ドイツ語を日本語に訳するということ。

während der Prophet ebenso wie der charismatische Zauberer lediglich kraft persönlicher Gabe wirkt. を折原浩先生は「預言者は、カリスマ的呪術師とまったく同様、もっぱらただ、かれの即人的な天賦の才によって活動する 。 」と訳しています。正確には創文社の訳を折原先生がそのまま採用してしまったものです。(例によって「即人的」は除く。)ここでの新たな問題はGabeを「天賦の才」と訳していることです。冒頭でカリスマと同じと言っているのですから、ここで言っているのは生まれつきの才能という意味ではなく、当然神から得た戒律(モーセの十戒)や神の言葉を得て、と訳すべきです。私の訳は「預言者は、カリスマ的呪術師とまったく同様、もっぱらただ、その者個人に神より賜わったもので影響を及ぼす 。」にしています。

他の例では、der Prophet dagegen kraft persönlicher Offenbarung oder Gesetzes Autorität beansprucht. を折原浩先生は「預言者は、即人的な啓示ないし原則によって権威を要求する。」と訳しています。(例によって(笑)「即人的」は無視して)ここでのGesetzesは当然上の文にも出て来た戒律・律法と解釈すべきと思います。またAutorität beanspruchtは「権威が自分に属すると主張する=自らを権威付ける」ということ、つまり「預言者は、個人的な啓示ないし戒律(律法)によって自己を権威付ける 。」ということです。「権威を要求する」は意味不明です。要するに翻訳というものは辞書に載っているそれぞれの単語の意味をつなぎ合わせることではない、ということです。

既にこれまで訳が存在するものの新しい訳を出すのであれば、その古い訳の間違いをそのまま持ち込まないように気を付けるべきと思います。

折原浩先生の日本語訳の特殊さ

「宗教社会学」でヴェーバーが「預言者」の定義を述べている所、折原浩先生の訳は
「われわれはここでは、「預言者」という言葉のもとに、自分の使命として宗教的教理ないし神の命令を告知する、純然たる個人・即人カリスマの担い手、を理解することにしたい。」

原文は
“Wir wollen hier unter einem »Propheten« verstehen einen rein persönlichen Charismaträger, der kraft seiner Mission eine religiöse Lehre oder einen göttlichen Befehl verkündet.”

です。問題は「個人・即人カリスマ」です。この訳一体何ですか?普通に訳せば”einen rein persönlichen Charismaträger”は「ある純粋に個人としてのカリスマの持ち主」です。何故か折原浩先生はpersönlichを文脈も見ず100%「即人的」と訳し、私はそれをこれまで全部別の訳に変えています。おそらくは「即物的」の反対の意味での造語でしょうが、この「即人的」はまるで意味不明ですし、それをまたここではわざわざ「個人・即人」と重ねています。ヴェーバーはここで別に哲学を論じている訳ではなく、persönlichはごく一般的な意味で使っているとしか解釈しようがありません。大体、哲学の語だって本来は日常語ですよ。ハイデガーのDaseinは文字通り「そこにあること」という意味でしかなく、「現存在」とかの日本語にすると途端に意味が分からなくなります。また、折原浩先生、「最終総括」で「推転」なるマルクス主義者御用達語(元はヘーゲルらしい)を使われていましたが、これも元はÜbergangで「夏から秋への移り変わり」という時の「移り変わり」という意味に過ぎません。こういうおかしな訳がこれまでヴェーバーの文章を実態以上に難解だと思わせることに貢献して来たのだと思います。

p.s.
Googleで「”即人的” site:http://hkorihara.com」で検索すると多数出てくるので、この訳に限ったことではなく「即人的」は昔から使っていたということが確認出来ました。おそらくはsachlich=即物的の反対語としての造語なんでしょう。そう考えると理解出来なくもないですが、問題は最初に読んだ人はそんなことは分からないということです。それからヴェーバーがいつも同じ語は同じ意味で使っているなんてことはありえないということです。それをいつもある語が出たらそれに同じ日本語を当てるのは、これもヴェーバーのテキストをある意味「聖典」化している訳です。

