ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(35)P.216~219

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第35回です。ager comascuus についての議論の続きです。ここで気になるのが、ローマにおける牧畜の程度です。私は牧草地というのを農耕に使用する牛などに草をやるという風に理解していますが、ローマにおいてどの程度いわゆる牧畜業が行われていたかは、確認する必要があるかと思います。従来は古代ローマではあまり肉食は行われないとされていた一方で、牛乳やチーズは主食の一部として重要であり、また帝政期に入ると食の内容が高度化し肉食の割合いも増えて行ったということのようです。
それからここにアッピアノスのギリシア語のテクストの引用があります。ギリシア語のアクセント記号の入力は非常に大変なのですが、今回、以下の手順で比較的楽に行うことが出来ました。
(1) アクセント無しのテキストを、ChatGPT4oにアクセント付きのテキストに変えてもらう。
(2) (1)で出来たアクセント記号が付いたギリシア語の文を同じくChatGPT4oにすべてHTMLにおける文字参照(コード参照)に変えてもらう。
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土地資本主義

確からしいこととして――そのことは当時の(土地を巡る紛争の)和解についての性格全てに当てはまることであるが――当時の全ての市民の公共の土地への関係における形だけの権利の平等が、自由な牧草地利用を禁ずる制限撤廃の許可と同じく自由な占有の許可によって作り出されており 10)、そしてこのことにより当時の人々は少なくとも理論的な形で導入された土地税の支払いによって、このような類を見ない(土地)資本の獲得の奨励をカモフラージュしようと試みたのである。というのも、この自由な競争が小農民の土地所有者にとって有用だったのではなく、ただ大資本家、つまり世襲貴族とまた(裕福な)平民にとってのみ有用だったということが、しばしば強調されている。そういった自由競争は事実上は土地制度の領域における全く制限の設けられていない資本主義を意味するのであり、それは歴史の中でかつて実際に行われていたのであり、そしてこのことは既に述べた中世末期におけるグルントヘル(大地主)による土地の不法獲得と囲い込みとの対比という意味では、量的にも質的にもほぼ遜色の無いレベルにまで達していたのである。

10) というのも平民に対して、リキニウス・ストロ≪Gaius Licinius Stolo、 正確な生没年不詳、BC4世紀のローマの執政官・護民官。護民官の時にセクスティウスとリキニウス・セクスティウス法を制定した。その法律では500ユゲラ以上の土地の所有が禁じられた。≫が自分自身が制定した法律による土地の占有の上限を超えたことにより罰金を払ったという伝承が示しているように、決定的なこととして考えられるのは、既にそれが起きる以前の時代で占有ということが許可されていたに違いないということである。

経済的かつ社会的な階級の利害とこの自由競争の結果が一緒になって示しているものはまさに、ローマ史を通して一般的に、赤裸々な人間の姿であり、それは古代における政治家と近代の社会史家に等しく利点を提供しているのであるが、それは古典古代のファッションの実態が同時代の芸術を理解する上で有用であるのと同様である。それから ager publicus を巡っての階級闘争がより一層激しい段階へ突入したということは良く知られている 11)。リキニウスの提案は占有の上限を500ユゲラにすることでこれを是正しようと必死に努力していたものである 11a)。

11) ここにおいてはこの階級闘争の個々のケースについて追いかけることはしない。何故ならば土地制度史という見地に立った場合、様々な事実を見出すことが出来るのは確かであるが、それによってこれまで知られている階級闘争の実像について何も新しいものを付け加えることは出来ないからである。

11a) もしかするとこの時に初めて牧草地の使用料(税)というものが導入されたのかもしれない。いずれにせよ伝えられているのは、リキニウス・セクティアヌス法はまた非課税の家畜の飼育を伴う耕作の上限――牛・馬の場合は100頭、鶏などの小家畜の場合は500頭(羽)――を導入しているということである。(参照、アッピアノスの引用済みの1、8)。≪鶏はインド→エジプト→ペルシア→ギリシアのルートで、ギリシアにBC9世紀頃伝わり、その後ローマに入った。≫

公有地の分割割当てを求める声は、共和政の時代を通じて一度も社会から消えてなくなることは無かったが、しかしその声を上げていた多くの無産者が、その元々の性格を次第に失っていった時、その声に応えてローマの内部でその認可が行われることは無くなっていた。以前は(利用出来る)平地に対して植民の人数の過剰という状態があり、そのために廃嫡または遺産分割によって零落した農民である土地所有者の子供達は、耕地の新規分割割当てによって自分自身による耕作の新規開始と、また tribus rusticae に受け入れられることで、彼らの親達が属していた adsidui ≪税を納める義務のある一人前の市民≫に復帰することの可能性を得ようと必死だったのである。ただローマが大都市的な性格を強めていった結果、プロレタリアートはそのエネルギーを増大させていくことが出来なくなり、彼らは近代的な性格での都市の下層民として十把一絡げの状態になっていき、彼らについては土地所有者の身分上の体面という意味は加速度的に失われてしまったのであり、――そうした変化は同様の状況の場所ではどこであってももはや時間の問題であったことであるが、――その者達にとっては農民としての生計の基盤である土地が、より勢いを増しながら(他者の所有物へと)吞み込まれていったのであり、そして彼らの状況により大土地所有のための耕地整理の推進に対抗して自分の土地を守り抜く、というエネルギーが奪い取られたのである。割当てられた土地は色々な意味で投機の対象となり、植民者の所有物から換金の対象に変わり、その目的は大都市(居住者)の(投機という)享楽のためであり、グラックス兄弟、スッラ、そしてカエサルによる、新規植民者が入手した土地の売却についての購買の上限を設けることで制限しようとする試みは、常に失敗に終らざるを得なかった。その理由は、その政策が関係者の利害を、敵対者(世襲貴族)の利害と同じく、著しく損ねたからであり、また確からしいこととしてこの種の土地はケンススへの完全な登録を行うことが出来ず、それ故所有者の政治的な意味での階級としての権利を高めることがなかったからでもあった 12)。

12) 土地改革法の第38条に確かに起因していることである、グラックス兄弟が ager optimo jure privatus ≪非課税の私有地≫についてケンススへの登録を認めたこととはまた別のことである。しかし残念ながら確実なこととして、少なくともケンスス制度の何らかの部分的な改革について、つまりフーフェの土地の登録からある種の財産登録という変化については、何も知られていない。おそらく可能性があると思われるのは、その場合でもクイリーテース所有権による土地の占有はどういう形でも許されていなかったのではないか、ということであり、しかし私が確かなこととして考えたいのは、この種の占有はいずれの場合にも tribus rusticae における assidui ≪軍役を負担する市民≫への登録にはつながらなかったのではないか、ということである。キケロのフラックス弁護の80にて、ある者が小アジアのアポロニア≪現代のトルコのアナトリア半島の北西部にある湖とその周辺≫に土地を所有していて、それがローマでケンススに登録されたことによって、その者が利益を得た、とある。しかしキケロはその弁明に対して次のように異論を唱えている: Illud quaero: sintne ista praedia censui censendo? habeant jus civile? sint necne sint mancipi? subsignari apud aerarium aut apud censorem possint? In qua tribu denique ista praedia censuisti? [私は次のことを問う:その農場は(本当に)ケンススに登録されたのか?それは(本当に)法的な権利を持っていたのか?それは正式な売買手続き(mancipatio)に拠って獲得されたものかそうではないのか?それは国庫に登録されたのか、あるいはケンススに登録される形で獲得されたのか?どの部族にてその農場は実際にケンススに登録されたのか?]

占有と ager compascuus の終焉

土地政策と社会政策の性格を持つ最後の大規模な土地分配の試み、つまりグラックス兄弟の改革によってもたらされた全ての土地所有に関係することがらの大混乱は、先に見て来たように、次のような結果をもたらした。それは3つの新しい土地法であり、その最後のものが u.a.c. 643年の土地改革法であったが、それはそれまでの占有を、ケンススへの登録の許可を与えることと ager privatus の全ての他の特権をそれらの占有された土地にも許可することによって最終的に認可したのであるが、それはつまりグラックス兄弟によって推進された植民者の土地の売却制限 13) をケンススへの登録の許可という形で取り除いたのである。

13) ケンススへの登録許可は3つのここで想定されている法律の最初のもので既に認められていた。643年の法律はただこのことを間違いのないこととして再確認したのであり、その中で――これが第8条のまさに意味する所であるが――そういった占有された土地に対して正規の売却手続きを行う権利を付与したのである。

未来に向けて土地改革法は更にまた農民のアルメンデと徴税権の古くからの対立も取り除き、その中でその法はそういった形でまだ残っていた ager publicus の残りの部分について compascua として使うことと占有を許可すること 14) の両方を等しく終了させたのである。(25条)

14) グラックス兄弟は周知のようにリキニウス・セクスティウス法に修正を加え、その法で認められていた公有地の保有上限500ユゲラ以外に、息子2人まで各250ユゲラを追加で保有することを認めたが、更に修正を加え、その他、他の全ての占有を禁止した(C.I.L., Iのモムゼンの土地改革法への注記)。しかしながら後になって占有の認可が再度討議され、643年の土地改革法では一人あたり30ユゲラまでの占有は許可された。しかしその間に、lex Thoria agraria≪アッピアノスによると lex agraria の後に制定された3つの法の内の2番目≫によって、そのように見えるのであるが、占有に関して重要な変更が加えられており、それについてキケロ(Brutus, 36, 136)は次のように描写している:(Sp. Thorius) … agrum publicum vitiosa et inutili lege vectigali levavit. [ある者がその欠陥の多い無用な法律により公有地に課されていた税金を軽減した。]モムゼンによればルドルフ(Römische Rechtsgeschichte, 1, S41)による説明は以下の通りである:彼≪Spurius Thorius、lex Thoria の制定者とされる者≫は(公有地に)課税することで ager publicus をそのある欠陥の多い無用な法律から解放した。≪公有地の課税率が軽減された結果、私的な占有が加速したのを、lex Thoria が再度税率を戻すことによって、そうした私的占有に歯止めをかけようとした。≫この説明は文法的には全く無理がないとは言い難いように思えるが、しかし文脈の意味に従えば、私はそう信じるが、別の満足の行く説明をこの箇所に加えることは困難であろう。≪元の文章は悪法を制定したということを言っているように思えるが、このルドルフの解釈はそれをまた是正したとしている。levavit =軽減する、解放する、が税率のことを言っているの公有地のことを言っているのかという問題である。≫少なくともこの解釈はアッピアノスの次の説明(引用済みの箇所、1, 27)との連関で:”τὴν μὲν γῆν μηκέτι διανέμειν, ἀλλ’ εἶναι τῶν ἐχόντων, καὶ φόρους ὑπὲρ αὐτῆς τῷ δήμῳ κατατίθεσθαι”[その土地はもはや分配されず、現在その土地を占有している者のものになっており、その土地に関する税金は(本来は)民衆のために納められるべきである(のにそうなっていない)。]良い説明となっており、つまり:ager publicus の占有は ager vectigalis ≪課税される土地≫へと転換させられたのであり、それが意味するのは(理論的には成立していた筈の)現物貢納の支払いの代わりに、それは収穫物の内の一定割合を土地の使用者と親族関係にあるその土地の地主に払うもので、法的には不安定な低位の所有状態の証拠として捉えるべきものであるが、帝政期において非常にしばしば地主達がそれを得ようと努めかつ渇望していたのと同じように≪現物貢納は収穫高とその時々の穀物の相場で取り分が変動するので、地主には固定額の現金払いの方が都合が良かった≫、(現物貢納に換わって)確固たる現金払いが登場するのであるが、つまり adaeratio ≪現金での使用料払い≫が生じていたのである。そして更に、ある土地での使用料取り立て可という認定は、もしかすると使用料免除の場合だけにされた≪本来は使用料を払うべき土地であることを確認してから免除した≫のかもしれないが、しかしその他の場合では所有状態の不安定さを解消したのである。(後述の箇所参照)

同時に lex agraria は ager compascuus に対して次のように取り決めている(第14、15条、モムゼンの補完に基づく):Quei in agrum compascuom pequdes majores non plus X pascet quae(que ex eis minus annum gnatae erunt postea quam gnatae erunt … queique ibei pequdes minores non plus …) pascet quaeque ex eis minus annum gnatae erunt post ea qua(m gnatae erunt: is pro iis pequdibus … populo aut publicano vectigal scripturamve nei debeto neive de ea re sati)s dato neive solvito. [共有放牧地において大きな家畜(牛や馬)を10頭以上放牧しない者で、その家畜の中で生後1年未満のものについては、その後産まれたものについても、それらの家畜について…ローマ人民や公共の徴税人に対して土地の使用税やその他の税を支払う必要はなく、そのための担保を提供したり支払いを行うこともない。]私見としてそこから考えられることは、ager compascuus は、それがある耕地ゲマインシャフトのアルメンデという意味で成立していた限りにおいては――というのはここではただそういう ager compascuus のみを扱っているのであり、任意の個々人により共通に獲得された土地の断片に類したものを扱っているのではないからであり――、ローマの人民の公有地の一部としての意味で把握されるのであり、その土地については国家のための目的という建前で使用することが出来たものである。こういった見方に基づいて明らかに以前の時期よりこの ager compascuus に対しても使用税[scriptura]の支払いを義務化するという試みがなされており、その故にこの法律の中にはこういったアルメンデにおける非課税の牧草地利用の程度に関しての規定が含まれていた。その他、既に述べたように、この ager compascuus という制度はこの法律によって完全に死滅させられた。測量人達の記述によって我々が知っている土地の割当てという形ではアルメンデは上述したような解釈での法的な根拠を与えられることはなかった。Ager compascuus はその結果として、注記したように、ある個々の特定の fundus においての牧草地に過ぎなくなった。その他、こうした法律は、植民市建設が共通の敵に対抗し、かつ都市を新たに建設するという特性に適合しており、牧草地はただ pascua publica ≪公共の牧草地≫という形でのみ、つまりゲマインデに従属して自由に使用出来るものとして、個人の権利[jura singulorum]については、ager compascuus でそれが可能であったように、一部は自由な牧草地の区域が植民市に対して割当てられ、また一部は――既にその前からしばしば起きていたことであるが――取り消し可能な権利としては実際には廃止されていた。

ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(34)P.212~215

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第34回です。
ここで面白いのは、ヴェーバーが氏族関係が経済的な意味で働く例として自分の「中世合名・合資会社成立史」の内容を引き合いに出していることです。
それはいいんですが、納得出来ないのはここでの「ゲノッセンシャフト」の説明で、ゲノッセンシャフトなのに大規模家畜所有者がそこの主人のように振る舞っている、といった話が出て来ます。私はそれはもうゲノッセンシャフトではなく、そもそもローマの王制の頃とかあるいはその前がゲノッセンシャフト社会であったなどというのはまったく信じがたいです。ゲノッセンシャフトはそもそもカエサルのガリア戦記やタキトゥスのゲルマニアに出てくる、牧畜を主体として少し農耕もやるゲルマンの部族が、少人数で移動を繰り返しているような場合に、階層社会ではなくフラットな仲間関係の社会を構成しているというのが元々であり、ローマの太古の状態に敷衍出来るようなものとは思いません。
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ドイツのアルメンデとの類似はまた次の点にも現れている。それは compascua として存在している領域に対する管轄権に関して、統一された考え方は全く存在せず、しばしば直接的には非常に不透明なままであった、ということである。そのために、その領域に放牧権を持っている特定の所有者達は、compascua が通常の意味での共有物になっているということは全く当てに出来ず、いずれの場合も裁判による共有物の分割[actio communi dividundo]による調整によって、自由に随時分割するという方法は使えなかったのである。しかし他方では明白なこととして発生していたことは――そしてこちらの方が実務的にはより重要であったのだが――また非常に多くのケースでその土地に関連する人間関係と ager publicus の土地との境界についての疑念であった。フロンティヌスによる注解書では compascua について次のように述べられている(p.15, 26):certis personis data sunt depascenda, sed in communi: quae multi per potentiam invaserunt et colunt.[ある人達に放牧を行う権利が与えられたが、それは共有の形であった;そこに多くの者が力づくで侵入し耕作を行っている。]ここについては誰もが中世の末期で地主が垣による囲い込みで村のアルメンデを力づくで奪ったことを思い出すのではないだろうか?――そして実際の所、必要な修正を加えて考えれば[mutatis mutandis]二つの現象は同じ起源を持っているのである。

