ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(52)P.284~287

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第52回です。
ここは、第3章と第4章のつなぎの部分のようで、ヴェーバーは中世の封建制度における大土地所有制度(グルントヘルシャフト)の成立の契機をローマの末期に見ています。
ローマも4世紀頃になると本当に大変で、税収不足をあの手この手で補おうとし、その煽りを受けて中間層が没落して行きます。日本もアメリカもですが、健全な中間層の存在こそが国の繁栄の基礎であり、一部の超金持ちと貧民層という二極化した社会は崩壊に向かいます。
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しかしそれにもかかわらず、stipendium をまとめて支払う場合には、そのゲマインデの領域についての税の総額に対しての自明の責任はなお残ったままだった 134)。

134) コンスタンティヌス1世(319年)の治世のテオドシウス法典 2 de exact[ionibus] 11, 7 は10人組長のその配下の者に対する責任を限定していたのであるが、しかし Nov. Major. 4, 1 は10人組長を正当にも「公僕」[servi reipublicae]と表現しており、つまり10人組長の徴税についての責任がなおも継続したことは疑いようがないのである。コンスタンティヌス1世による規定の意味はまさに次のようなものである:税に関しての規制においては、ある所有者の土地区画であってそれを一つのまとまった jugum として評価されなかったものは、そして一般的に10人組長ではなかった者達の全ての土地は、税制上の扱いとしては地域毎に特定の10人組長に割当てられ、これによっていまやそれらの地域について委託されたそれぞれの10人組長はその税を立て替えて先払いすることを義務付けられたのであるが、それでももはやその各人がそれらの税額全体に対して責任がある訳ではなかった。そしてこのような納税組織はまた、税を jugera 単位で課したことの帰結であった(注137を見よ)。――既にコンスタンティヌス1世は10人組長が旅に出ることについてはただ許可を受けた休暇の際のみに許可していたが、(テオドシウス法典 12 de decur[ionibus] 12, 1, 319年)、そしてテオドシウス法典 96 前掲の箇所の 383 はそういった10人組長達の旅の際に逃亡の虞がある場合の強制的な連れ戻しについて規定している。

税はゲマインデの10人組長が徴収すべきことになっており、またあるいは立て替え払いすることになっていたため、そしてこのことは土地の占有状態に付随する事柄であったので 135)、それ故に税についての責任はそれ以前から既に事実上土地区画そのものが負うべきものであり 136)、小規模の地主であってその土地への税は10人組長がその面積に比例した額で徴収するようになっていた者は、それについては最終章で取り扱うことになるが、次のような者とおおよそ同じような位置に追いやられたのであり、その者とは大土地所有制においての地主の支配下にあって、税を地主から取り立てられていた者達である 139)。

135) テオドシウス法典の 72 de decur[ionibus] 12, 1(370年より前)は次のことを特別に規定している。つまりある商人で土地を入手した者は、10人組長のリストの中に登録されることが可能であった場合があった、ということである。――我々が碑文の中に含まれている掲示用の白板に書かれたアフリカのタムガディ≪Thamgadi, 現在のアルジェリア東部にトラヤヌスス帝によって建設された植民市≫の360 – 67 年(Ehp. epigr. I)の記録から知ることが出来るのは、10人組長は次のような者達そのものではないということで、その者達とはクリア≪ローマの行政上の最小の単位≫の成員であり、10人組長自体ではなく10人組長となる資格を持つ者達であり、その2つの人間集団の関係は、元老院議員資格者と実際の元老院議員の関係と同じであった。(モムゼン、前掲書)テオドシウス法典 33 de decur[ionibus] 12, 1 (342年の)は 25 ユゲラの土地所有をおそらくは10人組長が徴税の義務を負うことになる最低ラインとしている。

136) テオドシウス法典 1 de praed[iis] et manc[ipiis] cur[ialium] 32, 3(386年の)は、それ故に10人組長の管轄する財産を売却する時の当局の許可を要求しており、それはこの財産を現物が負うべき義務を付加された、土地と一体となっている何か別の物として扱っている。

