ちなみにいきなりChatGPT4oに訳させている訳でなく、まず自分なりに訳してからChatGPT4o訳と比べています。
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「ローマ土地制度史」の日本語訳の第25回目です。今回の箇所もローマ法の所有権に関する専門的な議論が続き、非常に難解で苦労しました。ラテン語の部分はいつも自分でまず訳してからChatGPT4oにも訳させてそれを比べて最終的な訳を決めていますが、今回の禁止令についてChatGPT4oは「あなたかあるいはあなたの家族が誰かを追い出してその土地を占拠した場合」と主語と目的語を逆にした訳にしていました。言うまでもなく、個人とその家族が耕作を行っていたのを、何かの暴力でその土地を取られた場合の救済命令を述べているであり、このように非常に有用な生成AIですが、やはり人間のチェックが必要です。
今回の箇所はドイツ語も難解で、Besitzintermistikum (所有権についての一時的措置)とか Rattenkönig von Sponsionen (複雑にもつれあった保証関係)とかの辞書にも無い語が多く、これらも ChatGPT4o と相談しつつかつWebでも調べて何とか意味を解読しています。
今回の所は特にこの論文が「ローマ法」に関する論文なんだということがはっきりします。ヴェーバーはこの論文によってローマ法の講義資格を得ていますから当然ですが。このことからもこの論文の本題は土地を巡る所有の争いをローマ法がどう解決したかということであり、「農業史」ではないということが分ります。ヴェーバーは「古代社会経済史」で「古代のほとんどすべての社会的な闘争は、究極的には土地所有と土地法をめぐる闘争である。」(日本語訳 P.468)と書いています。(ゲシュペルトを下線に変更)
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(ボニタリー所有権者の土地は)獲得から2年経ってようやく、その土地をケンススに登録する権利が認められ、また個人所有権としての保護の対象となった。こういった全ての措置はただ土地を(面積としてではなく)具体的な区画として購入した場合のみに認められていたのは今や明白である:Mancipation はそれ自体非常に便利な所有権移転の手続きであり、それが利用可能だった場合は、ただ7人もの証人≪実際は5人で7人はヴェーバーが何か別の仕組みと混同している可能性有り≫を呼び寄せる面倒さは、まずはともかく(Mancipation 無しでの)購買契約を結び、そして土地を引き渡してもらい――しかしながらその2つの手続きは後に訴訟になった場合に証拠となる書面を取り交わす形で行われ――そしてその後の2年の経過を待つ、といった(Mancipation ではない場合に)必要な手続きをわざわざ執り行うことの動機には通常なっていなかった。それに対して、こういった Mancipation ではないやり方は次の場合には大いに意味があった。それはその土地の購買者が時効成立の2年間が経過するまでの間において、その特定の地所で引き渡しの対象であったものを継続して保持することが確実だった場合で、かつ測量図やケンススへの登録や、または Mancipation の証拠書面を根拠にした耕地に関する規制に基づいての、その土地の面積や場合によっては境界線の変更の訴えに対抗して、十分にその土地の取戻しが可能となっていたような場合である。それはつまり、デンマークの土地法においての Reebning ≪既出≫の際に、各 Stufland ≪既出≫の権利を保持出来た場合と同じである。前述のより古い時代のプーブリキウス訴権の布告は今や変更が必要となり、土地を獲得した者は、2年の時効期間が満了する前において既にクイリーテース所有権者と同等の権利を得たのである。ただケンススへの登録のみがクイリーテース所有権が認められるまでは行うことが出来なかったが 72)、それは執政官がそれについて何も指示しなかったからである。
72) クイリーテース所有権と Uskapion のケンススとの関係について更なる史料を希望する者は、それを usukapio pro herede ≪相続財産について、相続人がいない、または相続人が相続しない場合に、その財産をある者が一定期間占有することで所有権を得ることが出来るもの≫から引き出すことが出来る。この場合は遺産、つまり被相続人のフーフェの権利の全体について扱われているのであり、その他の Uskapion のように個々の物についてではないが、この場合は単なる占有が1年続けばそれで十分であり、元のフーフェによる農地所有者の死による所有権の停止といった法的根拠なしに、Uskapion の時効を満たしたものとされた。この理由としては、あるフーフェがその所有者の死後直接的な意味で、ケンススに対しても神々に対しても誰も正当な所有者がいない、という事態が許されていなかったからであり、それ故に本来の正当な相続人が1年以内にその権利を行使しない場合は、わずか1年後にはその占有者は単純にそのフーフェの所有者として認められ登録されたのである。
これに対して生きている人間同士の(生前の)売却においての時効までのより長い期間は、それほど問題になることはなかった。何故なら時効が成立した場合に所有権を得る者がその期間が満了して成立した所有権を証明するまでは、元のクイリーテース所有権者がフーフェの権利者あるいは所有者として、元の土地の面積に対して単純に有効な権利を保持していると見なされた≪所有の空白期間が無かった≫からである。usucapio pro heredes について公法的な意味で特徴的なことは、プブリキアーナ訴権の布告における言い回しによれば、ここでの時効による権利取得予定者は、時効成立までの期間において、プブリキアーナ訴権と同様な法的手段を持っていなかったということである。Uskapion の時効が成立するまでは今や次の2つの権利が相互に対立した。つまり de jure の[法律上の]クイリーテース所有権者の「期間限定所有権」であって公法的な意味で有効だったものと、引き渡された土地面積を善意で持っていた者の実質的な[de facto の]所有権の対立である。
所有保護の土地制度史的意味
それでは Uskapion の時効が成立する前において、土地の占有とまた具体的な土地区画の獲得に対して何の保護も与えられなかったのであろうか?(逆に)フーフェの権利を与えられていた者は、例えばあるそれまで彼の所有物として存在していたある面積の土地を、法的な根拠無しに奪われたり、不法に占拠されたり、該当の耕地領域に対して、丁度 controversia de mode がそうであったように、常に測量のやり直しという手段に訴えなければならなかったのであろうか?そういった状況は、耕地ゲマインシャフトが成立する際の耐え難き法の混乱状態だったのかもしれない。ただもちろんこういった形の権利の保護は、通常の正規の訴訟手続に従って行うことは出来なかった。というのもこの正規の手続きにおいては、ただクイリーテース所有権のみが有効であるとあれたのであり、そしてこういった訴訟手続きの対象となったのは、それ故面積原則に基づくある一人の者の支配という形での、ただ総体としての fundus であり、つまりはフーフェの権利の認可であり、そして面積の大きさ、つまりフーフェ農民の個々の耕地領域(ケントゥリアの中から分離された耕地の中においてや、または耕地ゲマインシャフトの中で「獲得」またはそれに相当する[ばらばらになった土地の]一本化においての)においての割り当て地の要求権であった。そして同様に、ある土地区画の所有に対しての保護は、それぞれのフーフェ農民のそれぞれに異なった権利の保護であり、獲得した土地またはケントゥリアについて新しく測量を実施すること(”Reebning”)は認められ、そしてまさにそうだからこそ、というのはそこではある単なる de jure の[法律の上だけでの]一時的な所有状態だけが付随していたから、またただ所有状態に対しての特別に認められた、自分にとっては損害となる法的請求を招いたのであり、しかしながらある特別な、個々の所有者の実質的な権利状態を法的に詳細に意味があるように記述して確認する、ということにはならなかったのである。ある特定の面積の土地に対する実質的な権利が本来存在しないのだとしたら、いつでも行われうる測量のやり直しの可能性のために、所有状態の全体は、ある厳密に考えて純粋な事実に基づくものであり、権利としてはただ面積として表現された持分へのそれとしてのみが有効だったのである。ここで我々が知っている法的手段の内、どのようなものが当時の耕地における分割状態を承認する上で有用であったのかを詳しく検討してみると、直ちにそこに現れてくるのは所有に関しての(各種)禁止令である。周知のように、土地区画に対して制限を加え、また土地の所有者がその権利を侵害しようとする者に対して利用することが許されていた Interdictum de vi ≪暴力による不法な土地の占有に対し、回復を命じるもの≫は次のように命じている 73):”Unde in hoc anno tu illum vi dejecisti aut familia tua dejecit, cum ille possideret, quod nec vi nec clam nec precario a te possideret, eo illum quaeque ille tunc ibi habuit restituas.”[その場所でこの1年の間に、あなたがその土地について暴力による侵害を受けたり、あるいはあなたの家族がそういう侵害を受けた場合、あなたが(元々)その土地を暴力によってでもなく、秘密裏にでもなく、また借用という形でなく所有したのであれば、その場合はその土地は全てあなたの所有に戻される。]実務的な見地から観察した場合、つまりは個々の所有者についてその時点の前年において発生している所有状態は、「暴力」[vis]という概念に当てはまる形での権利の侵害に対して、保護されるということである。その土地における耕作との関係については、耕作を行っている家族が(暴力によって)追い出されたことについてのはっきりした言及から明確に認めることが出来る。2番目のケースである具体的な土地区画についての違法な占拠(の禁止)は、interdictum de precario [借用物返還命令]がそれに該当し、ローマの土地経済において最古の時代から重要ではあるが社会的にはしばしば悲劇的な役割を演じてきた借地人(小作人)を対象とするものであった:Quod precario ab illo habes … id illi restituas. [そこで土地を借りている者は…それを返還しなければならない。]ここではつまり、事物の本性≪法までにはなっていない社会の公序良俗のルール≫に従う形で、(前年に所有していたといった)時間の限定は含まれていない。もっとも確からしいと思われることは、この禁止令はある第三者に対し、後に実際的ではなくなった第三者に対しての特別な布告を、常に暴力と借用によって獲得された場合と一緒にして悪意ある所有状態、更には秘密裏の占拠[clandestina possesio]と名付け、確かに所有状態の保護を1年前までの状態までに限定したものであろうということである。それ故にここで見て取れることは、土地の所有者に対してその者によって耕作されている面積について暴力による奪取、秘密裏の占拠、そして借地人による占拠などに対する保証が与えられているということである。というのはその面積、土地が所有権争いの対象になっているということは、まずは事実関係そのものが争われ、その後また測量人達によって、彼らは彼ら自身の判断基準から rei vidicatio ≪物に対しての返還請求≫と(上記の)返還命令が等価であり、その時々の状況に応じて実務的に利用出来る可能性があると見ていたのであるが、奪われた土地は返還されるべきとはっきりと宣言されたのである 74)。
73) レネル≪既出≫の Restiitution [返還]に拠る。
74) フロンティヌス p.44. De loco, si possessio petenti firma est, etiam interdicere licet, dum cetera ex interdicto diligenter peragantur: magna enim alea est litem ad interdictum deducere, cujus est executio perplexissima. Si vero possessio minus firma est, mutata formula ex jure Quiritium peti debet proprietes loci. [もし土地の占有が請求者に取って確固たる事実である場合は、禁止令の公布が許可される。その際に他の手続きは禁止令に従って慎重に行われるべきである。というのも禁止令を求めて訴えを起すのは大きなリスクが伴い、その執行は非常に面倒だからである。もし真の所有者が誰かがより確かでない場合は、書式を変更して、クイリーテース法に準拠してその土地の所有権を請求すべきである。]
