「ローマ土地制度史」の日本語訳(17)P.145~148

「ローマ土地制度史」の日本語訳の17回目です。ここはドイツ語も難しい上に、ラテン語の文章が3つ出て来て苦労しました。
しかしChatGPT4が本当に役立って、こちらで試訳したものを添削してもらいました。ChatGPT4がいつも必ずしも正しい訳を提示する訳ではもちろんありませんが、いわば人間と生成AIの共同作業でこの部分の日本語訳は完成しています。
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ローマの植民の特性

ドイツの東方における植民が百年一日の如くでまったくもって型にはまったやり方≪全集注によれば中世後期からのフーフェと四角の耕地分割による植民≫で行われていて、それが民族大移動時代の耕地分割と原理的に異なっていなかったのに対し、ローマにおける植民は近代アメリカでのそれに類似していた。この近代アメリカ式植民と同様に、ローマの植民の実際は次の二つの可能性しか無かった:一つが都市建設または都市の再構築(植民市の再構成)の形によるもので、もう一つが組織化されていない個々の家々による植民(viritane Assignation)≪非計画的に、あるまとまった数の人々に、同じサイズの小面積の土地を機械的に割り当てる形の植民≫である。colonia[植民地]、モムゼンの見解によれば農民共同体[Bauernschaft]、が氏族の耕地を取りまとめる組織のより進んだものであるとするならば、しかしそれはその意味以外にもある防御性を持った場所、つまり都市であるが、の中へ第三者が侵入することを防ぐための組織という意味を持っていた。viritane Assignation の方はしかしながら、概して言えば、言葉の本来の意味での colonia を作り出すことは無かった。

それ故に viritane Assignation が明らかに与えられた一区画の土地を完全なローマにおける個人資産に付け替えるプロセスで、その中に常に全ての種類の耕地ゲマインシャフトから分離された土地を包含していた一方で、ローマ市民の植民市の建設は、個人の所有権というものがローマ法の全体を既に支配していた時代において≪個人の所有権というものを確立させたのがローマ法の大きな功績であり、そこから物権や契約法などが発達した≫、またある別の性格を持っていたように見える。ローマの植民市は常にゲマインデ[地域共同体、コミュニティ]の設立と組織化を伴っており、それ故に[そのゲマインデの]住民数は限定されており、古代のローマ市民の植民市[coloniae civium Romanorum]においては、ここではそれのみについて述べているのだが、通常は300人であり、そしてそれについて我々が更に知るところでは、個々の入植者は2ユゲラ≪約5,000㎡≫の土地を得るのであり、[その知り得る情報によれば]しかし各入植者へ割り当てられる土地の面積が、その2ユゲラに限定されていたという仮説は排除される。≪様々な文献史料から各入植者に2ユゲラ以上の土地が割り当てられた場合があることが確認出来る。この2ユゲラは「最低限度」である可能性が高い。≫というのはむしろ植民者は無条件に農民であったと考えられ、この2ユゲラという土地の面積はロムルスの時代の標準的な割当て面積に一致するし、また同様にゲルマン民族の耕地における Wurt ≪盛り土をして洪水の害を避けた小高い土地≫にも、更に個人に私有物として耕地ゲマインシャフトの土地から切離して与えられた家や庭のための敷地にも相当し、それらは2ユゲラより狭いということはなく、時には2モルゲン≪約6,000㎡≫よりかなり広かったのである。余った土地はそれ故耕地ゲマインシャフトの中に含められたままにされねばならなかった。しかしこのことは後代には自明なこととして違って来ている――たとえばグラックス[兄]は[ポエニ戦争の結果としてローマの領土となった]カルタゴの植民市の土地について、ある場合は200ユゲラを、また別の場合にはおそらくそれ以上を――つまり間違いなく個人の所有物として――割り当てており、そして当時の測量人達が言及しているのは、ただ個人への割当て用に用意された土地においての、土地の[個人への]授与である。植民市における入植が、ただゲマインデの組織の形成ということに留まり、その反面としてそれまでの植民地化されたゲマインデにおける[それ以前の]耕地団体を完全または部分的に消滅させたということが、つまり植民市におけるゲマインデ団体の始まりである。viritane Assignation の場合は、それに対してゲマインデ組織の形成につながることは無かった。それが意味したのはただ農村トリブス≪ローマの行政区で都市トリブスに対比され、郊外にあったもの≫におけるローマのゲマインデの権力の及ぶ範囲の拡張であった。同盟市戦争の後、そういったやり方は廃止された:全てのローマの土地はそれ以降は原則的にローマの完全市民のゲマインデに属するようになった。植民市の建設が目的ではない限りにおいて、つまりは viritane Assignation においては、割当てられた土地区画は、既存のゲマインデに帰属させられたか、あるいは新しい[ゲマインデ]組織がそのために作り出されねばならなかった。ここで次のことを問うてみるならば、つまりこれらのより後代の行政組織において、ある地所のあるゲマインデへの帰属は、どのような人間関係にとって意味があったかということであるが、その答えは次のようになる。

領域の行政法的意味

1.裁判権と警察権。植民市の建設に使われた書式の中にこの事項が含まれている。(ハイジン, De cond. agr. P.118、21):
“Quos agros etc. dedero assignavero, in eis agris juris dictio cohercitioque esto coloniae illius.”
[私が与え割当てた土地など、その土地においては裁判権[jurisdiction]と警察権がその植民市のものとなるべきである。]
部分的にしか明確にされていない権限の範囲内での、その植民市の領域内の土地区画に対する民事裁判権についてと同様に、またその領域内で起こった犯罪行為への追及についても、その植民市の市政官達が管轄権を持っていた。同様にその市政官達に権限が帰属したのが、警察権を持ったことの帰結として、とりわけ該当の領域における市場を取り締まる警察権である。
2.ケンススは同盟市戦争の後では、それぞれのゲマインデによって執り行われていた。各地所もその地所が存在するゲマインデでのケンススによって基礎付けられていた。我々がそれ故にここで見出すことが出来るのは、各ゲマインデでは、お互いに次のことについて訴訟を起しているということである。そのこととは、ある土地区画がケンスス上では、一体そのゲマインデの中の誰に帰属するのか、ということである 3)。

3) ハイジン, de cond. agr. P.114, 11

帝政期には、イタリアはまだ課税されておらず、またほとんどの場合徴兵制も無かったのであるが、そのためにイタリアでのある特定のゲマインデでの土地の帰属は、属州においてよりも少ない意味しか持っていなかった。属州では周知の通り、ゲマインデは税金の徴収についても新兵の募集についてもノルマを課されていたのであり、それ故に自身に帰属する土地区画の確定については利害関心を持っていた。
3.土地所有は、その土地のあるゲマインデにおいての、特定の私有財産に対して課せられた負担義務[munera patrimonii]に直接的に結び付けられることを意味していた 4)。

4)同じ理由から、ゲマインデ間においての法律上の領地についての訴訟能力が発生する、P.52、21。

土地の割当ての結果として発生した[ゲマインデの]領土境界の変更は、それでは一体何に基づいて決定されるのであろうか?

土地割当ての領土の確定への影響

決定的なことはまず第一に、植民と原住民立ち退きの進行が同時に発生した場合に、それを完結させる諸契機:つまり土地の分割と割当てである。その二つの内どちらか 5) が先行した場合には、何かの特別な規定が必要だった。それは[市政官の]職権についてであり――-それによって先に紹介した権限[裁判権と警察権]を一つにまとめるためであり――その職権は新しいゲマインデのそれであり、当該の耕地に対して土地の分割または割当てを行うためのものであった。土地の分割[divisio]は次のような場所では行われなかった。そこは測量図[forma]によって図示された境界線[limites]の座標系の外側にあり、その耕地は元々その土地が持っていた境界によって区切られており、それ故に境界が確定していない不規則な土地[ager arcifinius]という扱いで植民市に帰属させられていた。それに先行した事情は、植民市の数が[ローマの征服によって]増えたことにより、分割によって利用出来る土地の面積が不足することとなり、その結果として植民市に隣接する土地が[まだ測量されていないが]利用されるようになった、ということである 6)。

5)P.154, 9: “Divisi et assignati agri non unius sunt conditionis. Nam et dividuntur sine assignatione et redduntur sine divisione. Dividuntur ergo agri limitibus institutis per centurias, assignantur viritim nominibus.”
分割され、割り当てられる土地は、一様ではない。というのは分割だけで割当てが無い場合があり、逆に割当てが分割無しに行われる場合もあるからである。従って、土地はケントゥリアの単位で設定される境界線によって分割され、割当ては個々人の名前に基づいて行われる[という本来別のプロセスである]。

6) P.160, 14:Aliquando … in limitationibus, si ager etiam ex vicinis territoriis sumptus non suffecisset, et auctor divisionis assignationisque quosdam cives coloniis dare velit et agros eis assignare, voluntatem suam edicit commentariis aut in formis extra limitationem: “monte illo, pago illo, illi jugera tot”, aut “illi agrum illum, qui fuit illius”. Hoc ergo genus fuit assignationis sine divisione … Sunt vero divisi nec assignati, ut etiam in aliquibus regionibus comperimus, quibus, ut supra diximus, redditi sunt agri: jussi professi sunt quantum quoque loco possiderent.

時々、土地の境界の設定において、もし隣接する領域から獲得した土地でも不足する場合には、分割と割当ての責任者[市政官]がある植民市にローマ市民を入植させ、彼らに土地を割当てたいと望んだ時、彼はその意志を公文書や地図に境界線を図示するという以外の方法で明らかにする:例えばあの山を(誰々に)、あの集落を(誰々に)、そしてこの人にはこの面積[ユゲラ]の土地を、とか、さらに別の人には他の人の土地だったものを与える、などである。この種の割当ては従って分割無しに行われる…一方で実際には分割も割当ても行われないケースも存在し、私達がいくつかの地域において見出したように、上述のようなやり方で土地の割当てが行われた場合、各人にどれだけの面積が実際に割当てられたのかを申告することが命じられていた。

隣接する土地それ自身は、その部分が公式の測量図に載っておらず、従って[植民者への]割当ての面積が同じく測量図に記入されることによって新しいゲマインデへの所属が定められていない限りにおいて、それまでのゲマインデ団体に[そのまま]所属するとされた 7)。

7)このことは、ハイジンの記述から類推すれば、かなりの争いを引き起こしている。P.118, 9ff, 特に119, 8f.:
… quidam putaverunt, quod … repetendum arbitror, ut eis agris qui redditi sunt veteribus possessoribus, juris dictio esset coloniae ejus cujus cives agros adsignatos accipiebant, non autem videtur … alioquin, cum ceteros possessores expelleret …, quos dominos in possessionibus suis remanere paddus est, eorum condicionem mutasse non videtur …