占有の起源。マルクとアルメンデ。

前章においては、次の前提から議論を進めて来た。つまりイタリアでの定住については、我々が知らされている限りにおいては、氏族社会に対立するゲノッセンシャフト的なものであったと。この見解はしかしながら、フーフェ制度の他の全てを説明し得ていないように思われる。公的な成果[戦争の勝利など]に基づく農地の分配やフーフェの土地に対する公的な権利に基づく測量といったことはゲノッセンシャフトとの相違点を示している。しかしそのことによって次のことを言おうとしているのでは全くない。それはローマ史の先史への入り口において、他のほとんどの国と同様に、そのより古い時代の社会組織については何も情報を持ってはいないが、家への隷属を伴う厳格な士族的組織が存在しており、その影の残余物が、例えばクリエント制≪ローマでのパトロンとクリエントという、一種の親分子分的な互酬の人間関係のこと≫やローマの家族制度の在り方において歴史時代においてもなお深く投げかけられているのであると 7)。

7) 我々の知る限り、歴史において人間のゲマインシャフトにおける組織の頂点に、純粋に経済的な観点から考えてそういった氏族組織が存在していた、ということはない。親族ないしは氏族団体を継承したのはむしろようやく後の時代に、土地制度以外の領域において――私が全く別の事例として私の論文である「中世合名・合資会社成立史(中世商事会社史)」において論証しようと試みたように≪おそらくは中世のイタリアで家計・家業ゲマインシャフトから合名会社などのゲゼルシャフトが発生したことを言っていると思われる≫――本質的に経済上の観点で組織されたものである。こういったことによって結果としてもたらされたのは、個々の家族がそれだけより緊密な形で一まとまりになったということである。≪家計ゲマインシャフトから生まれた合名会社はファミリーの財産を分散させずに一まとまりに保つのに貢献し、より巨大な財閥ファミリーへと発展するのに役立った。≫それ故にそれはもしかするとローマでも起こったことかもしれない。

我々はここでただ次のことに思いが至る。それはこれまで見て来た限りにおいて、確実かつ決定的なこととしてゲノッセンシャフト的な観点での「植民」が発生していたに違いない、ということである。そのように確実にあったと思われる植民が意味したことは、しばしば直接的に、家父長的支配からのある種の解放ということである。大規模家畜所有者は、主要な放牧中心の経済が半遊牧民的な耕作を伴っていた時代においては、たとえ氏族制度が形の上で成立していない場合でも、経済的には他の部族ゲノッセンシャフトの主人であり、それ故に彼らは常に全ての確実かつ決定的に行われた植民の生来の敵対者だったのである;耕作地においての自由な牧草地の利用権と移住してきた植民者のためのアルメンデは、そういった大規模家畜所有者達にとっては再度奪い取って権利回復させなければならないものだったのであり、彼らは常に移住してきた植民者のゲノッセンシャフトのために分離されたアルメンデを共有のマルクの中に取り込もうと試みていた。土地を家畜の牧草地として利用することはしかし、全くもってマルクを搾取するただ一つの方法ではなかった。古代ゲルマンではよりむしろ別の形に刻印されたビファンク権が知られていた。それは新規に荒野や森林を開梱した土地[Rottland]の占有について、開墾した者が新たに手に入れた領域を私的に利用している限り、またその間その者がそこで耕作している限りは、その領域を垣で囲い込むことが許されたものである 8)。

8) フェスタス≪Sextas Pompeius Festus、2世紀後半のローマの文法家、フラックスの De verborum significatione という百科全書の要約版を作り、そこに語源と意味を追加したものを著わした。 ≫参照:Occupaticius ager dicitur qui desertus a cultoribus frequentari propriis, ab aliis occupatur. [占有されている土地とは、その土地を耕作していた者がそこを放棄し、別の者によって占有されているものを言う。]

そして耕作の意義が増大するに連れて、そして牧畜経営にとっては家畜に牧草を与える土地を得られる余地がどんどん少なくなっていく、という点でこのことは意味を持っていた。ローマ国家によって法に規定された状態においては、この占有については、それが禁止されていなかった限りにおいて、その占有地についてその地域における権力者に使用料を支払うことが行われるということにしばしばなっていた。そしてその意味で私はカルロヴァ≪Otto Karlowa、1836~1904年、ドイツのローマ法制史学者≫の見解 8a) である、アッピアノス≪AD95頃~165年頃、ギリシア人でローマ市民権を得て、全24巻の「ローマ史」を著わした。≫が報告している、より後の時代の占有の状態として記述している、その土地の収穫高に応じた一定の支払いが義務付けられた、ということを非常に確からしいと考える。おそらくは通常論じられているようにこの使用料の支払い義務が忘れられてしまったのではなく、世襲貴族達はそもそもその義務自体を一度も認識したことがなく、ただその時々の政治的な力関係によって大なり小なりそれに従わざるを得なかっただけである。もちろん次の場合、それは先行して発生していたことのように思われるが、つまり国家によって征服されたとかあるいは敵に奪われた開墾済みの土地領域について、特別な公示によって全ての市民に対して自由な占有が開放され、そしてこのことが確からしいこととしては公共の土地の国庫上の利害関心においての最古の利用方法であり、ここでは確固たる公課の宣告が行われ、アッピアノスによれば耕地の場合は1/10、森林の場合は1/5の税が間違いなく課されたのであるが、共有マルクにおいての開墾地においてはしかし根源的なこととして、この課税ということが行われることがほとんどなかったのであり、この2つの状況をきちんと区別して同定することは、その課税対象の土地の所有者の利害関係に依存することであって、非常に区別が難しいのである 9)。

9) 同様の区別の難しさという点での混乱がまた、ager occupatorius ≪戦争の勝者によって占有され、元の住民が追放された土地≫の概念からもまた生じて来ると思われ、それが ager occupaticius ≪元の耕作者が放棄し、別の者が占有している土地≫とは別のものであるということが多くの者によって強調されている。(例えばモムゼンルドルフ≪Adolf Friedrich Rudorff、1803~1873年、ドイツのローマ法制史家≫、―ブルンズフォンテス p.348 N.5、Roemische Feldmesser II, 252)まず第一に、今挙げた最後の文献の言及する所では、使用料支払い義務のある占有地という形で利用された(略奪による)占有地が成立していたのであると。シクルス・フラックスは p.138 で次のように述べている:
Occupatorii autem dicuntur agri quos quidam arcifinales vocant, quibus agris victor populus occupando nomen dedit. Bellis enim gestis victores populi terras omnes, ex quibus victos ejecerant, publicavere atque universaliter territorium dixerunt intra quos fines jus dicendi esset. Deinde ut quisque virtute colendi quid occupavit, arcendo vicinum arcifinalem dixit.
[しかし占有された土地と言われるものは、ある者が”arcifinales”(未測量の土地)と呼ぶ土地であり、勝利した方の国民がそれを占領することによってその名前が与えられた。戦争が終わった後、勝利した国民は全ての領地を、そこから敗れた者達を追放して占領した。勝者はその土地を公有地とし、そのすべてを領土と呼び、その中で司法権が行使される境界を定めた。それから各々の者がその耕作の能力に応じてある土地を占有した場合、その者はその土地に隣接する周りの土地を保護し、それを arcifinales と呼んだ。]
それに対して、ヒュギヌスが De cond. agr. p.115, 6 で言っているのは、明らかに同様に先に名前を出した ager occupatorius についてのものである:… quia non solum tantum occupabat unusquisque, quantum colere praesenti tempore poterat, sed quantum in spem colendi habuerat ambiebat(参照:シクルス・フラックス p.137, 20)
[何故ならば各人がその時点で耕作出来る土地を占有しただけではなく、また先々に耕作する見込みがある土地を囲い込んで持っていたからである]
事実上の耕作の範囲に依存していたのは、おそらくはただ新規開墾地の占有の場合だけでなく、収穫高に応じた税という条件での征服された土地の占有の場合もそうであろう。というのも国家は、1/10税を徴収する主体として耕作地の領域の範囲に利害関心を持っていたからであろうし、そして継続して未耕作の土地は他方では放棄されたのである。ここで言及されている占有、つまり「(将来)耕作する見込みのある土地を所有していた」は。2つのケース(占領によるものと、新規開墾によるもの)のどちらでもなく、通常の ager arcifinius について言っているのであり、つまりそれは市民ムニキピウムの土地で、ローマ式の測量が未実施のものである。というのも643 u.a.c. 年の土地改革法によって個人の占有が許された土地はほとんどがローマの征服地においての ager occupatorius だったからであり、そのためにそこの(新たな)住民は(未測量の)不規則な形の土地ブロックを全て自分の所有地と同一視したのである。それ故私には ager occupatorius はより範囲の広い、測量といういう観点で ager arcifinius と、そして将来の所有を期待するといういう意味でガビイの土地≪地権はあるが未測量・未割当ての土地≫と同一視すべき概念と思われ、一方 ager occupaticius の法はビファンク権≪開墾者がその土地の占有を許される権利≫から派生した所有形態の特別な場合と思われる。――以上述べたような土地の種類の同一視はまた次のことの理由でもある。それは何故 “vetus possessor”≪以前の所有者≫が、つまりモムゼンの納得の行く説明(C.I.L., Iでの lex agraria への)に拠れば “ager publicus”のある種の占有で、その所有状態がグラックス兄弟の制定した諸法律もしくは u.a.c. 643年の土地改革法の前に根拠付けられたものであり、その時々において一般的に未測量・未割当て地の所有者と同一視される、ということへの理由であり、そのようにシクルス・フラックスの引用箇所や、更には(より具体的な把握として)フロンティヌスの p.5, 9 や、同じくシクルス・フラックスの p.157, 22 とヒュギヌススのp. 195, 17 が述べている通りである。そしてこのことは更に次のことの理由でもあったのかもしれない。それは何故 ager arcifinius が一般に完全な個人所有権を認められたものになっていなかったということの理由であり、そのことは三人組委員会による土地の強制的な買い上げと、一般的に言って強制的なやり方でのそれまでの旧所有者達への全てまとめての新規耕地の再分配に現れており、それはそれらの文献において法的な視点で実質的なこととして表現されている限りにおいて、そうだと言える。

もちろん次のことも想定出来るかもしれない。つまり、十二表法の時代での耕地分割の際の公共地の牧草地としての使用への課税[scriptura]と同じく、それぞれの土地への課税が一般的に導入されたか、あるいは導入されねばならなかった、ということである。というのは単に普通の開墾済みのマルクの自由な占有だけではなく、牧草地のそれも認容されていたということは、私が考えるに、元々その者には権利が与えられていなかった領域でのビファンク権の侵害という性格も持っていたのである。古い耕地ゲマインシャフトが併合と分離の機会において、それが元々持っていたアルメンダがその際におそらくは一般的なこととして、ager publicus という容器の中に投げ入れられたのであり、またそれまでの所有状態については特定の個人の fundus に応じての compascua への割当てということが各地で行われたのであり、それはまさに後の時代の土地の割当てと同様であり、それこそ測量人達が述べていることである。

「ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(33)P.208~211

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」(表題の訳を変えました)の日本語訳の第33回です。ここでは隣人間で共有される ager compascuus (共同牧草地)についての議論が展開されます。しかし私にはここの議論は噴飯ものに思います。測量人達が「時たま見られる」としている、単にケントゥリアで角形の土地を取っていった結果周辺部などに必然的に発生する余った土地(subseciva)を共有の牧草地として隣人間で利用する、というだけの話を、強引にゲルマン民族のフーフェ制度のアルメンデ他に関連付けて議論します。アルメンデなど持ち出さなくとも、例えば日本だってこういう共有の牧草地は「入会地」「まぐさ場」といった名前で知られていますし、牛や馬を使った農耕が行われていた所であれば全世界的にそういうものがあったと思います。ともかくヴェーバーはローマが法律によって土地制度を整備する前は、ゲルマン民族と同じフーフェ制度が行われていたという、まったく証明もされていない仮定を元に強引な議論を進めています。私はマイツェンの理論がどのようなものだったのかその著作の日本語訳も出ていないので知りませんが、ヴェーバーのこの論文全体での方法論には眉唾という気持ちが訳していて拭えません。
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もう一方で明らかなことは、農民のゲマインシャフトには、耕作地に隣接していてそこへの行き来が保証され、かつ(メンバー以外は使用禁止と)規制された牧草地の領域を持つことが必要であった、ということである。しかし次のことは確からしいと思われる。それは ager publicus の権利上の構造が、周知のように、古代での耕地ゲマインシャフトにおいての共同牧草地のそれではなく、我々はその共有牧草地の痕跡を後の時代においての、それとは別の破片のように散らばった現象において探さねばならない、つまりそれは ager compascuus ≪隣人間における共有の牧草地≫においてである、ということである。

共同牧草地 [ager compascuus]

この制度は測量人達の文献では、ただ時々のみ見出されるものとして言及しており、特にその中でも subseciva [という半端な余った土地]の転用という形である。Ager compascuus と一般的な牧草地である pascua publica [公共の牧草地]との違いは、2つの点にある。一つは、前者は測量人達の時代においてはただある特定の、多くは隣人同士である(proxim)土地区画所有者達が共有の牧草地として所有し、そしてその権利は彼らの土地の付属物として通用しており(所有権)移転の際には一緒に扱われる、という点にある 3)。

3) 測量人達の compascuus についての記述でもっとも重要な箇所は次のフロンティヌスの De contr. p. 15 である:Est et pascuorum proprietas pertinens ad fundos, sed in commune; propter quod ea conpascua multis locis in Italia communia appellantur, quibusdam in provinciis pro indiviso.
[それはまた fundus の土地に付属する牧草地の所有権であり、しかしそれは共有される;このために、イタリアの多くの場所で牧草地は「共同のもの]と呼ばれ、ある属州においては「分割されないもの」と呼ばれる。
-さらにヒュギヌスの De cond. agr. p.116, 23:In his igitur agris (den zum Verkauf bereitgestellten überschüssigen Äckern) quaedam loca propter asperitatem aut sterilitatem non invenerunt emptorem. Itaque in formis locorum talis adscriptio, id est “in modum compascuae”, aliquando facta est, et “tantum compascuae”; quae pertinerent ad proximos quosque possessores, qui ad ea attingunt finibus suis. Quod genus agrorum, id est compascuarum, etiam nunc in adsignationibus quibusdam incidere potest.
[それ故これらの土地において(売却の準備が出来ている余剰の土地において)いくつかの土地は荒れ地であるか不毛の土地であることによって買主を見つけられなかった。それ故に測量地図上に次のように書き加えられた、つまり「共有の牧草地の状態にある」と。そして時には「ただ共有牧草地としてのみ(使われる)」と記載されることもあった。その所有権はその土地の境界が接する隣人達の(共有の)所有となっていた。このような種類の土地、つまり共有牧草地は、また今日でもいくつかの割当てられた土地において(隣接して)存在している場合がある。]
シクルス・フラックスの p. 157:Inscribuntur et “compascua”; quod est genus quasi subsecivorum, sive loca quae proximi quique vicini, id est qui ea contingunt, pascua … (Lücke).
[(測量地図上に)「共同牧草地」と書かれているもの;それが subseciva の類いの土地であるか、またはその土地の近隣の複数の隣人達の(共有の)土地であるか、それがこの類いの土地が発生する理由であり、牧草地が…(テキスト欠落)。]
-ヒュギヌスス、De lim. const. p.201, 12:Siqua compascua aut silvae fundis concessae fuerint, quo jure datae sint formis inscribemus. Multis coloniis immanitas agri vicit adsignationem, et cum plus terrae quam datum erat superesset, proximis possessoribus datum est in commune nomine compascuorum: haec in forma similiter comprehensa ostendemus. Haec amplius quam acceptas acceperunt, sed ut in commune haberent.
[もし共有牧草地または森林が土地に付与されているならば、それがどういう権利で与えられているかを我々(測量人)は測量地図に書き込むだろう。多くの植民市において広大なサイズの土地を割当てることに成功し、そしてこれらの与えられた土地以外に余っていた土地があったので、それらは(近隣の)土地の所有者である隣人達の共同の所有物として compascuus の名前で与えられた:この土地については測量地図上においても同様に把握され、その旨我々(測量人)は明示する。この土地は元々(割当てで)受け取った土地以外の土地として受け取るが、しかしそれは共有の形で保持する。]
Aggenius Urbicus≪フロンティヌスの著書で引用されている技術書の著者≫の引用部分である p. 15 については後で論じる。

