたことへの人間を圧倒するほどの歓喜を、我々はパウロが書いたもののどの1行からも感じることが出来る。キリスト教の世界伝道の可能性はしかしその結果である。全く同様にピューリタン達が受け取ったのは、まさしくタルムードのそして旧約聖書の、特別にユダヤ的な儀式律法ではなく、そうではなくてその他の、旧約聖書にて証明された--どの範囲までが決定的なものなのかは流動的ではあるが--様々な神の意志の表示であり、それもしばしば個々の部分までであり、ピューリタン達はそれを新約聖書の規範とつなぎ合わせたのである。

折原浩訳の問題点(209)

— die übrigens (wie im Katholizismus) durchaus nicht universell anerkannt war —の所を、折原訳は「ちなみに、人間の不十分さは、ユダヤ教においては、どこまでも普遍的に認められたわけではなく、この点でカトリックの場合とは異なっていた。」と訳して、ユダヤ教に限定していますが、これは明らかな間違いで、universellは他の世界宗教においては、ということです。実際に「儒教と道教」でキリスト教の宣教師が人間の不完全さ=原罪を中国人に説いても、それはほとんど受け入れられなかった、というのが出て来ます。なので訳は「--それはその他の場合では(カトリックの教義におけるのと同様には)決して普遍的には認識されてはいなかったのであるが--」となります。

原文
Dann aber deshalb: weil hier in der Tat, wie im Katholizismus, das Tun des einzelnen Gesetzmäßigen ein Produzieren der eigenen Heilschancen ist, mag auch (hier wie dort) Gottes Gnade die menschliche Unzulänglichkeit — die übrigens (wie im Katholizismus) durchaus nicht universell anerkannt war — ergänzen müssen. Die kirchliche Anstaltsgnade war, seit dem Verfall der alten palästinensischen Beichte (theschuba) weit unentwickelter als im Katholizismus, und diese Selbstverantwortlichkeit und Mittlerlosigkeit gab der jüdischen Lebensführung in der Tat notwendig etwas wesentlich Eigenmethodischeres, Systematischeres als der durchschnittlichen katholischen.

折原訳
いまひとつには、ユダヤ教においても、じっさいにはカトリックの場合と同様、律法に適う個々の行為が、たとえ(双方いずれにおいても)人間の不十分さが神の恩恵によって補填されなければならないとしても、[それでもあくまで、人間の個々の行為が]自分の救済の可能性を生み出す[現実根拠と見なされている]という事情が、方法的-体系的禁欲への動機づけを弱めた。ちなみに、人間の不十分さは、ユダヤ教においては、どこまでも普遍的に認められたわけではなく、この点でカトリックの場合とは異なっていた。教会のアンシュタルト恩恵は、パレスチナにおける古い回心 の衰微以来、カトリックの場合に比してはるかに未発達のままであった。して、この [自分の外部にあるアンシュタルトには頼れず、自力で恩恵を獲得しなければならないという] 自己責任性と、仲保者の喪失とは、じっさいユダヤ教徒の生き方に、カトリック教徒の生き方に比べれば、本質上いっそうの自己方法性 [自分で自分を方法的に制御していく自律的な生き方] と、いっそうの体系性とを、与えずにはおかなかった。

丸山訳
しかしさらには以下の理由の故に:実際の所、ユダヤ教でもカトリックにおけるのと同様に、個々の律法に適った行為が、その者自身の救済のチャンスを産み出すものであるからであり、それはまた(ユダヤ教でもカトリックでも)神の恵みが、人間の不十分さを--それはその他の場合では(カトリックの教義におけるのと同様には)決して普遍的には認識されてはいなかったのであるが--補完しなければならなかったであろう。教会によるアンシュタルトしての恵みは、古い時代のパレスチナ式の回心[theschuba[1]]が衰退して以来、カトリックの場合と比べるとはるかに未発達であったし、こうしたユダヤ教においての自己責任性と仲介者が不在であったということは、ユダヤ人の生活実践に対して、平均的なカトリック教徒に比べて、実際の所必然的に何か本質的に自分で方法体系を定めていく態度や、体系的なものを与えていた

[1] 一般的な表記はתשובה/Teshuvah/テシューバー。単なる懺悔・告解[Beichte]ではなく、間違った方向から引き返し、正しい道に戻るというニュアンス。