ある人々は次のように考えた…元の土地の所有者達に土地を返却する裁定を受け、その土地が元の所有者達に戻されるべきだと。そして、その土地に関する司法権は、その土地が割り当てられた市民が属する植民市にあるが、測量地図上にはそういった記載はない…その場合でも、もし新しい所有者が他の所有者を追い出していたとしても、彼らがその土地の所有者のままでいることが許可される。しかしそういった所有権の変更についても測量地図上には記載されていない。

ager extra clusus ≪正規の分類以外のその他の土地≫やager subseciva [subsiciva] ≪耕地の外側の境界線とケントゥリアによる区画の間の半端な土地≫においては分割も割当ても行われなかった。それらの土地は植民市の耕地の外側の境界線と[ケントゥリアなどの]四角の区画の土地の間にある土地であり、測量地図には記載されているが、余分な土地とされたものである。ケントゥリアの四角の土地の中にある subseciva [subsiciva]≪ケントゥリアの中に沼地などの使えない部分があってその沼地以外でケントゥリア内部の土地など≫においても割当ては行われなかった。更には loca relita ≪捨てられた土地≫の場合にも割当ては行われなかった。loca relita とは、ケントゥリアにより境界線を測量図の中に描いて行き土地を分割する方式の中に取り入れられず除外された土地のことである。

ケントゥリアと subsiciva の配置の例
ケントゥリアの区画の中に沼?があり、結果としてその区画の中の土地が subsiciva となった例

 

 

「ローマ土地制度史」の日本語訳(16)P.141~144

「ローマ土地制度史」の日本語訳の16回目です。この論文は農村地理学者のマイツェンに献呈されていますが、この部分にはマイツェンの影響と思われるような共同体の耕地に関する分析が出てきます。しかし、圧倒的に史料が不足している状態での推測であり、その辺り後年になってヴェーバーはやり過ぎとして反省しているようです。
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II. ローマにおいての非課税の土地の法的・経済的な意味

I. 土地の割当ての行政史における作用≪目次では「行政法」における≫

我々はまず、国法及び行政法において、該当の領域との関係において[国家が法律上]最も強い権利を持っている場合での耕地の授与の作用について論じる。それについて完全な叙述を行うことを意図している訳ではなく、そういった関係を目に見えるように描写することを意図するのであり、その関係はまさに耕地の授与の際にその存在が明らかになるのである。当時の測量人達の異口同音の、また疑う余地の無い証言に拠れば、耕地授与の作用としてはまず第一は、当該の面積の土地をそれまでの耕地共有団体と地域団体[の所有]から分離させることである。そういった土地の分離がどういう実際的な意味を持っていたかということ、この分離のはっきり知り得る別の側面は何であったかということについては、ローマの全歴史を考えた場合に統一的な答えを得ることは不可能である。そうではなくてここで確認すべきなのはまず第一に、同盟市戦争≪BC91年からのローマの同盟市の一部がローマ市民権を求めて起した戦争≫の後の時代[においての土地の分離]と、それが引き起こした行政法に対する影響であり、その中にはまず何よりもユリウス法[lex Iulia municipalis]≪ジュリアス・シーザーとアウグストゥスの時代に制定されたローマの市町村(ムニキピウム)の組織や運営に関する規定≫が含まれるが、それら[によって分離された土地]をその前の時代に分離された土地から区別して確認しなければならないし、次にまた土地の割当てによってもたらされた植民というものの特性も、その本質的な特徴は何かという点において確認しなければならない。

イタリアにおける植民の一般的性格

イタリアにおける植民は、我々が推測出来る限りにおいては、ゲルマン民族のそれと同じでかつケルト民族のそれとは異なっており≪ケルト族によるハルシュタット文化の末期には、身分の高い人物の豪華な墓が発掘されており、ケルト民族の植民はかなり早期に身分制社会になったと思われる≫、共通の重要な契機として存在していたのは、ゲノッセンシャフト≪主としてギールケらのゲルマニステンが、ゲルマン民族~ドイツ民族における人間集団形成の基礎原理として重視したもので、お互いに対等な人間同士が友愛・仲間意識などの「ヨコ」の関係によって形成した集団のこと。対立概念がヘルシャフトでこちらは支配-服従の「タテ」の関係に基づく人間集団。≫的なものであり、≪血縁関係による集団形成原理である≫クランシャフト的ではなかったものである。つまり、最古の耕地での人間関係について我々が帰納的推論によって推測出来る限りにおいて、その耕地を占有した経済ゲマインシャフトは、一人の世襲専制君主によって統治された拡大された家族ではなく、まだそれほどはっきりした行政組織にまとめられていない、お互いに平等である個々の家族の集合体であるゲノッセンシャフトの性格を持っていた。ゲルマン民族においては、このゲノッセンシャフトは村落に定住しており、それはフーフェ≪ゲノッセンシャフト全体の合意に基づき、一家族が生きていくのに必要な面積として各家族に等しい大きさで割り振られた耕地のこと≫の取り決めを伴っており、その結果としての耕地の分割が行われていた。ポー川流域の Terramare ≪ポー川中流域の渓谷において、BC1700~BC1150の青銅器時代中後期に栄えた農耕文明。原義は「黒い土」。≫が、ヘルビヒが確実なことだと主張しているように、[インド・ヨーロッパ語族による]民族大移動の終了の前にイタリア半島にやって来たイタリック人≪イタリック語派の言葉を話す諸民族の総称で、主にイタリア半島に定住した、ローマを建国したラテン語族を含む≫の一部そこに残った人々により築かれたとしたら、その場合彼らのその地への定住は、またある閉じた、村落状の共同居住として、もはや遊牧民的な耕作ではない形で行われたということは確実であろう。そのことからしかし、避けようのない必然性をもって、何らかの形の耕地ゲマインシャフトが次に発生する。それはその初期の成立の時期においては、またローマの耕地においても発生したのである。それについてはこの先で様々な機会に述べるつもりであるが、そのような確実性を持った数多くの現象は、しかし同時に次のことを否定している。それはつまりそういった諸事実が言葉の正しい意味で[100%]確実であると断言したり、その意味を人が一般に「確実さ」として扱うような形で[アプリオリなこととして]語ろうとするやり方である。そう言う訳で、もちろんその耕地ゲマインシャフトが発生したということについて、それがより詳しくはどういうものであったかという問いには答えることが出来ない。ローマの全ての土地が、ドイツの村落におけるマルク共同体[Dorfmark]≪ゲルマン民族~中世ドイツにおける村落共同体のこと。マルクはその共同体の総有地のこと。≫がそうであるような、ある種のゲマインシャフトである経済領域ではあり得なかったということは自明である。ローマにおける最古の経済的ゲマインシャフトは gentes ≪gens=氏族の複数形。古代ローマでは10の gens が curia となり、10の curia が集まって tribus=部族、が作られていた≫であり、そしてもし後の時代の Landtribus[tribus の私有地]が氏族ゲノッセン[氏族仲間共同体]においての氏族共有地[Gentilmark]の分割によって生じたものだとするならば、我々にまた良く知られている全ての事実、特にクラウディア氏族≪サビニ族を先祖とする伝説を持つ古代ローマの有力氏族の一つで多くの貴族=パトリキを輩出した。≫の耕地マルク共同体についての文献史料に適合することは、[ローマの]全領土が、各地方において中心点となる氏族[共有地]によって分割されていた、と考えることが出来るということである。氏族の社会組織については周知の通り全く解明されていない。氏族について、親族関係に基づくジッペ[氏族団体]であるという伝統的な理解は、次のように誤解されてはならない。つまり、それを血統により分節化された人間集団と考えることである。そういった誤解はつまりドイツにおいての、ゲノッセンシャフト的でフーフェ原理によって組織化された村落のマルク共同体において良く知られた、「系統学」≪それぞれの家がどの先祖から出たかを研究するもの≫からの単なる類推に過ぎない。個々の氏族の共有地の中で何らかの特権を与えられた諸家族が存在していたかどうかということと、特に個々の家族がそれぞれの耕地ゲマインシャフトの中で、[ローマの]ager publicus の先駆的存在と考えられるような、共同体の一部において何らかの特別な権利を与えられた地所を所有していたかどうかということと、さらには氏族がどのような組織を持っていたかということ、これらの問題は土地制度史において何らかの仮説的な答えを出すには史料が余りにも不足している。これらの問題についての可能性のある仮説というと、多くのものが考えられる。同様に古代の pagi [土地共同体]の耕地ゲマインシャフトの中での位置付けを調べることも、ここでは試みることは出来ない。この pagi がそのゲマインシャフトのマルク共同体関係と関連があるということは、lustratio pagi ≪Ambarvalia という豊作を祈る儀式の中で、pagus の中の土地の境界が決められた。≫以外にも、後の時代の多くの残滓が語っているし、同様にまたゲルマン民族のマルクゲノッセンシャフトについての説明をそのまま流用することも行われている 1)。

1) pagus は pango [契約により確定させる]から派生した語である。それ故に pagus は共同体の全員による契約によって分離され、境界付けられたマルク領域と関係付けられているのは明白である。

古代の耕地の人間関係についてのいくつかの帰納的推論は、次章の冒頭で ager publicus について述べる時に更に試みることとする。ここではまず第一に、他の、確実に認め得るイタリアでの植民の特質を取上げる。ゲルマン民族の植民における人間関係との本質的な違いはつまりは次のことにあると考えられる:民族大移動の時のイタリック人が住み着いた領域における政治的状態と移民者の高い技術には、次のことが必然的に伴っていた。

ボーデン湖畔のウンターウールディンゲン杭上住居博物館にある杭上住居の復元。Wikipediaにある著作権フリーの写真。

それはつまり、ドイツの諸村落とは反対に、イタリック人のそれは既に杭上村落≪BC5000~BC500年の間にアルプス山脈周辺の湖畔や川辺に杭を打ってその上に作られた村落、写真参照≫において、少なくとも部分的には、防御性を考慮した場所であったということである。
しかしながらそのことによって、イタリック人の植民には最初から半都市的性格が消し去ることが出来ないほどはっきりと刻みこまれていた。この種の村落はまた、農民がまた住民として定住した小都市になるという傾向を持っていた 1a)。そしてそのことにより再び[その時代の]農業全体において、きわめて早い段階から近代的経済の見地から評価出来るような[進歩的な]傾向が付加されていたのである。そしてこの傾向が、後にローマの植民の性格を決定付けたのである。

1a) 既に最初から家々または村々が壁によって仕切られて互いに隣接していたということは、後のローマの植民の領域が及ぶ限りにおいて――例えばロートリンゲン≪現在のフランスのロレーヌ地方≫において――それは村において村道が設置されたことの結果であり。それは本来のドイツの村落には観られなかったものである。このドイツの村落にこうした構造が欠如しているという外から見て注目すべき現象は、タキトゥスが(ゲルマニア16で)ゲルマン民族の農民の家が一つ一つ孤立している状態にある、と述べているのと同じことであり、村落型の定住の反対概念としての個々の孤立した農家ということだけを想定しているのではない。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(15)P.139~140

「ローマ土地制度史の日本語訳の15回目です。今回も原文は約1ページ半で短いですが、ここで第1章が終わるので一度アップします。これでやっと全体の1/6程度です。ここでは新約聖書でイエスの誕生の際にマリアとヨセフが人口調査のため故郷であるベツレヘムに戻るというのの、「人口調査」の本当の目的が分ります。
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属州における税制との関係