(二つの相違点の内の)もう一つ明らかな点は、この Ager compascuus に対する権利の保護が特別なものであったということである。「もしその土地が Ager compascuus であるならば」とキケロは言う(トピカ 12)「その権利とは共有地で家畜に草を食べさせることである」≪キケロは comasucuus と compascere を同族語(coniugata)の例として出している≫その対立物は明らかであり、つまり公共の土地において、つまりpascua publica において、ある「種別」、つまりここでは個人の権利としての、訴訟において保護される牧草地としての権利への請求権は成立していないのである。この牧草地としての権利として保護された訴えがどういう類いのものであったかは、もちろん知られていない。ひょっとするとキケロの時代においては事実上、ペルニーチェ≪Lothar Anton Alfred Pernice、1841~1901年、ドイツのローマ法学者≫が推測しているように、イェーリング流の≪Rudolf von Jhering、1818~1892年、ドイツの法学者。責任ある市民は自分の権利擁護のために戦うべきという義務を主張した「権利のための闘争(Der Kampf ums Recht)」という書籍はベストセラーになり26ヶ国語に翻訳された。≫応急的な権利訴求手段である actio injuriarum ≪不正行為に対する訴訟、名誉毀損、肉体への暴力、プライバシー侵害などの行為に対して訴えを起すもの≫に訴えるものとして理解すべきなのかもしれない。より古い時代については私は次のように考える。つまり耕地に対しての正当な持分関係を確立するための手段として controversia de modo があったのとまったく同じように、牧草地としての権利を得る上でそれに使えるように構成された何かの法的手段が存在した、ということである 4)。

4) フロンティヌスの p. 48, 26, 49(そしてそれについての Aggenius Urbics の p. 15,
28):de eorum (scil. der compascua) proprietate jus ordinarium solet moveri, non sine interventu mensurarum, quoniam demonstrandum est quatenus sit assignatus ager.
[その(compascuaの)所有権については通常の法的手続きが進められることが多いが、測量が介在しない訳ではない。何故ならばある土地がどこまで割当てられているのかをはっきりさせる必要があるからである。]

こことまた先の注釈で引用した箇所についてフロンティヌスは compasucua を controversia de
proprietate ≪所有権についての訴訟≫のカテゴリーの中で扱っている。測量人達は概して fundus
への個々の付属物――耕地区画、森林の伐採権、牧草地としての権利への請求権の行使を――controversia de
proprietateとして取り扱っている。共有牧草地についての持ち分はまさに元々は全く同じように、かつまた実際的な行使においては大きく異ならない程度に「所有権」の対象物であり、それは耕地ゲマインシャフトの中で耕地についての持ち分と同様であった。そのことから、ドイツのアルメンデ[共有地]のように,それらが容易に普通の共有の所有権となることが出来るのは明らかである。もちろん D. 20 §1 それ自体の場合においても si servitus vincidetur (8,5)(スカエウォラでは: Plures ex municipibus qui diversa praedia possidebant, saltum communem, ut jus compascendi haberent, mercati sunt, idque etiam a successoribus eorum est observatum; sed nonnulli ex his, qui hoc jus habebant, praedia sua illa propria venumdederunt; quaero, an in venditione etiam jus illud secutum sit praedia, quum ejus voluntatis venditores fuerint, ut et hoc alienarent? [wird bejaht, sodann weiter:] Item quaero, an, quum pars illorum propriorum fundorum legato ad aliquem transmissa sit, aliquid juris secum hujus compascui traxerit? Resp., quum id quoque jus fundi, qui legatus esset, videretur, id quoque cessurum legatario)
[異なる農地を所有していたムニキピウムの複数の住民が共通の放牧地を購入し、それによって共同の牧草地を持つことにした。そしてその土地は彼らの相続人によっても保持されている;しかしこの権利を持っていたこれらの者の中で何人かは、自身の遺産であるその土地を売却した;私は問うが、その売却において、売主の意向がそうであった時に、その権利も共同所有権から分割されて土地と一緒に譲渡されたのか?【これは肯定される。そして更に:】同じく私は問う。fundusの所有権の一部が遺産として誰かに渡された場合に、この共同牧草地の分割された権利も移転されるのか?ある者が答えて、遺産として受け取った土地の権利が、その土地に付属するものと見なされる場合は、その権利もまた相続人に移転されると。]≪【】はヴェーバーの追記≫
という部分は、通常の共同所有権が本当に存在していたのか疑わしく思える。(権利分割請求か?)もっとも通常はそれはもちろん可能なことであったが。考慮すべきことはいずれにせよ個々の fundus を個々人の所有に属するとしている描写であり、そして次の可能性が考えられるだろう。つまり、ここで取り扱われているのは賃貸借によるか、あるいは永代借地としてか、または購入されたか(ager quaestorius の権利で)である公有地の耕作で所有権が与えられていない場合であるということである。この場合、次のように考えられるかもしれない。つまり、この文書で主張されているように、単なる行政的に保護された権限ではなく、ある権利が得られたのであり、――そこにおいては古い制度であるアルメンデへの準拠が起きているのかもしれない。比較すべきなのは:キケロの pro Quincto. c. 6 の最後の部分である。アリメンタ制度の表≪Alimentartafeln、皇帝ネルウァやトラヤヌスの時代に設けられた貧しい家庭の子供や孤児への福祉制度。その財源として土地所有者からの寄付が使われた。≫(Veleja col. 4,、84行目、 Baebiani col. 2、49行目)の中に付属物として共通の fundus とsaltus ≪小道≫について言及されている。この制度はつまり、私が思うには、次のような人間関係を否定している。その人間関係とは、例えば耕地ゲマインシャフトの成立の際のそれとか、そして後には農地の錯綜状態や古代の土地制度の残滓である諸状態がまだ支配的であったとか、あるいは存在していたに違いないというそういう人間関係である。全ての他の状態との類推の中で、当時に唯一適用出来るのが、耕地においてある者がゲノッセンシャフトの成員として持分を耕地において所有していたということであり、そして確かにその当時牧草地の権利の範囲はフーフェの権利に従って決められていたし、そして共同牧草地の権利というのは全ての土地区画所有者に与えられていたのではなく、ただ “fundus” の資格者にのみ牧草地において割当てられていた。同様に次に耕地の分割と合併が行われた時、個々の土地所有者に一定のユゲラの面積の土地が改めて割当てられたのであるが、その分割と併合はアルメンデの共有地においては、それが以前と同一の物として一般的にある土地ゲマインデの牧草地という古い形で成立していた限りにおいては、次の結果、つまり一定の面積の土地区画についてある決まった面積が――それが全員同じ面積であったというのは疑わしいが――飼育している家畜の数に応じて割当てられ、部分的にはまた使用料の支払いに応じて割当てられた、につながったのである。土地の(再)割当てによる耕地の併合においては常にまた共有地の設定が同時に行われており、そして明らかなこととしては、そこに植民市があったと推定される場所においては、それまでのそこの土地の所有者の権利を取上げることを意図せず、むしろアルメンデを拡張された領域の中に編入することで必然的に生じる土地面積の余剰部分が得られたのであり、また元からの土地所有者は分割割当てによって一つにまとまった土地区画を得ることと経済的に解放された地位を得ることが、アルメンデの喪失という損を埋め合わせた、と信じられていたのである 5)。

5) シクルス・フラックスの p. 155, 20 の併合された土地の所有者について: … in locum ejus quod in diverso erat majorem partem accepit … [彼らに割当てられた土地はそれぞれ面積が異なっていたが、彼らはその大部分を(不平不満なく)受け取っている。]このことは次の場合においてのみ可能である。つまり、土地の併合においてはまた、新たに割当てられる面積が以前耕地として持っていた総面積よりも大きかった場合であり、そしてこのやり方はただアルメンデを同時に分割することによってのみ可能であった。

というのもこういった農地の分配はまた、既に注記したように、おそらくはイタリアにおいて古代ゲルマンの土地制度と同様に根源的なものとして成立した基礎原理、つまりフーフェの土地を所有する農民のみが、その耕地に定住している全員ではなく、牧草地の権利を与えられたということと、またそれ故に古いフーフェのある種の土地ゲマインデが成立していたこと、そういったことを一掃してしまった、――そして実際のところそのことは、土地区画の(実質的)所有者が Usukapion ≪時効による取得≫が認められることによって、フーフェの土地を所持する農民と同列の位置に置かれるようになった後は、よる古い時代の(一部の農民にのみ認められていた)権利状態を得ることが、長い時間をかけずに≪時効取得は2年≫可能となり、それについて仮定されるのは、ここで考えて来たようなやり方で同様のことが実際に起きていたということである。フーフェの土地を所持する農民とそうでない者の違いはもはや確認することが出来なくなっていたし、また人がそこからその制度を存続させようとしていた限りにおいて、人は土地の正当な所有者を見分けるためには、牧草地の土地に境界を示すものを設置するような外面的な手段に拠るしかなかった 6)。

6) 注3で引用した箇所を参照。

こうした人間関係の全体の扱いは、それ故にまたより後の時代のローマの耕地制度のこれ以外の他の全ての共通経済においての敵対的傾向に合致するのであり、それについては既に前述の箇所で見て来た。

もちろん ager compascuus は意味においてこの側面のみに限定される訳ではなく、それは土地領域を ager publicus 6a) に取られてしまうことになったのである。

6a) ここで意味しているのは:一般的な家畜へ草を食べさせることの自由と占有権の基盤となる土地に対してである。

a.u.c. 643年(BC111年)の土地改革法は、イタリアの ager publicus について25行目で次のように規定している:
neive is ager compascuus esto, neive quis … defendito quo mi(nus quei v)elit compascere liceat.
[この土地は(もはや特定の権利者だけの)共有牧草地ではない、誰も…そこで家畜に草を食べさせようと欲する者を閉め出すことは許されない。]

ager compascuus と、共有牧草地ではない ager publicus との対比を明確にするならば、前者ではある特定の土地ゲマインシャフトのメンバーのみに排他的に牧草地の使用権を与えているのに対し、ager publicusの方では特徴的なことは、上記の lex agrari の同じ箇所で規定された、ager compascuus にぴての占有権の排除、といことが実際には本質的な要素であった。この両方について、周知のように、またゲルマン族のアルメンデと共有のマルク≪アルメンデよりも広い範囲での共有地≫が所有という面で対立していたのに対応している。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(32)P.204~207

ローマ土地制度史」の日本語訳の第32回目です。
ようやく第2章が終わり、第3章に入りました。
この辺り、「階級闘争」的な描写が多く、おそらくロードベルトゥスの影響を受けているのかな、と思います。
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こういった貿易と農場経営の結びつきは非常にはっきりした形で統合されたのであり、大規模事業経営についてその中に国際的な性格を取り込むことになり、また同じくそれに対して国家の政治においての服務という位置付けも与えられたのである。しかしもちろんまた次のことも読みとれる。それはローマの世襲貴族が古代アテネのそれと全く同様に、小土地所有の農民を相当にひどい程度までに搾取し、それによってその層と対立する者[自分達]を富ましたのであると。

古代ローマの陸上の戦争が行われていた間においていまや、覇権獲得のために必要であったアルバ・ロンガ≪ラティウム地区にあったラテン人の都市国家≫の制圧と暴力的なシュノイキスモスの形での周辺地域の吸収統合という観点で見た場合、そういった戦争はただ略奪戦争という性格のものであり――そのことはまた(外交)技術的な表現である”res repetere”[取り返すべきもの]が通告祭司≪ローマの祭司でまとまってコレギウム(同業者団体)を作っており、外交に従事し戦争の開始や終了の通告を行っていた。≫の最終通告の中で使われていることと矛盾しないが――十二表法制定の数十年後に始ったのは拡大していく、戦勝の度に強まっていく対外侵略推進政策であり、それは単に政治的な支配領域の拡大という結果になっただけではなく、また同時にゲマインデに所属する住民の耕作に用立てられる耕地の領域がとてつもない面積にまで拡大されたことにもなったのであり、そしてその反面の帰結として海外展開の政策は完全に抑制されることになったのである。それと同時にローマ内部における重大な内部闘争の結果は、ますます世襲貴族の側に不利なものに成っていた。モムゼンは次のことを正当に指摘している。つまりローマの平民の大きな政治的成果は護民官の選出が民会によって行われるようになった瞬間から始っており、そしてその革新において特徴的だったのは、平民で構成される民会の代表者がローマに居住している貴族ではない市民、それは中小規模の土地所有者であったが、その代表者になったということである。実際の所、この民会の目的は以下のものであった:既に慣例として認められていた権利の成文法化、借金の免除、土地所有者の地位から落伍した余剰人員の救済を、公地をその者達に分割割当てすることとそれに使う土地を侵略によって拡大することにより行うこと、であった。農民の、あるいはより正確には中流の農耕市民派≪Ackerbűrgerpartei、全集の注によればマルクス主義者のカール・ロードベルトゥスの用語≫の目的で特徴的なことは、そこにはそういう派が次の場合には成立していたに違いないが≪ヴェーバーは Partei = 党、という語を使用しているが、共和政ローマにおいて今日の政党のようなものは存在していないことに注意≫、その場合とはそういった市民が大規模商業と都市の本質的な部分に触れることにより、そういう小規模の土地所有者としてそこに更に事業者的な外見を付加された場合であるが、その外見は我々がローマの≪大規模≫農場経営者に刻印されたものとして見るものと同じであった。そういった傾向を本質的に推進したのはしかし、土地所有の法的・経済的な自由化であったに違いなく、それはまた14世紀のフィレンツェにおいての教皇党[グェルフ]が大土地所有者≪封建領主≫であった皇帝派[ギベリン]に対して行った戦いと同様であるが――ただフィレンツェでは都市のツンフト[ギルド]≪フィレンツェではアルテ・ディ・カリマラという毛織物業者の同業者組合がかなりの力を持っていた。≫が政治力を持っており、一方ローマでは2つの土地を巡る利害関係者グループ≪全集の注によれば独立手工業者と商人のそれぞれの組合、モムゼンのローマ史による≫がお互いに対立していたのである。土地所有の法的な解放が平民層に与えたのは、セルウィウス≪第6代ローマ王》の改革でのケントゥリア民会≪ローマ軍を構成する市民による兵士をその所有する財産の額で階級分けしたもの≫の結成にあたっての、フーフェの農民による土地台帳の作成≪フーフェとして共同体から割り当てられていただけの土地を自分自身の所有の土地にしたこと≫であった。そしてそこに随伴していたのは、十二表法においての取引の自由の原則的な認定であった。我々は次のことを仮定しなければならないだろう。つまり分離と併合という性格を持っている経済的な解放はまた、共通経済的負担のようなものからの自由な個人経済への勝利であり、また土地の分割によっての耕地ゲマインシャフトの完全な個人所有権への解体であり、それがまさに農耕市民派が目的としたことであり、また≪セルウィウスの改革や十二表法と≫同じ時代における成果であった、ということを。そういった解放は、次のような意味での個人所有権の概念を作り出した、あるいはよりむしろそういった概念を土地所有に適用したと言えるのであるが、その意味とは、それは利害調整の政治が反映された人為的な産物である一方で、他方はその論理的構成を徹底研究して技巧に走りすぎた結果としての、法学者の考えであるということだが、それがそのような性格を持っていた限りにおいて、それは支配的な考え方であったし、今日でもなおそれはそうである 105)。