137) 注134を見よ。ここでもまた参照出来た先に引用した諸都市の土地台帳の断片は、常に専制君主によって納税義務のある土地というものが設定されていたことを示している。より小規模な土地所有者はその土地について、注134で詳しく論じたように、ケンススの登録において専制君主の財産に書き換えられたのであり――censibus adscribere [ケンススによって土地の所有権を登録する]、そこから adscripticii [名簿に登録された者達]という表現が生まれ(第4章を参照)――確からしくは πάροικοι、つまり小作人[coloni]として扱われたのである;それ故にこうして土地占有者を plebs rustica[地方の農民]から決定的に区別する身分としての違いが法的に正当化されたのであり、また税の徴収上でその区別がはっきりと表現されるようになったのである。このことはつまり、ディオクレティアヌス帝による改革は事実上大地主制による小作人への課税が成立する上での重要なポイントなのだということだが、私の考えるところでは、この点はこれまで十分に強調されていない。その他の重要な帰結、それは別の観点で扱うべきことであるが、それらについては最終章で再度取り上げる。――そういった関係自身は、つまり大多数の小作人の義務を代わって負う納税義務者の当然なのは責任は、その他の場合として既により先の時代に、D. 5 pr. de cens[ibus] (50, 15)でパーピニアーヌス≪142?~212年、ローマの法学者≫によって言及されている:
Cum possessor unus expediendi negotii causa tributorum jure convenitur, adversus ceteros, quorum aeque praedia tenentur, ei qui conventus est, actiones a fisco praestantur, scilicet ut omnes pro modo praediorum pecuniam tributi conferant.
[もしある一人の占有者が税の支払い義務の問題の解決のために、仮に法的に訴えられた場合、逆に他の者も農地を占有しているので、その者は国庫から他の者を訴える権利を与えられることになる。当然なのは、全ての者がその農地の面積に応じた税金を支払うべき、ということである。]
ここで更に語られているのは占有者(=10人組長)相互の関係についてである。ここにおいては10人組長達については明らかに一人は全員のために、そして全員は一人のために、その自治体の領域についての税に対して責任を負わされているのであり、それに対して既に述べて来たように注134で引用したコンスタンティヌス帝の法律は逆の方向に向かおうとしていたのである。

それ故に納税義務を負う者としての内外でいまや二つの身分が対立して存在していた。一つは占有者のそれで国家に対して直接的に納税義務を負い、もう一つは平民、tributarii [納税義務者]、小作人のそれで間接的に納税義務を負う者達である。占有者は更に次の2つに分かれ、クリアに対して徴税の義務を負っている者達と負っていない者達である。より規模の大きい占有者達は、彼らの土地所有についてゲマインデ団体からの税を免除してもらうことをあらゆる手段を使ってでも達成しようとしていたので、そしてまたそれに一部は――例えば元老院議員の場合は常に 138)――成功しており、そのために税負担の恐るべき負担は本質的には中規模の地主達の上に集中したのであり、そしてこのことはそういった地主達の大量の破産という事態をもたらし、そういった地主達により放棄された土地のゲマインデのクリアに処分のために渡り 139)、クリアによって可能な限りにおいて貸し出されたのである。

138) テオドシウス法典 3 de praed[iis] senator[um] 6, 3(396年の)。次の年にはもちろん元老院議員の土地は再びクリアの管理下に入れられたが、しかしこれは長くは続かず、というのはその同じ年に(テオドシウス法典 13 de tiron[ibus] 7, 13)元老院議員は新兵の徴集に関して特権を与えられているからである。

139) ユスティニアヌス法、XI, 58. C. 8 de exact[ionibus] trib[utorum] 10, 19。

土地税の一本化

そしてまた土地税の一本化を進めていこうとする動きは、文献史料において明確に確認出来る。皇帝から土地を借りた大規模な永代借地人の賃借料、古くからの国有地の賃借人の支払う固定額の賃借料、契約が取り消されることがある国有地を借りている小規模な賃借人の支払う賃借料、取り消し可能な借地として割当てられた土地所有に対しての税金[stipendium]、scamna によって区切られた属州の耕地に対しての使用料、全てのこいういった税金の類いは実際にはお互いに似通ったものとなって行き、そしてそれが可能であった場合には、お互いに tributum soli [個々の者への税]として融合されたのである 140)。

140) そのためテオドシウス法典 1, 2 de extr[aordinariis] et sord[idis] mun[eribus] 11, 16 においては、永代賃借、父系支配での相続地への税、そして同一法典の 13 では他の全ての praedia perpetuo jure possessa [法的に永代の占有権を与えられた農地]は extraordinaria onera[特別税]という枠組みの中に等しく入れられた。

それらはそれでもなお土地税を負担する土地の中のそれぞれ異なったカテゴリーのものとして扱われていたが 141)、状況に応じてある土地区画をある特定のカテゴリーから別のカテゴリーへ移すということが行われていた 142)。