 しかし私は一般論として次のように考える。つまり全ての本来の意味で課税地である諸ゲマインデ[地方共同体]について、その本来の意味とはそこの資産が[ローマとの]自由な協定に基づくのではなく、支配する方のローマ国家から見て取り消し可能な[一時的]取り決めに基づいているということであり、そしてその際に――これがもっとも重要なのであるが――支配する方の国家に支払う税は個々のゲマインデの個別の成員に課されたのではなく、そのゲマインデ全体に対して[まとめて]課されたのであり、そのように執行され、またそれぞれにある決まった基準に従って執行されたに違いなく、そしてこの考え方は上記に引用したフロンティヌスの言葉[Ager per extremitatem mensus comprehensus は測量された[分割されていない]土地の全体がローマの市民[=ローマの国家]または[神殿や教会に]従属する人民に割り当てられた場合に適用されたのであると。]にもっとも良く適合するのである。

 次のことは周知のことである。つまり帝政期の属領において、またとりわけ拡大していた皇帝直轄領においても、更なる税制の構築が進められていたということである。ある種の発展、それは既に[初代皇帝であった]アウグストゥスによって始められていたし、その本来の意味での初回のものが多く語られてきたイエス・キリストの生誕の際の帝国全体のケンスス≪参照:新約聖書、ルカ2「1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。」≫だったのであり――そのケンススは帝国の全ての課税対象地についての一般的調査ではなかったのは間違いなく、そうではなくおそらくそれは全てのまたは大多数の皇帝領において同時に執行しようとしていた[新たな]課税手続きであり、それは土地に対しての税のみを、概して直接税のみを諸ゲマインデの毎年の土地税として設定しようとしていた、そういう傾向を示していた。この[税制構築という]実務が遅遅としてしか進まず、しかもしばしば完全に中断されたこともあったのは明らかである。しかしながら皇帝による課税政策はまた急務でもあった――これについては後でまた述べることになるが――そのことは次の結果から判明する。つまりこの課税政策はコンスタンティヌス一世の時代になると最重要政策として実施されていることが見出されるのである≪同帝は様々な都市や建造物の構築を進めたため、その財源確保として徴税が強化された。≫:帝国による課税、また更に帝国の行政官の監視下での課税、その際に更に諸ゲマインデに対しても税徴収ノルマの責任が課され、それはもっとも元々[その内部では]課税されていた諸ゲマインデで行われたのではあるが、つまりは二つの[徴税]システム[帝国によるのとゲマインデ自身によるのと]の複合であった。ローマ皇帝の直轄領である属州において、直接課税の原則が、元老院直轄の属州に比べ、非常に短期間にかつ広範囲に広まったということの結果、皇帝領の方は provinciae tributariae [貢納税の属州]と呼ばれ、一方元老院領の方は provinciae stipendiariae [金銭納税の属州]と呼ばれたのであるが、その場合に、古くから存在していたが、しかしまた技術的な用語としては常に意味が定まっていたのではない、次の二つの対立概念が導入された。一つが tributum = 現物貢納、もう一つが stipendium = 税の金銭納付、である。以上のことは、測量人達が Ager per extremitatem mensus comprehensus について付記している些細な注釈:「この方式は既に廃れてしまっている。」の意味を説明している。≪つまり、Ager per extremitatem mensus comprehensus は本来非課税地であったが、税制構築が進んだ結果そういう土地は無くなってしまった、ということ。≫

 私は次のことが確かであると説明出来たと信じる。つまりこの対立概念は、一方[tributum]は sacamna[と strigae]を使った測量に対応し、他方[stipendium]は Ager per extremitatem mensus comprehensus の測量に対応するということである。帝政期とその先駆けの時代、つまり民主政[共和制]と帝政の混淆期における様々な傾向が、ローマ国の全ての住民の違いを平準化し最終的にはローマ市民とペレグリヌス≪peregrinus、非ローマ市民のローマ帝国民。紀元1~2世紀においてローマ帝国民の8-9割を占めていた。原義は「外国人、異人」。≫の区別を[最終的に]単一のローマ帝国民という概念でその区別を解消したように、同様の傾向はグラックス兄弟によって始められ≪ローマの同盟市の住民にローマ市民権を与えるという法案を提案した≫、最終的にはユスティニアヌス帝による jus Italicum ≪イタリア権法。ローマ帝国の特権都市の住民にローマ市民権を与えたもの。≫の制定という形で収束する発展も見られた。さらには同様に土地の種類の測量法と法規による区別も、早期に消失していっていた。それ故に、こうした土地の種類の違いについては、ただ帰納法的推論と仮説提示という形でのみ読者に伝えることが出来るのである。

 これまでの議論で、以下のことについての証拠を示すことを試みていたとしたら、そのこととはローマの耕地の質的価値という意味で、それが測量方式の違いと国法上の区別のそれぞれに関連しているということであるが、その場合我々の議論は次に個々のケースにおけるこうした区別の法的な性質と、ローマの耕地の分割の手続きの意義を観察するということを、社会的、経済的、そして法的状態に関して行う、という方向に向かう。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(14)P.136~138

「ローマ土地制度史」の日本語訳の14回目です。ここの部分は意味が把握しにくいラテン語句、ギリシア語句が登場し、別に書いたように生成AIを使いました。結果は十分期待以上でした。しかしこの Ager per extremitatem mensus comprehensus に関する議論は、例外的なものだけに難解で苦労しました。
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Ager per extremitatem mensus comprehensus [全面積が測量済みであるがまだ区分けされていない土地]について

我々は次にグローマで測量された土地の第三のジャンルである ager per extremitatem mensus comprehensus を取上げる。それはその名前[外周を取り囲む境界線のみが測量された土地]が示す通り、耕作地の地図において、ただ外側の境界線のみが描かれていて、[scamna/strigae またはケントゥリアによる]個々の区画割りが行われていない土地のことである 44)。ここにおいて、この分類名で測量された領域についてその法的な意味を説明出来るとすれば、次のことが確からしいであろう。つまり第一に[何らかの理由で]ローマの領土から外されたか、あるいは敵の降伏によってローマの領土となったものの一部分の領域が特別扱いされた場合に適用されたということである 45)。一方ではその領域は ager privatus [私有地]としては扱われず、他方では特別扱いされたといっても依然としてローマの行政管理下にあったものであり、しかし結局のところは個々の土地区画の所有者のローマの国家に対する納税義務のある土地とはならなかった、そういう領域である。このことを裏付けるのは、この分類の土地がまず第一に神殿[教会]付属の土地について適用されたということである。(Hyg., de cond, agr. p.117, 5; Sic. Flacc. 162, 28; Hyg., de lim. 198):その土地は非課税ではあったが、しかし[本来は課税される] ager publics [公有地]のままとされ、国家は疑いようもなく、[行政管理上]その領地の[場所や面積の]確認とその領域を確定させることの可能性について関心を持っていた。しかしこの種の測量は更に言えば、その領域に依存することになる神殿[教会]の占有に先立って行われ、その後その神殿[教会]はその領域を一定の支払いを代価として、譲渡されるかあるいは占有を認められた。神殿[教会]はその土地をそのような性質のものとして受け取り、また今度は神殿[教会]自身が[その構成員に対して]割当てを行ったのである。そう言える根拠はフロンティヌスがはっきりと次のように述べているからである。Ager per extremitatem mensus comprehensus は測量された[分割されていない]土地の全体がローマの市民[=ローマの国家]または[神殿や教会に]従属する人民に割り当てられた場合に適用されたのであると。

44) フロンティヌス、p. 4
45) Per extremitatem として測量された非課税の土地及び山林、そして土地の範囲とそれらとのローマの行政組織との関連については、第4章の関連箇所にて論ぜられる。

フロンティヌスはこの測量方法が実際に行われた例として、ルシタニア≪現在のポルトガルおよびスペイン西部≫のサルマンティカ≪現在スペイン北西部レオン地方のサラマンカ県の県都サラマンカ。第二次ポエニ戦争の時にローマの属州となった。≫及びスペイン方面に派遣されたパラティーニ≪Palatini。ローマ皇帝の護衛を勤める精鋭部隊。≫について述べている。[しかしながら]サラマンカ・パレンシア≪現在スペインのパレンシア県の県都。属州の中でのローマ軍が駐屯した都市。≫で発見されている碑文の内容は、これまでの我々の議論をほぼ完全に破綻させてしまう。何故なら Aggenius Urbicus≪4世紀後半に生きたと推定されるローマの技術書の著者。Corpus Agrimensorum Romanorum の中でフロンティヌスが彼の著作についてコメントを加えて紹介しているものがある。綴りは何種類か有り確定していない。≫は最初のゲマインデ[サラマンカの地方共同体]を vicus [ローマの村落]と呼んでおり、そして[サラマンカとパレンシアの]2つ共が課税された自治都市であった。しかしながら更にフロンティヌスが注記しているのは――こちらの方がより重要なのであるが――次のものである:”compluribus provinciis [tributarium] solum per universitatem populi est definitum.”[いくつかの属州においては、課税対象となる土地は、ただ住民の総意によってのみ決められた。]≪オリジナルのテキストでは”tributarium”が入っているがヴェーバーの引用では抜けている。≫ここについてはただ[その属州の]種族で、まだローマの都市法が適用されていなかった者達に関連付けられるであろう。実際にこの表現に適合する文献史料が存在している。それはサルデーニャ島にいた種族である Patulcenser と Galilenser ≪どちらも詳細は不明であるがサルデーニャ島のエステルツィーリ近辺にいたと推定される。なお後者の綴りは正しくは Galillenses。≫についてのものであり(C. J. L. X, 7852)、その耕地は a.u.c. 640-643年の間[BC114-111年の間]において、M. Marcellus [M. Caecilius Metellus、BC115年のローマの執政官。]によるその属州の一部への新法の適用の際に測量が実施されている。二つの種族間の境界を巡っての争いは――測量人達の間で controversia de territorio [領土を巡る争い]と呼ばれているその意味で 46)――[ローマによって測量が行われ作成された]測量地図を巡って行われた。それは三部作成され、一部がローマ市において保管された。そしてそれがローマにおいての測量地図の基準を満たしている場合には、それに関する争いはローマの地方総督≪Proconsul、執政官は1年任期であるが、それを辞めた後執政官の代理として1~3年間ぐらい属州に派遣された。≫によって裁かれた。この場合各種族の土地の区分けと個々の割当てについてが問題となったのではないであろうから、むしろ特徴的なことは、それぞれのゲマインデ[地域集団、ここでは二つの種族のこと。]がそれぞれの種族の[自分達が自領と考える]全部を一まとめにしてこのような訴訟を進めたのであり、それ故にこの場合争いの対象になっている土地は、ただ Ager per extremitatem mensus comprehensus であったと考えられる。