105) ただ暗示的なこととして考えるべきことではあるが、ここでは次のことを想起することが出来る。それはアテネのソロン≪BC6~7Cのアテネの政治家で、貴族と平民の対立を緩和するためのいわゆる「ソロンの改革」を行った。≫が、新しく発見された≪1891年1月≫アリストテレスの書簡に記載されているように、似たような≪貴族と平民の≫対立を妥協に導こうとしたことである。もしかするとこの事実が周知の≪リヴィウス、「ローマ建国史」の作者の≫報告への注釈の原因になっている可能性がある。その注釈とはソロンによる立法が十二表法制定作業の開始にあたって調査の対象にされるべきとされた、というものである。

地所についての個人所有権の解放はしかし、農耕市民派の土地制度上の目標の一つに過ぎなかった。もう一つ別の目標は周知のように、ager publicus、つまり公有地に関連したものであり、この公有地に関する争いは良く知られているように、ローマ内部の争闘としては一般的に言ってもっとも程度のひどいものを引き起こした。我々はしかし ager publicus の運命についてそれでも取上げることとする。ここではそれについてそれ自身が提供する本質的な土地制度上の現象の中において、手短かに研究を進めるべきと考えるし、それも望ましくはローマの個人所有権の対象となっていなかった地所との関連においてそうすべきであり、これからその観察を進めることとする。

III. 公有地でありかつ課税可能な土地とより劣位の権利での所有状態について

ager publicus の性格

より後の時代におけるローマの土地制度の、大まかな形でありながらそれでいてはっきりと作り出された個人所有権への対立物である ager publicus の人為的な成立の経緯について明確に描写したものは何も存在していない。それがケンススの対象とはならなかったこと、法的な保護がただ禁止令という手続きによってのみ行われたこと、またその保護がほとんど犯罪的な性格を持つ侵害に対してだけ行われたこと、その譲渡の形式が定められていなかったこと、それら全ては単純化して言えば、それが権利の譲渡ではなく、ただ保護された占有状態においての地位を継承するだけのものだったからであり、事実上の力による占有が認められなくなることによって、占有していたある面積の土地への各人の法的な関係性が消滅してしまったことは、――それは公的な土地についての最古の所有状態の周知の特性である。こうした所有状態の発生の仕方は:単なる占有と耕作を通じてであり、ただまたむしろ人口がかなり多い土地では、こういった所有状態の発生は全く普通のことではなかったように思われる。

ager privatus と ager publicus の対立について人がまずしがちなのが、その対立を耕作地と放牧地の間の対立だという形で結びつけて考えることである。実際にある共和制期の公職人は彼がある土地の割当てにおいて ager publicus を作り出した作業について次の言葉を残している:”fecei ≪おそらく feci の誤記≫ ut de agro poplico agratibus cederent paastores” 1)[私は公有地の割当てにおいて、放牧者が(土地を)鋤(農耕者)に引渡すようにさせた。]そして監察官[ケンソル]によって賃貸しされた土地区画は、≪測量人達の≫技術用語としては、多く pascua ≪牧場≫と呼ばれた 2)。

1) C.I.L. I, 551 参照。モムゼンの推定によれば、U.C. 622年[B.C. 132年]の執政官ポピリウスによるグラックスの法の執行においても同様の記述が見られる。

2) プリニウス、H. N. 18, §11。キケロ, De 1. agr. 1, 1, 3 参照。

もちろん次のことは明らかである。つまり実務的にはローマの土地の領域において公共の(共有の)放牧地が、ドイツでの村落の耕地においてのものと似たような組織的なつながりを耕地と持っているということは、既に非常に早くからもはや問題とはされていなかった、ということである。≪ドイツのフーフェ制度では、牧草地は共有地[アルメンデ]として村落ゲマインシャフト・ゲマインデの中で位置付けられていた。≫

「ローマ土地制度史」の日本語訳(31)P.200~203

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第31回目です。
ヴェーバーはイタリア半島において、ローマの前はフーフェ制度というゲルマン民族の耕地ゲマインシャフトと同様のものがあって、ローマが十二表法の時代にそれを解体して、土地を個人の私有財産にして売買も出来るようにしたことを「革命」と表現しています。しかし、ローマに昔フーフェ制度が行われていたというのはまったく検証されていない仮説に過ぎず、結局はヴェーバーも後になって間違いであったことを認めています。なのでここの記述は割り引いて読むべきと思います。
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しかしながらこれらの植民市はその後廃止され、そして後には属州においては植民市や他のゲマインデはただ例外的な場合にのみ構築され、それらに対しては設立の際に「イタリア権」[jus Italicum]≪イタリア半島以外にある都市に、ローマ皇帝がほぼローマに準ずる権利を特権として与えたもの。その都市で生まれた者はローマ市民権を与えられ、自由に財産を売買出来、また土地税も免除された。≫がその時にかあるいは後になって与えられたのである。その他の特徴として、またフロンティヌス(de contr. agr. II, p.36)が注記しているように、属州における植民市の領域は規則的なこととして納税義務を負っていた。しかしそのことによって例えば植民市の土地はローマ式に分割されるべきという原則が除外されてはいなかった。反対に第1章で分析したアラウシオの碑文からは、そこは免税の植民市では無かったが、そこでも[ローマ式の]土地の分割と配分が行われていたことを見て取ることが出来る。その碑文は土地の分割が耕地整理のためであることを明確に示している。(”ex tributario…redactus in colonicum” 103))[「課税地から…植民市の土地において与えられた。」]

103) おそらくはそこから更に割当てられる土地区画について、それぞれ異なる面積のものが作られている。この論文に添付した測量図[下図]を参照。

この碑文から同時にかなりの確からしさをもって見て取れることは、もちろんそれは他の史料によっても確認しなければならないが、属州内の植民市においての土地への課税は、個々の土地区画を単位としてされていたということである。そこの農民はそれ故、第1章で説明した意味において、土地に課された税を納める義務を負っていた。測量人達もこの碑文と同様に、――既に述べて来たことではあるが――、そこにおいては scamna と strigae [だけ]による線引きではなく、 limites [小路]によって[も]境界設定が行われていた≪つまりケントゥリアで土地分割が行われていた≫ことを述べている。このことは明確に、そこにおいては道路システム[limites]を無しで済ますことを避けようとしたのであり、また既に示して来たように、ヒュギヌスによって課税地に対する土地の割当て方法として推奨されている ager centuriatus per scamna assignatus [scamna と strigae による長方形に区切られた土地ながら、さらに limites によっても区切られており240ユゲラ≪標準的なケントゥリアは200ユゲラ≫の変則的ケントゥリアとして扱われたもの]がただ割当ての目的のためだけに使われ、その際には個々人には全て同じ面積の土地区画が割当てられたのであり、それ故に[属州の中にはない]他の植民市においてはこの方法を使う事が出来なかったのである。既に述べて来たように、いずれにせよ土地に対して課税出来るといいうことは植民地の土地割当てに対して、何らの他の経済的な損害を与えるものではなかったのであり、常にそこに内在していた要因は、目的と方法という点で近代的な耕地整理と同等の手続きの一つだったのである 104)。

104) 次のことは偶然であろう。つまりサルペンサ≪現代のスペインのウトレラにあったローマの同盟市≫とマラカ≪同じくスペインのマラガにあった同盟市≫の都市法について、耕地に関係するもの(灌漑、水道、道路)についての規定が含まれておらず、その一方でジェネティヴァ≪Genetiva Iula、ユリウス・カエサルが現代のスペインのオスナに建設した植民市≫の植民市の法にはそれらが含まれている、ということが。しかしおそらくは最初に挙げた2つの(ラテン)ゲマインデの法規は実際の所それらについては何も触れていない。その他の特徴として、カエサルにより制定されたマミリア法[lex Mamilia Roscia Peducaea Alliena Fabia]はただ植民市のためだけではなく、また「この法律によって」[ex hoc lege]構築されたムニキピウムのためでもあり、そして limites についての規定があるということは、ムニキピウムの領域においての退役兵への(小規模で非定期的な)土地割当てにおいては自然なことであった。新規のムニキピウムは、この法令に基づいて、おそらくほぼ常に、既にスッラによって行われたように、農村トリブスの解体の結果として作られ、そのことから個々人に割当てられた土地はムニキピウムに従属するものとされた。limites によって区切られ割当てられた耕地の存在ではなく、土地の面積を統一された decumanus を使った測量システムと、同じく統一された測量地図の中において、各人にボニタリー所有権の土地として、フーフェ原理に従って割当てを行う全体の耕地を管理する組織の存在こそが、これまで何度も述べて来たように、植民市に固有のものであるというのが、ここで提示して来た見解なのである。非常に稀でかつ異常なことであるのは、植民市において2つの(別々で重なり合わない基準線としての)decumanus を用いた測量システムが用いられている場合で、その例はノーラ≪現代のイタリアのナポリ県の都市、アウグストゥスとウェスパシアヌスによって多くの植民市がここに建設された。≫で、しかしそこでは一つの統一された測量地図の中では、2つの decumanus の座標系が「右の」(dexterior)と「左の」(sinisterror)という風に結合されており、私がここで主張している耕地分割の統一性の原理はここに確かな証拠を見出すのである。≪2つの decumanus が存在する植民市であっても、それを「右」と「左」という形で測量地図の中に一緒にまとめることで統一性を保ち、測量され分割された土地の範囲=植民市であるという証拠になっている。≫

ローマとその時代における土地制度上の大変革

我々は次のことを見て来たし、また先に論じて来た観点を詳細に検討する上で次のことを疑うことは出来ない。それはつまり、ローマの ager privatus [私有地]は意図的な土地政策に見られたある傾向に起因するものであり、そこではかなりの部分まで作為的な方法を用いて土地所有権の経済的・法的な配分における無制約の自由とその可能な限りの高い流動性の確保を達成しようと努めたものであり、そして事実上、多くの社会的・経済的なマイナス点を伴うことなしにそれを達成出来たということである。我々は更に次のことも見て来たし、それどころかそれを確かめることもして来た。それは、こういった意識的に人々を動かし先へと進められた発展は、ある耕地ゲマインシャフトの存在していた場所で起きたのであり、その組織については個々のケースについて再現することは確かにもはや不可能であるが、後の時代の土地制度上の秩序においての確かな特性を、より古い時代の諸制度から新しいものへの転換として説明可能にしている、ということである。ここで最後に次のことを問うのは妥当であろう:それではこのような物事における秩序の古いものから新しいものへの革命的な転換は、一対いつ頃起きたと推定されるのであろうか?というのも、ここで取り上げている転換は、徐々に変化して来た結果としてのものではなく、近代での合併と分離[耕地整理]とはその点で全く異なっている。そのような進歩を実現した決定は、おそらくゲマインシャフトの長期に渡っての検討課題に留まり、もっとも激烈な階級闘争の対象となるのが常であったろうし、それを実施することは時によっては何世代にも渡っての仕事であったこともあろうし、それはプロイセンにおいての土地規制と統一された土地分割もそうであったのと同様であるが、しかしそこにおいて導入された原則というものは徹底して新しいものであり、その中身はもっとも偉大な革命の一つであり、土地制度の領域で実現されたものである。そういった革命は、全ての土地制度において、都市において法的思考を過剰に重んじるということが起きていた場合には、同様なまたは違った形で実現されることが出来たであろうが、ローマにおいてのように尖鋭的な形でそれが行われたケースは他にはほとんどなかった。

全てが私の思い違いでなければ、我々は十二表法制定の時代においての新しい権利状態について、部分的には確かに十二表法と関連付けてそれを確認するという決定を下さざるを得ない。既にこの論文の導入部で次のことに言及して来た。つまり我々が最も古いローマの政治について知っていることの全ては、それが大規模商業の観点をもっとも重んじているという性格を持っていたということである。それ故にカルタゴとの取引契約は、それはラテン人のこの都市国家との取引をローマが独占するものであり、そしてローマだけがラテン人の原産物の集散地となり、全ての海上取引による輸入品目の独占取扱い者となるというものであり、―ローマの市民植民市の沿岸地方への独占的設置は、他のラテン人の同盟市をそこから閉めだし、諸港湾都市をローマ市民の居住区へと変え、それらはローマによって、それらがまるでローマの自身の街区であるかのように管理され、―アンティウムにおいては、そこの(元からの)住民が自分達で海上取引を行うことは禁止された。そしてまたローマ史の頂点に来ることとして、伝承によれば王政期全体を通じてシュノイキスモス≪集住、小さな町や村が集まって都市が形成されること≫が持続的に起きていたということは、これまで述べて来たことと適合している。というのも、こうした経過もまた、古代における大規模な海上取引の拠点となった都市ではおきまりの現象だったからである。ただこういったプロセスがローマにおいては適当な時機に中止され、別の方針に席を譲ったが、その一方で例えばアテネでテミストクレスがその方向を更に推進し、それによって元々アテネの位置する場所の地理的な性質が元々持っていたリスクを増大させ、市場と後背地を結び付けていた神経網が後にずたずたに寸断されるという結果を招いていた。≪ヴェーバーがここでアテネについて言っていることを推定すると、おそらくはテミストクレスがペルシアを打ち破るために多数のガレー船を建造して海軍力を強化し、その結果サラミスの海戦で大勝利を得、そのおかげでデロス同盟という形でエーゲ海一帯を支配して大きな輸出市場を得ることに成功したが、その後にスパルタとの戦争に敗れて海軍力を失うと、アテネの経済の根幹であった貿易依存がまったく立ちゆかなくなったことを言っているのかと思われる。これと比較してローマはカルタゴとポエニ戦争を始めるまではほとんど海軍力を持っておらず、これはヴェーバーが言うようにどこかで海外市場開拓路線を止めたためかと思われる。≫このことは古代の特性に合致しているが、ここまで徹底して行われたのはただイギリスにおいて大規模植民地拡張の時代にそれが見直されたことがあるくらいだが≪ここのイギリスの説明はいつのことを言っているのか不明。イギリスがヴェーバーの時代に自由貿易主義から植民地中心主義に転じたことを言っているのか?≫、我々はここではまたローマにおいての世襲貴族を、大規模商業を推進していた大土地所有者[農場経営者]の身分として考えてみる必要があるだろう。その身分については、この2つの職業[貿易業者と農場経営者]の社会的評価という意味で、それに対する郷愁が後の共和国時代にも知られているように、まだ残っていたのである。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(30)P.196~199