「宗教社会学」折原浩訳、丸山補訳、R2

折原浩私家版訳「宗教社会学」の丸山補訳版のR2(P.60まで)を公開します。
ここもひどいですね。特にインドや中国・日本に関する記述はほとんどデタラメばかりです。こういう論文からヴェーバーの「合理化」の考え方が出て来たことを考えると、その合理化論も根底から見直す必要がありそうです。

20251019_宗教社会学補訳R2.pdf

ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ7

まあヴェーバーの「宗教社会学」について、突っ込み所のネタが尽きることは当分ありません。
「それというのも、不覚にも精霊を刺激して、当人に乗り移られるとか、あるいは別人にもつぎつぎに乗り移られて、魔術的な危害を被ることがないように、いずれにせよそういうきっかけを与えないようにしなければならない。その結果、該当者は、肉体的にも社会的にも隔離されて、他人との接触を避けなければならず、場合によっては、なんと本人も、自分自身の人格との接触を許されなくなる。この理由で、たとえばポリネシアのカリスマ的諸侯のように、自分の食物も [自分に憑依した] 魔力で汚染されないように、自分では食せず、他人に注意深く食べさせてもらう、ということもしばしばある[1]。」

これについて私が付けた訳注は以下。ちなみにオペレッタ「ミカド」の初演は1885年でヴェーバーは21歳。音楽好きなヴェーバーですし当時欧州で非常に流行ったオペレッタでもあり、おそらくは観ている可能性が高いと思います。要するに当時の欧州の日本もポリネシアも中国も一緒くたにする風潮にヴェーバーもそのまま影響を受けていたようです。

[1] 出典はおそらくはフレイザーの「金枝篇」か。ポリネシアではなく日本の太古の「ミカド」が自分で体を動かしてはいけず、体を洗うのも寝ている間に従者が行うという記述がある。(この辺りギルバート&サリヴァンのオペレッタの「ミカド」を想像させる。「ミカド」にはナンキ・プーとかヤムヤムとかのポリネシア風の名前の人物が多く登場する。)いずれにせよフレイザーの記述自体が単なる言い伝えレベルであっておそらく神道などでの「斎戒」の話と混同しており、「しばしばある」ような事例ではまったくなく、例によってヴェーバーによる誇張である。

 

ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ6

ついに極めつけのデタラメな文章を発見。
中国で風水思想によって合理的な行動が妨げられたという説明の後で
「日露戦争のさいにもなお、日本軍は、神占上不都合という理由で個々の勝機を逃したように見える 。」
だそうです。おそらく当時の雑誌などでのゴシップ記事をそのまま使ったんでしょうが、もう学者としてはダメダメですね。日本の近代化の程度についても完全に見誤って大衆レベルの偏見(要するに「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」)で書いています。

p.s.
おそらくはこれは、日露戦争の開戦直後に諏訪大社の御柱が倒れた(これが倒れると天下騒乱になるとされていた)のが新聞等で報じられたのが間違って伝わったのではないかと。

ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ5

まだまだ続きます。ヴェーバーの宗教社会学の怪しい記述。今日のは「他方、定型としては純然たる「呪術師」のもとでも、たとえばアメリカ先住民のハーメッツ族の兄弟団のように、修業期と教説とをそなえているものもある。」(折原訳のインディアンは先住民に変更)

これに対して私が付けた注釈は:

Heinrich Schurtz(1863~1903年)の”Altersklassen und Männerbünde: Eine Darstellung der Grundformen der Gesellschaft”にある記述をヴェーバーが間違って引用しているもので、正しくはカナダのブリティッシュ・コロンビアの先住民クワキウトル族の秘密儀礼Hamatsaでハーメッツ族という部族は存在していない。Hamatsaはクワキウトル族の冬季儀礼の中心を担う秘密結社であり、入会には長期間の修行・教育が必要とされたが、これを「呪術師」と捉えるのは疑問。なおこの冬季儀礼で同じく行われる顕示的消費が有名なポトラッチである。なおヴェーバーの論考に度々メンナーハウスが出てくるのはこのSchurtzの本が元でこのHamatsaも一種のメンナーハウス的結社である。