46) モムゼンは(C. J. L. 1.c.)において、この判決を決定通告[Schiedspruch]と呼んでいる。私はこれに反対である。何故ならば和解のケースは言及されておらず、逆にまず明らかに一方的な訴えが先立って行われており、そしてそれに対する相手方の異議申し立てと[判決の結果としての]強制執行がそれに続いているからである。[つまり通常の裁判形式そのものである。]少なくとも私はそれが課税対象の[ゲマインデの]共通の財産[である土地]を問題にしているが故に、それが通常の法的な訴訟であるとう考え方は、もちろん特別法の形態ではあるが(更に現物執行も行われているし)、まったく無理がないと考える。

しかしながらこの[Ager per extremitatem mensus comprehensusという]測量方式は、また都市部の諸ゲマインデにおいても使われたに違いない。S. C. de Thisbaeis (Ephem. egigr. I p. 278f)によれば地方総督は[執政官から]5人の男達に対して土地の割当てを委託することを命じられている。その目的は、[第三次マケドニア戦争の結果マケドニア属州の一部となっていた]ティスバイ≪Θίσβη 後にまた Θίσβαι。ギリシアのボイオティアの都市、ヘリコン山の南の麓≫との関係を整理することであった。(οις τα καθ’ αυτους πραγματα εξηγησονται[誰であっても、自分自身に関係することについて説明されるであろう])それから地方総督は5人それぞれに委託した土地の割当てについて、どのような[法]原則に基づいてそれを行わせるかについての指示を与えられた。ティスバイの人々は、碑文に示されている通り、元々[旧来の支配者によって]課税されていたのであり、それはそのまま維持されねばならなかった。その耕地についてはローマに降伏したことにより、ager publics [公有地]となったのであるが、それがこの場合意味するのはそれらの耕地はティスバイの人達にとっては、”ημων ενεκα εχειν εξειναι”[私達が所有することを許された]ものであった。そのことによって[改めて]土地の割当ては行われず、その代わりに外周の境界線が[正規のローマの土地という意味で]設定され、そして次にその土地の測量地図を作成することが決定された。その理由はその領土がその土地の人々に改めて返還されるのはただ行政行為、つまりローマの公法に基づいた請願という形でのみ行われるためである。次に周囲の境界線の確定は、その土地に対して将来何か別の処理(例えば場合によっては植民市化など)を行うケースを留保するという意味で、国家にとって本質的に利害関心があることだったからである 47)。中でもまさにこの目的のために行われたのが、次の委託命令であったことは明らかである。それはカエサル[皇帝]が行った5人の男達への[行政事務の]委託であり、その委託[に基づく土地のAger per extremitatem mensus comprehensusによる測量]によって、法律が定める一般的な方法に適合した形で、[ティスバイの]土地が[合法的にローマに]譲渡された。その方法とは、[様々な文献で]何度も引用されている lex Mamilia Roscia Peducaea Alliena Fabia [マミリア法]で規定されているものである。Ager per extremitatem mensus comprehensus 以外のさらに別な[例外的な]測量方法については、これ以上ここでは述べることはしない。

47) また別の例として、lex agraria (a.u.c. 433年=BC111年、土地改革法)はまた、アフリカの土地[第三次ポエニ戦役で完全に滅亡したカルタゴの土地がローマの属州になったもの]について規定しており、それは課税地としてローマに譲渡されており。これもまた公共の測量地図の中に記載されねばならなかった。しかしそのことは属州としての法的地位の決定の際と、またグラックス兄弟の兄による土地配分の際に、概念の混同によって、結局行われなかった。我々はここで、カルタゴでは一体誰に結局土地が割り当てられたのかいう疑問について、第三章でまた取上げる。

古典ギリシア語の英訳:ChatGPT4 対 古典語学者(その2)

次はChatGPT4に古典ギリシア語(これもローマ土地制度史に出てくるもの)を訳させましたが、私が綴りを間違えていたのをちゃんと修正して、またアクセント記号も付けて訳してくれています。自分でも辞書を引いて確認しましたが、多分正しいです。ギリシアのティスバイの人々に土地の割当てについて説明する、という所なので。(意訳すると、ティスバイの人々は誰であっても、その者に割り当てられる土地についての説明を受けるであろう。)
英訳はここを削除してまったく訳していません!信じられない古典語学者です。

You
Please translate the following ancient Greek sentence into English: οισ τα καθ’ αυτους πραγματα εξηγησονται
ChatGPT
The sentence “οἷς τὰ καθ’ αὑτοὺς πράγματα ἐξηγήσονται” translates to English as “to whom the things concerning themselves will be explained.” This translation is an attempt to convey the original meaning as closely as possible, considering the structure and grammatical nuances of Ancient Greek. The sentence seems to suggest that there will be an explanation or exposition of matters or issues that are personal or relevant to the individuals referred to by “οἷς” (to whom).

ラテン語の英訳:ChatGPT4 対 古典語学者

ヴェーバーの「ローマ土地制度史」で今訳しているところで、ラテン語のフレーズが出て来たので、ChatGPT4に訳させてみました。なおより正確にと思って英語で質問し、英語に訳させています。また最初はヴェーバーの引用のままで訳しましたが、全集の注によるとオリジナルの文から一語抜けているとのことなので、それを入れて再度訳させました。結果として、私は(文脈も考え)正しく訳していると判定しました。また「土地」という言葉はまったく入っていないにも関わらず、土地に関する文章だということを理解しています。
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You
Translate the following ancient latin sentence into English: compluribus provinciis solum per universitatem populi est definitum.

ChatGPT
The sentence “compluribus provinciis solum per universitatem populi est definitum” can be translated into English as:

“In several provinces, the land is defined only by the collective agreement of the people.”

This translation interprets “compluribus provinciis” as referring to several provinces, “solum” as land or ground, “per universitatem populi” as through the collective or universal agreement of the people, and “est definitum” as is defined. The sentence suggests a concept of defining territorial boundaries or ownership based on the consensus or collective agreement of the population within those provinces.

You
I’m sorry one word was missing: “compluribus provinciis tributarium solum per universitatem populi est definitum” . Please translate it again.

ChatGPT
With the inclusion of the word “tributarium,” the sentence “compluribus provinciis tributarium solum per universitatem populi est definitum” translates to:

“In several provinces, the tribute-bearing land is defined only by the collective agreement of the people.”

Here, “tributarium” adds the notion of land that bears tribute, indicating that the sentence refers specifically to land from which taxes or tributes are collected. The translation thus suggests that in these provinces, the determination of which lands are subject to tribute is made collectively by the people.
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日本語にすると「いくつかの属州において、課税対象の土地は、ただそこの住民の総意によって決定された。」となります。

ちなみに英訳がここをどう訳しているかというと、
”in many provinces the land is identified with the people (populus) which inhabits it.”
で文脈から言ってまったく意味不明の訳です。

(文脈は、ager per extremitatem mensura comprehensus が非課税地であり、神殿の所領とかローマから分離されたような特別の土地に適用されたと議論してきて、しかし実際にそれが行われたとされている地方の碑銘文が、通常の村落であり課税対象だったとあって、議論が否定されるのを、いや実際はそれらの土地で課税地は後で住民の総意で決められたのであり、全部が最初から課税地となっていた訳ではない、というものです。)

英訳者は古典語の学者だそうですが、まあ一語抜けているのを知らなかったというのを差し置いても、ChatGPT4にまったく負けています。こういう学者は淘汰されていくと思います。何度も紹介していますが、この英訳のレベルは非常に低いです。古典語の学者なのにラテン語を正しく訳していない箇所が多くありますし(それどころか注釈の中のラテン語文は削除して訳していなかったりします)、ドイツ語も間違えている所が多くあります。

 

「ローマ土地制度史」の日本語訳(13)P.134~136

「ローマ土地制度史」の日本語訳の13回目です。ちょっと分量が少ないですが、ager quaestorius に関する議論はここで終るので、一度ここでアップします。訳していて思いますが、この内容は断じて「農業史」ではありません。ヴェーバーはローマの土地制度の法的な取扱いの変遷を論じているのであり、最後の章も農業が主体なのではなく、ラティフンディウムという大土地所有とコローヌスという小作人がどうやって生じたのかという分析がメインだと思います。
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 今の議論で得られた仮説としての成果[ager quaestorius と強制収用の共通性]をager quaestorius の実際の分配の仕方――おそらくそれはまた trientabula の分配方法でもあったと思われるが――にて比較検証してみた場合、対象の土地に測量が行われている場合で、それについてはリヴィウスの報告が明らかにしているが、その場合に両者のやり方は非常に良く合致している。というのはその際に個々の土地区画に対して何らの課税もされず――あるいはただ名目的な税のみがあったか――というものであったからである。limites の確定は課税対象となるべき土地区画の所有境界を明確にすることを可能にしたであろうが、行政管理上の目的はほとんど持っていなかった。なるほどもしかするとそのような土地区画の境界線の確定は、国家が買い戻し権を行使する際の払戻金についての簡易的な確認証の役目を果たしていたのかもしれないが、しかしながらそのような 買い戻しの執行において、通常はそのようなことはまったく考慮されていなかった。しかしそれでもそういった買い戻しの執行が実際に行われており、それは当時半分革命的なやり方として人々に捉えられていたのである。強制収用[を後になった行った者達]はそこにおいて、土地の境界が limites の確立という形で修正させられた場合に、そのことがその土地の元の権利者達がその土地に対し以前いくら支払ったかを証明出来ていたかどうかといいうことに注目していた。測量地図上にはいずれの場合も売却された総面積の範囲が地図の技法で描かれており、そしてその面積の数字と、売却した相手方、更に売却価格が記載されていた;しかしながら limites がいつも描かれていたかどうかは疑問がある。43a) このことについては、私は以下のように考えたい:つまり、より古い時代においては scamna と strigas による土地の配分はケンソルの目的のためには [ケントゥリアによる測量と]全く同じく典型的な方法であったのであり、それは locatio [賃貸し]という[法的]概念に適合していた。それは limites で境界付けられた四角形の土地[latercui]が財務官[quaestor]の[一時的に現金を得る]目的のために分配されたのと同様のことであった。そちらはvendito [(買い戻し権付きの)売却]と呼ばれた土地の譲渡であってより少ない権利しか買い主には与えられなかったのであり、その一方でscamna と strigas による譲渡の場合は[「賃貸し」という名前の通り、使用料としての税金が課せられたものの]完全な所有権が与えられたのであると。

43a) もっとも測量地図上に土地のサイズが記載されていたかどうかも推測の範囲でしかない。

 しかしながら後の時代になると、既に述べてきたように、様々な土地配分の方法が混同されるようになってきて、それについて可能性があるのは、グラックス兄弟による公有地配分政策がそのきっかけになったということである。グラックス[兄のティベリウス]によって市民に分配された土地は ager privatus [私有地]にはされなかったにも関わらず、グラックス[兄]は明らかに[本来は ager privatus 用の測量方法であった ]ケントゥリアの[1ケントゥリア以上の土地を個人が所有出来ないという]制限を好都合な道具として利用したのである。ある一面ではこのやり方は lex agraria に示されているように、まず同一面積のケントゥリアを設定し、それを2等分割するするという土地割当てが頻繁に行われることにつながったのであり、また概して言えば、大きな混乱ももたらしたのである。もしかするとこういった純技術的な欠陥が、彼の政策を失敗に終らせそして公有地の私有財産への転換を必然的にした、決して小さくない理由の一つかもしれない。

