V. Florenz – VI. Die juristische Literatur. Schluß P.312 – 316 日本語訳(42)

日本語訳の第42回目です。第5章も終わり、ついに結論の章に入りました。
またしても高利禁止の話が出てきます。
これで残り17ページ(全集版)となり、ゴールが見えて来ました。
結論部の最初に合名会社と合資会社の説明がありますが、合名会社の方は分かりやすいですが、合資会社についてはどうも歯切れが悪いように思います。ヴェーバーの説明だと合資会社はソキエタスの枠組みをはみ出した新しい制度なのに、法律家が従来のソキエタスの理論をそのまま無理矢理使って定義しようとしたとしています。。
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 このこと(ゲゼルシャフトの特別財産を他から切り離してまさに特別なものとして取り扱うこと)は、また次の二つのことの対立をいっそう明確にしている。一つは合名会社におけるこれまで述べて来たような法学的に必然性を持っている特別財産への投資という概念であり、もう一つは単なる貸し付けという形での資本参加である。前出のアルベルティ家の相続協定の例が示しているように、ある特定のソキエタスの成員が意図的に何らかの資金をソキエタスに対して投資したとしても、この資金によってはまだゲゼルシャフトの基金においての持分所有者にはならないということである。そうではなく、(ゲゼルシャフトの)特別財産というものはこういった(資本)参加的な人間関係とは別に存在しているということである。――ラーバントが次のように言う場合、つまりゲゼルシャフトの財産が成立しているということが今日の合名会社の概念と法的には等価であると言う場合、それに対してはたまたまソキエタスの成員間の関係はまた貸借関係としてかあるいは資本参加としてかの二つに整理して考えることが出来るため、次のように反論することが出来る:もしソキエタスの成員間に今挙げた二つの人間関係の内の一つが成立した場合、そういった場合であってもまだそれ以外にゲゼルシャフトの特別財産というものは成立し得るのであると。その特別財産というものが対外的にはたとえ経済的に無に等しいものであっても《例えば法律上資本金が存在していても実際には資本金を食い潰して欠損になっている場合など》、法学的は存在しているということは、この論文の導入部で既に述べて来た。しかし、それについて更に次のことを確認することが出来る。つまりここで(ゲゼルシャフトの)内部についての関係が、外部に対しての関係においても決定的に作用するということである。ソキエタスの成員の間における関係でゲゼルシャフトの財産とされるものは全て、外部の(ソキエタスへの)債権者達との関係においてもまたゲゼルシャフトの財産とされるのである。

VI. 法的文献。結論。

法的文献とそのソキエタスへの関係

 我々はここまでの論述によって、我々が扱って来た法的な制度の解明について次の所にまで到達出来た。つまり合名会社にとっての全ての本質的な基礎原理:商号(Firma)、連帯責任、特別財産について明らかにすることが出来た。我々は同様に、合名会社に対立するものを比較して検討するという目的で、合資会社についてその始まりからある発展段階の一つに到達するまでを観察して来た。その発展段階においては、法的な構造についてみれば、今日の合資会社が有している意義という点で見てもそう大きくは隔たっていない。より後の時代における法形成は、それについてここで扱うことは出来ないが、今述べた発展段階における法的な構造を通じて法学的な見方を継承しており、そういった構造の組み合わせとそれの拡張によって、そういう法学的な見方は現代における人間関係に適合したゲマインシャフトの形態を創出することが出来ていた。――しかしながらここでは単にその内の何点かだけについて論じることとする。

 まず第一に明らかにしたいのは、(合資会社の黎明期の)同時代の法学者がその時代における制度として観察している人間関係についてである。

1.合資関係

 合資会社の人間関係は、契約法の基礎の上に成立するものとして見た場合、ローマ法の理論に照らし合わせて何か非常に把握困難なものとして扱うことは許されていなかった。しかし実際にはその把握は非常に困難だったのであり、それはラスティヒEndemannに対する所見と一致していることは間違いない。その当時の法学の文献が行っている合資会社関係への考察を見ると次のことが述べられている。つまりそういう考察においては、ローマ法学がそのような合資会社関係については、多分に嫌々ながらではあるが、新しい制度として歴史的な把握を行うことがほとんど無理であることを認めることで妥協するという、そういう意義しかなかったことが表明されている。BaldusのConsiliaとその中に含まれている他の者の文書は、それについて十分な証拠となっている。その者達によって取り扱われている societas “pecunia-opera”(in qua alter impossit pecuniam, alter operam)(資本-労働結合型ソキエタス、{その中では一方の成員は資金を提供し、他方の成員は労働を提供する})は、コムメンダを想定して述べていることは間違いない 1)。

1)Baldus編の Consilia II 87 のquatra proficui ({トラクタートル}が利益の1/4を取ること)と比較せよ。コムメンダというものは、Baldusがそれをそうイメージしているようにこのような形態で行われ、それまではそのような形態は存在していなかった。ただ利益のみが分割され、最終資本はそうされなかったということと、利益が得られなかった場合には、投下資本は全額償還されたということについて、Baldusは明らかに変則的であると考えており、その変則性をソキエタスがまさに “lucrum dividere”(利益を分けること)を目的として、”capitare dividere”(資本を分けること)を目的としていない理由としていた。他方ではコムメンダという形態は冒険的な性格を持っていると把握することが出来、損失は参加する双方の側で等しく分担することになっていた。その場合、もし全ての資本が失われてしまった場合には(!)、委任した側(Kommendant)がその1/2を負担し、そしてトラクタートルもまた(!)損金の全体額に関わらず資本の1/2を負担し返金しなければならなかった: Consilia IV 65、 214、 453。同じくRoffredusなどの法注解学者達もコムメンダについて同じような把握の仕方をしていた。ただ特別な協定が取り交わされる場合があり(それについてBaldusがそう主調し、他の学者はその存在を疑っているが)、その場合には資本家のみがリスクを負担することが求められていた。それ故にコムメンダの制度の法学的構成はここでは全くナンセンスなほどの資本というものの重要視につながるのであり、それはまた法学者の見解において、全員がそれを高利貸し的な制度とは見なしていなかったことの証拠である。