これまでに考察してきた2つのやり方以外に考慮すべきは3つの禁止令であり、それらは元々はどういった場合においても(財産)保全命令と見なし得る禁止令である:Uti possidetis eum fundum quo de agitur, quominus ita possideatis, viin fieri veto,[お前達が所有している土地について、これまでと同様に所有し続けようとすることを侵害する目的で、暴力を行使することを私は禁ずる、]この禁止令は公有地に対して――そこにおいてそれは所有状態の成立状況を――つまり locus を――それまでに既に生じていた何らかの侵害を無視して保護しようとするものであったが、多くの場合は実務的な意味を持っていた 75)。しかし後には”quod nec vi nec clam nec precario alter ab altero possidetis”[お前達がお互いに暴力によってではなく、秘密裡にでもなく、また借用によってでもなく所有している場合は]という留保条件の追加と法学者によるそれへの解釈によって所有を再認可する応急的な法的手段になった、ということが一般に起こったのである。多種多様の土地の所有に関する禁止令の実際的な意味と歴史的な発展についての更に立ち入った議論は、そういう研究の立ち位置を考えてその研究を行うことが望ましいと思える場合であっても、ここでは試みることは出来ず、それについての特別な詳論は現時点では保留にしておかなければならない。しかしそうではあっても次のことは私には疑いがないことと思われる。それはローマ法のpossesioの所有の構造は、それは一方では所有に関しての手続きに該当する諸決定においての法的に見ての[de jure]暫定的措置という性格であり、他方では詳細まで定められた手続きであって、それ自身がまた複雑にもつれあった保証関係を伴っており、(例としては)競売やその他の禁止令が定める諸手続きであり、ローマ法で決定されなければならなかった所有に関する根本原則は、全てのそういった特性で、それは古代においての土地法での所有に関する手続きの位置付けから説明されるものであり、しかしそれは我々が使っている(ヴェーバー当時のドイツでの)所有に関する仮処分とはまったくもって適合していないものである。
75) というのはその禁止令は、その時の時点における所有状態の調査とその確認ということを行うという目的を持っていたのである。次のことは私には決して疑わしいものではない。つまり、所有に関する禁止令の主要な適用領域は、デルンブルク≪Heinrich Dernburg、 1829~1907年、ドイツのローマ法学者≫がそう主張しているように、ager publicus [公有地]であった、ということである。しかし公有地だけに限られていた訳では決してなかった。
75a) “funditus”≪根本から、根底から≫のフーフェ法に拠る意味についての研究が不足している。
「ローマ土地制度史」の日本語訳の第24回目です。ここも前回と同じでローマにおける土地関連の法律が確立する前の段階ではゲルマン民族と同じフーフェやゲノッセンシャフトが一般的であり、その名残がローマ法の中に一部残っているという議論で、その前提条件自体がおかしく思います。むしろここで見るべきなのは、ローマ法のきわめて融通が利く実際的な性格であり、たった2年の占有での時効による所有権獲得と聞くと現代の我々はちょっとびっくりしますが、それは例えば悪質な金融業者が不動産を強制占拠して権利を主張するといったことではなく、実際は土地の売買で面倒な Manzipation の手続きによらない簡便な方法での売買が広く行われており、ローマ法としてそうした取引きによる権利者を保護する必要があって、こういう短い時効設定になっているのだと思います。
それにしても、ボニタリー所有権やクイリーテース所有権など初めて聞いた用語が多く、調べるのに時間がかかりました。
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(注64続き)
“Fundus”はゲマインシャフトの中で他の成員と同じ地位にある者、つまりゲノッセとしてそのゲノッセンシャフトの一員となり、そしてこのことはまたここで想定されているローマと連邦関係にある他の国家においても全く同じ意味を持っていた。というのもこのやり方は、どの優越した力を持ったゲマインデにおいても禁じられていなかったのであり、それらのゲマインデはローマの諸制度をそれが好ましいものである場合は自分達自身の法にするという形で取り込み、両者を統合したのである。あるイタリア半島のローマとの連邦国でローマの”fundus”となった国は、その制度を、それは明らかに表現としては特別な法的価値を持つものという意味であったが、その当該の法をローマ由来のものとして、多くの場合はその首長から認められたその国家自身の法として作り直す、という形で受け入れたのである。連邦の国家によって fundus fieri [発生した fundus]という形で受け入れられた法を通じて、それ故に同時にまたゲノッセンシャフトの権利と連邦の権利が創出された。そしてもっとも確実で間違いの無い法的な帰結としては、その国に属している諸都市によるその法の一方的な改変は許されていなかったということが言えるだろう。この考え方が正しければ、ローマは連邦の国家の法に対して主導権を持っていたのであり、そしてローマの国家法の中でこういった権限がどのような役割を演じていたかということや、それが国法上の foedus aequum [国同士の相互に対等な条約、同盟]の性格にどういった影響を与えるかということについてはここで述べる必要はないであろう。
fundus の意味が「地所」であるということに関係することは、それは帝政期になってもなお認められることであるが、全ての任意の境界線によって区切られた土地区画が fundus と呼ばれ得る訳ではないということである。無条件に fundus に属するものとされたのは、一方では villa ≪都市外での小農場を伴った宅地、別荘のこと≫であった。また他方では、全ての所有地及び土地への権利で、新規にその所有権を獲得した場合に、それが常に fundus に属するものとされた訳ではなく、ただその土地が家族の地所という形で家計の中に組み入れられた時に初めて fundus と認められたのである 65)。
65) D.27 §5, 20 §7 de instrumento [手段・道具について](33, 7) 参照――両方ともスカエウォラによる、またD.60. 211 de verborum signifiatione [用語の意味について](ウルピアーヌス)参照。
fundus はほぼ常に法的に認められたものというより、事実上成立したという性格のものであり 66)、そしていずれの場合も一まとまりの財として成立していた 67)。
66) 参照 D.26 de adquirenda vel amittenda possessione [獲得した、または失った所有物について]と比較せよ。そこについては部分的に分割された fundus の所有権の可能性について特別に主張されており、それ以外にも D.24 §2 de legatis [遺産について]Iの目立つ表現(maxime si ex alio agro qui fuit ejus …adjecit)[特にもし、ある誰かの土地についてそれを獲得し自分の土地に加えた者が…]がある。
67) これに属するものとしては、また何度も言及されている “dos fundi” [嫁資である土地]がある。それについては、モムゼンの Hermes XI p.390ff の記述と比較してみるべきである。
確かなこととしてある氏族の別名として[その氏族が住んでいる]地名の末尾に “-ianus” を付けたものが使われた≪例:Catullianus≫というのは、ただその氏族のフーフェを代表する土地に対してだけそうなったのである。≪地名に接尾語がついて主として貴族の姓になったというのは、スラブ諸語のーsky、-skiも同じ。例:Александр Невский、ネヴァ川のアレクサンドル→アレクサンドル・ネフスキー≫そういったことを置いておいても出現してくるのは、私はそう思うが、農耕地ゲノッセンシャフトの内部での fundus の古い意味である、フーフェの権利、ゲノッセンの権利に対しての郷愁である。その後共有地の分割が始って以降、――我々はこの先行の現象を「分離」68) と呼ぶことが出来、それが共有地の分割が目差していたやり方なのであろうが――古い時代の、常にそういう性質を持っていたフーフェの権利に関する争いの位置に、fundus 全体の合法的な売却が登場してくるのであり、そして以前に分割されて細切れになった土地区画を再度整理するという希望が、測量人達によって伝えられた来た形での controversia de mode として登場してくるのである。
68)ゲルマン諸族の耕地ゲマインシャフトへの対立概念として、カエサルはガリア戦記IV, 1の有名な箇所でそれを “privatus ac separatus ager” [私有地と分割地]と描写している。≪Sed privati ac separati agri apud eos nihil est, neque longius anno remanere uno in loco colendi causa licet.[しかし、彼らの間では私有地や分割された土地は存在せず、また耕作のために一年以上同じ場所に留まることは許されていない。カエサルによるゲルマン民族のスエビ族についての叙述。]≫
これら2つの訴訟形式、つまりゲノッセンとしての権利自体の[土地全体の]請求と、耕地におけるどこか一部に対するゲノッセンとしての持分の[再]割り当て請求(ドイツにおける再統一請求≪17世紀以降のドイツにおいて、分割されて細切れになっていたり、売却されてしまった土地を再び元の状態に戻そうとしてする請求のこと≫とデンマークでの耕地整理[Reebning]≪既出≫請求に相当する)は、訴訟として見た場合で同等の価値を持つものとして取り扱われるべきだ、という考え方は疑わしく思われる 69)。むしろ前者はただせいぜい土地ゲノッセンシャフトの内部の司法手続きによって解決され得るものであり、その一方後者は、既に論じて来たが、更に後でまた本質的に技術的な個別の問題として取り扱う。
69) 測量人達は、controversia de propritate [個人専有物についての訴訟]を controversia de modo と de loco の2つとはっきり区別しており、後の2つは funudus の拡張という位置付けであり、それに対し de propritate の方は、地所全体を一かたまりのものとして扱うものである――p.15, 48, 80. 古代の vindicatio gregis [一群の家畜の返還請求]に相当する法的手段である。
十二表法の時代より後になると、耕地の定住者がトリブスに組織化され、更に後にはそれが百人官裁判[Centumviralgericht→iudicium centumvirale]≪BC3世紀頃に作られた当初は100人の男性で構成された民事関係を扱う裁判所≫に変わって行くのが見出されれる。後者は35のトリブスからそれぞれ3人ずつを選出することで[合計105人で]構成され、誰が相続人、つまり相続権に基づくフーフェの正当な所有者であるかいう問題を扱う法廷となった。ここで更に見出すことが出来るのは、不動産訴訟の領域において、おそらくは百人官裁判と通常の裁判所の間で管轄争いが起きたということである。この点について、私は次のことを疑いようが無く正しいと考える。つまり一般的に土地に関する訴訟について百人官裁判の占有的な管轄権が生じていた限りでは、このことはヴラザック≪Moriz Wlassak、1850~1939年、オーストリアの法学者、法制史家≫の見解 70) と反対であるにもかかわらず、それ自体非常に確からしく――このことが土地の権利についての訴訟で、つまりフーフェの土地全体への認定請求で起きたに違いない、ということである。このことはまた、先決の訴え≪元々の所有権が自分にあるという訴え≫としての legis actio sacrament [in rei] ≪所有権に関する訴訟で、訴えの濫造を防ぐために、原告・被告の双方が供託金を出す制度。裁判で勝った方にはそれは戻され、負けた方はそれを没収される。≫の制度形態とも、さらにはまた所有権請求の対抗訴訟の必要性とも合致しているが、それは≪後に採用される≫ formula petitoria ≪書面による申し立て≫とは対立するものであった。とある2者がどちらがあるフーフェの土地に対しより正当な所有権を持っているかということについて争っている場合、その時々にどちらの権利が相対的に強いかを根拠に基づきはっきりした裁定を下す必要があった。そうでなければ公法に基づく人間関係の中に、耐え難き真空状態が発生してしまう。それに対してある特定の土地区画の返還について争われている場合は、訴えが却下された場合はその帰結としてはただ全てが元の所有者に戻るというだけであった。古きローマの国家の本質に関わる根本原理が段々と失われていくに連れて、もちろん fundus の古い意味への郷愁も消えていったのであり、そしてまた modus agri [土地の面積]の技術的な価値もそれに従って次第に浸食されていったのであり、その結果として、その価値については、ただ貧弱な残余の部分から、つまりは controversia de mode という形で我々に把握出来るものから、逆算して還元して考察することが出来るのみである。
70) Römische Prozeßgesetze [ローマ訴訟法]の各所にて。
土地制度史上の Uskapion ≪土地の実質的使用者による時効による所有権の取得≫の意味
既に述べて来たように、土地における面積原則は Usukapion が認められるようになって以来、根底から突き崩されていた 71)。
71) controversia de loco についてヒュギヌスは p.130.1 にて次のように述べている:Constabit tamen rem magis esse juris quam nostri operis, quoniam saepe usucapiantur loca quae in biennio possessa fuerint. [しかしながら、これは我々測量人の仕事というよりほとんど法の問題です。何故ならばしばしば2年間占有された土地が(時効として)所有を認められるからです。]
つまり:土地の時効取得を認めるということの意味は、測量人達のある種の業務を排除したということである。先に引用した箇所と比較せよ。
というのも、このことが意味したのは次の理由に基づく所有権獲得の可能性であるからである:
1.何かの正当な理由[justa causa]による;――この表現の意味は「法的に有効である」ということで、まず第一に書面による契約に拠らない土地の購入として把握することが、実際は広く行われるようになっていた、ということである;