 ここまで[ager quaestorius について]詳論してきたことの成果としては次のようになる:二つの測量方法であるケントゥリアによるものと、scamna によるものの間の関連が、土地に対する法的な評価という点において、これまで述べて来たような内容で存在しているということである。その際に、ヴォイクトの説のように、二つの土地分割の方法がそれぞれ別の民族的起源を持つ可能性がある、ということまでは主張していない。もしイタリアのポー平原上の郊外村落が、実際に長方形の土地で区画され、方向付けされているとしたら、そのことは長方形区画を使った測量方法が、古代イタリアのウンブロ-ザベラー族[ラティーノ-ファリスカー族連合と対立した古代イタリアの有力部族連合]によって確立されたものであるということを非常に確からしくするであろう。正方形による土地分割を使った測量方法の場合、グローマを使った[最初の]測量人自身が、エトルリア人[ローマの先住民]であったのではないかと推論付けられているが、それが正しいかどうかは未定とするのが正当であろう。またその際にギリシア人の影響もあった可能性がある。≪グローマの起源は紀元前4世紀以前のメソポタミアであり、それがギリシアからエトルリアに伝わり、クラネマというエトルリア人がローマに伝えたとする仮説がある。≫しかしながら以上のような二つの測量方法の起源に関する議論は次の事実に何も影響を与えない。それはつまり、この二つの方法が[ローマに伝わった]後にローマの行政によって注目され[両方が]使われるようになった、ということであり、それについてはここまで詳論してきた。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(12)P.130~134

前回が2022年7月でしたから、約一年半開きましたが、「ローマ土地制度史」の日本語訳の12回目です。その間、自宅を購入し引っ越したり、会社を変わったりで色々と大変でした。ようやく落ち着いたので翻訳を再開します。ここはほとんど ager quaestorius に関する記述です。
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 ager quaestorius の法的な性質については、これまで不十分な形でしか解明されていない。当時の測量人達の情報によれば、それは征服によって獲得された耕地に対して、ローマ市民から財務官(クワエストル)への委任に基づいて売却された土地であるとなっている。しかし私はモムゼンの推定 (C. I. L., I の lex agraria の c. 57. 66)と一致して、ager quaestorius はローマ市民の決定に基づくのではなく、元老院が決定し財務官に委任したものであると考える。更には次のことも想定できよう。それはこのやり方と関連がある trientabula (後述)≪国家債務の返済の際にその金額の内の1/3を現金ではなくそれに相当する価額の土地で返済すること≫のやり方を参考にすると、lex agraria の規定から派生したこととして、その土地の所有権を完全に購入者に与えるのではなく、ただ “uti frui licere”[使用する権利、(貸すなどして)利益を得る権利、売却する権利]だけが約束されている[つまり買い戻す権利が留保されている]ものであるということである。従ってここで扱われているのは、[完全な]売却という行為ではなく、財産管理上の[ある意味で勘定科目の変更のような]行為なのであり、それはケンススを実施する上での[ある土地の]場所の確定という目的にも沿っていた。何故ならば、ager quaestorius は財務官が国家の財産を[一時的に]売却することにより現金を得る形態なのである。それは言い換えれば資本の払い込みに対し使用権を引渡すことであり、ケンスス上の扱いでは、それは賃貸し、つまり使用権を与える代わりに使用料を取るということである。モムゼンが述べているこのことについての理由以外に、またそこからさらに発展させ、私はまた次のことが確かに言えると考える。つまり ager quaestorius は、例えば名目的な承認に基づく使用料(地代)の支払いという観点では、使用料(地代)支払いを義務として強制するような性格のものではない、ということである。それではこの場合、[土地を購入した]ローマ市民に対して継続的な所有権が認められるという[法的な]効果[通常の売却-購入との違い]は、この方式のどこにおいて現れるのであろうか?純粋に私法的な関係においては、所有権の移転[vindikation]と握取行為[物件を移転させる際に契約以外に必要とされる一種の儀礼的行為]が行われない、という点にそれは現れている。国家権力との関係については、再度モムゼンによって示された(C.I.L、上掲箇所)推定と一致するが、次のことが非常に確からしいと思われる:それは ager quaestorius の trientabula との類似ということで、そのようにモムゼンは引用の箇所で主張している。trientabula が最初に行われたのは a.u.c. 552年[B.C. 200年]のことであると、リヴィウスは1. 31の13章で述べている。

 ”Cum et privati aequum postularent nec tamen solvendo aeri alieno res publica esset, quod medium inter aequum et utile erat, decreverunt, ut, quoniam magna pars eorum agros vulgo venales esse diceret et sibimet emptis opus esse, agri publici, qui intra quinquagesimum lapidem esset, copia iis fieret. Consules agrum aestimaturos, et in jugera asses vectigales testandi causa publicum agrum esse imposituros, ut si quis, cum solvere posset populus, pecuniam habere quam agrum mallet, restitueret agrum populo.” [その市民達の要求は正当であり、そしてそれにも関わらずローマ共和国が要求された金額を支払うことが出来なかったので、元老院は次の処置を行ったが、それは正当性を実現しようとしたのとその場しのぎの中間にあるようなものだった。それは国家の土地で、大部分が公的に売りに出されており、その購入には現金での支払いが必要とされたもので、ローマから50番目の里程標の内側にあるものが、それらの市民に対し[現金で返済する代わりに]与えられることが出来るとされた。コンスルはそういった土地の価額を見積もり、そしてその土地について課税対象として使用料金を定めることとなった。その理由はそれらの土地が元々国家の土地だからである。そしてローマ市民でありローマ共和国への債権者である者の内の誰かが、土地よりも現金を選んだ場合には、その者は土地をローマ市民に返却することが出来た。]

 法的な観点で分析した場合、ここでの手続きはつまり次のようなものである。ここで描写されている耕地は、ローマ国家に対する債権者達に後で買い戻すことを前提として売却されている。その土地の売却価格としては、借り入れ金の内未返済のものの1/3の金額が使われており、そこから trientabula [triens = 1/3]という名前で呼ばれた。土地を再度買い取らせる権利を持っていたのはその土地を買った者達だけであり、それもローマの人民がその資金を払うことが出来る場合のみであり、売主である国家がではなく、ローマ人民が、である。このように全くのところ国家の債務の整理を目的とした業務、まあそう言っても構わないであろうが、国家による個人への土地の売却という形を取っている。そしてそれはその法的な本質としては明らかに売却という大きな枠組みの中でのみ行われ、そして個別の特別な事例に適合する協定を取り結ぶことによって、ager quaestorius においての売却のやり方とは異なっていた。その当時債務者であった国庫は、この方法を非常な困窮の中でやむを得ず行ったのであり、だからこそ次のことが理解出来る。つまりこの売却の特殊性が協定という形を取らざるを得なかった理由であり、その場合に買い主は一般的な場合と比べてより有利な形で土地を買うことが出来た、ということである。次のことは自明である。つまり、こういう買い主に対する特別扱いに見出すことが出来るのは、土地の買い戻しを実行させる権利を持っているのは、買い主であって国家ではない、ということである。私見ではその他の場合ではこれは逆であったであろう。この点について考えられるのは、ager quaestorius の本来の法的な特性は、国家に帰属する買戻し権であった、ということである。41) この一度売却した土地の買い戻しの権限は、ローマ法の規定にもある”habere uti frui licere”[所有すること、使用すること、それを使って利益を得ること、それを売却すること]≪元は”habere possidere uti frui licere”であり、 possidere =占有すること、を抜いた形で引用されている≫にも合致している。その規定は公法的には不安定な土地所有というものを言い表した”εχειν εξειναι”[所有すること、占有すること]という S. C. de Thisbaeis ≪引用元は後述される≫の表現と法的には同じである。更に ager quaestorius [の買戻し権]が本来国家に帰属する権利であるということは、次のこととも矛盾しない。つまり、この形での土地の授与の基礎が築かれたのは元老院勧告によってであり、(明らかに)民会の決議によってではない。しかも更に、おそらく次のことも想定出来る。それは国家が所有権を購入という形で移転させるのであり、そのため公的な建造物の贈呈と引き渡しの際には、[それに付随する]余剰の土地は監察官[ケンソル]によって「(公有地から)私有地に転換する」形で売却されたということである。(Liv. AG40 40. 51, 5. cf. 41. 27. 10)しかしながらこの贈呈の手続きについては民会の決議を必要としたので、この場合の[土地の売却の]手続きもまた前もって特別な売却として[法的な]効力を与えられていた。42) いずれの場合でも元老院勧告は国家の所有物[である土地]を、規則に沿った形で完全に私有物化することを認めるまでには至っておらず、一方民会の決議は更に厳格に無条件に売却した土地の買い戻しを定めており、その当然の結果として土地の購入者はその購入の際に支払った金額全額の返還を要求するようになった。このことにより、推定して来た本質的な土地の買戻し権というものが成立しているのである。モムゼンが仮定しているように、ager quaestorius による土地の売却がローマの国庫の一時的な資金需要に応えるものであったとしたら、その場合我々は信用引き受けのこうした原始的な形態を見ると、直接的に中世における金融経済においての Satzung [不動産を抵当に入れた借り入れで、占有を条件とする古質(こしち)とそれを条件としない新質がある]及び買い戻しが前提である土地売却が思い起こされる。中世における諸都市においてと同様に、より洗練されたやり方であるRenteによる借り入れ[地代徴収権売買、レンテンカウフ]がまだ認められていなかった限りにおいて、古代ローマの場合はそれ故特別な場合での資金創造の形態としては次の2つに限定された:強制税(=tributum )と土地の買い戻しを約束した上にで売却するという形態での自然物の質入れである。その他の ager quaestorius による売却のやり方としては、当時の測量人達が述べているように、征服し占領した土地について即時に現金化するやり方もあった。――実際に存在したのは、前述の箇所で確認を試みたのであるが、国家のそのような買い戻し権の方であり、それはそれ自身がある種の土地の強制収用権であり、ager privatus に対して[の公有地化の方法としては]それ以外のものは知られていなかった。――そして植民市の耕地についてである限りは、例えば水道を設置するという目的等で行われたに違いなく、[ローマ法の]建築に関する法規の中で特別な権利として留保された。その例としては lex colon[iae] Genetivae c. 99 (Eph. epigr. II, p.221f.)があり、――そして次のことが考えられる。つまり何かの代償と引き換えによる、三頭政治の時代における強制収用が、ある場合はこの ager quaestorius において生じた[買い戻しの]権限に関連付けられ、また別の場合には古くからのやり方である占有による所有の不確実性に関連付けられた。そして後者の場合は、強制収用は統治者[三頭政治の政治家]の特別に完全な権力により、それによって収用された土地は ager privatus per nefas [違法な私有地]へと転換されたのである。43)

