折原浩訳の問題点(202)

もう201回も行っているのでこれ以上増やすことには興味を失いつつありますが(笑)、でもなんだか分かったような分かっていないような翻訳。
(1)rebus sic stantibus は法学で言う「事情変更の原則」のこと、ただここでは情状酌量すると、ぐらい。「現下の事情のもとでは」というのは間違いとまでは言いませんが、何か微妙な訳。
(2)probabilistischeを「可能なかぎりのことで「よい」とされる」とするのは意味不明。カトリックの蓋然説の考え方による、です。私の訳注参照。
(3)相変わらず「直接」を「直截」とする間違いの繰り返し。(ちなみに次の文の訳でも。)

原文
Die gegenseitige Situation von Katholiken, Juden und Puritanern beim wirtschaftlichen Erwerb läßt sich also etwa so zusammenfassen: der strenggläubige Katholik bewegte sich im Erwerbsleben fortwährend in der Sphäre oder an der Grenze eines Verhaltens, welches teils gegen päpstliche Konstitutionen verstieß und nur rebus sic stantibus im Beichtstuhl ignoriert oder nur durch laxe (probabilistische) Moral gestattet, teils direkt bedenklich, teils wenigstens nicht positiv gottwohlgefällig war.

折原訳
カトリック教徒、ユダヤ教徒、およびピューリタンが、経済上の営利生活を営むさいに置かれた状況は、相互に比較すると、おおよそつぎのように要約されよう。篤信のカトリック教徒が、営利生活に携わって継続的に活動できたのは、つぎのような行動の領域か、その境界線上であった。すなわち、教皇の基本規約 [教皇体制の「憲法」] には抵触するものの、現下の事情のもとでは告解席で不問に付されるか、あるいは弛緩した (可能なかぎりのことで「よい」とされる) 道徳によってのみ容認されるか、直截に疑わしいか、あるいは少なくとも、積極的に神意に適うとはいえない、そういう行動の領域である。

丸山訳
カトリック教徒、ユダヤ教徒、そしてピューリタンの経済的な生業における相互の状況は、それ故に大体次のように要約することが出来るであろう:正統派のカトリックは、生業の暮らしにおいて絶えずある行為の領域またはその境界にて、その行為は、ある部分では法王の定める教皇基本令に違反し、そしてただ rebus sic stantibus[1] [事情変更の原則]によってのみ、告解席にて問題とされないか、あるいはただ緩和された(蓋然説[2] 的な)道徳によって承認されるか、別の部分では直接的に疑わしいとされ、また別の部分では少なくとも積極的には神が嘉するものとはされなかったかであった。

[1] 正確には clausula rebus sic stantibus でラテン語の意味は「事情がもし同じなら」ということであり、ある契約や条約などを結んだ時に前提としていた事情や環境が大きく変わった場合には、契約の一部または全部を変更したり解消出来るという考え方。(事情変更の原則)ここでの意味はむしろ「情状酌量すれば」に近い。

[2] ある具体的な状況での善悪の判断について、確実な道徳的判断では悪と見なされても、十分にもっともらしく見える理由が他にあれば善としてもよいという考え方で、特にイエズス会による決疑論の中で発達した。

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