2.引き渡し;――この点においてこの制度の意味がもっとも明確に現れている:古い形式である Manzipation [合法的な購買]であったがしかし引き渡しが前提とされていなかったものは、フーフェの割り当て地の売却がそのほとんどであった、というよりむしろそれとまったく等しいことであったのであり、というのはその対象となったのは[引き渡しの具体的な約束が伴わない]面積のみであり、それも厳格な意味でのフーフェの割り当て地の面積の売却であり(もしそれが fundus 全ての土地が対象になっていない場合も含めて);新しい土地の獲得の仕方はそれに対して既に具体的な境界線を持った土地区画に対してのものであった。何故ならばそうした具体的な土地区画だけが(実際に)引渡されることが可能だったからである。
3.2年間の占有
このような土地獲得の方法が許されるようになったことの意味は、言ってみれば、従来の面積原理に並立する同等の力を持つ土地の場所[locus]原理の導入であった。というのは Usukapion の目的と実際的な意味は後になって出て来たことで、当初はそうではなかったが、本来正式な所有権を持っていないボニタリー所有権者≪正当な理由(justa causa)に基づいて物件を取得したが、正式な mancipatio 等の手続きを経ていないため、完全な所有権であるクイリーテース所有権を持たない者。manicipatioの手続きには5人の証人と1人の秤持ちが必要で、広く行われるまでには至っていなかった。≫を保護することであった。より古い時代においては、執政官の布告により、それと全く反対のことが起きていた。レネル≪Otto Lenel, 1849~1935年、ドイツの法学者、ローマ法研究家≫の研究により次の事が明らかにされた。つまり2つの布告の内古い方は、(実質的使用者の所有権の)保護を目的としたプーブリキウス訴権≪Lex Publicia に規定された訴権で、正式な手続きを踏まないで土地を取得したボニタリー所有権者が、正規の所有権者であるクイリーテース所有権者を訴えることが出来る権利≫について、善意の(正式な手続きを経て獲得した)取得者の所有権よりも、ボニタリー所有権者の保護を目的としていたのであり、つまりある者で res mancipi ≪土地や奴隷などの価値あるもの≫を本来の所有者から正式な手続きで入手したのではなく、何らかの justa causa [正当な理由、例えば遺言書による遺贈、贈与など]に基づいて(ボニタリー)所有権を得たが、その正式な引き渡しについてはただ口頭で伝えられていた者の保護が目的であった。こうした執政官の(所有権への)干渉は、しかし既に十二表法で認められていた法的な発展を更に一歩進めた、というだけのものであった。
というのは、この布告が発せられた前提はしかしながら、後にそう呼ばれるようになったボニタリー所有権者が、Usukapionの権利が認められるようになる前の段階では、クイリーテース所有権者に対して不安定な状態に置かれたいたということである:ケンススに対してはクイリーテース所有権者のみが正当な所有権者として認められ、同様にクイリーテース所有権者は exceptio rei venditate et traditate ≪売却されたまたは引渡された物への抗弁、所有権訴訟での防御手段で、売却・引き渡しが合法的に完了していることを示すもの≫が成立していない場合においても、次の場合にはその土地に関する権利を容易に取り戻すことが出来た。その場合とは、その者がその土地を暴力によって獲得したのでも、または「秘密裏に」そうしたのでもなく、それによって法廷での争いにおいて占有の保護[interdictum]を与えられ、同様にその土地の獲得に関して Usukapion の時効がまだ満期に至っていない期間は、第三者に対してその所有権を保護された、そういう場合である。
「ローマ土地制度史」の日本語訳の第23回目です。これでようやく全体の3割に達しましたが、まだまだ先は長いです。
ここの議論も前回と同様で、そもそもはゲルマン民族における土地制度であるフーフェや、また同じくゲルマン民族の集団の最大の特徴であるゲノッセンシャフトがローマ古代にもあったとするなど、本来のローマ史の分析から逸脱した恣意的な他の概念の適用が目立ちます。
また後年プロ倫で史的唯物論批判をするヴェーバーですが、この頃はかなり発展段階史観に囚われているように思えてやや鼻白みます。
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土地の面積の本来の意味
しかしながら土地の面積を巡る諸関係の元々の位置付けは異なっていた。
面積による土地の売却
文献史料に従えば次のことは認めなければならない。つまり古典法学が確立する時代までは、ある土地区画が測量による正確な面積の確認無しに譲渡されるということが、それ自体正常なこととは見なされていなかったということと、それに対して全く逆に次のことが当時であっても何か普通のことと見なされていたということである。それはつまり、ある決まった数のユゲラ[面積の単位]があるおおよその大きさの――もしかすると 56a) ケントゥリアの数に拠っているか、あるいはその土地の隣人からの申し立てによる、売却されようとしている部分の境界がどうなっているかという情報に基づき――その申し立てられた耕地におけるある箇所について、モルゲン[ドイツでの面積の単位]当たりの単価を決めて売却されたということである。更にはこの契約の履行においては、申し立てられた面積に相当する地所が測量され、そして買い主に提示された、ということである。それは例えば 1.5 pr. における、si mensor falsum modum dixerit (11.6) 57) [もし測量人が間違った面積を報告した場合]として取り扱われている事例において前提とされている。
56a) このようなやり方で購買対象物件の表示は公的な土地売買において行われたのであり、それについては u.c. 643年の土地改革法が規定している。
57) ウルピアヌス≪Gnaeus Domitius Ulpianusu、170年頃~228年、古代ローマの著名な法学者。学説彙纂に採用された学説の内、1/3はウルピアヌスのもの。≫の、I. XXIV ad Edictum [布告に対して]。Si mensor non falsum modum renuntiaverit, sed traxerit renuntiationem, et ob hoc evenerit, ut venditor laederetur, qui assignaturum se modum intra certum diem promisit etc. [もし測量人が誤った面積を報告せず、さらにその報告を継続してしない場合、これが起きたことにより、どのように売主が糾弾されるか、その売主は面積の確定していない割当て地をある一定の日数の内に売却しようとしているが、等々。]
つまり:売却されているのは面積なのであり――いずれにせよ価格はユゲラ当たりいくら、で決められており、そして次に測量人がこの面積に相当する土地区画を実測することになり、それによって売主はその土地を確かにそういう面積を持ったものとして、ここに言及されているように、買主に売却することが出来る。逆の注解では、ある特定の土地区画が売却されることになっていて、その面積が価格の確定のために後から決定されることになっているのは、それ故に許されておらず、その場合は売主の側が[売却後に]何らかの訴えを起すことは不可能となったからであろうからである。このことにはしかし前提があり、もし、それは実際に起こったことだったが、面積そのものが購入の対象として通用し、そして売主がそれ故に適切な時期までにこれらの面積の[確定と]引き渡しを行うことが出来なかった場合、それは取引きの中止につながった。
もちろん当時通常のやり方であったのは、ある決まった面積の土地に対して、それが購買対象として検討され、そしてある一定のモルゲン当たりの価格が取り決められる;それからその土地が測量され、その結果に従って購買価格が決定される 58)。
58) このことは D.40, 51の de contrahenda emtione [購買取引について]にて規定されている。(両方ともパウルス≪Julius Paulus, 2~3世紀、ローマの著名な法学者≫による。)
D.45の de evictionibus (21,2)[明け渡し、または取戻しについて]においてアルフェヌス≪Publius Alfenus Varus, BC1世紀のローマの政務官・法学者≫はそれにもかかわらず次のことを必要なこととしており、それを特に強調している。それは売却された面積の土地が[測量の結果]取り決められた面積と違っていた場合、疑わしさを含む引き渡し義務については、最初に取り決められた面積の方が決定力を持つ、ということである。ユゲラの数[総面積]を売却し、そして価格を1ユゲラ当たりの単価によって[取り決める]という慣習と、購買の対象が土地の面積であるという見解は、次の考え方よりもはるかに強い実効力を持っていた。つまり、一部の土地の引き渡しにおいてパウルスが1.53の同じ箇所で更に次の意見を主張しており、それはそういった場合には引き渡された土地の実質的な価値に拠るのではなく、売主はただ実際に引き渡され所有権が移転した面積に対して[実際の面積との違いの分の]賠償責任がある、という意見であり、それは同様にまた D.4,§1の de actionibus empti venditi [売却と購買の行為について]において売主の責任を何よりもまず約束された数のユゲラに関連付けているからでもあり 59)、スカエウォラ≪Scaevola, 共和国初期の英雄的人物。ここではその一族の法学者の D.Cervidius Scaevola のこと。≫の D.69,§6の de evictionibus (et duplae stipulatione)[合法的売却について]も同様である。
59) ただある一定の数のユゲラのぶどう畑、オリーブ畑等が売却される場合、――土地台帳上の分類に依拠するのであるが――その土地の価値評価はその土地の[面積だけでない]実質価値に応じて成されなければならなかった。パーピニアーヌスは D.64,§3 de evictionibus にて、それと対立するより近代的な主張をしており、部分的な引き渡しの際は常に土地の実質的価値に依拠すべきとしている。
ついにはこのように意図された取り引き慣習は、測量人達のある種の弁済義務から、彼らが Si mensor falsum modum dixerit [測量人が間違った面積を申し立てたとしたら]という表題の法 (11,6) によって、測量人の資格が剥奪され、次のような事態が生じる。つまり、そういった罪状が次の形で出されるということであり、――1.5 pr. の引用済みの箇所で――ある者が一定の面積の土地を売り、そしてその測量人がその該当の面積があるとされる区画の土地を測量することを委託され、そしてその際に虚偽のやり方で、実際の面積より多く(1.3,§3 前述の箇所)あるいは少なく(1.3,§2 前述の箇所)測量の結果を申し立てた、という罪状である。一般に理解されていたのは、土地区画の購入は全く本質的に面積のみに関連付けられるものである、といいうことである。次のことは全く不思議ではない。つまり土地という物は本質的に次の考え方に基づいているということであり、それは正規の購入は、ある限定された地所の現物の引き渡しであり、それはまだ所有権の移転ということが知られていない時代において、それ故に法学的にはある特定の地所ではなく、ある決まった土地の面積の引き渡しであったという考え方である――そしてそのことは再びその該当の土地について、測量地図は割り当ての際にただ面積のみを記入しており、またケンススの担当官に対しても面積が報告されたのであると。というのは次のことは確かなことと考えられ得るからである。つまり我々に伝えられている、市民の地位のその財産の金銭価値による分類が、同様な考え方の土地の耕作面積の大きさによる分類を先導したのであり、特に何らかの種類の耕地ゲマインシャフトの基礎となる土地制度がまだ成立していた限りにおいては≪ヴェーバーの当時、古代ローマでも昔はゲルマン民族と同じように耕地をフーフェとして共有する耕地ゲマインシャフトが存在したと考えられていた。しかし後にこの考え方は歴史的事実と必ずしも合わないとされた。ヴェーバーの「一般社会経済史要論」(講義録)を参照。 ≫、次のことは非常に確からしいと考えられる。それは土地面積の金銭価値の評価は、まさにより古い土地制度を除去することによって成立し、また同時に地所についての個々人の所有権の断固とした導入も行われたのであり、そしてしかしまたそれは、罰金を科す際の、土地の面積当たりの法的な金銭価値換算相場の決定にも非常に類似していた。そのために発生したのが、個々の市民がその時々に所有している土地の面積を確認する可能性についての直接的・公的な関心であった。
61) シクルス・フラックス(p.138, 11)は土地の占有者と土地の分割割り当ての間の対立について述べている:Horum ergo agorum nullum est aes, nulla forma, quae publicae fidei possessoribus testimonium reddat, quoniam non ex mensuris actis unus quisque modum accepit …
[それ故にこれらの土地の金銭価値は0であり、所有者によって公衆の信用のために証拠として提出される測量地図も無く、何故なら誰も測量の実施によって確定した面積の土地を受け取っていないからである。]
しかし測量地図は土地の所有者にそのような公的な証拠としてその土地区画の境界線を与えるのではなく、この部分でまた述べられているように、ただ面積のみの情報を与えるのである。それ故に考えられるのは、売却した面積を権利の引き渡し書式とその他の必要文書の中に記載することは、法的には元々必須だったということである 62)。
62) これらの諸関係の実務的な側面の評価においては、現代的な考え方を自制することが必要であり、正規の購買手続きを所有権移転の際に利用するという伝統は、必ずしも必要なものではなかったのであり、それについては既に述べた。ある決まった面積が正規購入された場合、その売却された耕地における土地の測量がまだ行われていない段階では、これらの面積に対しての買主の請求権さえもまだ生じていなかった。次のことは自明であるとは言えないであろう。つまりただ具体的な境界線を持った地所のみが購入可能であったということは。全てのフーフェ原理によって――常に個々の事例でその原理が形成されたように――組織化された土地制度は、土地の分割売却が一般的に可能になるや否や、最初は割り当て地の(面積の)売却が行われ、次にようやく具体的な地所の売却が行われる、という風に変化して行く。次のことが想定される。つまり、このことがローマ法の発展の中でおそらくは全く同様に起きていた、ということが。