141) その結果として、テオドシウス法典 5 de censitor[ibus] XIII, 11 は永代貸借の賃借料と異なる土地税を一緒のものとしている。別の混同の例は、テオドシウス法典 1 de coll[atione] don[atarum…possessionum] XI, 20 にて見ることが出来る。既にユスティニアヌス法 13 de praed[iis] 5, 71 (ティオクレティアヌス帝とマキスムス帝≪西ローマ帝国、在位383~388年≫)において農地の賃借料[vectigal]、永代賃借料と父系支配での相続地への税は全て等しく扱われている。

142) このことはテオドシウス法典 6 de coll[atione] don[atarum…possessionum] 11, 20にて言及されている。

その際にはあるカテゴリーの法的な特性が別のカテゴリーへと転用された。その点に関して次のことは既に見て来た。それは経済的な土地利用の仕方の変更で、そいれがより低い方の税クラスの土地利用に変わってしまうかもしれなかったものは、賃借料の義務のある土地から税支払いの義務のある土地への変更の場合から類推して、税務当局からの同意が必要とされた、ということである。後の時代になって一般に使われるようになった制度で、それはまずは公的な、つまり皇帝から土地を借りた永代賃貸借人の場合に見出されるようになったのであるが、それはいわゆる έπιβολή 143) ≪耕作が放棄された土地をその隣接する土地の所有者に割当て、その分の土地税をその所有者から徴収した制度≫である。

143) テオドシウス法典 4 de locat[ione] fund[orum] j[uris] emph[yteutici] (383年の)においては、έπιβολή は自治市における vectigal 払いの土地にて見ることが出来、それ以前でもテオドシウス法典 4 de annon[a] et trib[utis] 11. 1 (337年の)において永代賃借地と父系相続の土地への税についての規定で見られる。

不耕地強制割当て [έπιβολή]と税の等額負担[peraquatio]

使用料支払い義務のある土地の売却についての行政当局の認可の権利によって、確からしいことは税務当局といずれの場合でも皇帝の直轄地管理当局は昔から次の前提条件の上に成り立っていた。つまり永代賃借地の内の賃借料負担能力のある土地が分割して売却され、その結果として残った土地が賃借料の合計額を負担できなくなる事態が起きないようにする、ということである。そういった部分的な土地を購入しようとする者は、時によっては全体の土地を購入することが要求された。この手続きは後に一般化し、更に次のように拡張された。つまり誰であっても他人の土地を購入した者は、その他人の他の土地全部を含めて έπιβολή [不耕地の強制割当て、ギリシア語での意味は追徴課税。]の付加条件を受け入れることを余儀なくされた、ということである 144)。

144) テオドシウス法典のコンスタンティヌス帝の 1 sine censu 11, 3。

放棄された納税義務のある土地の断片については古くから ager publics の場合と同様に占有対象として開放され、あるいはその土地に隣接する土地の所有者にその者の意思にかかわらず競売の形で割当てられた 145)。

145) ユスティニアヌス法、Tit. XI, 58 に引用されている。

このような新たな制度の源泉で同様なものとして、税の等額負担[praequatio]の制度を挙げることが出来る。国家または皇帝の公有地の賃借人で非常に多額の賃借料支払いの義務のある土地区画を所有していた者は、次のことを阻止することは出来なかった。それは行政当局が使用料の総額を計算上個々の土地区画に別々に分割して割当てるということと、そして賃借料支払い義務のある土地の一部が譲渡されたりまたは他の方法で分割された場合に、この方法を応用して使用料を分割してそれを新しい所有者に割当てる、ということである。この種の賃借料の分割においてのきちんとした計算方法の必要性はしかしながら、一般的に様々な形で表面化するようになった。既に見て来たことだが、ager provatus vectigalisque においてと握手行為によって所有権を得た大規模な公有地においては、相続対象の金額という点で流動的な要素が存在しており、その賃借料は布告された法律によってユゲラ当たりいくらと一様に定められていた。それにもかかわらず確からしいこととしては、その場合には賃借料は低めに見積もられていたのであり、しかしそうとはいえ次第に継続する賃借料支払いの不均等さが感じられるようになってきていたに違いない。それ故に行政当局はそういった土地をそれぞれの品質等級に合わせて均等に分割しようと努力していたが、それは特にアフリカにおいて永代賃借地として所有されたケントゥリアにおいて文献史料の中で見出すことが出来るものである。

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