となりますが、この部分は、
(1) 私はこんな事例まで研究していますよと言う顕示欲の現れ
(2) しかもその引用と解釈がまったく正しくない
という意味でヴェーバーの最悪の部分が出ている箇所と思います。
折原浩先生は例によって何の訳注も付けずスルー、創文社の訳も同じくスルーです。

 

折原社会学の問題点

折原浩先生の「宗教社会学」、今度はEidgenossenschaftを「誓約仲間団体」と訳していました。これは中野・海老原訳の「理解社会学のカテゴリー」の不適切訳を踏襲するものです。Genossenschaftを「仲間団体」と訳すのであればGenossenschaftsverbandは「仲間団体団体」になってしまいます。庄子良男さんによるギールケの「ドイツ団体法論」の日本語訳ではGenossenschaftは「ゲノッセンシャフト」で一貫して訳されており、変な日本語化はされていません。折原浩先生は創文社訳の「宗教社会学」が社会学的なタームが正しく訳されていないと言ってご自身で訳されることを試みたのですが、確かに「理解社会学のカテゴリー」に出てくるタームの訳にはこだわっていますが、ケルパーシャフトやゲノッセンシャフトのようなドイツにおける人間集団の重要ターム(法制史での常識語)については、実に適当かつ不正確な訳を当ててしまっています。これでは批判的な訳の意味がありません。このように狭い「ヴェーバー社会学」の殻(鉄の檻?)に閉じこもって周辺の学問に目を向けていないのが、折原浩先生の社会学の最大の欠点と思います。

ヴェーバーの「宗教社会学」の怪しさ4

今日もヴェーバーへの突っ込みは続きます。(笑)
「政治団体のみでなく、職業上のゲゼルシャフト結成態も、まったく同様に、それぞれの特殊神や特殊聖者を戴いて礼拝する 。」とヴェーバーは書いていて、この内容だと職業団体が先でその後宗教団体になると読めますが、ハインリヒ・ミッタイスもギールケもイタリアの都市でのギルドは、元々特定の聖人を守護聖人として持つ人々の社交団体で、つまりは宗教的な団体形成が先だと書いています。すなわちヴェーバーの論は因果関係を逆にしています。「中世合名合資会社成立史」の時も、家計ゲマインシャフトから合名会社が成立したことを論じるのですが、何故かその家計ゲマインシャフトは全てギルドのメンバーであったという要素がまるっきり無視されています。ヴェーバーの書籍では晩年の講義録を除くと、ちゃんとしたギルド論の部分がすっぽり抜けています。もしかすると宗教は資本主義精神を生み出している反面、ギルドみたいな反資本主義的な制度も作り出している訳で、そこを深く突っ込むと「プロ倫」が土台から崩壊するのではというある種の予感があってギルドを論じるのを避けたとか。(笑)

「宗教社会学」折原浩訳、丸山補訳、R1

折原浩先生が訳されて、このサイトで公開している「宗教社会学」の折原私家版翻訳に対して、私が補訳として手を入れたものが30ページほど出来ましたので、途中段階として公開します。(これで全体の1/10くらい)本来なら私が手を入れた部分を折原浩先生に確認してもらうのが筋ですが、先月で90歳になられたということを考え、非常に負荷のかかる作業の依頼は困難と考え、敢えて独断で公開します。