我々はそれ故により古い時代については、面積に基づいた売却と面積についての訴訟は、割り当てられた土地について特徴的なことであったと考えるべきである。2つの現象[controversia de loco と de mode]の発展史と意味については、さらにいくつかの推論を行うべきであろう。
割り当て面積の売却と土地区画の売却
元々フーフェで割り当てられた土地全体をを売却することと、その際にまた元々の割り当てられた土地区画の一部を分割して売却することが全く許されていなかったのが、早い時期においてどのように一般に許されるようになったかの過程は、もちろん我々は全く知ることが出来ない。我々が唯一結論付けることが出来るのは、譲渡が出来る方向に向かって、耕地全体から相対的に完全な個人の所有地へと分離された相続された土地がまずは譲渡不可というルールから除かれたということであり、また耕地ゲマインシャフトというものが――常にそういう性質を持ったものとして――成立していた限りにおいて、一般的な何らかの売却の制限が広範囲に存在していたのであり、このことは更に言えばより古い発展段階にあった全ての耕地ゲマインシャフトにおいて自明のこととして存在していたことからも裏付けられる。≪前注で述べたように、このころはいわゆる発展段階説で世界中の全ての地域で、社会は耕地ゲマインシャフト=一種の原始共産制という段階を経るという考え方が支配的であった。≫しかしより普通でないと思われるのは、ある耕地ゲマインシャフトにおいての、個々の実際の土地区画の売却であり、それが起きたのはある一人のゲノッセンシャフトの構成員に対してある耕地の広がりの中で帰属させられている(土地所有の)権利の一部分の譲渡が、より古い時期においてしばしば可能であると認められるようになっていた 63) 時代である、耕作地の面積単位での売却は、ここで述べた見解に従えば、合法的売却の本質を成しているのであるが、その位置付け自体は割り当て地の面積単位での売却と具体的な地所単位での売却とのおおよそ中間にあった。更に確実なことと考えるべきなのは――なるほど耕地ゲマインシャフトの形成はそれぞれ個別に発生したのであるが、そのゲマインシャフトの志向としては、一般論ではあるが、そしてローマにおいては全く疑いようがなかったことであるが、つまりはそれは氏族を中心とした集団形成ではなく、ゲノッセンシャフト的に組織化されたものであった≪ヴェーバーはここで元々ゲルマン民族の社会形成の原理であった筈のゲノッセンシャフトが古い時代にはローマにもあったとしていることに注意≫――、最初から次の2つの権利概念は厳密に異なるものとして発展したということであり:フーフェの権利(この表現を使うとしたら)、つまり耕地ゲマインシャフト一般に参加する権利の付与、そしてそこから発生する個々の受益者に耕地の個々の部分において帰属せられる特別な資格の[権利の]範囲である。後のものは前のものの結果であるが、ただフーフェの権利付与についての問いが、個々のそこから導かれる諸権利、例えば hereditatis petitio [相続請求]から相続においての個々の対象物への請求[権]の源泉となっている。
ローマにおけるフーフェの制度
ゲノッセンシャフトの成員の[土地に対しての]権利を表現する技術用語は、[ラテン語では]”fundus”[農場、一区画の土地の意味]である。この語のこの意味はイタリアの連邦法[都市国家間の連合での共通法、ius inter gentes]においてもまだそのまま残っていた。あるイタリア半島の連邦に属する国家があるローマのゲマインデの決定を自分の国でもそれを受け入れ布告する場合、その場合それはその国でも””fundus
fit”[作り出された土地への権利]と呼ばれた。その意味は、その場合その国は(ローマとの関係で)法ゲノッセ[法ゲノッセンシャフトの成員]になるということである 64)。
64) マルクヴァルト≪Joachim Marquardt、1812年~1882年、ドイツの歴史家、古代ローマについての書籍の著者≫は”fundus fieri”[作り出された土地への権利]と”auctor fieri”[作り出された売却者]を同じものとしている。ここでその2つの語句の差異について述べる気はないが、差異は間違いなく存在している。元老院が人民が決定したことに対してどのように関与したかについては確かなことは言えない:patres fundi fiunt. [土地の父(所有者)が作り出される。](次回に続く。)
この語はゲリウス≪Aulus Gellius、125年頃~180年以降、ローマの文筆家、法律家≫(アッティカの夜,19.8)によっても全く同様の意味で使われており、彼はある法案の発議に対し賛成している。
「ローマ土地制度史」の日本語訳の第22回目です。ここの注の 51)は、マリアンネが言うヴェーバーの「注釈の病」、また全集の注によるとこここそヴェーバーがマイツェンの方法論を無自覚にローマ史に適用した箇所のようです。(ヴェーバーは後に「古代農業事情」にてこういうやり方は「若気のあやまち」だったと告白しています。)私から見て明らかに脱線した議論であり、また近代の事例を強引にローマでの事例の説明に利用しているように見えます。しかし驚くべきことに「後でこの類推については再度論じる」としております。大体ここの Reebning や Stufland などと言った用語は、Google検索でも全く出て来ませんし、ChatGPT4には間違った情報を与えられ、結局ネット上でなんとかハンセンの書を見つけてようやく内容を理解しました。ヴェーバーがこのシュレースヴィヒの例に拘っているのは、邪推すると「愛国青年」ヴェーバーが自身の誕生の3ヵ月前の戦争(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、プロイセン対デンマーク)によって新たにドイツ領になった土地に特別な関心を持っているのではないか、と疑いたくなります。
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この面積の割当てということが、この測量地図を作成して割当てを行う手続きの本来の目的である。しかしながら測量人達の時代においては、この手続きはその実施の際に様々な方向への本質的な改変を受けるようになっていた。まずはフロンティヌスが controversia de modo について次のように注記している(p. 45. 11ff):
Quom autem in adsignato agro secundum formam modus spectetur, solet tempus inspici et agri cultura. Si iam excessit memoria abalienationis, solet iuris formula (non silenter) intervenire et inhibere mensores, ne tales controversias concipiant, neque quietem tam longae possessionis inrepere sinit. Si et memoria sit recens, et iam modus secundum centuriam conveniat et loci natura indicetur et cultura, nihil impediet secundum formas aestimatum petere: lex enim modum petiti definite prescribit, cum ante quam mensura agri agatur modus ex forma pronuntiatus cum loco conveniat. Hoc in agris adsignatis evenit. Nam si aliqua lege venditionis exceptus sit modus, neque adhuc in mensuram redactus, non ideo fide carere debebit, si nostra demonstratio eius in agro non ante finiri potuerit quam de sententia locus sit designatus.
[しかし(再)割当てにおいて、いつ測量地図の土地について面積が見直されるかは、多くは検査の時と耕作(開始)の時期であった。所有権の移転がいつ行われたのか既に分からなくなっている場合は、測量人達は(無効になっていない)権利証を介在させ使うことで、そのような議論が行われるのを防止し、長期間の所有の平穏さが乱されるのを許さないようにする。もし所有権移転の日時が最近のもので、既にその土地がケントゥリアの形で割当てられ、また具体的な地所の場所が指定され、耕作も行われている場合は、測量地図[forma]に則ってその土地の再評価を要求することを妨げるものはなかった。法は実際に間違いなく、面積の再評価(要求の権利)を規定しており、以前どのようにその土地の測量が行われ、その土地の公表された測量地図による面積が決められたか再調査を要求出来た。このことは土地の割当ての際に実際に行われていた。もし何らかの土地の売買に関する法律に則り、その土地の売買契約にて面積が除外されており、さらにまたその土地の測量が行われていない場合、その土地の割当てに関する判断が完了する前に我々測量人がその土地の面積の証明を出来なくとも、そのことによって我々の信用が失われるべきではない。]
つまりここにおいては、いつ成立したか分からない所有状態と新しい割当ての実施が対立するものとなっている。フロンティヌスの叙述から分かる結果としては、測量地図に基づく請求権はもはや使えず、そのために本来の土地の面積に関わる訴えは進めることが出来ないということである 49)。しかしながらまた、いつ成立したか不明の所有状態が存在していない場合でも、公的な測量地図と正式な証拠による土地割当ての要求は、その請願人に帰属すべき面積について次のような考え方が適用されるまでには至ってはいなかった。それはある特定の土地区画が通常の Usukapion ≪長期にその土地を使用していたことの結果としての時効的なその土地の取得≫によってとまたローマ人の間での一般原則によって、さらにまた善意≪法律用語で、ある事情について知らなかったこと≫による獲得と引き渡し[emtio= emptio とtraditio]を理由とするその土地の利用の事実によって、その土地がその当事者の所有物としてそのまま認められる、という考え方までは適用されていなかった。ここにおいては、ある特定の土地の権利と例外としての面積についての要求は対立しており、そういう権利状態は、書類上の所有権と実質の所有権の間の、同様の状況として常に繰り返される[対立]関係を思い起こさせるのであるが、それについては後で更に広範に論じる。ここから既に生じていることは、古い耕地区画においての面積に関する訴えは稀であったということと、また早期の土地割当ての分については、そこでは非常に数多くの所有権移転が起こりまた土地区画の新規設定が行われたのであるが、それについて面積の訴えを起すことは多くの場合もはや実際的なことではなかった 50)。それについても測量人達がやはりそう述べている 51)。
50) ヒュギヌスが controversia de modo について述べている箇所(P. 131、16)を参照:
hoc comperi in Samnio, uti quos agros veteranis divus Vespasianus adsignaverat, eos jam ab ipsis quibus adsignati erant aliter possideri, quidam enim emerunt aliqua loca adjeceruntque suis finibus et ipsum, vel via finiente vel flumine vel aliquolibet genere: sed nec vendentes ex acceptis suis aut ementes adicientesque ad accepta sua certum modum t axaverunt, sed ut quisque modus aliqua, ut dixi, aut via aut flumine aut aliquo genere finiri potuit, ita vendiderunt emeruntque. Ergo ad aes quomodo perveniri potest … ?
[サマニウムについて私は以下のことを発見した、つまり神聖なるウェスパシアヌス帝≪在69~79年、皇帝ネロ死後に内戦状態になり3人の軍人出身皇帝が短期間に乱立した後を収拾し、初めてアウグストゥスの血統以外の者で皇帝になった。ローマの皇帝は多くが死後神格化した。≫がここにおいてどのように土地をヴェテラン兵達に割当てたかを。そういった土地は割当てられた人達自身によって様々に異なった形で所有されていた。ある者は他の場所の土地を購入し自分に割当てられた土地にそれらを追加した。別の者の土地は[ケントゥリアの本来の境界線を越えて]道路が境界線になっていたり、あるいは河川やまた他の種類のものが境界線となっていた:しかし彼らが割当てによって得た土地の一部を売ろうとしたり、または新たに買った土地を割当てられた土地に追加しようとする場合、彼らは[元々の割当てられた土地の]正確な面積の情報を持っていなかった。しかしながらともかくもそれぞれの土地の面積を何とか算定し、また前述したように道路や河川や他の何かが境界になっている場合の土地の境界線を確定し、売買出来ている。しかしながら一体どうやって金銭的価値を査定することが出来たのであろうか…?]