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第30回目です。ここの注102は長さにして小さな字でほぼ2ページもありますが、その内容は、ヴェーバーとモムゼンが、ヴェーバーの博士号論文審査の時に議論した「ムニキピウムとコローニアの違い」に関するものです。モムゼンは「マックス君、そうは言っても君が主張しているような仮説を裏付けるような文献史料を私は知らないね。」という態度で、私はここに文献学者として慎重さを保つモムゼンと、限定された少数の資料からかなり強引に仮説を作り出そうとする(しかもかなり多くの場合間違っている)ヴェーバーの学問手法の本質的な違いが出ていて興味深いです。
個人的な意見ですが、ローマの植民市は入植ということが第一目的なのではなく、軍事拠点として退役軍人にそこの土地を割当てて住み着かせ、彼らを予備役として、またその子弟が新たに兵士となって防衛を維持していく、ということが第一目的であったように思います。その場合兵士に均等に土地を割り振るのに、元々の所有者の境界線をそのまま使わず、正方形ないし長方形の土地を機械的に作ってそれを割当てるのはある意味合理性から考えて当り前であり、それをドイツの耕地整理と同一視するのは違うのではないかと思います。
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既に先の箇所で述べて来たことであるが、我々における近代的な土地の分離と併合[耕地整理]は、同じ手段で同じ目的を達成しようとするものである。それが成立するのは、錯綜地の中にある土地区画のその価値に応じた強制的な交換を行うのと、それによって可能になった共通経済的な関係から生じて来た地役権と所有権への制限を撤廃するという状況においてであった。全く同じ成果が次の場合にも得られていた。それは、ある耕地がそれまでの所有者によって分割されており、そしてローマ式のやりかたで割当てられた時、この後者が実施された場合である。この場合連続した所有地[continuae possessiones]が作り出され、そしてまたその手続きも同じであった:”particulas quasdam agrorum”[ある土地断片を]、シクルス・フラックスは言う(p.155)、”»in diversis locis habentes duo quibus agri reddebantur, ut continuam possessionem haberent, modum pro modo secundum bonitatem taxabant.”[異なる場所にいくつかの土地の断片を持っている二人に対して、その土地が(再割当てのために)返還された場合に、二人が連続したまとまった土地を改めて持つことが出来るように、それぞれの土地の面積について適切で公正な評価が行われた。]こうした耕地移転の手続きは測量人達の見る所では、植民市建設という概念から見て余りにも当り前のことだったので、ヒュギヌスは次のような見解に到達出来ていた。つまり土地の所有者達は、彼らには単純に元通りの面積が返還されるべきであり、また彼らの社会的な地位(condicio)は変えられる(mutata)べきではなく、そのため植民市の団体の中に編入されることが全くない、という見解である(p.119, 18)。我々は先に更に次のことも見て来た。つまり植民市の全耕地は根本的なこととして、ローマ式の耕地の分割と割当ての及ぶ所と一致していたということである。これについて、我々は次のことが定められていたとまでは主張するのではない。つまりこのようなローマ式の耕地分割のやり方が、この種のローマ市民の植民地にとって本質的なことであるとか 99)、またこのやり方が行われなかった場所ではローマ市民の植民地は全く成立していなかった、ということである。ローマの市民が植民した場所が植民市となるのではなく、イタリカ≪スペイン南西部の植民市≫においてのように 99a)、またある場所で全ての植民がローマ市民によって行われたということがそこを植民市にするのではなく、ローマ式の耕地分割が行われて初めてそこが植民市となるのである。

99) ここでは次のことを確実であると主張しているのではない:1) ――自明のこととして――全てのローマ式の耕地分割は植民市の建設を伴っていた、2)――土地制度が市民植民地の唯一の本質的な目印である。

99a) C.I.L., I 546 とモムゼンの引用済みの箇所を参照。

それ故にアグリゲントゥム≪現在のシチリア島のアグリジェント、元々ギリシアの植民市で後にローマの植民市となった。≫は植民市であったという推定にもかかわらず 99b)、ローマ市民の植民市では全くなかった。というのはそこでの耕地は外国の法に基づいていたのであり、同じく言えることとして、ローマ式の耕地分割は明らかにラテン人による植民市の市民植民市の目印の一つであるからである 100)。そのような植民市が事実上またはもっぱらローマの市民によって建設されたと推論される場合でも 101)、その植民市はそれによって直ちに市民植民市となるのではない。何故ならばそこの耕地は外国人の土地[ager peregrinus]に留まっていたからである。そして逆にあるローマの植民市がラテン人やその他の同盟者によって分割された場合、その分割方法がローマ式であった場合は、ローマ市民の植民市という性格は失われなかったのである。

99b) C.I.L. X, p.737 参照。

100) 我々はラテン人の植民市における耕地分割の実例を知っていない。またそもそもそれが一般的にローマ式に分割が行われていたのかどうか、またそれによって subceciva ≪分割の結果生じた非角形の土地≫が生じていたのかどうか、更にそこから何が生じていたのかについては、我々は判っていない。我々が文献史料から知ったのは、その耕地はローマの耕地とはされなかった、ということだけである。より古い時代での土地制度における異なった性格について明らかになっているのは次のことである。つまり市民植民市における(一日の)入植者の数は常にフーフェの成員300人であったことが推論される一方で、それはローマの一部族の成員数(の単位数)と一致しているが、ラテン人の植民市においてはそういった数的な条件は存在していなかった、ということである。

101) そのようにリヴィウスの34, 53 では述べている… Q. Aelius Tubero tribunus plebis ex senatus consulto tulit ad plebem plebesque scivit, ut Latinae duae coloniae … deducerentur. His deducendis triumviri creati, quibus in triennium potestas esset. [クイントゥス・アエリウス・トゥベロが護民官として元老院の指示により平民会に次のことを提案し、平民会がそれを承認した。それは2つのラテン人の植民市を建設することであった。この建設のため3人組委員会が作られ、その任期は3年であった。]ここでイタリアにおける植民市についての推論で正しいと思われるのは、それが純粋にローマの仕事として行われていたということである。

植民市法[jus coloniae]の土地制度上の意味

こういったやり方での土地制度の特質が市民植民市についての本質的な目印であったとしたら、後の帝政期には全ての政治的な差異がほぼ無意味になってしまった≪最終的に皇帝カラカラが属州の住民にもローマの市民権を認めた。≫ことを考慮すると、次のことを仮説として提示出来る。それはつまり、諸ゲマインデが、それはこの時代には徐々に植民市に変わり始めていたのであるが、まさにこういった土地制度を導入する上において、植民市への転換ということが実質的・本質的には土地の併合と分割を伴う耕地規制を受け入れることを意味していたのである 102)。

102) 私は既に私自身の公的な学位の昇進≪1889年8月にベルリン大学で法学博士号を授与されたこと≫の際に、我々の偉大なる学問の巨匠であるモムゼン教授と、ある[ラテン語から]翻訳されたテキストの解釈について議論を試みるという栄誉の機会を得ることが出来た。≪ヴェーバーの博士号論文である「イタリアの諸都市における合名会社の連帯責任原則と特別財産の家計ゲマインシャフト及び家業ゲマインシャフトからの発展」の公開審査の際に、テオドール・モムゼンがゲストとして招かれていたが、一番最後になってヴェーバーに対し、ヴェーバーがそれまでの議論の中で示したローマにおけるコロニアとムニキピウムの違いの説明について、それについて長い間悩んでいたモムゼンがヴェーバーの解釈について質問し、議論したもの。モムゼンはヴェーバーの説明に納得しなかったものの、「<息子よ、私の槍を持て、私の腕にはもうそれは重すぎる>と誰にもまして私が言いたいのは、私の高く評価するマックス・ヴェーバーに向かってであろう。」という祝福の言葉を与えて議論を打ち切った。おそらくその後も二人はこの問題について口頭で議論を続けていたようで、この注釈はヴェーバーからのモムゼンへの議論の続きであると思われる。≫モムゼン教授はその際及びまた後の機会に、私の仮説については決定的な証拠がない、と仰っていた。ただ私が信じたいのは、諸事実の全体の関係からそれについては一定の確からしさがある、ということである。ローマの歴史的諸文献の中に、ムニキピウムとコロニアの違いという論点において、この[土地制度という]側面が言及されているものを見出すことが出来ないということは、私の仮説を裏付ける根拠が与えられないということである:[しかし同様に]人が膨大な我々の近代の資料の中にプロイセンの耕地整理に対する評価を探し出そうとしても無駄であろう。ある近代の耕地整理されたゲマインデと(されていない)他のゲマインデの国法上の根本的な差というものは、ローマの帝政期のコロニアとムニキピウムの間の差と同様にほとんど存在しない。私は次のことを否定するつもりはない。つまりコロニアとムニキピウムの差異は歴史的には、かつそれに関わった者達のイメージとしては、まず第一に次のようなものとして成立しており、つまりコロニアの方がまずはほとんどの場合で全くの所非独立の外国における市民居住区であり、それに対してムニキピウムの方は多くは昔からの主権を持った都市国家が国家としての統治権を一部だけ残して大部分を失ったゲマインデになったものであり、この二つが国法上は帝政期に別々のものとして存在していたのである。しかし市民植民市が元々は市民の居住区として管理されていたのであろうという一方で、しかしそれはまた最初から本質的に同程度に耕地の分割とフーフェ組織にも依存するものでもあった。ラテン人の植民市が同盟市戦争の後全て例外なくムニキピウムになったということは、それはしかしまたローマ式の土地管理を行う組織が存在していなかったことにも強く影響されていた。全ての耕地整理が植民市の形成原理として不可欠なものとして行われたとは私は主張しない。しかし次のことは正しいと信じている。つまりローマの市参事会によって全ての耕地の統一的な配置換えが統一的な decumanus [と card]を使った測量とそれに基づいた測量地図の作成が行われた場所においては、耕地整理こそ植民市の形成原理だったのであると。-モムゼンは (Schriften d. r. Feldm. II, p.156)グラウィスカエ≪エトルリア人の都市、タルクゥイニーにある港≫とヴェールラエ≪現在のイタリアのヴェーロソ、ローマの東南東79Kmに位置する。≫を次のようなゲマインデの例として挙げている。それらにおいては耕地整理がそれによってゲマインデから植民市に昇格するという意図無しに行われていると。liber coloniarum の注釈 (239, 11)はヴェールラエについて次のように述べている:”»ager ejus limitibus Gracchanis in nominibus est adsignatus, ab imperator Nerva colonis est redditus”[そこの土地はグラックスの名前において設定された境界線によって割当てられており、皇帝ネルヴァ≪第12代ローマ皇帝、在位96年9月~98年1月≫によって植民者に引渡された。]の部分は私の見る所では、そこで起きたことの結果を記述しているものではない。そこでのグラックスによる境界線設定においては、ただ退役兵への非定期的・小規模な土地割当て、つまりは耕地のほんの一部分のことを扱っているに過ぎないのである。グラウィスカエの場合はまた事情が異なっている。この都市はU.C.573年[BC181年]に建設された市民植民市である。liber coloniarum はこの都市について次のように言っている(p.220, 1):Colonia Graviscos ab Augusto deduci jussa est: nam ager ejus in absoluto tenebatur. Postea imperator Tiberius Caesar jugerationis modum servandi causa lapidibus emensis rei publicae loca adsignavit. Nam inter privatos terminos egregios posuit, qui ita a se distant, ut brevi intervallo facile repperiantur. Nam sunt et per recturas fossae interjectae, quae communi ratione singularum jura servant. [グラウィスカエの植民市は、アウグストゥスの命令によって(新たにローマ植民市として)設置されたというのもそこの土地は(ローマによって)完全に保持されていたからである。その後皇帝ティベリウス・カエサル≪既出≫が面積を測り記録するという目的で境界石でその土地を分割し、ローマの人々にその土地を割当てた。それは個人の土地の間に境界を区別するために(境界石が)設置されたのであり、それぞれの境界は離されて設置されており、それは見分けることを容易にするためであった。というのも直線の溝が設置されており、それによって公共の方法として個人の権利を守っていた。]

グラウィスカエの遺跡。境界線としての石積みが確認出来る。(溝は明確には残っていない。) English: The excavations of ancient Gravisca, the harbour of Tarquinia. Date 26 September 2012, 19:50:05 Source Own work Author Robin Iversen Rönnlund

――植民市の領地は――というのもその植民市は(ejus という語が示すように)またアウグストゥスのもの[皇帝領]としてあった、そして「彼の植民市」という語については、グラウィスカエに関してセルスス D.30 de legatis II でも使われており――アウグストゥス帝の時代には「完全に」[in absoluto]所有されていた。土地区画に対しての Usukapion の結果として、それは古いシステムを破壊して置き換わったのである。アウグストゥスはそれ故に、その都市を[市民植民市に]転換することを命じた。それはつまり、(nam という語で)関連性が示されているように、ただ:その都市をローマ植民市に置換し、面積ベースで新しい割当てを実施し、そして測量地図にそれを記入するということである。よって転換と置換は同じことを意味しており、それは前記の引用箇所の見解に合致するが、ティベリウスはしかし全く逆のこと、つまり個人の所有地の境界に(inter privatus)石を設置し、個々人の所有地を保証することをやったのである。ティベリウスはひょっとするとその都市が植民市となる資格、もしそれが成立していたとした場合であるが、それを反古にしたのであり、それは彼がまたプラエネスラ≪パレストリーナ≫でやったのと同じことであった。私の見解ではこの箇所は私がここで提示している仮説の証拠となっている。(しかし)この仮説が仮に正しいとしても、この論文の大部分の記述と同様に、そこにおいては学芸における最も困難なこと、つまり”ars ignorandi” ≪重要ではない情報を無視し、本質的な部分に集中するという学問・討論上の技法≫が何重にも失われてしまっているのである。私は次のことを確かに自覚している。つまり私の記述において明確化という意味で成功していない多くの命題が見出され、それらについては個々の[文献]調査によって再検証されなければならないということである。それについてはただ私が、ここで提示した見解について、それをより大きな因果連関の中で検討する試みをせず、ただそれを何としても記述しなければならないという強迫観念に駆られていたことに、自分で気が付いていなかったと言える。

逆にティベリウス帝によるプラエネステの場合のようにその土地をムニキピウムの地位に戻すことになった場合は、次のように考えることが出来るであろう。つまり元々の土地制度についての調整とそれに伴う一定の結果的処置が意図されていたのであると。そしてこのケースこそまさにそうであったと推論出来る。ローマにおける耕地の分割でもっとも面倒な要素は、道路をどう作り直すかということと、元々の境界線を開放することであった。プラエネステはこの場合、全ての耕地領域が既にキケロの時代において少数の大土地所有者のものとなっており、彼らにとって元々の境界線を開放することはまったくメリットが無いことであり、彼らの所有地をばらばらに分割している境界線は非常に取扱いが難しいものであり、(開放した場合は)そこからごろつきどもが彼らの邸宅の庭やテラスに入り込むことが出来てしまうのであり、このことを禁止令によって防止することが可能になっていた。彼らの便益のために、元の境界線の開放という必然性は取り除かれることになった。――

我々はここまでもちろん本質的にはイタリアの土地においての植民市の建設を我々の観察の中心に据えて来たが、その場合に結果として生じたのは、そこの土地をローマ式の非課税の個人所有地に割当てるということである。我々がその際にイタリアでの植民市化を属州と明示的に区別していないということは次のことに起因している。つまり、二つの概念の全ての相違点にもかかわらず、ここにおいての本質的・経済的な諸連関においては注目すべき差異が存在していない、ということである。全ての点においてイタリアでの植民市化と同じやり方の:非課税の個人所有地の割当てを、一属州に対しても適用するということは、C. グラックスがカルタゴに対して初めて行ったことである。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(29)P.192~195

「ローマ土地制度史」の日本語訳の29回目です。ここでは錯綜地(Gemengelage)という概念が出て来て、断片的な地所で複数の地主のそれが混じり合っているような土地の状態を言います。ローマの土地の分割割当てはそれを整理するものでしたが、ドイツではその後また錯綜地に戻ってしまっているということが述べられます。なお、現代の日本では土地は4m以上の幅の道路に2m以上接していないものについては建物が建てられません。(接道義務)しかし、東京の下町などではそういう義務を満たしていない土地に建物が沢山建っていて、そういうのを「既存不適格」物件と言います。そういった不動産を買っても、その建物を壊して新たに立て直すことは出来ず、そのままリフォームするぐらいしか出来ません。
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我々の言う意味での物的負担の欠如と同様に、また根本的なこととして土地に地役権≪契約によって、その土地を占有はしないが何かの特定の目的に使うことを許される権利、例えばその土地の通行権≫が設定されていなかったことが、ローマの ager privatus の本質的な特徴であり、そのために地役権が設定された耕地は少なくとも ager optimo jure privatus の分類としては把握されていなかった 93)。

93) 明らかにこの表現[ager optimo provatus]で規定されているのは「併合されてそれから分離された」耕地であり、それは何よりも共通経済的な地役権や耕作強制を免除されていた。というのは測量人達の時代になってもなお、また ager privatus ex jure Quiritium [法律上クイリーテース所有権が認められた私有地]においても、後で詳しく述べるがシクルス・フラックスの P.152で述べられているように、イタリアにおいては錯綜地≪Gemengelage、耕地整理前の土地で複数の地主の断片的な土地が複雑にまじりあった状態の土地≫が存在していたからである。(次のことに言及しても問題はないと思うが、ブレンターノ教授≪Lujo Brentano、1844~1931年、ドイツの国民経済学者、後にヴェーバーと資本主義の起源を巡って論争することになる。≫もまた、私の友人の一人の[大学在籍]当時の講義ノートから判断した限りでは、この錯綜地について書かれている箇所を、ドイツの耕地において我々が考えるそれと同じ意味のものであると解釈していると思われる。)しかし錯綜地が発生している場所においては、シクルス・フラックスが先に引用した箇所で言及しているように、お互いに必死になった土地の奪い合いという事態を避けたい場合は、そういう状態は多くの場合、ゲマインデが設置した道路を境界線に使うというやり方では解消されなかった。その場合には耕作強制に類似した何かがより古い制度の残余物として存在していたに違いない;-もちろんその場所での法令に従った農耕に対する規制を行う立場にあったり、そのゲマインデの長であった者について、pagi ≪古代の共同体≫やその長やその他の類似する何者かが本当にあった/いたのかどうかということについては、私はここでは敢えて見解を差し控える。