既にいくつか紹介しているように、ヴェーバーの論理の飛躍ぶり、根拠の不明確さや誤りについてもかなり突っ込んでいます。また折原浩先生の訳注については社会学的な部分にはそれなりに注は付いているものの、宗教に関する、一般の人はまず知らないような事項にまったくといっていいほど訳注を付けておらず、私の方で補完しましたが、ここまでだけでもかなりの時間と労力を要しました。また残念ながら折原浩先生の不適切訳や誤訳も散見され、最初は訳注だけで本文はそのままにしようと思っていましたが、結局本文にも手を入れています。(どこを変えたかは、ちょっとした表記の変更など以外は明記しています。)

宗教関係タームの例:
・ウーゼナーの「瞬間神」
・アメノフィス四世(イクナトン)
・インドにおける装飾旋律にたいする「ラーガ」
・類似療法
・エレウシスの密儀
・ミディアン人
(こういうの訳注無くて全部すぐ分かる人は日本では10万人に1人もいないでしょう。)

また社会学的なワードであっても、Gebietskörperschaftsを「地域団体」と訳していたのには正直な所あきれました。ケルパーシャフトは法人格を持つ団体のことであってドイツ法制史の基礎的タームであり、ヴェーバーの定義する「団体」とはまるで相容れません。それに「地域団体」は普通Gemeindeを連想させます。折原先生に限りませんが、社会学者の法制史知識の欠如には驚きます。ドイツの社会学はギールケの団体法論などの影響を大きく受けているのにもかかわらず。

そもそもこのサイトの「オープン翻訳」はソフトウェアの世界のオープンソースを参考にしたものです。オープンソースの場合は間違いを訂正したり、あるいは新しい機能を付け加えたりした場合はその部分を明記した上で再公開することになっており、そのルールに従っています。

20251001_宗教社会学補訳R1.pdf

なお、この補訳を始める準備として、「ローマ土地制度史」の翻訳作業と同時にこの2年間に写真のような書籍を読んで来ています。ヴェーバーの宗教社会学三部作も再読しています。なので適当にWebで調べたものをそのまま書いている訳ではありません。

問題の多い「理解社会学のカテゴリー」

ヴェーバーの初期の論文を2本、日本語訳で合計A4で500ページ分も訳すという約6年に渡る「苦行」によって、私はヴェーバーが書いたものについては、頭から信用せず、まずは疑う、という態度で臨むようになっています。それで「宗教社会学」に出てきた「団体」についての訳者注を書こうとして、「理解社会学のカテゴリー」を読み直してみて、この「理解社会学のカテゴリー」にも様々な問題があることを発見しました。以下列挙します。

1.ゲマインシャフト、ゲゼルシャフトの定義
そもそもこの「カテゴリー」論文で奇妙なのは、ゲマインシャフト、ゲゼルシャフトを直接定義するのではなく、ゲマインシャフトの方では「ゲマインシャフト行為」を定義するということが行われます。そこで例として挙げられているのは、自転車に乗った2人が衝突するのはゲマインシャフト行為ではないが、そこでお互いが回避行動を取ればそれはゲマインシャフト行為である、と定義されています。奇妙なのは、ここではゲマインシャフト関係というものには何の定義も与えられていないことです。ゲマインシャフト行為に基づく人間関係がゲマインシャフト関係であるとこちらで考えるなら、「自転車衝突回避ゲマインシャフト」なるものを想定することになりますが、そんなものはあり得ません。また自転車の衝突回避は、酔っ払いか自殺願望の人間でもない限り誰しもが行う反射的な行為であり、そこにゲマインシャフト形成の要素は存在しません。単なる2人の人間が接触した結果起きる事象に過ぎません。またゲマインシャフトというのであればそれなりに時間的な継続性が必須と考えますが、この例にそんなものは存在していません。おそらくはヴェーバーはゲマインシャフトを理論的に定義しようとしながら、その裏では一般的なドイツ語のゲマインシャフトという概念をそのまま利用しています。