51) controversia de mode と de loco の間の全体の関係は、全ての土地制度史家に次の事項を思い起こさせるに違いない。デンマークの≪ヴェーバーがこれを書いている時はドイツ帝国領≫シュレースヴィヒ=ホルシュタイン地方において行われたReebning≪デンマーク語でReebはRebの古形でロープの意。ロープを用いた測量・囲い込みが原義でヴェ-バーがここで言及しているのは測量を定期的にやり直して耕地を再分配する耕地整理のこと。ここはドイツ領になる前から多くのドイツ零細農民が入植していた。≫においてのいわゆる Stufland≪ハンセンの書によれば、ドイツでのいわゆるフーフェの割当て地を分割時の面積の観点でJard、Drömel、Acker、Bredeの4種に分類したもので、その結果長方形に分割された土地が帯状(=階段状)に並んでいたのを言う。Stufは段階・等級のこと: Georg Hanssen, Agrarhistorische Abhandlungen, P.216: Uüberträgt man diese vier Abstufungen auf die Hufen verfassung selber so würden , wenn der Acker die ursprüngliche Quote der Vollhufe in jeder Gewanne war, korrespondiren Halbhufen mit Jard, Vollhufen mit Acker, Dreiviertelhufen mit Drömel Anderthalbhufen mit Brede .≫である。この Reebning の処理は知られている所では(ハンセン≪Georg Hanssen、1809~1894年、ドイツの土地制度史家・国民経済学者≫のAgrarhistorische Abhandlungen の第1巻のP. 54以下)、次のような状況で行われている。それはフーフェの制度に従って、つまり地主が耕地の中に点在する形で配置された耕地全体への新規の土地獲得さらに個々の地主の新規獲得というそれぞれが、というのはその処置によって土地所有の状態に混乱が生じており、土地を割当てられている地主達は、それらの個々人に新規に割当てられた土地、あるいは全体で得られた新規の土地については、もはや従来のフーフェの制度で割当てられた面積での所有に留まるのではなく、新たに測量し直し、必要な限りにおいてフーフェ法(ユッチュ[ユトランド]法、I. 49, 55;シェラン島[ゼーラント]法、II. 54)に基づいて、新たに分配されるべきと主張してからである。本来(のフーフェ制度での土地譲渡)は疑い無くただ一定の区画面積での譲渡(1/2、1/3、1/8 フーフェ≪ここでのフーフェは面積の単位≫など)のみが許されており、それもただ遺産分割の際においてのみであった。後に――それもかなり早い時代に――また(面積だけでなく)具体的な土地区画を切離して譲渡することが許されるようになった。そしてReebningの手続きが行われるようになった時代になると、次のような結果となった。つまりそのような titulo singulari ≪原義は単一のタイトルでの、遺産相続以外の方法で獲得した、の意味≫として獲得した土地、つまり Stufland であるが、Reebningの手続きに関係せずそのままに置かれていた限りにおいて、それらの土地は再分割対象の土地には入れられなかったに違いなく、そうではなくその所有者に対して所有についての何らかの証明が存在することを前提として、元の土地の境界がそのまま保たれた。(更にハンセンの前掲書のP. 56に引用されている、1770年1月26日のシュレースヴィヒにおける囲い込みによる土地の整理、を参照。≪このシュレースヴィヒにおける耕地整理については、https://core.ac.uk/download/pdf/144438104.pdf 田山輝明 著、「十九世紀北部ドイツにおける耕地整理法の生成」を参照。≫)それはまさに titulo singulari 一般によって獲得された土地に対しての処置と同じであったが、――後で述べることになる本来的な権利状態についてここで付け加えて言っておくべきことは:それは controversia de modo の結果として新たに分割し直された時効取得された耕地と同じことであるということである。この類推については後で更に述べることになる。――次のことは明白である、つまり土地区画の分割譲渡がしばしば行われていた耕地においては、Reebningの手続きはすぐに非現実的なものになったに違いない、ということである。
その他にしかしながら、我々が知っている裁判手続きに従って、裁判での争いが最後まで終らなかった場合には、controversia de modo の訴訟についての調査は、史書に登場する時代においては、所有状態を実際の土地について変更するということにはならず、どちらかへの金銭支払い命令といういことになったのであり、土地の面積に対しての要求は、先に引用したフロンティヌスの箇所が示している通り、aestimatum petere ex forma [測量地図に基づく査定請求]へと変化したのであり、その当時はそれ故確かに通常の所有権移転請求[vindikation]の特別な場合だったのであり、ただ特別な訴訟を起す動機だったのである。実際の土地の再測量は次の場合にのみ行われた。それは訴訟の当事者達が測量地図修正の判決に従った、その再測量は測量人達の協力によって実現したのであるが、そういう場合である。そしてそのことにより、controversia de modo は確かに効果の点においては根本的な所ではそれとはっきり区別されている controversia de loco に近付いていったのである。
controversia de loco との関連
この de loco については、通常の場合、ある特定の土地区画についての所有名義が保護されるのであって、その返還を目的とした合法的な、または actio publiciana ≪プブリキアーナ訴権、法務官プブリクスによって新たに認められるようになった、正式な所有権を証明出来ない場合でも、一定の時間の占有などでの事実上の所有者を保護する法的手段≫に基づく所有権移転請求である 52)。
52) フロンティヌス、P. 44, 8, そこでは controversia de loco の提起が、Interdictum Uti possidentis ≪執政官(praetor)が正式な所有権を証明する証拠書類を持っていない事実上の所有者の権利を保護するために発する命令のこと≫と vindicatio ex jure Quiritium ≪ローマ市民としての正規の所有権に基づく土地の返還請求≫と同一視されている。更にヒュギヌスの P. 129, 12: De loco si agitur. Quae res hanc habet quaestionem, ut nec ad formam nec ad ullam scripturae (= Munizipationsurkunde) revertatur exemplum. Sed tantum hunc locum hinc dico esse, et alter ex contrario similiter.
[もし土地の場所について訴えが起された場合。その土地の現状についての調査に基づき、例え測量地図への記載も無く、また何らかの購買の証拠がな無い場合でも、該当の土地が返還されるべきだと主張する、但しこの場所についてそのように主張したとしても、相手側も同様に反対のことを主張する。]
測量人はこの形式の訴訟においては従属的な役割しか果たしていなかった。それについては測量人達自身がそう述べている 53)。ある耕地の一断片の測量をやり直すなどということはここではもちろん全く考慮されておらず、ここで問題となっているのはただ、ある具体的な面積の地所が、法的に認められた所有の根拠に基づいた土地となるかどうかということであった 54)。つまり controversia de loco という訴訟形式の適用可能性と実務的な意義は、時が経つにつれて(成功の確率が低い)controversia de modo のそれを犠牲にすることにより、地所を獲得することが出来るかどうかであった。
53) ヒュギヌス、引用済みの箇所、P. 130, 1:Constabit tamen rem magis esse juris quam nostri operis, quoniam saepe usucapiuntur loca, quae in biennio possessa fuerunt.
[それにも関わらず、このこと(controversia de lolo)については我々測量人の仕事と言うより法の問題であるということをより認めるようになるだろう。何故ならば次のような場所はしばしば正当に獲得したとされる、つまり2年以上使用されていた場合である。]
54) ヒュギヌス、引用済みの箇所、Agg. Urb. P. 13, 9 参照。
ある耕地の中のある区画の譲渡が行われ、その際に売却された土地区画の面積が全く定められていないかあるいは少なくとも測量人による実測に基づいておらず、そうではなくてただ何かの適当な査定としてのみ購買客がそれを了承していた場合、後になってその土地の(正しい)面積を測量地図に記載するということは非常に困難であったか、または全く記載されないということがあり得たのであり、ただその場合での何らかのトラブルの調停は ただ controversia de loco の原則に基づいてのみ可能であった。
55) ヒュギヌス、引用済みの箇所、P. 131 参照。
controversia de modo は以上見て来たような権利状態においては、既に述べたように、ある特別な状況においてのみ適用可能な返還請求及び境界線再設定の訴えについての訴訟種別であるように見える 56)。
56) この境界線再設定の訴えについてはパーピニアーヌス≪Aemilius Papinianus、142~212年、ローマの有名な法学者。≫が先に引用した箇所 D. 7 finium regundarum にて規定しているように思える。controversia de modo が単なる境界線再設定の訴えと少し異なっているということは、既に言及したし、また後に再度論じられる。
ご参考までに、Web上にあったウーラントの「聖なる春」の詩のドイツ語原文と、それをChatGPT4に日本語訳してもらったもの(若干手直ししています)をご紹介します。先の日本語訳の注では「凶作の時」としましたが、実際には戦争などで共同体全体が危機にある時に行われたようです。なお、私が最初にこの語に出会ったのはヴェーバーの「経済と社会」の中の種族ゲマインシャフトの所です。折原ゼミでたまたま私が訳読を担当したので良く覚えています。
https://nam-students.blogspot.com/2013/03/blog-post_3538.html
種族的共同社会関係 中村貞二訳
疑う余地のないことなのだが、なにかの理由で無事平穏に母なる共同社会を分離ないし移住して、よその土地に共同社会を起したという思い出(「海外移民(コロニー)」「聖なる春(フェール・サクルム)」)、その他類似のことが生き続けているところには、一つのきわめて特殊な「種族的」共同感情がしばしば非常に強力に存在している。
Johann Ludwig Uhland “Ver sacrum” 1880
Als die Latiner aus Lavinium
Nicht mehr dem Sturm der Feinde hielten stand,
Da hoben sie zu ihrem Heiligtum,
Dem Speer des Mavors, flehend Blick und Hand.
Da sprach der Priester, der die Lanze trug:
»Euch künd ich statt des Gottes, der euch grollt:
Nicht wird er senden günst’gen Vogelflug,
Wenn ihr ihm nicht den Weihefrühling zollt.«
»Ihm sei der Frühling heilig!« rief das Heer,
»Und was der Frühling bringt, sei ihm gebracht!«
Da rauschten Fittige, da klang der Speer,Johann Ludwig Uhland
Da ward geworfen der Etrusker Macht.
Und jene zogenchzten, ward die Gegend grün,
Feldblumen sproßten unter jedem Huf,
Wo Speere streiften, sah man Bäum erblühn.
Doch vor der Heimat Toren am Altar,
Da harrten schon zum festlichen Empfang
Die Frauen und der Jungfraun helle Schar,
Bekränzt mit Blüte, welche heut entsprang.
Als nun verrauscht der freudige Willkomm,
Da trat der Priester auf den Hügel, stieß
Ins Gras den heil’gen Schaft, verneigte fromm
Sein Haupt und sprach vor allem Volke dies:
»Heil dir, der Sieg uns gab in Todesgraus!
Was wir gelobten, das erfüllen wir.
Die Arme breit ich auf dies Land hinaus
Und weihe diesen vollen Frühling dir!
Was jene Trift, die herdenreiche, trug,
Das Lamm, das Zicklein flamme deinem Herd!
Das junge Rind erwachse nicht dem Pflug
Und für den Zügel nicht das mut’ge Pferd!
Und was in jenen Blütegärten reift,
Was aus der Saat, der grünenden, gedeiht,
Es werde nicht von Menschenhand gestreift:
Dir sei es alles, alles dir geweiht!«
Schon lag die Menge schweigend auf den Knien,
Der gottgeweihte Frühling schwieg umher,
So leuchtend, wie kein Frühling je erschien,
Ein heil’ger Schauer waltet’ ahnungschwer.
Und weiter sprach der Priester: »Schon gefreit
Wähnt ihr die Häupter, das Gelübd vollbracht?
Vergaßt ihr ganz der Satzung alter Zeit?
Habt ihr, was ihr gelobt, nicht vorbedacht?