41) ルドルフ[Rudorff, Adolf]は(Gromatischen Institutionen の中で)次のことを仮定している。つまり国家は購買しようとする者との関係に応じて、それぞれ異なる内容の協定を締結していたと。売却対象の耕地のみが、我々には唯一の統一された制度として把握される。

42) Liv. 40, 51, 5 の場合は”M. Fulvius … locavit … basilicam … circumdatis tabernis, quas vendidit in privatum” [M. フルヴィウスは…契約した…その会堂を…その周りにある小さな建物については、私有物化する形で契約した]という箇所は、つまりある国家の所有物の譲渡が民会の決議無しに行われており、またそこに見出されるのは、その建築物の敷地については建物を譲渡する前に始めて購入されたのであり、その建造物の完成と譲渡の認可を得るまでの過程において、敷地については売却側の役所がそれを自由に処分出来るものであったと思われる。Liv. 41, 27, 10については、譲渡に際して in privatum [私有物化された]とは書かれておらず、おそらくそれは実際にそうであったのであろう。

43) 三頭政治の時代の土地の強制収用の法的根拠は、それが[征服した]敵の所有物を没収するのではない場合にははっきりしない。そういったケースの一部ではそもそも法的根拠がまるで存在しなかった。強制収用が如何に容赦なく行われたかをもっとも良く示しているのは Siculus Flaccus (p.160, 25)の注記である:ある数の土地占有者は公的な宣告を受けて[zur professio]その占有地を召し上げられた。その表向きの理由は土地の[再]割当てとケンススへの登記である。しかしそれが宣告された後に、その土地の占有者は宣告に基づいてその土地の税金相当額が支払われた上で没収された。その没収について裁判となった場合にも、それは結局[没収した側に]罰金刑が言い渡されるだけであり、その金額は当初の宣告の際のその土地の評価額に一致していた。ここではただ強制的な購買について述べられているのであり、また別の土地占有者への補償について言及されている箇所では、その補償自体が問題とされている。こうした土地の占有者に関しては、測量人達の間では、以前グラックス[兄弟の兄]が使った表現である「以前の占有者」[vetus possessor]が思い起こされていた。(C. Ⅲ 参照)

「ローマ土地制度史」の日本語訳(11)P.125~130

「ローマ土地制度史」の日本語訳の11回目です。ここでは色々な植民市が出てきて分りにくいので地図を作成しました。ローマがイタリア半島を統一していく足跡が見られて興味深かったです。
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 その他イタリアにおいて、そこにおける土地の割り当てが部分的に scamna と strigae を使って行われたと、liber coloniarum [植民市の本]が注記しているのは次の場所である:

アラトリ≪Aletrim→Aletri、現在ラツィオ州フロジノーネ県のコムーネ、BC306年にローマの植民市となった。≫(ケントゥリアと strigae)30)、
アナーニ≪Anagnia→Anagni、現在ラツィオ州フロジノーネ県のコムーネ、BC306年にローマに併合された。≫(strigae)31)、
アエクイコリ≪Aeqicoli、イタリアの山岳地帯に古くから住んでいたアエクイ族の土地をBC304年のアエクイの戦いでローマが支配下に置いたもの。≫(ケントゥリアの中での strigae と scamna)32)、
アルフェデーナ≪Afidena→Alfedena、現在アブルッツォ州ラクイラ県のコムーネ、BC298年にローマに征服された。≫(ケントゥリアと scamna)33)、
トリヴェント≪Terventm→Trivento、現在モリーゼ州カンポバッソ県にあるコムーネ、BC3世紀のサマニウム戦争の結果ローマの植民市となった。≫(praecisrae [境界で分けられた土地] と strigae)34)、
ヒストニウム≪Histonim、現在のヴァストでアブルッツォ州キエーティ県のコムーネ、アドリア海に面する。シーザーの時代にローマの植民市になったとされる。≫(ケントゥリアと scamna)35)、
ボヴィアヌム――おそらくはヴェトゥス≪Bovianm Vets、ローマの植民市とされるがその時代も場所も不明、現在のピエトラッボンダンテ=モリーゼ州イゼルニア県のコムーネであるという説があるが、2022年現在では疑われている。≫(ケントゥリアと scamna)36)、
アティーナ≪Atina、現在のラツィオ州フロジノーネ県のコムーネ、サマニウム人の都市であったがローマに征服された。≫(部分的に lacineis [断片状の土地] と strigae によるもの)37)、
リエーティ≪Reate→Rieti、元々サビニ人の土地でローマに征服された。現在のラツィオ州の都市で、「塩の道」の要衝だった。≫とノルチャ≪Nrsia→Norcia、現在のウンブリア州ペルージャ県のコムーネ、元々サビニ人の都市で第2次ポエニ戦役の時のローマの同盟市。≫(ケントゥリアの中での strigae と scamna)38)
である。今挙げた全ての場所は後にムニキピウム [自治都市] ≪元老院ないしローマ皇帝から自治を許されていた都市≫となっている。それらの中の一部の都市は、証明可能なことであるが、プラエフェクトゥラ≪praefectura、ローマのいくつかの属州をまとめたものがディオエケシス=dioecesis=管区とされ、いくつかの管区をまとめたものがプラエフェクトゥラ=道{どう}とされた。≫の前段階であった行政単位の中に組み入れられた。それらの都市とは、アナーニ、リエーティ、ノルチャ、アティーナ、及びまたアエクイコリであったと思われる。ボヴィアヌム・ヴェトスについては一般に得られる情報が不足しており、詳細は不明である。また以下のことについても分っていない。つまり strigae と scamna を使った土地割り当てが最初に行われたのが、ベテラン兵への土地割り当ての時がそうだったのか、あるいはその時には既に先行してそういう割り当てのやり方が存在しておりそのやり方が引き継がれただけなのかということである。またこのような特別な土地割り当てのやり方について、何か特別な理由があったのかどうかも同様に不明である。

30)liber coloniarum 230, 8: Alatrium, muro ducta colonia. populs deduxit. iter populo non debetur. ager eius per centurias et strigas est adsignatus.
[アラトリという町は、(ある)植民市において壁によって区切られていた(区画にあった)。(ローマの)人々がそれを拓いた。そこでは道路は個人の所有にはなっていなかった。そこの土地はケントゥリアとstrigaeによって分割割り当てされた。]

31)上掲書、P.230、17行目
32)P.255、17行目
33)P.259、19行目
34)P.238、10行目(正しくは14行目、全集の注による)
35)P.260、10行目
36)P.231、8行目
37)P.230、5行目
38)P.257,6~26行

こうした特別な土地の分割割り当ては、例えば売却禁止の土地を与える場合に使われたのかも知れない――そしてこのような割り当てはアウグストゥス帝によっては行われなかった、という仮説は、考慮の余地がなく誤りである。その理由は、周知のこととして、この種の土地の売却が禁止されていたということが、その土地に課せられることになっていた税金に対する [皇帝の] 承認によって法的に明確に示されていたからである。アエクイコリの耕地は更に、[アエクイ族の] 鎮圧がされた後にいずれにせよ [ローマの新たな土地として] 公にされたのであるが、しかし多数の文献情報によればそれは個々人には割り当てられず、おそらくは [小作地として] 賃貸しされたのであり、だからこそ scamna [と strigae] を使って土地が分割されたのである。プラエフェクトゥラにおいては、少なくとも部分的には同様の事情が存在していた。そういった場所は多くの場合同様に戦争に勝利した結果として得られたものであり、その理由から [元々の] 土地所有者の立場としては、おそらくはその土地に対する権利がいつでも取り消されることがある、という前提に置かれていた。ボヴィアヌム・ヴェトスについては、そこが別名として Bovianum Undecimanorum [1/10税が免除のボヴィアヌム] と呼ばれていたことから推定して、十分確からしいと考えられることとしては、それは元々の土地の所有者に対して、その土地の使用料を徴収する権利が与えられた、そうした人々が集まった自治組織であったと解釈することが出来る。リエーティについてシクラス・フラッカス≪2世紀に生きたと推定される古代ローマの測量人・著述家≫が言及している内容によれば――P.136、20行目――多数の agri vectigalis [課税対象の土地] が存在しており、ピケナム≪Picenum、現在のマルケ州の南部、元はガリア人の土地だったのをローマ人が入植を進めた。アウグストゥス帝が定めた行政区分であるRegio Vとなった。≫についても同様であり、ヒストニウム≪Histonium、現在のアブルッツォ州キェーティ県のヴァスト、元々フレンターノ人の土地で、植民市ではなくムニキピウム [自治都市]。≫においての scamna で分割された土地ももしかするとピケナムの土地と同様に扱われたのかもしれない。≪ピケナムとヒストニウムはかなり離れており、原文直訳の「ヒストニウムの土地がピケナムに属していた」、という記述の真意は不明。ここでは同様のやり方が適用された、と解釈した。≫最後に残った可能性は、ある特定の場所のある部分において、つまり liber coloniarum の中でケントゥリア及び strigae と scamna によるよる土地の分割として言及されているような [ある土地のある] 部分は、単純に以前(全集版原文のP.111)ここで述べたベテラン兵への3分割した土地の割り当てとして行われたというものである。そしてそれは次のようなやり方で行われていた。つまり、測量人が一つのケントゥリアを2つの [原文は3つの ] 平行線で3つに分割し、そしてそれぞれの [長方形の] 部分を縦が長い場合に strigae、あるいは [横が長い場合に] scamna と名付けられたのである。これが行われた理由はおそらく次のことによる。つまり、ハイジンの時代において新しい方法として言及されているものが39)、つまり分割したそれぞれの土地の境界線を、ager centurias [ケントゥリアによる分割地] であった土地についても測量地図上に記載するということが、既に一般化していたということによる。

 いずれにせよ以上見て来たような実例が示していることは、特にスエッサ・アウルンカの例は、ager privatus として strigae と scamna を用いて土地を割り当てることも十分に可能であったにも関わらず、別のやり方が採用されており、その大部分の場合で、それぞれ何か特別な理由があってそうされたのであろうということは、かなりの程度間違いが無いということである。

39)P.121(全集注によれば正しくはP.119f)、前掲書

課税可能な植民市の土地の測量

 他方、scamna と strigae を使って、その土地の権利を制限された形で [ager privatus としてではなく] 割り当てられたのは、必ずしも [土地割り当て対象者の] 全員ではない、ということもまた確かである。課税可能な属州の土地の後の時代における割り当てについて、ハイジンは先に引用した箇所で、ハイジン自身はそれに反対していた立場だったようであるが、はっきりと次のように証言している。それはつまり、scamna と strigae を使った割り当てが、通常のケントゥリアと limitesを使った方法において [併用する形で] しばしば行われていた、ということである。そのことの実例におそらくなるのは、添付図1の中の銘文であり、そこに書かれていることによれば、明確にそれは測量図のコピーの一部であると述べられている。