もっと変なのはゲゼルシャフト行為、ゲゼルシャフト関係であり、ゲゼルシャフト行為の定義をするにあたり、その中にゲゼルシャフト関係が登場するという、一種のトートロジー、循環論法になってしまっています。(ヴェーバーの定義はゲゼルシャフト関係の中で作られた制定律に準拠しそれを当てにして他人の行動を予測して行うのがゲゼルシャフト行為とされています。)こちらもゲマインシャフトと同様、論理的定義を行おうとしているのに、何故か最初からゲゼルシャフトの一般イメージが借用されています。

2.「諒解」の説明のおかしさ

目的合理的な制定律を欠くにもかかわらず、人々が「あたかもそれがある」ように想定するのがヴェーバーが言う諒解で、ヴェーバーのその典型例として言語と貨幣を挙げています。しかし言語は確かに幼児の時に自然に習得するものですが、そこには教科書、辞書、文法書といった制定律に準ずるものが存在し、必ずしも諒解にだけ基づくものではありません。(でなかったら私たちはどうやって外国語を習得出来るのでしょうか。)更にはエスペラントのような個人によって人工的に作られた=制定された言語も存在します。また貨幣も、そもそもヴェーバーはクナップの国定貨幣(カルタ貨幣)説の支持者ですが、この場合も貨幣制度を創設したのは国というのが前提であり、必ずしも諒解だけに基づいてはいません。現代の日本においても貨幣の価値維持や受領義務というものの決定には国が大きくかかわっています。こういう風に諒解は流動的で曖昧な概念であり、カテゴリーとして使うには問題が多いと考えます。

3.「団体」とは何か
合理的な制定律は持っていないけど、諒解に基づく集団をヴェーバーは「団体」としています。丁度宗教社会学で「団体」が使われている訳ですが、こちらもおかしな用法ではないでしょうか。ユダヤ教だったら律法、トーラー、キリスト教であれば聖書や教父文書などが制定律として機能しており、決して「神があたかも存在するように」という集団ではありません。それにこれらはヴェーバーの用語法ではアンシュタルトです。(人が生まれてすぐそこに所属するようになる集団。)また例えば新興宗教であればそういった制定律に相当するものが存在しない場合もありますが、その場合であっても信仰ゲマインシャフトと考える方が自然であり、諒解に基づく団体と捉えるべきではありません。(ヴェーバーは結局宗教に関してはゲマインデ{教団}という新たなカテゴリーを作り出しており、これを見ても「理解社会学のカテゴリー」は旧稿に登場するカテゴリーを網羅出来ていないのは明白です。)

「理解社会学のカテゴリー」については、従来「経済と社会」のトップに「社会学の根本概念」が据えられていたのが、テンブルック他の批判により、1980年代に「理解社会学のカテゴリー」に準拠すべきと改められました。私が大学の時に丁度折原浩先生が、この「理解社会学のカテゴリー」に基づいた「経済と社会」の再読という作業を開始されました。その時に要するに「根本概念」の方を否定するあまり、上記のような「カテゴリー」の方の問題点を十分考慮することなく、「ヴェーバーが言っているんだから正しいんだろう」という思い込みを前提にして「カテゴリー」論文を受容していたように思います。私はこの時実際に「カテゴリー」論文を読み直すゼミに参加しています。

更に付記しておくべきなのは、「カテゴリー」論文に問題がなければそもそもヴェーバーは「根本概念」を改めて書く必要はなかっただろうということです。自分自身でも薄々欠陥に気づいていて、かつミュンヘン大学で「カテゴリー」を講義した時に、当時の学生(いわばその当時のスーパーエリート層)がまったく理解出来なかった、という事態に遭遇して、「根本概念」の執筆に至っています。

以前、「カテゴリー」論文を「経済と社会」の頭、とする折原説に異を唱えたことがありますが、やはり「カテゴリー」論文は問題を多く含むいわば「頭脳としてきちんと機能していない頭部」なのではないでしょうか。(シュルフター教授の説く、「経済と社会」の旧稿の途中で「根本概念」準拠に変わったという双頭説は、証拠が存在しないと思いますし、またどちらにせよこの「頭」という捉え方には反対です。)