Der Blüten Duft, die Saat im heitern Licht,
Die Trift, von neugeborner Zucht belebt,
Sind sie ein Frühling, wenn die Jugend nicht,
Die menschliche, durch sie den Reigen webt?
Mehr als die Lämmer sind dem Gotte wert
Die Jungfraun in der Jugend erstem Kranz;
Mehr als der Füllen auch hat er begehrt
Der Jünglinge im ersten Waffenglanz.
O nicht umsonst, ihr Söhne, waret ihr
Im Kampfe so von Gotteskraft durchglüht!
O nicht umsonst, ihr Töchter, fanden wir,
Rückkehrend, euch so wundervoll erblüht!
Ein Volk hast du vom Fall erlöst, o Mars!
Von Schmach der Knechtschaft hieltest du es rein
Und willst dafür die Jugend eines Jahrs;
Nimm sie! sie ist dir heilig, sie ist dein.«
Und wieder warf das Volk sich auf den Grund,
Nur die Geweihten standen noch umher,
Von Schönheit leuchtend, wenn auch bleich der Mund,
Und heil’ger Schauer lag auf allen schwer.
Noch lag die Menge schweigend wie das Grab,
Dem Gotte zitternd, den sie erst beschwor,
Da fuhr aus blauer Luft ein Strahl herab
Und traf den Speer und flammt’ auf ihm empor.
Der Priester hob dahin sein Angesicht,
Ihm wallte glänzend Bart und Silberhaar;
Das Auge strahlend von dem Himmelslicht,
Verkündet’ er, was ihm eröffnet war:
»Nicht läßt der Gott von seinem heil’gen Raub,
Doch will er nicht den Tod, er will die Kraft;
Nicht will er einen Frühling welk und taub,
Nein, einen Frühling, welcher treibt im Saft.
Aus der Latiner alten Mauern soll
Dem Kriegsgott eine neue Pflanzung gehn;
Aus diesem Lenz, innkräft’ger Keime voll,
Wird eine große Zukunft ihm erstehn.
Drum wähle jeder Jüngling sich die Braut,
Mit Blumen sind die Locken schon bekränzt,
Die Jungfrau folge dem, dem sie vertraut;
So zieht dahin, wo euer Stern erglänzt!
Die Körner, deren Halme jetzt noch grün,
Sie nehmet mit zur Aussaat in der Fern,
Und von den Bäumen, welche jetzt noch blühn,
Bewahret euch den Schößling und den Kern!
Der junge Stier pflüg euer Neubruchland,
Auf eure Weiden führt das muntre Lamm,
Das rasche Füllen spring an eurer Hand,
Für künft’ge Schlachten ein gesunder Stamm!
Denn Schlacht und Sturm ist euch vorausgezeigt,
Das ist ja dieses starken Gottes Recht,
Der selbst in eure Mitte niedersteigt,
Zu zeugen eurer Könige Geschlecht.
In eurem Tempel haften wird sein Speer,
Da schlagen ihn die Feldherrn schütternd an,
Wann sie ausfahren über Land und Meer
Und um den Erdkreis ziehn die Siegesbahn.
Ihr habt vernommen, was dem Gott gefällt,
Geht hin, bereitet euch, gehorchet still!
Ihr seid das Saatkorn einer neuen Welt;
Das ist der Weihefrühling, den er will.«
ラビニウムのラテン人たちが
もはや敵の嵐のような攻撃に耐えられなくなった時、
彼らは彼らの聖域、
マルスの槍を見上げ、手を挙げて祈った。
その槍を持つ神官が言った:
「神が怒っていることを代わりに告げる、
彼は吉兆の鳥の飛来を送らないだろう、
もし彼に聖なる春を捧げなければ。」
「春は彼にとって聖なるものだ!」と軍は叫び、
「春がもたらすものは全て彼に捧げられるべきだ!」
すると羽ばたきが聞こえ、槍が鳴り響き、
エトルリア人の力は挫かれた。
そして彼らが去った後、地は緑になり、
馬の蹄の下で野花が芽吹き、
槍が触れた場所では木々が花を咲かせた。
しかし、故郷の門前での祭壇で、
すでに祝祭の準備で待っていたのは
女たちと若い乙女たちの明るい群れ、
今日咲いた花で飾られていた。
喜びの歓声が静まると、
神官は丘に立ち、聖なる杖を草に突き刺し、
敬虔に頭を垂れ、全人民の前でこのように言った:
「死の恐怖の中で勝利をもたらしたあなたに栄光あれ!
私たちが誓ったことを、私たちは果たす。
この土地に広げたこの腕、
この満ち溢れる春をあなたに捧げる!
この牧草地が育てたもの、
羊飼いの群れが持つ小羊や小山羊、
若い牛が耕すことなく、
勇敢な馬が手綱をとることなく、
そしてあの花園で熟したもの、
芽吹く種から育つもの、
人の手によって摘まれることなく、
全てがあなたのもの、全てをあなたに捧げる!」
すでに人々は膝をついて沈黙しており、
神に捧げられた春は静かに彼らに囲まれていた、
かつて見たことのないほど輝かしい春、
重い予感を持つ神聖な震えが支配していた。
そして神官は更に言った:「もう終ったと思うか、
誓いを果たしたと?古い約束をすっかり忘れたのか?
誓ったことを本当に考えたのか?
花の香り、晴れた光の中の種、
新しく生まれた群れで生き生きとした牧草地、
若者がそれらの中で踊らない限り、それらは春とは言えないのではないか?
羊よりも神にとって価値があるのは
若さの初めの花輪をつけた乙女たちだ;
仔馬よりも彼は望んでいる
最初の武装の輝きの中の若者たちを。
おお、無駄ではなかった、息子たちよ、
戦いの中で神の力に燃えていた君たち!
おお、無駄ではなかった、娘たちよ、
帰ってきて、君たちが見事に咲き誇っているを見た!
あなたは、マルスよ、民を敗北から救った!
奴隷の恥からそれを清く保った
そしてそのために生まれたばかりの幼児を欲している;
彼らを受け取れ!彼らはあなたに捧げられた、彼らはあなたのものだ。」
そして再び民は地に投げ出され、
ただ捧げられた者たちだけが立っていた、
美しさに輝いていたが口は青ざめ、
重い神聖な震えが全てにのしかかっていた。
まだ群衆は墓のように静かにしていた、
ちょうど神を呼び起こしたばかりで、
そこに青い空から一筋の光が射し込み、
槍に当たり、そこで炎上した。
神官はそこに顔を向け、
輝くひげと銀髪が波打ち;
天の光に輝く目で、
彼が明らかにされたものを告げた:
「神は彼の聖なる奪い物を放さない、
しかし死を望むのではなく力を望む;
枯れた、歓声のない春を望まない、
いや、みずみずしさに満ちた春を望む。
ラテン人の古い城壁から
戦神の新しい植民が行くべきだ;
この春から、力に満ちた芽が、
彼にとって偉大な未来が生じるべきだ。
だから各々の若者は花嫁を選び、
髪にはすでに花が飾られている、
乙女は信じる者に従い、
星が輝くところへ向かって行け!
今はまだ緑の穂を持つ穀物、
遠くで種を播くためににそれを持って行け、
今はまだ花を咲かせる木から、
苗と種を自分たちのために保存せよ!
若い牡牛は新たな地を耕し、
活気に満ちた小羊を牧場に連れて行け、
素早い仔馬は手元で跳ねる、
未来の戦いのための健全な一族!
なぜなら、戦いと嵐が君たちに示された、
それがこの強い神の権利だ、
彼自身が君たちの中に降りてきて、
君たちの王たちの世代を生むため。
君たちの寺院には彼の槍が留まる、
将軍たちはそれを振り鳴らし、
彼らが陸と海を渡り出て
地球を囲む勝利の道を行くとき。
君たちは神が望むものを聞いた、
行って準備し、静かに従え!
君たちは新しい世界の種子だ;
それが彼が望む聖なる春だ。」
「ローマ土地制度史」の日本語訳の第21回目です。
ここでは私には懐かしい「ver sacrum(聖なる春)」が再度(というかヴェーバーの執筆順では最初)登場します。
この語はドイツではウーラントが詩にし、グスタフ・クリムトらのウィーン分離派が自分達の機関誌の名前に使ったことである程度知られていました。クリムトらは既存の画壇から分離独立して新しい芸術家集団を作ろうという意気の理由でこの語を採用していますが、ヴェーバーは身も蓋もなく、その本質は人減らしだと鋭く断定しています。
後半には様々な土地の争いの類型の話です。私は一応宅建持っていて、何回か不動産の取引きをした経験がありますが、今日でも境界線とか面積とかは多くトラブルの元になっています。実は今住んでいる家も、買う時に「境界石がどこかに行ってしまっていて、境界が不明です。」と仲介した不動産業者に言われました。
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38) (ローマの)征服戦争によって勝ち取られた領土においての(相続の権利のない)その他の息子達の扶養がもし不可能であったとしたら、その場合はそういった息子達を相続から除外することによって家族の所有地をそのままの大きさに保つことも不可能になっていただろう。同様の状況はゲルマン民族においては領土獲得欲を刺激されることとなった。ドイツにおけるいわゆる農民フーフェ≪村落共同体農民の所有する耕地≫の閉鎖性が長期間保たれたということは、農民自身の所有地は大地主[グルントヘル]へ依存している[から借りている]土地に比べれば最小限のレベルの面積に過ぎなかったという事情をまず考慮すべきであろう。ただ大地主から借りている地所において、ローマではそれが ager vectigalis ≪納税または農産物の貢納義務のある土地≫であったが、ドイツにおいては隷属農民がそういった土地を使用しており、そういった形でのみ地所が継続して分割されずに一体性を保つことが出来ていた。――そのことに関連し、その他の特徴としてそれらの文献の中で主張されている次のような関連事項が存在する。それはつまりローマの耕地領域の[対外侵略による]拡張が完了し、そして[植民市の建設とそこでの土地割当てという形で]定住のための土地が実質的に意味ある形で用意された後に、[相続を限定するための]遺言の自由が非公式の法的な擬制として百人組[ケントゥリア]裁判所で実践的に処理されるようになった、そういう事項である。――部分的に植民地開拓政策の意味を持っていたローマ古代の ver sacrum ≪聖なる春。古代ローマで凶作の秋の翌年春に生まれた新生児を神への捧げ物とし、その新生児が成長して一定年齢になると新植民市の開発のため未開の地に送り出された故事。≫は、それが故郷のゲマインデの中で余分な人間とされ、扶養家族の埒外に置かれていた者達の中から選ばれた者が、つまりはその理由のため新生児の時に神に捧げられその者が成長した若者を意味する限りにおいて、次のことは正しい。またこのやり方が神々への捧げ物という神聖な儀式として行われているということも、同様に次のことを正しいと思わせる。それはつまり、この ver sacrum が行われたのより更に古い時代の人口政策、つまり神への生け贄が、どちらもその目的は同じだったのであると。それは諸民族において、限られた食料自給体制の中で、対外的な拡張でそれを解決するのが不可能だった場合(例えばインドのドラヴィダ人≪インドでのアーリア人が優勢になる前の先住民族≫の例)に[口減らしのために]利用されていたのが、より後の時代になってもなお ver sacrum という形で[新植民地開拓という建て前で]まだ利用されていた、ということである。その他の同様な組織での例としては、ゲルマン民族において良く知られている故郷ゲマインデの何度も繰り返された移住であり、それは古代のゲノッセンシャフト≪タキトゥスのゲルマニアで描写されているような、主従関係のような縦の関係ではなく、同輩・仲間の横の関係を重視する人間集団。ギールケによってケルパーシャフトの反対概念としてドイツの集団の本質的な特徴とされた。≫的集団においても見られ、また同じく後の時代の余剰人口についての非組織的に行われた公知の土地への追放があり、その一部は既に存在している耕地であり、またその他の場合はゲマインシャフトが侵略戦争によって獲得した土地であり、こういったやり方が後の時代の土地制度の骨格を作り出すことになった。フロンティヌスは strat. の 4, 3, 12. において侵略と土地の割当ての段々と強まっていく相関関係について述べている。