ある土地に地役権を設定するということは、特徴的なこととして、その土地を譲渡する時と同じ法的書類を必要としていた。地役権設定の件数は非公開であり、ある土地に強制的に地役権を設定した事例は、それを基礎づける法規がその権利を明示的に留保していない限りにおいては、知られていない 94)。

94) それ故に水道橋設置という利害関心での強制収用権は、植民市のゲネティヴァ・ユリア≪現代のスペインのオスナにあった植民市≫の条例の C.99 において留保されている。(モムゼン、Eph. epigr. II P.221fにて)ルッジェリ≪Odoardo Ruggieri、19世紀のイタリアのローマ法学者≫(Sugli uffici degli agrimensori [測量人の事務所において])は正当にも次のことに言及している。つまりただ私的な処分のみが、非公開の地役権の件数として記録され本棚の中に封じられたのだと。それに対して、各種の土地法によってもこうした強制的な地役権設定というものは作りだされなかったのである。(D.17 communia praediorum [農場の公共財]を D.1 §23 de aqua et aquae pluviae arcendae [水と貯められた雨水について]と比較せよ。)

契約による地役権が設定された土地は同様に、地所の境界それ自体を管理するのと同じく、境界石を設置して管理されるのが常であった 95)。

95) 地役権を示す碑銘が、私が Corpus Inscr. Lat を通して読んで見つけたものだが、先行して記録されており、それは全ての場合ではなかったにせよ、割当てられた耕地においては広く行われていた。

ager privatus への権利設定における経済的な基礎

次のことは明らかである。つまりそのような[地役権の設定された]権利状態はただ、ある耕地についてその分割の仕方が、個々の所有者に対して個人の経済行為の完全な自由を可能にしていた場合にのみ可能となっていた。というのはこのことはまたローマの測量においてのもっとも顕著な経済的傾向だったのであり、特別にかつ相当に強い程度において、ケントゥリアによる測量[と分割割当て]の場合がそうであった 96)。

96) 次のことは既に述べて来たが、ager scamnatus に設定された limitesも同様に先行して行われており、後の時代になって liber coloniarum に書かれているように、規則的に行われ、そしてまた土地区画の中のある制限された数の面積についてのみ許可されており、そういった例の中では、スエッサ・アウルンカにおいてのように、ただ森林だけが特別に分割されていたという例もあった。

ローマの測量制度は土地の所有者に関連してまず第一に――それについては既に他の学者が言及しているが――その地所に対しての[第三者の]完全な立ち入りの自由を許していた。limites は公共の道路であり、そしてこの性格において、考え得る限りもっともはっきりした形で次のことに対しての保護が与えられていた。それはつまり誰に対してでも、また本来そこに対して何の利害関係の無い者に対しても、そこでの通行が許可されたのであり、そして例えそれがただの権利の濫用≪ChikaneまたはSchikane、シカーネ禁止原理=他人を害する目的での権利行使の禁止≫の結果起きた場合であっても、自身の努力によりまたは禁止命令の手続きの力を借りて、その開放状態を保つことが強制されていた。

もちろんそこにおいては、ある別のもっとも重要な動機が含まれている。我々のドイツの錯綜地の場合と同様に、あるどこかの場所において次のことはほとんど不可能であったであろう 97)。それはつまり上記の目的:全ての土地区画に対してその所有者のそこへのアクセスを確保することを、ある耕地にてその閉じた平野の中において個々の所有者の土地区画が互いに隣接して並んでいない場合に、実現することである。

97) 既にP.192(原文)の注93にて言及済みである。

我々の時代における土地の分割と併合[耕地整理]は、というのもまた常により大きな一つにまとまった面積の土地を作りだし、その結果統一された道路システムの導入を可能にしているのである。我々が参照している文献資料は非常に確実なこととして、ローマにおける耕地分割もまた原則的に一つのまとまった面積の土地(continuae possessiones [連続した所有地])を作りだしていることを述べている 98)。既に論じたことであるが、より正確に言えば、次のようなことが先行して行われていた。つまりある農耕地の内部でのある特定の地所について、特定の森林区画が付属物[通路の代わり]として割り当てられていたということである。その例は、スウェッサ・アウルンカにおけるものであり、そこではそれ故にケントゥリアではなく、 scamna による土地割り当てが行われていた。しかしそういったケースは例外であり、特別な事情によりそれが行われたと説明されるべきものである;その他一般的には各人に割当てられた土地区画は、それらの個々の面積の大小に関係なく、ある平野の中でのみ割当てられた。

98) ヒュギヌス P.130, 3: respiciendum erit … quemadmodum solemus videre quibusdam regionibus particulas quasdam in mediis aliorum agris, nequis similis huic interveniat. Quod in agro diviso accidere non potest, quoniam continuae possessiones et adsignantur et redduntur.
[考慮されるべきことは…我々がある領域においてしばしば見るように、他人の土地の中にある小さな土地が入り込んでいることが、あなたはないようにすることです。このことは分割された土地では起き得ません、何故ならば連続した所有地が割当てられ引き渡されるからです。]
p.117, 14. 119, 15. 152. 155, 19. 178, 14.を参照。

土地の併合と分割

次に測量人達は次のことを我々に伝えている。つまりこの土地が一つにまとまって閉じていることは、次の状態と対立しているものであると。その状態とは多くの植民市においてその周りを取り囲む耕地において、まだ分割割当てとそれによる植民市の建設が行われる前の状態である。

我々は第1章で次のことを見て来た。つまり測量人達がローマによる測量がまだ行われていない耕地を ager arcifinius 、つまり「曲線によって境界付けされた(土地)」と名付けていたことを 98a)。

98a) ロビー《Henry John Roby、1830~1915年、イギリスの古典学者でローマ法に関する著作者。》のケンブリッジ・フィロソフィカル・ソサエティー II 1881/82 P.95 に学会録にそう記載されている。

そういった土地については、ローマの角型の土地とは反対のものとして表現されている。しかしそのことによって、その概念は不規則な土地ブロックに対する専権的な耕地分割と必ずしも結びつけられる訳ではない。ある人が初めてフーフェ原理によって展開されたドイツの耕地図を見たとしたら、まず言えるのはそこの根底にある原理をまったく見出すことが出来ないであろうと言うことであり、その人の目に入るのは所有権に関連する土地の境界が曲がりくねっているということであり、それは部分的には分割された角形の土地の価値についての調整の結果であり、更にはまた部分的にはその隣人の鋤による[長年の]耕作の結果である。≪ドイツで使われていた鋤を牛などに牽かせると、しばしば曲がりくねって耕すことになり、その結果土地の境界線が時間が経つほど曲がりくねることとなった。≫ローマ以前の土地分割についての統一的な原則は、全イタリアにおいてある程度判明しているものはほとんど存在しないが、しかしこの場合特徴的なこととして明白に理解されるのは、非常に膨大な数の耕地が、ローマ以前の分割の仕方に戻ってしまっているということである。このことはまさにシクルス・フラックスが次のように描写している現象である:
“in multis regionibus comperimus quosdam possessores non continuas habere terras, sed particulas quasdam in diversis locis, intervenientibus complurium possessionibus: propter quod etiam complures vicinales viae sunt, ut unus quisque possit ad particulas suas jure pervenire … quorundam agri servitutem possessoribus ad particulas suas eundi redeundique praestant.”
[多くの領域において我々測量人は次のことを見出す。それは土地の所有者達がそれぞれ連続してまとまった土地を所有しておらず、そうではなくて別々の場所にある複数の所有地を断片的な形で持っているということである。このためにまた、多くの近隣の道路について、ある者が自分の断片的な土地の一つにたどり着くために、多くの道路を経由しなければならず… 誰かの土地に対して通行する地役権を持った者達により、自分自身の土地に行き来するのに、他人の土地を通るということが行われている。]
同じ現象についてヒュギヌスも(gener. contr. P.130の先に引用した箇所)言及している。我々(ドイツ人)はこういった事例を見ると直ちにドイツの錯綜地に結びつけて考えるが、確かに実際の所、人が何らかの形の耕地ゲマインシャフト(耕地共有)から土地分割へと踏み出し、そしてその際にその耕地全体の(効率性といった)評価を十分出来ていない場合には、直ちに同様のことが発生しているのである。そのことについては既に次のことを確からしいこととして見て来た。それは laciniae [断片的な土地]における土地分割で、それが最古の植民市であるオスティアとアンティウムで起きた場合には、そこで見られたことは人々がその場合でも土地分割をなお耕地ゲマインシャフトの枠組みの中で行っていたということであり、そして更に後の時代になって耕地全体の分割へと進んだ場合でも、分割割当てについてのローマ式の原則にはなお従っていなかったということである。シクルス・フラックスの viae vicinales [近隣の道路]についての所見に拠れば、そのような耕地における耕作強制やあるいはそれに類似したゲマインシャフト的な土地耕作の形態は、規則的なやり方ではもはや行われておらず、そして実際の所そういったゲマインシャフト的な原理はローマにおける私有財産制と共存出来なかったのである。後の時代のローマの土地割当てはいずれの場合もむしろ、既に見て来たように、次のようなやり方に依拠していた。それは分割される土地区画をひとつの閉じたまとまった面積に保ち、それによって初めて整然とした道路システムが可能となり、個人の経済活動に対して完全な自由を保障する、そういうやり方である。錯綜地の成立に当たっては、近隣道路[viae vicinales]という不釣り合いに多くの面積を非生産的なやり方で要求する、先に述べたようなやり方無しには行われていなかった。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(28)P.188~191

「ローマ土地制度史」日本語訳の第28回です。ここではいわゆる不動産への抵当権設定というのがローマでどのように導入されたかが議論されます。それが最初は公共団体がレンテンカウフのやり方で課税することから始まっているというのは興味深いです。考えてみると我々も不動産を持っていると固定資産税という形での「永久金」を国に支払わなければなりませんが、この起源は古代ローマな訳です。
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ローマにおける不動産信用

国家においての信用保証は、良く知られているように保証人(praedes)によってかあるいは不動産(praedia)によって行われねばならなかった。praedia による信用保証は考え得る限りもっとも簡単な形で行われた:抵当に入れられるべき不動産に対する、その取引きに参加する者からの口頭での説明に基づいた公職人による保証という形でである。その不動産についてのもっとも新しい所有権者であるという証明は、その本人によって、ケンススにおいての申告と同様に、つまり確からしく思われるのは測量地図と Manzipation においての各種書類、あるいは単純にケンススの登録リストを参照して確実に行われていた。更に考えられるのは、ただクイリーテース所有権の場合のみ公職人の保証が与えられることが出来たということであり、善意による取引きの2形態≪クイリーテース所有権の土地とボニタリー所有権の土地の取引き≫の実務における違いをここでも確認出来る。praedia patria、つまり相続した家族が所有する不動産であるが、それは優先権を与えられて取り扱われた 87)。その理由は、頻繁な不動産取引と、またケンススの登録は土地区画に対して Usukapion が行われたことにより、本当の所有者について必ずしも常に信用出来る情報を提供出来なかったためであり、「古くからの確かな不動産」が担保設定の対象物としてその地位を高めたのであり、それは Usukaio pro herede≪既出≫がもたらしたものと同じであり、それの公的な人間関係での意義については既に述べて来たが、相続ということが所有においての最良の理由付けだったのである 88)。

87) ただ相続された土地 [ager patrius]のみが一般的に優先権を与えられていたことは lex agraria 28の1においては何の説明も無い。逆にそこでの表現の仕方は、次の事を示唆しているように思われる。つまり相続遺産による担保は、他の農民との関係で許可されていた担保一般の中のある特別なケースに過ぎなかった、ということである。次のことは考えられる。つまり抵当設定しようとしている土地の面積とその抵当が担保しようとしている金額の比率は、相続遺産の場合は他の場合の土地所有よりも有利に計算されたのだと。

88) 土地所有に関しての権利関係が複雑または不透明であった所では、至る所で同様のことが起きていた。例えばイングランドでは、相続によって自己の権利を守ろうとする請求者の seien ≪イングランドでの封建制の下での占有地≫がそれ故権利的にはもっとも強いものであった。

不動産による保証は完全に抵当権設定としての効力を持っていたのであり、更には私有地の売却を通じて――多くの場合購買を頻繁に行う者の不確実な債務保証について――譲渡可能性が欠けている他の債務保証の方法とは反対に、実現可能性が高いものとして優先的に採用されていた。こういった洗練されたやり方での不動産抵当の構成は、それはもちろん債務保証を行う公職人である監察官に関係することであるが、それを唯一の公的な登録であるケンススのリストに依存するやり方、それは個人所有の不動産信用において利用可能ではあったが、不動産抵当と比べると、後者はより貧弱なやり方という印象を受ける。より古い時代において存在していたのはただ mancipatio fiduciae causa ≪担保の目的で自己の所有権を相手に一時的に渡すこと≫だけであり、それはつまりクイリーテース所有権の引き渡しであり、抵当権設定者(債権者)に対してケンススの登録に基きまた私法における第三者との関係に基いて所有権者がその権利を第三者に提供出来るようにしたものである。その後にボニタリー所有権による動産抵当(質権)が登場し、最終的にはギリシアから伝わった不動産に対する抵当権が使用されるようになった。これについては望ましい権利形態として使われるようになったが、この形式を利用した個々人の行為は公的な登録[であるケンスス]と無関係に行われており、そして債務と所有権の関係の不透明性によって、規制の元での現物信用を目的とするものではなく 89)、それは例えば土地改良のための融資や、何らかの意味のある範囲での利子付き抵当を利用した資本投下が可能にしたであろうやり方とは違っていた。

89) 債権者が不動産の獲得についての証拠書類を提出してもらうこと≪だけ≫を保証されていたとしたら、その場合債務者は再び、D. 43 de pigneraticia actione [抵当設定行為について](13、7)が規定しているように、事実上は不動産を譲渡する以外は出来なかったであろうし、そして債務者の状態は、一時的な抵当とより古い時代の無定形な質契約が可能にしていたものと比べて不確実なものに留まっていた。

後の時代の pignora publica ≪公的な債務についての担保≫と quasi publica ≪準公的な債務、例えば公共性がある事業に使う資金への担保≫に対してもまだ十分な保護は与えられておらず、いずれにせよその状態については≪ヴェーバーの時代の≫今日のフランスにおける現物信用のレベルに留まっており、そのフランスの場合では良く知られているように、古代ローマと同じような理由から「確かなデータ」付きの証拠書類が重要な役を演じているのである。ここにおいて有用であったのは単に次の手段のみであった。その手段とは一方では個人の財産について、その所有する不動産に対して利子付きの資本を何かの目的で(多くの場合は公共への寄付としての何かの建造)調達するために担保設定し、そして他方では諸ゲマインデがその所有する資本を確実に利子を得る目的で投下しようと欲し、その手段を利用した 90)――つまり利子払いの条件でゲマインデの地所を個人の財産へと引き渡し、その地所を得る個人に対して永久に支払い続ける地代[Rente]を ager vectigalis[課税付きの土地]として希望する利子を課して返済の義務を負わせたのである。≪このゲマインデの例はいわゆる Rentenkauf と同じである。初期の Rentenkauf は説明されているように支払う利子が本体の償還に及ばず、永遠に払い続けなければならず。Ewiggeld[永久金]と呼ばれた。≫それからゲマインデは「最初の抵当」をこの(永久払いの)利子に対して持つことになったのであるが、その成果はただ地所を ager optiomo jure privatus ≪既出≫から除外することのみによって達成されることになっていた。個人の債務者は、我々が知る限りでは、この手段を利用することは出来なかった。何故ならば課税のために土地を貸すことは国家の特別権だったからであり、そしてローマの国家と皇帝以外では、ただ諸ゲマインデのみがその昔日の主権 91) の名残りとしてこの権利を許されていた。