 土地の分割がケントゥリアによって行われたということは、その測量図の断片上の表示から明らかである。≪以下の文の原文中のMaaßeはMaßeとして解釈した。≫ここでのケントゥリアの各辺の寸法は次の比率となっている。[ハイジンが引用している] ニプサスの書に出ている scamna によって分割された耕地は、240ユゲラの面積のケントゥリアにおいて分割が行われたのに違いなく、その場合の辺の比率は(6:5)[24 actus : 20 actus] となる。ニプサスはここでは明らかに、scamna によって分割された土地を課税対象の耕地として捉えている。というのもアラウシオにおいての scamna による分割地においては、そこの地図 [添付図1] が示しているように、単純な均等割り当てが行われたのではなく、明らかに個々の土地所有者 [割り当て対象者] に対し、様々なケントゥリアにおける様々に異なった土地面積の実質的価値に応じた割り当てが行われたからである。それは課税されることがなかった植民市における土地分割のやり方とまったく同じであった。モムゼンによる信頼性の高い原文修復の結果によれば、それぞれのケントゥリアでこのやり方は繰り返し行われている:”ex trib(utario) [tributario = 課税対象の、課税対象の土地から] ――その部分に対して数字が記載されている――red(actus) in col(onicum) [植民市において非課税の土地として与えられた]”――こちらについてもまた数字が記載されている。ハイジンがP.121で描出している箇所は、まさにこういった場合についてであり、そこでの描写は次の通りである:それまで測量がされておらず、割り当てもされていない(arcifinisches)[新たに占領した敵地など] 課税対象となるべき属州の土地が測量され、そして(免税とならない)アラウシオの植民市における境界線で分けられた耕地において、(新たに課税対象地としての)土地割り当てが行われた。アラウシオは [ガリア遠征による] シーザーが征服した土地における植民市である;そこでの全ての耕地がその当時分割され割り当てられたかは不明である。しかし碑文が刻まれた石自体が元の測量図と同じくらい古いものである必要はない。何故ならばそれは単なるコピーに過ぎないからである。

 ”redactus in colonicum” [植民市において与えられた] という表現は次のことを示している。つまり、その領土のある部分は、植民市の土地としてようやく後の時代になってから [土地割り当てなどの用途に] 転用されたのであると。アラウシオにおける耕地の分割は、常に、何度も考察して来た [実際にはこの論文では初めての言及、おそらくローマの測量人達が何度も言及している、という意味か。]マミリア法 ≪Lex Mamilia Roccia Peducaea Alliena Fabia、Corpus Agrimensorum Romanorum の中に3つほど断片が収録されている、割り当ての際の土地の最大の面積を定めている法。≫ の中のシーザーによる命令に従って行われている。シーザーは良く知られているように、海を渡った土地の植民市について、最初にそれを大規模に切り開いたが、 そのことから明らかなこととして推測出来るのは、このマミリア法における彼の命令が、属州の土地に対しても適用されたということは、ケントゥリアによる土地の割り当てが非課税の土地についてだけでなく、課税対象となる土地についても適用されたということの、まさに証拠であった。この形の土地割り当ては、植民市における平地の測量においても、次の理由から不可欠なものであった。つまり、測量人達は規則に従いながら異なった面積の土地を、それぞれの価額に応じて分割せねばならなかったのであり、それを scamna を使ってやると多大な労力が必要だったのに対し、他方ケントゥリアを使えば単純にあるケントゥリアではXユゲラ、別のケントゥリアではYユゲラが、それぞれ等しい価値を持つものと設定出来た、そういう理由からである。

ager quaestorius [財務官{クワエストル}が収入のため売却した公有地] における測量とその法的な性格

 それにも関わらず、以上見て来たようなある意味原則からの逸脱とも考え得る現象から更に見て取ることが出来ることとしては、通常 [の私有地として] よりも権利が制限された耕地が存在したということである。そういう耕地は scamna をベースにした土地割り当てが行われていなかった。これらは ager quaestorius であり、つまり次のような土地であった。それは定期的な土地使用料の支払い ≪Rente≫ を条件にして国家から与えられるのではなく、一回だけのお金(資本)の支払い [購入] を条件として与えられた土地である。

 この ager quaestorius の場合の土地分割については次のやり方が知られている。つまり、limites を用いて四角形の土地(laterculi または plinthides)を切り出し、それは一辺が10 actus の正方形=面積50ユゲラ [10×10÷2] の平面、として作られ、これらの土地区画が――規則に則って、オークションのようなやり方で――購買希望者に対し公開され、それからその測量地図が作られ、その地図の上にその土地を買った(受け取った)者の名前が、その者に売却された土地の面積と一緒に記載されたのである。40)

40)上掲書のP.115、P.110の8行目、P.125の下部、P.136の15行目、P.152、P.153の3行目、P.154。

この ager quaestorius と ager centuriatus の本質的な違いは、laterculi の面積がケントゥリアとは違うという点にあるのではなく、limites がここでは小路 [道路] ではなく、その文字通りの意味の通り単なる境界線 [リミット] となり、事実上は単に decumani の線を「分割するもの」となっており――それはこの名称が東西と南北の方向に関係なく使われていることからも分る。ここにおいての limites は [ケントゥリアの場合そうだったような] 公的な道路システムの意味で使われているのでは全くなく、ただ Raine [境界] の意味で使われており、それはそこにおいて土地の売却が行われた、個々の土地区画の境界を形作るものであった。それは scamna における rigores [直線] と同じ意味であり、その証拠としてシクラス・フラッカスは”limites, id est rigores” [limites 、それは直線である。] と書いている。ここでの limites は一番最初の土地分割の際の境界設定という意味しか持っていなかったので、その他の場合においてはその土地の継続的な権利保持の保証にも根拠にもならなかった。それ故に所有者が変わった場合には、limites 自体は消滅してしまっていた。そのために(フロンティン、P.154、5行目)次のような記述が残されている:”emendo vendendoque aliquas particulas ita confuderunt possessores, ut ad occupatoriam condicionem reciderint” [私はある土地区画の境界線を修正した上で売却する。そのように土地の所有者達は個々の土地区画を合筆し、新たな{売却のための}占有契約のために新しい境界線を設定する。]。

 様々な種類の土地の法律上の性質については後で更に詳しく述べるが、次のことを理解することが不可欠であると思われる。つまり、ager quaestorius については、土地と法律の関係という問題を先取りしていたということである。というのはこの制度において本質として理解すべきことは、事実上分割の方法と分割された土地の法律上の価値との意識的な関連付けが行われていたことである。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(10)P.122~125

「ローマ土地制度史」の日本語訳の10回目です。今回は英訳の迷訳に笑わせてもらいました。しかしとはいえ、ヴェーバーの注釈は本当に細かいことについて詳細に言及するので訳すのが大変です。
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このような固有の土地税に関連付けられるか、あるいは少なくとも理論的には関連付けられた土地において――、個々の土地区画の境界線を測量地図上で明確に識別出来るようにすることについては、行政面では何の価値も無かった。ケンスス≪ローマにおける市民の登録とその所有財産の調査で今日の国勢調査の走り≫においてはしかし、土地のユゲラ数――即ち面積 [modus] 26a)――を申告する必要があったし、その申告においては、最初にその土地の割り当てを受けた時の測量地図 [forma] を添付する必要があった。従って、個人財産の証書類の提出 [の一つ] としてケンススにおけるよりよい管理という目的のために利用された可能性がある。それにもかかわらず、フロンティンが(p.4)特別に注記していること、つまり scamna と strigae による土地の分割は、”ava publica in provinciis coluntur” [属州においてその時点で耕作が行われていた公有の耕地] においてのやり方であると言っているということであるが、それに関して次のことは疑いようが無い。つまり、こうした土地の分割においては、特定の測量理論に従って実施されねばならなかったのであり、その場合はその土地は ager optimo jure privatus [非課税の私有地] にはならず、特に次のような場合において行われていたということである。その場合とは、土地が地代の納付という条件を了解することを条件として与えられたか、あるいはある種の土地税またはその土地からの収穫物への税が課せられたか、そういう場合であり、[フロンティンが] 完全な所有権が与えられると説明している場合には、そこでは [scamna と strigae によるのではなく] ケントゥリアによる境界線引きと土地割り当てが行われねばならなかった。ケントゥリアによる土地割り当てにおいては、それ故にいずれの場合でも:die coloniae civium Romanorum juris Italici [イタリアの法によるローマ市民の植民市] だったのであり、それは一人一人に [私有地として] 分割し分け与えられた土地区画であり、それに対しては完全なローマにおける土地所有権が貸与されたのである。

26a) キケロの”Pro Flacco”の32,80に “majorem agri modum” [その土地の面積の大部分を] という記述がある。

Scamna の適用

 Strigas と scamna を使った土地の割り当ては、次のような理論に従って行われていたのかもしれない:全ての agris vectigales [課税対象の土地] は、ローマの役人によってそういうものとして [ケントゥリアとは別のものとして] 貸与され、そしてその土地には国家への納税義務が付随していた。更にそのような属州の土地は、その土地の以前のまたは新しい所有者に対し、個々の土地区画に対して、現金による税支払いや、または農作物の引き渡しなどの、その土地に対する物上負担 [人ではなく物が負担すべき一種の債務] として一般的に課せられる支払いを条件とした上で引き渡されていた。更に分析を進めるとすれば、我々は次のフロンティンの記述に着目すべきであろう。それは scamna と strigae による土地割り当ては、arva publica [公有の耕地] を分割貸与する際に使われたのであり、次のことを結論付けている。つまり、この形の土地分割方法は元々、公有地において定期賃貸借の形で与えられる土地に対して適用された方法と同じであり、その場合は次の目的で測量されることが多かった。つまり、測量上の併用方式、即ち limites を用いる方法と scamna を用いる方法を併用し、その場合法的には ager privatus と ager vectigalis が同時適用された “ager privatus vectigalisque” [私有地であって課税される土地] という形式に適合しているのである。

 国家の名において賃貸しされた耕地が、法の取り決めに従って測量地図上に記載されなければならないということは、グラニウス・リチニアヌス≪Granius Licinianus、2世紀のローマの歴史家、その著作については若干の断片のみが現存している。≫の著作に一部に出ている。その記述によれば、部分的に個人によって占有された ager Campanus [カンパーニャ地方の耕地] の [所有権の] 変更に当たって、元老院によって全権委任された執政官の P. レントゥルス≪Publis Comelius Lentulus Spinther、BC101~BC47年頃、BC57年に執政官を務めた、ローマの政治家・軍人≫が語ったところに拠れば――それはモムゼンのC.I.L., X P.386における解読に従えば――:
 Agrum (e)u(m) in (fundos) minu(t)os divisum (mox ad pr)et(i)um indictu(m locavit et mu)lto plures (quam speraverat agros ei rei) praepositus reciperavit formamque agrorum in ae(s) incisam ad Libertatis fixam reliquit, quam postea Sulla corrupit.