歴史的に見れば、そうした法学的な把握の際には海上取引におけるコムメンダの本来の目的が考慮されていなかった。法教義学的に見た関係という意味で法学者達は――明らかにローマ法主義の見解の結果として、ソキエタスの成員というものは基本的に対等の関係であり、同じような権利を与えられた契約者でなければならないという立場に立っており、――その見方によれば、委任される人(トラクタートル)は自分自身を、つまり自分の労働力をゲゼルシャフトへの投資(の代替物)として持ち込み、それは委任する人(ソキウス・スタンス)が資金をそこに持ち込むのと同様のことであり、委任される人(トラクタートル)の労働の成果がその者にとっての利益(fructus)であり、それは丁度資本家にとっての利子に相当し 2)、――しかしその際には次の事が認識されていなかった。つまり今描写したような姿が、たまたまだったとしても、より対象を明確に把握するために使用されたのだとしたら、それはある意味許容範囲ではあっても観念的なお遊びであり、もしそれを使って法学的な構成が行われなければならなかったのだとしたら、それはもうナンセンス以外の何物でも無い。

2)もっとも明確にそのことが表現されているのは、Petrus de Ubaldis《第3章の注53での訳注を参照》編の De duobus fratribus III 12 であり、投資された全資金の返済という委任された方(トラクタートル)の義務が、たとえ利益も損失も目論まれていない場合であっても、次の事についての動機の説明となっている。つまり、委任された方の労働(operae)が資本家にとっての期間利子( interusurium)《高利には該当しないと当時許容されていた範囲の一定期間に生ずる利子》に相当するということと、それから委任された方(トラクタートル)が分け前を持つことが出来るのは(資本の中ではなく)ただ利益の中においてのみであるということである。Angelus de Periglis de Peruso《?~1446または1447年、イタリアのペルージャ出身の法学者、Petrus de Ubaldisの兄弟のAngelusとは別人》の De societatibus Pars I no. 2 においては同じような概念が扱われており、そこでは著者は次のような議論を展開している:最終資本の分割は次のように行われるのではない。つまり資本家が当初の出資金を回収し、次にトラクタートルが自分の労働分としてその同額を取り、そして更に残った分が分割される(つまり:初期資本が100で最終資本が300だった場合、委任した方が100を取り、トラクタートルが次に100を取り、残りの100が分割される)のではない。そうではなくて、トラクタートルの人格が委任する側の資本と等価に扱われるので、委任した側がまず資本100を取り、トラクタートルはその人格分として0、つまり何も取らず、残った200が分割されるのである。

より後の時代の著述家にとって、Endemannが指摘したように、これらのソキエタス契約において次に尚一層頭を悩ませる問題となったのは、このようなソキエタスの契約が(教会法による)高利の禁止に該当するのか、するとすればどの段階でそうなるのかという問題であった。我々がこの論考で見て来たように、コムメンダのいくつかの変種は実際に高利禁止の犠牲になって廃れてしまっていたし 3)、そこまで行かなくても、高利禁止原則は実務上の取り扱いにおいて、確実に法理論家を困惑させていた。法律家達によるその問題についての取り扱いと説明の仕方の全ては、また次のことを示している。つまりそういった場合に何かしら良く考えられかつ論理が一貫した形で行われた、経済的なまたは非常に社会的な観察方法についての理論といったものに基づいていたのではなく、それはそれぞれ個別の場合の判断として何か抽象的な論理構成の産物としてのみ行われていた、ということである。

3)Baldusによれば、(海上取引での)危険が債務者(=トラクタートル)の側だけに生じるのでは無い場合には――ピサにおける dare ad proficuum maris はそれには該当しなかったが――利益の何%か(procentuale lucrum)を利子にように徴収することは許されていた。

2.合名会社
a) 特別財産

 我々にとってここでより興味深いのは法学においての合名会社の取り扱いである。まず第一にそれに関係するのは特別財産であるが、明らかに見て取れる限りにおいては、文献の中では特別には扱われていない。ソキエタスに対する債権者の権利とそれの(ソキエタスの成員である)個人への債権者に対しての関係は、法学的には(ソキエタスの)破産の際の優先権(債権を他の債権者よりも先に回収出来る特権)という形で現れ、そしてそれについてはピサの例で見て来ているが、ソキエタスの成員達の(ソキエタスの成員の中の)個人への債権者に対しての関係と、ソキエタスの債権者のソキエタスの成員達への関係は、どちらについてもまずは法規によって回収優先権を与えられた債権者という形で把握される。Franciscus de Porcellinis von Padua 4)《?~1453年、イタリアのパドヴァ生まれの法学教師》はそこから次に、ジェノヴァの法規 5)の考え方と一致して、次のような法文を残すに至っている。つまりまたソキエタスの成員(委任する方)の投資金に対しても次のローマ法の考え方が適用出来るということである。そのローマ法の考え方とは、”res succedit in locum pretii et pretium 《succedit》in locum rei”(財というものはそれに対して価格が与えられた場所で成立し、価格というものはある物の(それが売られた)場所で成立する)というものである。

4)De duobus fratribus Quaestio 1を参照。

5)Statuta Perae lib. V c. 207 を参照。

(この段落続く)

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