90) 小プリニウス書簡集7, 18、C.I.L.、 X5853、更にポンペイ住民による税受領書No.125と126、Hermes XII p.88f のモムゼンによる注釈を参照。

91) しかし実際に主権をかつて持っていた諸ゲマインデ(ムニキピウム)だけでなく、また諸コロニアでも(それ故ポンペイが入る)論証出来ることとして、課税目的での土地貸付けが可能となっていた。後者はしかし間違いなく特別権授与の結果であり、それはもしかするとカエサルによる lex minicipalis によるものかもしれない。

ager privatus の物的負担と地役権との関係

こういった[不動産に関する]権利状態によって、地所に対する継続的な抵当権設定の負担について、今日我々≪ヴェーバー当時≫において可能でありかつ事実上使われているやり方≪例えば土地を担保に金融機関などからお金を借りて家やビルや工場などを建てること≫が除外されていた。既に見て来たように、このことによってまた、土地所有者がその土地を流動化しやすい資本として利用出来るように解放されるということが全く行われてなかったとしたら、そうではなくむしろ全く逆のことが起きていた場合――土地所有がなるほど抵当権設定の対象物であったとしてもそれは単なる投機目的のためのものであり、その土地所有自体には資本流入という形で信用が与えられて利用出来るということにはならずに――、しかしその場合でも次のことは達成されたのである。つまりローマにおける不動産信用が動産信用と比べて法的にも経済的にも原則的には違いが無かったということと、今日の我々において事実上起きているような、最も強い所有権を持っている土地に対しての地代・地租納入義務を課されることを避けることが出来た、ということである。このことが実際の所本質的なことなのであり、ある一般的な因果関係に基づいているのである。もし誰かがローマ市民においては、ドイツの物的負担に相当する仕組みが知られていないと主張するならば、そのことについては次章で論じられるが、全く正しくないかあるいはまたひょっとしたら次の場合においてだけ正しく、つまりローマにおいてある者がもっとも強い所有権を持っている耕地に対して、私人間の法律行為としてのそのような負担を受け入れることが出来なかった場合であるか、あるいはまたそういった負担をその土地に適用するというということが、その土地のカテゴリーにおいては認められていなかった、それは既に我々は見てきているが、そういう場合である 92)。

92) 更に言えば、こうした考え方の中には、人が最初にそれを少しだけ見た時に思うであろう、より正しい考えが含まれている。ロードベルトゥスの土地所有の永久地代[Renten]の形での債務負担の考えは、その債務を負担する土地について対応した captis deminutio ≪法的な地位の悪い方への変更≫が無く、相続や譲渡に関連したもので、今日から見るとユートピア的なものである。このことは明確で実務的な把握の仕方として、もっとも輝かしい印の一つであり、その把握の仕方はポーゼン西プロイセン州の入植者受け入れ委員会が、通常の Rentengutsvertrag≪土地を譲渡せずに使用だけを許し一定期間定期賃料=Rentenを支払ってもらうもの≫§8 Abs 3(その規定は「また相続に関しての」もの)(プロイセン衆議院の1889年No.42の草案XIIIの印刷物)において、結論としている把握の仕方である。≪つまりローマでのやり方と全く同じ Renten の支払いを条件とする土地譲渡がヴェーバーの時代のプロイセン他で行われていた。またついでに言えば、ドイツでの農奴解放も、レンテン銀行が農奴に融資して地主から買った農地が農奴に与えられ、その農奴が一定期間 Renten を支払うとその土地がその農奴のものになった、ということが行われている。≫

イタリアにおける土地制度史においていつも見られる状態とは、これらの土地の種別を拡張していくという歴史と共にあるということであり、その結果として我我が参照している文献史料はただその種別についてのみ言及しているということになっている。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(27)P.184~187

ローマ土地制度史」の日本語訳の第27回目です。ついにというか、ヴェーバーが学説彙纂の時代の法文のあるものの一部を後からの変造であると決めつけ、実際にはそれが元々の法文から存在している、という例が出て来ました。この章全体で、ローマが成立する前にゲノッセンシャフトやフーフェが行われていたと決めつけたり、ヴェーバーの勇み足とでもいう議論が目立ちます。
なお、「中世合名・合資会社成立史」の訳の時は、昔貿易をやっていた経験が役立ちましたが、今回の場合は宅建を取っていて不動産取引の経験も多少あることが役に立っています。
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フーフェの基本法に対しての決定的な違反

それ故に Usukapion がより古い時代の土地に関しての基本法に対しての原理的な違反だとしたら、どのようにそれが共通経済においての争いの調停においてまず第一に作り出されねばならなかったかは、それは次のことが起きるや否や、より最終的かつ決定的なケースとして作り出されていたのである。そのこととは、それまで独立していた諸ゲマインデとその領域が、それらは元々ローマの法原則に従って分割されたりも割当てられたりもしていなかったのであるが、それらが[ローマの]完全市民の団体の耕地の中に取り込まれ、ローマの土地法の管轄下に置かれケンススに登録されるようになった、そういうことが起きた時である。半市民≪ムニキピウムの住民でローマの市民権が与えられたが、投票権までは与えられなかった者。モムゼンがそう命名した。≫の諸ゲマインデにおいては周知の通りこういった違反は起きていなかった:カエレ≪現代のチェルヴェートリ。ローマとエトルリアの戦争でエトルリア側に付き、BC353年にローマに併合され、その市民に半市民権が与えられたという説がある。≫の耕地は、その住民への投票権無き市民権[civitas sine suffragio]の付与によってケンススの登録の対象にはならず、いずれにせよその地における土地所有者が完全市民[adsidui]の団体の中へと、つまり土地トリブスの一員とはされなかったという意味であり、カエレ人の表[Tabulae Caeritum]≪ローマ市民で懲罰の結果その投票権を剥奪された者のリストをこう呼んだ。≫はトリブスのケンスス登録の外側において作られていた。また別のこととして、そういったゲマインデは、シュノイキスモス≪古代ギリシアでポリスが村落の合併によって発生したこと≫を発生させることなく、完全にローマ社会の中に組み込まれ消失したのである。そのような[シュノイキスモスを発生させた]ゲマインデの例としては、それはまたローマへの同化の時期がはっきりしていない場合であるが、そうはいっても最古の例の一つであるが――例えばガビイ≪ローマ東方20Kmの古代ラテン都市。BC5C頃ローマと同盟関係になった。≫であり、それは十二表法が作られた後ではもはや主権を持ったラテン都市国家としては機能しておらず、それについては多くのことが知られ、何故ならば彼らは血統の違う氏族としては扱われておらず、また半市民のゲマインデでも無かったからである。しかしその一方で彼らの耕地が取上げられたり、または Viritanassignation ≪既出≫の対象になったということも逆に何も知られていないのであるが。ここにおいては――そしてより後代の同様のケースにおいては、さらにはまた半市民が完全市民の団体に編入された際においても――そこの耕地は耕地測量の観点では ager arcifinius ≪既出≫であったのに違いなく、ケンススやローマで取引上使用される書式に関して対象外とされたのであり、そしてこのことが間違いなくウァッロー≪既出≫による土地の種類の分類(1. L. 5, 33)が導入された理由に違いない:Romanus[ローマの土地]、Gabinas[ガビイの土地]、peregrinus[外国人の土地]、hosticus[敵国の土地]、incertus[不確定の土地]84)。

84) 私はこの5つのカテゴリーは次のことを意味していると考えたい。ager Romanus はつまり割当てられた土地であり、ager Gabinus は完全な地権はあるが未測量・未割り当ての耕地、ager peregrinus は同盟している国々の耕地、ager hosticus はカテゴリー上は最後に来るもので、それはローマと[同盟関係にはないが]通商関係にあった国に属する耕地であり、そして最後に ager incertus は法的にはローマに支配されていない外国の耕地である。ager Gabinus の予期される比較劣位の状態は、境界線が設定されておらず割り当てもされていないことと関係がある。この名称は「カエレ人の」表と似たような言い回しである。――ガビイが u.c. 331または375年において既に市民ゲマインデであったということは、ベロッホ≪Karl Julius Beloch、1854~1929年、ドイツの古代史家。≫が主張したように、これらの年において、Antistii ≪Antistia gens、ガビイ出身とされる平民の氏族の一つ≫が、それは碑文によればガビイ出身の氏族であるが、ローマにおいて公職者として言及されている、ということと適合している。しかしもちろんこのことは完全な論証にはなっていない。

ローマ式のやり方で割り当てられた耕地が、また金額としても評価され登録されることが許されるようになり、また Uskapion によって獲得された土地区画が同様に特別な金銭評価を許されたということから 85)、ケンススへの登録の許可を得ることもそれ自体困難なことではなくなっていた。

85) 金銭評価に基づいた土地台帳の作成は、土地区画への Usukapion の許可と長期的に見た土地割り当て原則の廃止という観点で必要性のあることであった。(もちろんそれらは、だからといって金銭評価による土地台帳作成の例えば唯一のとか、またはもっとも本質的な理由ではなく、多くの中の一つである。)

いまやしかし、ケンススへの登録が可能になったということの結果はまた、元々伝統的に必要とされていた諸手続きを全て度外視するような[新たな]引き渡し形態にはほとんど適合していない[昔からのフーフェの]耕地に対して、Manzipation をその購買に適用出来るということでもある。もしかするとより古い時代のボニタリー所有権を保護するためのプブリクスの布告は、まさにその種の耕地をローマの耕地領域に収容することを目的として発布されたのかもしれない。いずれにせよこれらのことが示しているのは、[土地における]locus 原理の広範囲での勝利であり――、それは先に論じたその表現の意味においてであるが――、それは測量人達が ager arcifinius を controversia de loco の本来の発祥地として取り扱っていることからも裏付けられる。ローマの土地法を借用して ager arcifinius に適用することは、そこからさらにはるか先に進むこととなり、もっとも広範に行われたのが u.c. 643年の土地改革法によってであり、それは ager publicus に対する所有のあり方を変更したのであるが、また別の機会は同盟市戦争の結果としてであり、その際には完全市民団体に収容された同盟市における全ての耕地を、ager optimo jure privatus ≪クイリーテース所有権を持つ、もっとも強い所有権が与えられた土地≫に変えたのである。

controversia de modo と(ここでそう名付けた)面積原則は、おそらくBC1世紀においての暴力的な Viritanassignation ≪既出≫を経験する前に、実務的には行われなくなったのではないだろうか。Manzipation はかつては、それについては既に見て来たように、面積としての土地を売買することを可能にする手段で、それは[ヴェーバー当時の]我々が株の信用取引でその時々の相場価格で取引きするのと同じで、それは言ってみるなら手間はかかるがある種の儀式性を持った制度として、AD337年のコンスタンティヌス大帝による法(C. Th. 2 §1 de contrahenda emptione [売買契約について]3,1) 86) が、今後は[土地は]面積と所有権に基づくという以外のやり方で、隣人による境界線の証明に準拠して売却される、として Manzipation を禁止するまでは存続したのである。ここでの儀式性という意味は、それが土地取引における何かの抜け道的なやり方[in exquisitis cuniculis]として理解されるべきではない。

86) 売却の儀式性という意味についてはあまり穿った見方をすべきではない。というのもそれは、それまで確かでかつ真正な所有権が、つまり確かな面積[certus modus]の反対である特定の土地領域が、その隣人によってそのことが証明された――つまり測量や境界を示す杭打ちによって土地の場所、正確な位置が証明されたということを意味するからであろうからである。実質的にはそれ故その関係性はいまや逆になっているのである:元々は測量というものは測量人によって売却の後に行われていたのが、いまや先行して行われなければならなくなったのである。”a vicinius demonstretur” [隣人によって証明された]というのは、まず隣人への照会とその承認に基づいて、売却者に対してその隣人によって確認された境界線の内部の土地の売却を認可するということを関連付けたという意味であろうし、実際にその可能性がある。しかしまた別の可能性としては、たとえこの表現が言葉の上では強制的な響きを持つとしても、それが意味するのは、ただ境界線は “a vicinius” [隣人によって]、つまり隣人の土地区画の境界線からその土地の境界線が確認されるというだけのことであり――それ故に私はここの意味を別にこう読むべきと解釈した。≪どう解釈したかは欠落。全集の注によれば「隣人からの情報に基づいて」≫この部分に続くのは以下のようになっている――ここは土地制度全体の目的として本質的な部分であるが――”usque eo legis istius cautione decurrente, ut etiamsi [subsellia vel ut vulgo aiunt] scamna vendantur, ostendendae proprietatis probatio compleatur” [それ故その法律の規定が適用される場合は常に、もし[subsellia [テーブル状の土地、測量人達の呼び方]または一般的な言い方では]scamna [と strigas で囲まれた土地]が売却される場合であっても、所有権の証拠が示されねばならない。]ここでの話は、subsellien の売却についてではないということは明らかであり、[]内の部分は疑い無く写字人≪法令を複写した人≫による文法的な解釈としての改竄であることは間違いない。≪全集の注によれば、この[]内の部分はオリジナルの法文に既に存在しており、ヴェーバーのここでの決めつけは間違い。ここもヴェーバー当時の学説彙纂の法文の多くの箇所が書き換えられているという誤った先入観による間違いの例。subsellia と scamna はここでは同じものを指している。≫そうではなくて、ここで述べられているのは、ager scamnatus 、つまり境界線が測量地図上にはっきりと描かれている地所の売却についてであり、それ故に “certa proprietas” [はっきりした所有権]と書かれており、それ故に法律の公布の理由について――テキストを参照――この ager scamnatus と同等の他の土地にも適用されたということは整合的ではなく、ここで語られてもいない。コンスタンティヌス大帝の時代においては土地についての課税上の観点からの様々な分類がもはや実用的なものではなくなっており、それ故また他の新しい観点による分類を使って統一されていた。――controversia de modo は特別な手続きとしては C. Th. 4. 5. の finium regundorum [境界線の確定]2, 26 (AD392年)によって廃止されており、その法令では locus は finis [境界線]の反対概念として、例えばフロンティヌスの p. 9. 2 などで書かれていた。

ローマにおける不動産取引

こうした[面積としての土地を売却するための手段という]動機付けは、Manzipationとその本質にとって特徴的なことであった。何故ならば実務的にはその意義は実際、人が自分の好む場所で、7人のローマ市民の証人≪実際は5人の証人と1人の秤持ちの合計6人≫を集めることが出来れば、[古代]イタリアの土地を、それがローマの領土[orbis terrorum]である限り、売却することが出来る、ということにあったからである。その結果として起きたことは、こういった面積ベースでの土地の売却においては、時によっては売却者が実際に所有している土地の面積以上の面積が売却されることがあったということであり、それはまさに[ローマの国による]面積単位での土地割り当ての結果起きたことと同じであり、例としては C. グラックスによる騒乱を巻き起こしたカルタゴの土地の割り当てにおいては、1ケントゥリアにおいて[多くの場合]その中に存在する以上の面積が割当てられたのである。――しかしこれらの Manzipation のもっとも重要な特性が引き起こした結果で主要なものは、ローマにおける不動産取引をある程度まで活性化させることが出来たということであり、このことはこの後の時代でも前の時代でもまたどこの場所においても二度と起きることがなかった。人はそこでは耕地図とケンススへの登録証を所持していた場合、この双方が ager assignatus における所有関係の情報を提供したのであり、そしてまたボニタリー所有権に関してもある一定の根拠となるものを提供したのであり、そして公的な小規模小作地の競売と、ager quaetorius ≪既出≫として[国の借金の返済の代わりとして]譲渡される土地の競売においても使われ、その結果はローマを世界の不動産取引所にしたのである。ここでは「取引所」という単語を自信を持って使うことが出来る。何故ならば 1.5 D. si mensor falsum modum dixerit 11, 1≪実際は11, 6≫(前掲のp. 168 ≪日本語訳 p. xxx≫参照)において、不動産の先物取引について詳細に語られている場合があるからであり、そして同様のものが lex commissoria ≪契約の不履行時の罰を規定している法律≫に基づいた取引の場合にも見られるし、そして “in diem addictio” ≪売主がある者と売却の契約をした場合に、一定の期間内により高い価格の買主が現れた場合は、元の買主との契約を取り消すことが出きる取引≫は、買主が契約解除の許可の取り決めに関して直接または間接に契約解除による返金を認めるので、実質的にそれは[ヴェーバー当時の現代の]取引所規則に定められた不動産におけるオプション取引とほぼ変わらない。≪オプション取引が正式な制度となるのは1980年代始めであるが、歴史的には既に例えばロンドンの取引所で17世紀末には行われていた。ヴェーバーはこの論文の3年後に「取引所」という労働者向けの解説書を出しており、取引所についてはこの論文時点でも相当程度精通していたと思われる。≫