[ 彼が小さな単位に分割した土地を、次にあらかじめ決められた価格によって契約を結んで貸与した。そういった資産としての土地を、その担当者は、あらかじめ予測されていたものよりもはるかに多く、復元させることが出来た。彼はその土地の測量図を青銅の板に刻み、それを自由の女神{リベルタース}の神殿に設置して残した {測量図を含むケンサスの記録がこの神殿に保管されていた}、後にそれはスッラによって破壊された。]

 もっとも確からしいと思われることは、ここではある土地を地図に載せて登録するという目的に沿って、個々の土地区画の境界線が測量地図上に記載された、ということである。その理由は、そうでないとしたら、何のためにそのような [余計な手間のかかる] 地図を作成しているのかの目的がどこにも見出せなくなるということである。Ager Campanus は、というのも、シーザーの時代においてすら、未だに ager vectigalis (スエトン、Div. Jul. c. 20)であったからである。いずれにせよ、より確からしいのは、当時の測量人達が limites を用いた測量より、strigae と scamna を使ったやり方の方をより頻繁に行った、ということである。Limites を用いる方法は、その本来の目的では、一般にこの地域では使うことが出来なかった。というのはこの記述の部分では、元老院からの土地評価の要請に基づく行政行為としての測量のみが扱われているからである。

 我々が次のことを正しいと仮定する場合、つまり scamna と strigas を使った土地割り当ては、既にかなり早い時代においても、また後の時代においても、もっぱら公共の土地あるいは半ば公共の土地の測量についてのみ利用されていたと仮定する場合、だからといって次の2つはいずれも正しいとは言えない:
1.scamna と strigas がそういう場合だけに使われたということ
2.公共の土地あるいは半ば公共の土地は常に scamna と strigas を使って分割されたということ
この2点については、むしろ逆であったことが証明出来よう。[scamna と strigae を使うのは他の場合の方が一般的だった、公共の土地の分割については他の方法の方が多く行われていた。]

 フロンティンによれば、scamna と strigas を土地割り当ての手段として使うやり方は、概して古代のやり方であると記述されている。我々は scamna と strigae が若干の自治市において行われているのを確認することが出来る。それらの自治市については後に論じる。そしてそれはローマ市民によって建設された2つの植民都市でも使われていた:それはオスティア 27)≪オスティア・アンティカ、ローマの外港でテヴェレ川河口にあった港湾都市。≫スエッサ・アウルンカ 28)≪現在のセッサ・アウルンカ、アッピア街道とローマ街道の中間にあり、紀元前4世紀以降ローマ市民による植民が行われた。≫である。オスティアの方は、ローマによるローマ市民の植民市として知られている最古の都市であり、古代における植民市の特質について論じる場合には、何をおいても真っ先に取り上げられるべき都市であり、その成立の実際についての議論がこれまで行なわれて来ているし、そしてまた [後に] 皇帝アウグストゥスの植民市にもなった。それに対してスエッサ・アウルンカの方は、元々はラテン人≪ラテン植民市の市民で、ラテン語を話すがローマ市民よりは一段下に扱われた。≫の植民市だったのであり、ローマの同盟市戦争≪BC91年から数年間、イタリア半島南部の都市国家や部族がローマ市民権を求めて蜂起した戦争。≫以来のムニピキウム [都市国家] であり、三頭政治の時にローマの植民市となった。スエッサについてまず言えることは、scamna と strigae を適用するに当たって、何か特別な理由があったように思われることである。フロンティンは次のように述べている(P.48、16):

 ”et sunt plerumque agri, ut in Campania in Suessano, culti, qui habent in monte Massico plagas silvarum determinatas.” [そのほとんどが次のような土地であった。それはつまりカンパーニャとスエッサにあった耕地で、マッシコ山の麓にあった平野で森に囲まれていた。]

 それ故に、この記述からは、ある理由から次のことについての必要性があらかじめあったように思われる。それはフロンティンが記述しているように、森林の利用の規制である。つまり、森林のある一部を伐採して土地を拓いた場合、――それは特定の種類の土地区画に割り当てられねばならなかったし、またそれを可能にするために、測量人達はまずは他のことに先駆けて、既に所有権が誰かに与えられている土地の境界線と同様に、[伐採された] 森林の中の土地の境界線も測量地図上に明記する必要があった。つまりは scamna と strigae を使ったのである。その他の詳細については不明であり、いつ誰によってこうした土地分割のやり方が始められたのかは分からない。しかしながら三頭政治時代の争乱の中で実施された行政手続きについては、既に存在していた土地の分割割り当ての方法を単純に引き継いだと考えるのが、全くの所正しいと思われる。28a)

27) l. Col. (Liber coloniarum) 236, 7, Ostensis ager ab imp[eratoribus] Vespasiano, Trajano, et Hadriano, in praecisuris, in lacineis et perstr iga s, colonis eorum est adsignatus. [オスティアの土地については、皇帝ウェスパシアヌス、トラヤヌス、そしてアドリアヌスによって、切り分けられ、境界を与えられ、そして strigae を使って、その地の植民者達に割り当てられた。]
明らかなこととして、互いに隣接し合っている土地の割り当てのやり方は、それより以前の土地割り当ての方法が引き継がれており、ここに言及されている3人の皇帝によってそのやり方が継承されている。

28)フロンティン、P. 3。

28a) このことから、スエッサのラテン市民による植民市については、次のように推論すること、つまり土地の分割割り当ては全て scamna と strigae を使って実施されたのであると、そういう風に結論付けるのは性急過ぎるであろう。

 オスティアに関しては、――仮説構築を試みることは出来るであろうが――むしろどうやったら仮説に留まらず事実に近付けるだろうか?――この地における scamna と strigae を用いた土地の分割は、そこにおける都市住民と関連付けて考えるべきであろう。その都市住民は、明らかに少なくともオスティアの人口の一定部分を占めていたのである。それ以外にまた、オスティアはイタリアにおける2番目の大きさの穀物の輸送港であり、それはUC560年(BC194年)に建設されたと推定されているローマ市民の植民市であるプテオリ≪現在の Pozzoli、ナポリ市内のコミューン。≫に続く規模であり、さらにその下位にはコルシカ島の [これはヴェーバーの間違いと思われ、正しくはサルディーニャ島の] トゥリス・リビソニス≪Turris Libyssonis、現在のポルト・トッレスでサルディーニャ島の北西端部に位置する港町。≫の港町がそれに続いている。更に仮説として提示出来るのは、まさに scamna と strigae を使って測量され地図に記載された耕地の法律上の特質が次のようなものであったということである。その特質とは、まず当該の土地を割り当てられた者が、その土地を Landtribus [平民の私有地] として扱うことが難しかったということである。次にその割り当てられた耕地の質に関して、それぞれにその土地が産み出す利益との関連付けが、改めて行われていた、ということである。その利益に対して、当該の土地の所有者は、首都であるローマへの穀物供給という点で、viasii vicani ≪公道の側の土地の所有者でその公道の管理義務を負わされた者。≫や navicularius ≪小型の船舶の所有者、例えばポンペイウスはBC57年にローマへの穀物の海上輸送に従事させる目的でこうした船主にローマの市民権を与えている。≫と同様に、何らかの税(義務)が課されていたのであり、分割されて与えられた土地区画は、そういった条件付きであったが故に、[完全な] ager privatus [私有地] として割り与えられることはなかったのである。29)

29)モムゼンが確認した所によると、オスティアの住民の中にはヴォトリア人≪ローマの古代の有力な種族で、オスティア・アンティカを最初に建設したとされる。≫がいた。他方、ある銘文によれば、オスティアの住民の中にはパラティーナ人≪イタリア半島に古くから居た種族で4都市部族の一つ。≫もいたことは疑いようがない。そのことに適合するのは、土地分割における顕著な区別、つまり lacinae [断片状の土地]、praecisurae [境界で分けられた土地]、と strigae であった。lacinae については既に前に [注18参照] アンティウムにおいての、方形の土地単位による分割と、最初期の耕地ゲマインシャフトとして形成された可能性が高いものとして説明済みである。もしこの説明が正しいのであれば、オスティアにおける lacinae は古い植民市における耕地として説明出来るであろう。これに対して strigae と scamna は、その土地の受領に当たって、ローマ市への穀物供給においての一定の義務を課された所有者の耕地に対して使用されたのかもしれない。それはアウグストゥス帝の指令によるものか、あるいはもっと古くから存在したかもしれない。しかしながら、次のようなことまで述べるのは、奇を衒い過ぎているであろう。つまり、これらの3つの港湾都市について、直接的にその意味を穀物輸送 [だけ] と決めてかかり、また各都市において [それに専任で従事した] 諸部族の存在を前提にする、ということは。Naviculari [船主] については但し、知られている限りでは、オスティアではそのような [船による穀物輸送の] 義務は課されておらず、そこでの銘文に記載されている naviculari は本来のオスティア人ではなく、よそ者である。Naviculariは――Codex Theodosianusu のXIII、5-7を参照――むしろおそらくはただ海上輸送のための穀物積み出し港に [オスティアは積み出し港ではなく、ローマの穀物需要を満たす上での陸揚げ港] より多くいたのだと思われる。それに対してオスティアでも多数いたことが銘文によって証明されるのは、その時々の穀物価格 [annona] の決定に関与している同業者組合 [collegia、ギルド] のメンバーである。――プテオリにおいては、周知のこととして、UC560年(BC194年)に建設されたと推定される植民市と並んで、古い形での自治コミュニティ [municipium] が成立しており、それは帝政期まで続いた。植民市が存在したことの証明はそこから――その当時の状況からして妥当な理由としては――おそらくはただ穀物供給の確実性を高めることか、あるいは少なくともそれが理由の一つであったと言うことが出来るであろう。C.I.L.、X、1881の銘文は、関連する市民への金銭の分配について述べており、そこから読み取れるのは、第一の身分としては10人組長 [decuriones] が居り、二番目が皇帝アウグストゥスの配下の者達、それに続いてギルド [corporati] に属する自由市民とベテラン兵士、そして最後に自治コミュニティの構成員という順番になっており、それぞれに分配された金銭の割合は、12:8:6:4であった。ベテラン兵士は本来は手工業者のギルドのメンバーでは全く無かったので、ここの妥当な解釈は、まずはギルド [Korporation] が穀物の流通に従事していることについて述べているのであり、ベテラン兵士については土地区画を受け取る代償としてその土地に関係付けられた一定の義務 [税] が課されたのであり、自由民 [ingenui] がこの碑文では自治コミュニティの構成員 [municipium] に対立する存在として扱われていることから分かるように、古くからの植民市の市民としてその義務 [税] を負わねばならなかったのである。これに類似の例として、viasii vicani [公道の管理義務を負う公道の側の土地の所有者] や navicularii [穀物輸送の義務を課された船主] があるのである。オスティアにおいては、この種の金銭を受け取ることで、ウェスパシアヌス帝、トラヤヌスス帝、そしてハドリアヌス帝の時も継続して穀物供給義務が課されていたのではないだろうか。何故ならば、穀物流通のための労働力の需要は増大したに違いないし、また新たに割り当てる土地も枯渇するようになっていたと考えられるからである。