物的訴訟
特徴的なことは、非課税の私有地[ager privatus]に対する正式な返還手続きについての元々の制限である。(土地という)現物への強制執行という手段が無かったことと、先行する判例に従った利害関係の現金化は、訴訟において原告側の本来の土地の所有者に対し、土地を返還する代わりに、その土地の価格相当の現金を与えただけであったのだが、それは(19世紀末の)今日の取引所法の強制手続きにおいて、(証券の)差額の現金による精算執行と明らかに類似している。こうした類似が偶然のものではないということは、土地を巡っての人間関係についての訴訟においては一般的に採用されているやり方であるということが観察されることによって裏付けられている。
土地測量人が関わる訴訟の類型
ここにおいて、agrimensorische genera controversiam についてより詳しく見ていく必要があるだろう。それはある[測量人が関わる]訴訟類型のことで、その訴訟において土地測量人達が、ある場合は裁判官への技術的な助言者として、また別の場合は彼ら自身が権威のある専門知識を備えた第一審の裁判官として務めたのであり、それはその訴訟が土地の所有権に関するものである場合に限定されていた。測量人達は訴訟の争点となっている所有関係を”de fine”と”de loco”に分ける。前者 39) は土地の(周りの土地との)境界線がどうなっているのかという争いであり、我々にとっては取り敢えずは関心外のものであるが、後者は最初のカテゴリーの争点を超える土地の所有権とその所有そのものについての訴訟である。”de loco”に含まれる訴訟は問題となっている土地の各辺の長さが5ローマフィート(約1.48m)または6ローマフィート(約1.77m)を超えるものについてであり、何故ならそういった面積の土地についての争いは土地の境界についての規則の根本原則に基づいて取り扱うべきものであり、それ未満の面積の土地は正規の所有権訴訟においても、また正当な方法での獲得においても規則外と扱われたからである。”de loco”(広義での)の争点に含まれるのは、境界線の判定以外の全ての土地に関しての争点であり、取り分けde loco(狭義での土地の場所について)のものと、de modo(面積について)の訴訟のそれであった。
39) P.12. 37. 41. 126参照。
この2つの違いについては、特にフォイクト 40) ≪Moritz Voigt、1826~1905年、ドイツのローマ法学者≫が言及している。しかし私の考える所では、それは不当にもその2つの違いを単に裁判の際に使われた証拠の違いにしてしまっており、controversia de loco の場合は単なる何かの資料、controversia de modo の場合は本質的に返還請求と同等の意味を持つ任意のその他の何か、と特徴付けている。もちろん controversia de mode の場合にある一定レベル以上の文献資料を証拠として挙げることは本質的なことであり、controversia de loco の場合はそうではなかったが。しかしながらこの2つの違いはそれぞれにおいて異なっている訴訟原因と申し立ての法的な性質に関係しているのである。
Controversia de mode と de loco
Controvesia de mode はある当事者の次のような主張の結果としてそう分類される。それはその当事者の土地の所有は耕地測量図[forma]に拠るのではなく、証拠能力のある所有権移転行為―特に(正規のやり方での)購入―の権利書式に拠るのであり、そのためその耕地における当該の面積の土地がその者に帰属する、という主張である。その当事者はここにおいて次のような主張をしているのではない。つまりここかどこかの特定の土地区画が法によってその者のものとなっており、それ故その者に引き渡されなければならない、という主張である。そうではなくて、(de modoと)書かれている通り、ただ事実上その者の所有となるべき一定の面積が公の測量地図においての面積とは一致せず、その者に本来帰属すべき全面積が測量地図に記載されていない、ということである;その者が要求するのは事実上の耕地同士の配置の変更とその者が権利を持つ全面積 42) の土地の割り当てである。これに対して controversia de loco の当事者は逆に、その者に既にある特定の土地区画が帰属し、その返還を要求し、その土地区画が測量地図の上では彼に帰属すべき面積の土地としてその所有とされていないと訴えているのではなく、むしろただ権利の保護、つまりそれによって彼が実際の土地の獲得が保証されること、それを要求しているのである。2つの訴訟の本質的な違いはそれ故にまず第一は、controvesisa de loco の方は多くの場合 ager arcificius ≪未分割の土地≫について起きているが、しかし de loco の方は既に分割割り当てが済んでいる耕地に対しても起こされることがある。一方 controversia de mode の方はそれに対し、ただ既に測量地図に載っている耕地に対してのみ起こされることが可能であった 44)。
40) Ges. d. Wiss. Phil. – Hilst の第6巻の論文の CL. 25, P.59 (1873) 参照。
41) P. 13, 45, 76, 131 参照。
42) それ故に643u.c.の土地改革法において、C.グラックスがカルタゴにおいて市民に与えた土地の内で一部のあまりにも大面積の土地区画を制限しようとした時に、以下のように規定している。
neive (IIvir) unius hominis (nomine) … amplius jug. CC in (singulos
homines data assignata esse fuisse judicato).
[もし(二人組により)一人の男(の名)に対して…200ユゲラ以上の土地が割り当てられている場合は(一人に割り当てられている、またはそう判定される場合には)]
controversia de mode はそれ故より広い面積の土地を得ようとすることは許されていなかったか、またはたとえ訴えることが出来ても何の成果も得られなかったかであり、その訴えが何とか認められたとしても、耕地に対しその認可の結果として耕地の(再)整理が行われ、そして権利者に対してごくわずかの面積の追加が認められたぐらいである。ただ面積のみが割り当ての対象であり、具体的な地所が対象物なのではなかった。
43) ラハマンのP. 13, 43, 80, 129を参照。
44) フロンティヌ P. 13, 3 controversia de loco について:haec autem controversia
frequenter in arcifiniis agris … execetur.
[この類型の訴訟はしかししばしば ager arcifiniis に対して行われている。]
しかし同じ書のZ. 7には:de modo controversia est in agro assignato. [controversia de modo は割り当てられ済みの土地に対して行われている。]同様のことが前注で引用した箇所でも引用されている。
Controversia de modo の法的性質
まず第一に controversia de modo について考察してみたい。その実際の成果について、学説彙纂の D. 7 (actio) finium regundorum (10, 1)[境界線確定訴訟]が規定している:De modo agrorum arbitri dantur, et is, qui maiorem locum in territorio habere dicitur, ceteris, qui minorem locum possident, integrum locum assignare compellitur. [ある土地の面積について裁定が行われ、ある者で、その地域で大きな面積の場所を割当てられている者は、他の者で、より小さな場所しか持っていない者に対し、全体の場所を(再度)割当て直す(それによって自分の土地の一部をより少なくしか持っていない者に渡す)ことを強いられる。]
全く同様のことが測量人達の言及する別の文書中にも登場しており(P.29, 45)、その結果として該当の耕地の一部分において事実上の新たな分割が行われており、境界線を新たに引き直すことにより、それぞれの土地の所有者に対してその者に帰属すべき面積の土地が(新たに)割当てられている。
45) フロンティヌス、de contr. agr. II P, 39, 11ff. 47, 21ff。
測量人はその際に forma に付属する土地の外形図を用い、その境界線を引き直し 46)、測量地図[forma]が個々の引き受け地の面積情報を提供している明細 47) を用いて、元の境界線をなるべく再現するよう努力する。その際にその土地の耕作状況についての手がかりとなるものを提供し 48)、あるいは測量人は新しい境界線を引いて、それによって各自に帰属すべき面積が保たれるようにする。
46) フロンティヌスのP. 47, 21, 48とニプススのP.286, 12f. 290, 17fを参照。境界線というのはただこの目的のためだけにあった。P. 168, 10ff。
47)つまりはフロンティヌスのP. 55, 13を参照:si res publica formas habet, cum controversia mota est, ad modum mensor locum restituit.
[もしローマ共和国が controversia de mode の訴訟の際に、その土地の測量地図を保持しているなら、測量人達はその面積をそれによって再確認する。]
ここでは間違いなく公有地について述べているのであり、面積に関する争いの解決については測量地図[forma]に記載されているものが決定的な力を持っていたということである。
48) フロンティヌス、前掲書、Agg. Urb. P. 11, 8f。
こういった手続きは境界線を調整する通常のやり方ではなかった。何故ならば古い境界線を新たに引き直すのは、目的を達成する上で取り得る数多い手段の内の一つに過ぎないからである。この新しい境界線を引き直すというやり方は、権利を受ける者に対して国家が[測量地図という]書面で確認している土地の割当てに対して行われている。しかしそういった土地については、公の測量地図においては、はっきりした境界線を持った具体的な地所が割当てられているのではなく、ただ一定の面積のみが割当てられていたのである。
「ローマ土地制度史」の第20回目の日本語訳です。いよいよ話が難しくなってきて、日本語訳には苦労しています。おそらく最後まで訳してまた見直すことになるでしょうが、現時点での私の解釈をお届けします。ここでは土地の所有権の種類と相続というローマ法の根幹に関わる部分が論じられています。何度も言っていますが「農業史」ではありません。
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そういったことと対立することとしては、測量人達が、植民市におけるムニキピウムについて、法律が変更された 29) というケースを、はっきりと彼ら自身に関係する問題として取り扱っているということである。更にゲリウス≪115年頃~180年以降、ローマの著述家、Noctes Atticae(アッティカの夜)の作者。≫(16、13) 30) に拠れば、ハドリアヌス帝≪在位117~138年、五賢帝の一人≫の時代にはそのことが実質的な意味を持つようになっていた。そしてその結果として我々が知っているのは、プラエネステ≪ローマの東35Kmにある都市、パレストリーナ≫がティベリウス帝≪在位BC42~AD37年、アウグストゥスの後を継いだローマ2代目の皇帝≫の時代に、植民市の地位からムニキピウムに戻してもらいたいという要請をしているということであり 31)、それについては何か現実的な理由があったのに違いないのである。このことから次のことが直ちに推定される。つまりその理由は、ローマ式の測量方式を植民市の土地に適用するということに関係があり――しかしそこにおいての実際の動機を知ろうとすることは、次のことを行った後にやっと見解を得ることが出来る。つまりどのような法的かつ経済的な特性をこの測量方式の適用はもたらし、そしてどこにおいてその実質的な意義があったかということを明らかにすることが出来た後である。その際に我々としてはまずイタリア半島において、一貫して市民植民市に適用されたケントゥリアによる分割、つまり土地税が免除されたローマの耕地から考察を開始すべきであろう。
29) P.203, 8はそのように読める。
30) イタリカ≪スペイン南西部の植民市≫とユーティカ≪古代フェニキア及びカルタゴの都市で、後にローマの植民市となったもの。≫について述べられている。
31) ゲリウス、1.c. 参照。
II 私法的・経済的な非課税耕地の性質
原則的なこと:ただ次のような耕地、つまり割当ての手続きの際に土地税もその他の現物負担も無い状態で譲渡された耕地と、またはその耕地について特別法によってその耕地の法的な分類が特別に与えられた耕地は、それらが土地改革法の全体と関連付けられていたということは、疑い無く正しいと考えられる。そういった耕地の特権とは、それらは特に643u.c.(BC111年)の土地改革法からもまた生じたのであるが、次のようなものである:
耕地に与えられた諸特権