しかしより本質的なことは、ローマはまた特別な場所で、そこにおいてローマにおいての土地の所有権についての特別なやり方による価値評価の機会が提供されたということであり、それについては言及済みである:つまり、国による[土地の]賃貸しや[民間のソキエタースなどに]何かを請け負わせる際の抵当設定としての利用である。全体的な法の発展に対してのローマの行政法の意義という点において、この抵当設定ほど特徴的なものは他にはほぼ存在しない。それはこの抵当の制度の実行においての手続きと、個人の物的信用の権利形態との比較という観点としてである。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(26)P.180~183

ローマ土地制度史」の日本語訳の第26回目です。今回のも苦労しました。ただでさえラテン語というのは簡潔に書かれすぎていて、文脈によって色々な意味に訳せるのですが、それに加えてヴェーバーは原文が編集者によって改変されていた可能性を指摘していますので、余計に訳が分らなくなっています。注釈でも書きましたが、この当時のロマニステンの法学者達は、学説彙纂のローマ法の法文がその当時の編集者によって多くの箇所で改変されたと思い込んでおり、ヴェーバーも当然そういう偏見を持った上でここを解釈しようとしています。
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というのは土地法のあるもっとも重要な適用領域において、所有の手続きはただ単なる一時的な決定のみだけではなく、公有地に関しての確定的な処置も生み出したのである。この領域においては面積の概念は登場せず従ってクイリーテース所有権も登場せず、ただ”locus”[その土地の場所]のみが扱われており、それ故に法的手段としてはただ”locus”を保護しようとするもののみが登場するのである:つまりそれが所有に関する禁止命令である。これに対して個人に割当てられた土地[ager assignatus]についてそれと根本的に対立しているのは、フーフェの権利総体に対して適用される legis actio sacrament ex jure Quiritium [クイリーテース法に基づく供託金付きの裁判≪双方が供託金を出して、敗訴した方はそれを国家に没収される裁判≫]が対象とする fundus という点から見てであるが:ある法的手段であってフーフェの権利に基づく所有状態に対応する個々人の持つ土地面積を新たに規制したもの:つまり controversia de modo であるが、――そして別の法的手段で土地の場所[locus]とその面積でそれらを個々人が耕作していたものを保護していたものがあるが、しかし当然のこととして、ここでの locus とは法的にはただ土地の面積の射影に過ぎなく一時的な性格のものであるとされた限りにおいて、その面積の請求権に基づいた決定的な土地の境界線の再調整は留保されたままとなった:つまりそれが所有に関する禁止命令である。この所有に関する禁止命令と面積に関する争いの関係は、その後帝政期になっても尚同様のままであった。それについては、次の紀元330年のコンスタンティヌスの定め [konstitution konstantins] ≪コンスタンティヌス帝がローマ教会にローマを寄進するという内容の寄進状。後世に作られた偽書であることが分っている。ヴェーバーのここでの引用は Codex Justinianus(勅法彙纂)より。≫が定めている通りである:C. Theod. 1 finium regendorum [支配している(土地の)境界線の]II, 26 (= C. Just. 3 の先に引用した箇所 III, 39 76) ):
Si quis super invasis sui juris locis prior detulerit querimoniam, quae finali cohaeret cum proprietate controversiae, prius super possessione quaestio firiatur et tunc agrimensor ire praecipiatur ad loca, ut patefacta veritate hujus modi litigium terminetur. Quodsi altera pars, locorum adepta dominium, subterfugiendo moras altulerit, ne possit controversia definiri ad locorum ordines, directus agrimensor dirigatur ad loca et si fidelis inspectio tenentis locum esse probaverit, petitor victus abscedat, etsi controversia ejus claruerit qui prius detulerit causam, ut invasor ille poenae teneatur addictus, si tamen ea loca eundem invasisse constiterit; nam si per errorem aut incuriam domini loca dicta ab aliis possessa sunt, ipsis solis cedere debeant.
[もし誰か≪元々の土地の所有者だったのが別の者にその土地を占有された者≫が自分の土地の所有権について先行して訴えを起していた場合、その訴えが境界線と所有権に関するものである場合は、まず所有に関する調査が行われ、その後に測量人がその面積の争いについて判明した事実によって境界線を確定させるために任命される。もし他方の当事者≪何らかの理由でその土地を占有して使用していた者≫がその土地について(占有によって)獲得したとする所有権について、訴訟の結果が元の所有者のその土地の所有の継続という判決にならないように、裁判を遅延させるような行為を行った場合には、任命された測量人はその土地についての調停を行い、もしその土地についての調査の信用性が認定された場合には、訴訟を起した者≪元々の≫は相手≪占有者≫を打ち負かすことを放棄する。しかしながらその訴えにおいては、それにもかかわらず相手方≪占有者≫がその土地の(不法)侵入を行っていたことが確認された場合は、まずはその侵入者を罰するという裁判が行われることを明確にする。しかしそうはいっても、前述の土地の(元の)所有者が過誤や不注意によってその土地を他人に占有された場合は、その土地はその者に与えられなければならない。]

76) 編集者達はこの法規を次のように改悪している:
Si quis super sui juris locis prior de finibus detulerit quaerimonium, quae proprietatis controversiae cohaeret, prius super possessione quaestio finiatur et tunc agrimensor ire praecipiatur ad loca, ut patefacta veritate hujusmodi litigium terminetur. Quodsi altera pars, ne hujusmodi quaestio terminetur, se subtraxerit, nihilominus agrimensor in ipsis locis jussione rectoris provinciae una cum observante parte hoc ipsum faciens perveniat. —
[もし誰かが自分の所有権について先行して苦情を申し立てた場合、それは所有権に関する訴えであるが、まず所有についての調査が行われ、その後測量人がその土地について判明した事実に基づいて境界線を確定させるために任命される、もし訴訟の相手方が、その土地についての調査で境界線が確定されないようにし、それによって土地が奪われないようにするならば、それにもかかわらず測量人はその者の土地について属州長官の命令に基づき、訴え人の立会いの下でこの土地の調査を行う。]
ここで見てとれるのは、この部分で元々述べられていたことの全く逆になってしまっているということである。しかしもちろん controversia de modo はユスティニアヌス帝の時代には既に長く忘れられたものとなっていた。

編集状態の良くない、あるいはまた改変された可能性もある≪ヴェーバーの時代には、学説彙纂の頃のローマ法文(オリジナルは失われており、全てが多数の法律書の引用から復元されたもの)は、その時代の編集者達が自分達の考えに合わない部分について元の法文を改変したことが多くあったと考えられていた。しかし20世紀になって研究が進むと、この時代での改訂はほとんど誤記の訂正レベルであって、大きな改変は無かったことが確認されている。従ってヴェーバーのこの種の記述は割り引いて読む必要がある。≫この部分の意味についての私の見解は以下の通りである:ここで扱われているのは2つの訴訟であり、2人の間で争われ、それぞれの測量された土地が隣接しているのであり:なので controversia de loco なのであるが、それはしかしこの引用箇所が全体で明確に述べているように、(問題とされているのは)所有に至ったプロセスと手続きであり、”finibus de proprietate controversia”[境界線と所有権に関する争い]としてであり――というのはこれこそがこの毀損した関係詞句 77) の言わんとした意味として書かれているということである。この所有権についての争いは明らかなこととして、当時しばしば実務的な controversia de modo としては描写されていなかったに違いなく、それは帝政期においてはよりむしろ境界の一辺の長さが5もしくは6ローマフィート≪1ローマフィートは約30cm≫を超えるものについての境界線確定訴訟の拡大版として把握されていた。何故ならば境界線と所有権の争いの双方で境界線を新たに引き直すことが手続きの目的であったからである 78)。

77) 私見ではこの部分は次のように読むべきである:”quae cum finali cohaeret de proprietate controversia.”[その苦情は境界線に関係した所有権についての争いである。]

78) controversia de modo が境界線に関しての訴えと同じではなく、例えばそれについてのある特別なケースのようなものである、ということは明らかである。というのは境界線の訴訟は土地の面積の割り当てを目的としておらず、そしてまた土地の割り当てが行われる前にそれが問題になることもないからである。しかし後になって面積についての訴訟が単に例外的にどのような場合にも利用出来る手続きになった時には、controversia de modo はもちろん、というのは原則的にそれは現実の土地の境界線の引き直しを目的としていたからであり、容易に幅5または6ローマフィートを超える大きさの土地を対象にした境界線訴訟の拡張版として把握されたのであり、それが実際に起きたことなのである。境界線訴訟と controversia de modo を区別するもう一つのことは、前者に対しては Uskapion が適用されることはなかった、ということである。

訴訟の片側が所有に関する訴えを行っていて、もう片側はそれに対し土地の面積を決める手続きをどう行ったかについての訴えとしてそれに対抗して回答しているが、――ここでの問題は:この両方の側は双方が原則的にお互いに排他的な関係にある訴訟でどう振るまったのか、またそれは単純に所有に関する争いとして展開されたのかどうか、何故ならばその決着として、新しい測量が既にそこで提案されていても、しかし実際はそれが(なかなか)行われれなかったからであるから(そういう疑問が起きるの)であるが。それについての答えは:どのような場合もまずは所有に関しての争いがまず行われたということである。それから測量人は問題となっている場所に赴き、土地の継続的所有について、つまり測量地図とそれに付随する書類をあたって、関係者の各方それぞれに帰属すべき土地の面積を調査する。所有についての争いで勝った方が――つまりその土地についての所有権[locorum adepta dominium]79)を獲得した方が――controversia de modo の面積に関する争いの進行を遅延させる場合は、直ちに測量人が派遣され、所有についての争いでは負けた元々の所有者[tenens]に対して、係争中の面積については controversia de modo の基本原則に従って判決が出されねばならないということを明らかにする。そのため所有に関する争いで訴えた方[petitor]は(etsi controversia ejus clarueit qui prior detulerit [しかしその訴えは先行して行われたことを明らかにする])調査においては勝者となっても、(所有権の争いでは)敗訴した者として扱われ、もし悪意での行為が認められた場合には、その土地を返還するだけでなく罰金(fructuum-Lizitationssumme [その土地から得られる収益相当の競売価格]など)が課される判決を受けた。禁止命令を誘発したもの、つまり通常の(土地の)返還請求と controversia de modo は、それ故争いの双方にとって異なったやり方であり、(それでも)同じ結果を目的とするものであり、その2つの内から人は訴訟において、あくまで実務的に見てどちらかのより良く自分の訴訟の役に立つ方を選ぶのである 80)。

79) ここで意味するのは:所有の不正確な表現から、ここで対立しているのは単に2つの並行して行われる訴訟の対象物である:面積と具体的地所、が想定されていることが分る。

80) シクラス・フラックスの既に引用済みの書籍のp.44を参照せよ。

ここで土地区画の時効取得が許可される前の権利状態について想定してみれば、その場合土地区画を借用[precario]の形で保持している場合は、第三者に対してはその所有は保護されたが、その土地の貸主に対しての所有権の保護は無かった 81)。

81) 次のことはローマ法の所有に関する法規の本質的に積極的な性格を確かに表している。それは暴力によるか秘密裏での所有権の獲得に並記して、不正な所有[vitium possessionis]としてまた地主から借りている土地についてもそれに該当するとしており、そしてそのことから万一の場合には、所有に至った経緯について詳細に述べる必要があり、このことが所有ということが「純粋に仮構的な」性格を元々その中に持っていたということを十分に証拠付けるものである;――後にはもちろん、法律化によって所有を法的概念として定式化することが試みられたが、しかしそれは、古い所有の権利がその実務的な意味において、もはや識別することが困難になるほど変化した後に、ようやく行われた。

それ以外の方法である土地区画を獲得した者は、フーフェの農民に対しては同様に無権利なのであり。その土地の本来の支配者のみがケンススに拠れば占有者であった。その場合、その者が使用出来た手段としては新たな測量(controversia de modo)を提議することによってその土地区画の所有者を排除することであり 82)、またそれ以外には、純粋に法の上では[de jure]、その土地の支配者の自力での干渉に対抗して、所有権についての暴力による獲得と秘密裏の獲得の禁止を利用し、その土地区画を再び入手することが出来た。そしてその際に2つの概念の実務的に重要なケース一般への周知の拡張可能性によって、その者が前年においてその土地の占有者であったことが証明出来る場合は、つまりは前会計年度においてその者が耕作を行っていたその程度に応じて保護されたのである。つまりそれによって次のことに対してのあらかじめの配慮がなされていた。それはその者が手続きの瑕疵が無くかつ不正手段によってでもなく[ohne vitium possessionis]入手した土地からの収穫物を自分のものとすることが出来たということである。Uskapion を行使することによる所有権の更新は、それ故ただその土地区画の獲得が正当な権原によってなされていた場合、その者は2年後に、元の所有者による排除行為に対しては新しく測量をやり直すという手段でその権利を守り、最終的にクイリーテース所有権者となったのである。それ故に、ある地面の獲得の保護に関連することは、より古い時代にはイェーリング≪Rudolf von Jhering, 1818~1892年、ドイツの法学者、ローマ法研究家≫の次の表現がその文字通りに正当である。つまり占有の保護は所有の保護より先行する、ということである。

さて、ここで面積原則がたどった運命についての観察に再度立ち帰ってみることにしよう 83)。

82) こういった権利状態はドイツにおける角形の耕地[Gewannfluren]での各 Stufland ≪既出≫の個別の所有権を認めるのに先立った Reebning ≪既出≫(とそれに伴った新規の土地割り当て)の手続きにおけるものと全く同様の所に位置している。フーフェの農民で、ある土地区画を切り離して売却した者は――我々が遡ってみることが出来る範囲での古い時代ではいずれの場合でもそれの前提となっていたのは――その土地区画を買った者を簡単には排除出来ずまたその土地も買い戻すことが出来ない、ということである。しかし獲得した土地(を含む一帯)について新規の測量が提案された場合は、その土地もその対象に含めて、買主はその後でフーフェの農民に対して、新規の測量によって新たな境界線が作られ、元々の土地の形状が消失してしまった場合もその土地を購買したという権利を維持し続ける。

83) 同様に本質的な土地制度史上の意味を持っている Interdictum uturbi ≪動産についての占有権の維持命令≫について少しだけ言及してみたい。”Uturbi hic homo majore parte huiusce anni nec vi nec clam nec precario ab altro fuit, quo minus is eum ducat, vim fieri vero.” [この男について今年においてそのほどんどの期間で、暴力によらずまた秘密裏でもなく借用ででもなくその者が所有し、もう一方の者がそうでなかった場合には、もう一方の者がその男を連れ去ることを私は禁ずる。]この命令は土地に関する命令と同じ内容を動産について命じたもので、その動産の中でもっとも重要な物は、標準書式が明らかに示すように、奴隷であった。それ故にそこで問題となったのは、その奴隷がその時点から1年前までの間に、誰の下においてもっとも長く労働を提供したかであった。