1.そういった耕地は censui censendo ≪ケンススに登録すべきもの≫であり、つまりケンススの登録簿の中に入れても問題無しとされた耕地で、そのことは兵役や納税義務の、及び政治的な権利の基準となったのであり、ケンススの帳簿に登録されるべきものであり、それによって専ら賃貸借の際の公的な引き渡し保証等の目的に使用されたのであり、その際に相続された家族の所有地(ager patritus [先祖代々の土地])について、ある確かな、しかし詳細はよく分っていない優先権が与えられたのである。
2.そういった耕地は、ただそれのみが、ローマの国家で認められた取引きの形態の、特に土地の購入の、それ故に更にまた対物訴訟においても対象とされ、その手続に従うものであった。
ケンススに登録される資格を持つということ
上記の1について:グラックス兄弟による viritane Assignation ≪組織的ではない、個別植民への土地割当て≫は、それが ager vectigalis [課税地]とされた場合にはケンススに登録すべき土地とされた。またある耕地に viasii vicani ≪重要な道路(例:アッピア街道)沿いにあり、その道路の維持義務を負わされた土地≫の義務が課された場合にもその耕地はケンスス登録対象となった 32)。[しかしそれ以外の]グラックス兄弟によって割当てられた土地は完全な所有権に比べると譲渡権を持っておらず、クィリタリウム所有権≪quiritarisches Eigentum、ローマの市民のみに与えられたもっとも上位の所有権≫よりも劣った権利しか持っていない他の全ての土地はケンススの登録対象ではなかった、ということが結論付けられよう。ケンススにおいて、bonitarisches Eigentum≪善意による所有権、正規の法的な購入手続き以外の方法で入手された土地への[そしてそうとは知らず入手した場合の=善意の]所有権、クィリタリウム所有権より法的保護の面で劣る≫をどう扱ったかという問題については、私は同様に間違いないこととして次のように考える。つまりその種の所有権の土地はケンスス登録対象ではなかったのであり、ケンススへの登録対象であったかどうかということは、むしろ法律上のローマ市民の[完全な]所有権についての実質的側面であったのであると。上記の2についての更なる論述は後で、私はそう信ずるが、より高い明証性を持った根拠にのっとって提示される。
次のことは、ローマにおける土地所有権の全体の位置付けにとって更に特徴的である。それは土地改革法がそれによって私有地と宣言された土地の、ある一定のカテゴリーの売却可能性を、規模の大きな投機業においての担保物件の目的で使うことを、それについてはローマの行政がそういう機会を提供したのであるが、特別に規定した 33) ということである。
33) P.28
ローマにおいての最上位の権利を持った地所は、まさに他の何よりも、抵当物件として資金調達を可能にする資産でもあった。
銅片と天秤による取引き≪この表現は通常は奴隷解放の儀式のことであるが、ここでは対物訴訟のこと≫
上記の2について、同様に特徴的なことは、銅片と天秤を用いた物的取引きの制限であり、そして――根源的には――ローマの非課税の耕地に対するローマでの対物訴訟の制限であった。この点についてまずより詳しく述べてみることとする。
不動産の売買による所有権移転[Manzipation]と遺言の経済的な意味
不動産とそれに付随する権利の引き渡し形態である Manzipation は、全ての家族の負債と共通経済的な拘束事項から自由である土地について適用されるのであり、それは家族の遺言における無制限の[所有権移転を伴う]処置がそういった自由な土地に適用されるのと同じである。特に後者[=遺言]が本質的に土地政策上の意義を持っていたことは明白である。もし有形物、つまり実質的には不動産とその付属物についての、actio familiae (h)erciscundae [家族間での遺産の分割行為]に対する根源的な制限が、次の条項の結果として:”nomina sunt ipso jure divisa”[法律上は、帳簿(名目)上の資産・債務が分割される](相続人とその相続物という言葉の上での組み合わせに対しても適用される制限)、そういった有形物[不動産]は直ちに諸権利の中で家族との共生経済を故意に重視することと、そして家族間の均等分割の原理により家族の所有する地所が分割されるという危険を生じさせるのであるが、次の事実と結合している。それはそういった[遺産としての不動産の元の大きさのままでの]保持がもっとも重視された 35) ということと、同じく土地所有の政治的な意義においてもやはりそのことがもっとも重視されたに違いない、ということである。
34)より古い時代においても確かにそれらは帳簿上の財産として制限されており、それは「不動産という]その名前が示している通りであるが、その理由は明らかにその当時は私的な土地の所有権がまだ存在していなかったからである。
35) 参照:放蕩者に対する禁治産者宣告の書式と、既に考察して来た praedium patrium [先祖代々の土地]への優先権。
十二表法の制定は、ローマの農民に対して形式的な制限に結び付けられた遺言の自由においてのみ、次のような手段を彼らに与えた。それは生きている間においての家父長権と、また当該の遺産対象の財の選択をいつでも新しい遺言によって変更する可能性と結びつけられた上で、考えられるもっとも明確な形で、[ヴェーバー当時の]現代における我々が相続法と財産引き渡し契約によって達成しようと努めるのと全く同じ目的を追求するための、同時にまた家長の権威を無傷のまま保つための手段であった。後の時代において、こうした手段がどの程度までなお使われたかということは、次のことを扱う法源≪法の存在根拠、ここではその根拠を決定付ける事項≫の範囲によって示されており、それは遺言の単なる言葉の上での解釈と、特に相続に関係する集団である廃嫡者と代襲相続人≪ある正規の相続人が死んだりいなくなった時に代わって相続人になる人≫についての所である。相続人のためにローマにおける家父長は、その相続人以外の他の息子達を相続対象の財産 36) から排除した;それらの息子達は、「相続人の座に居る」者、つまり adsidui ≪ローマ市民の中で納税義務を負いまた軍人になる資格を持つ者≫に対比して、プロレタリウス≪ローマ市民の最下層の身分、プロレタリアの語源≫に所属する者に留まるのであり、その身分についてはまず「子供を設けることが出来ない者」と呼ばれたのであるが――それは蔑視的な表現だったと思われるが、法律上の公式な表現ではそのような言い方はまず許されていなかった――そうではなく「子孫」37)――つまり定住した市民の、――として表現されており、それ故そういった単にその理由のみで cives [ローマ市民]であった者達であり、それは彼らの祖先達がかつては土地所有者であることにより cives だったからである。
36) このことはここで採用された方策の目的と相反するように見えるかもしれない。しかし次のように考えることが出来る。つまり人間関係の政治的側面が確かに経済的側面より重視されたのであると。それに拠って生きるための地所の確保ということが目的だったのではなく、相続する息子とその子孫が、その手中に家のお宝を保持し、トリブスにおけるフーフェ[地所]の所有者として、かつ同等のケンススにおいての階級に留まるということが目的だったからである。
37) 参照:hidalgo (スペイン語、庶子)=fijodalgo, filius alicuius (その他の息子)
これらのプロレタリウス達は、それ故かなりの部分が字義通りの意味で廃嫡者であった。そして確かにまさに次のようなローマ民族の中のある階級の前景に登場するような破片の如き者だったのであり、その階級とは彼らの土地獲得への渇望が(グラックス兄弟の)土地の割当てとローマの侵略戦争[による外地の獲得]によって鎮静化された、そういう階級のことであるが、彼らはその耕作地に居住する[正規の]農民にしてもらった訳でもなく、また都市の小市民という身分にしてもらった訳でもないのである。土地所有についてのその処分の自由の厳格な実施とその完全な流動化を勝ち得たいという願望がローマの対外的な拡張を推進する上での強力な梃子となった 38)。
(注38の訳は次回。)
「ローマ土地制度史」の日本語訳の第19回目です。最近ペースが遅いので、巻くため会社の昼休みにもやっています。そのため前回から10日でアップ出来ました。ここでは「二重都市」という興味深い概念が出て来ます。つまり元々の住民がいる所にローマの植民市が割り込んで来た場合に形成される「新市/旧市」状態です。私は日本での同様例で福岡-博多を思い浮かべていました。福岡-博多もある意味二重都市で元々の商人の町の博多に後から黒田氏がやって来て(黒田氏は播磨が出身地とされています)新たに福岡の町を作りました。この2つの地域は相互の行き来は出来ませんでした。その中間にあるのが中州です。
それから、ここでポンペイの例が出て来ます。ここの旧住民を「門の前方へ」追い出した、という表現が不自然で色々調べて私なりの仮説を得て書いています。
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割当てられなかった領域の法的な位置付け
ある植民市の測量された土地[pertica]とその植民市の別の領域のある部分が一まとめにして把握された所においては、法の存立の状態は疑いなく元の古い状態のままであった。場合によってはこういう残余の土地はごくわずかでまた偶然生じたようなものであり――カウディウム 19) ≪南イタリアのサムニウムの地名でサムニウム族系のカウディニ族が住んでいた。≫ではそうであった――全体の領域が植民市が測量によって境界線を設定することで把握され、それからムニピキウム[自治市]の役所の権力は城壁の内側の地域に限定され、また実際はほとんど市場を取り締まる警察権と市場への司法権に限定された。
それに対し植民市が測量によって設定した土地が元々あったゲマインデの領土のほんの一部に過ぎなかった場所では、そのゲマインデの内部に植民市の土地が設定され、把握され、2つのゲマインデがお互いに二重都市という形で成立することとなり、新市と旧市という形で並立した 20)。
19)C.I.L. IX, 2165. lib. col. p.232, 部族もまた異なっていた。参照:C.I.L. IX, 2167(ベネヴェント≪南イタリアのアッピア街道沿いの中小都市≫のステラティーナ族の植民市)、また2168(カウディニ族のフォレーリア)≪この注を含む数ページの注でヴェーバーはC.I.L.(Corpus Inscriptionum Latinarum、ラテン碑文集成)とすべきものをC.J.L.としている。おそらく誤記でCD-ROM版のテキストではC.I.L.である。しかし全集版の文献リストにC.J.L.は無く全集による説明もまったく無い。ius-jusのように、ラテン語でiとjの両方が特定の綴りで使われるケースはあるが、この場合はIしか考えられない。≫
20) おそらく Interaminia Praetuttianorum ≪現代のイタリア共和国アブルッツォ州北部のテーラモ。プラエトウッティ族の土地だったのをBC290年にローマが征服し植民市としたもの。≫がそう(Frontin、 p.18による。C.I.L. IX、5074とも一致する)。更にはポッツオーリ(Tac. Ann. 14, 27)、ヴァレンシア≪スペイン≫(C.I.L. II, 3745)、アプラム≪ルーマニア、ローマの要塞があった≫(C.I.L. III p.183)そしてティグニカ≪現在のチェニジア南西部≫。
そういった二重都市となった領域の実際の状態と相互の関係、つまり公的権力においての境界設定、がどういうものであったかについては、個々のケースについてそれを突き止めることは出来ないが 21)、少なくともそれが存在していたということについては疑いようがない。
21) そういった二重都市の司法権の相互関係については学説彙纂27§1のウルピアーヌス≪ローマ古典期晩期の法学者で学説彙纂の法文の内約1/3は彼の著作から取られている。≫の断片 ad municipalem et de incolis (50, 1)[ムニキピウムとその住民について]が扱っているように見える:ある者で常に植民市ではなくムニキピウムに滞在し、全ての祝祭等に参加する者は、そこで諸々の物を買い入れ、”omnibus denique municipii, nullis coloniarum, fruitur”[結局のところ、(その者は)ムニキピウムの全て良きものを享受し、植民市の何物をも享受していない]、その者は彼の domicilium in municipium [ムニキピウムの中での住居]を持ち、の所である。しかし、[学説彙纂の](リテラ・フロレンティーナ[写本]での)”colendi causadeversatur”[耕作のために住む]の所ではない。特徴的なのは、”rus colere”[耕作のための地所]というのが植民者の本質であるように見えることである。
同盟市戦争の時代には、それ[fundi excepti]は単に農村トリブスの中で登録されたのかもしれない。しかしその後の時代ではそれはもう可能ではなくなっていた。測量人達の記述によれば、それはむしろより独立した領域として構成されていた。そういった領域はゲマインデの領域に関しての手続きによって定められており、ケンススにおいては明確に独立したものとして一般的にはただローマの中央官庁の管轄下にあるのみと記載されていた 22)。
22) P. 53, 197, 10。類似のものについて第4章で取上げる。
同様にそういった領域は、時においては警察権力の一部としての市場についての司法権の管轄下にあった場合もあった 23)。
23) C.I.L. VIII, 270. Ephem. epigraph. II, P.271を参照。
確かにこういった関係は、ケンススによって課税と徴兵が実際に行われていた属州においては、イタリア半島においてよりも大きな意味を持っていたし、そもそもイタリア半島においてはこういった関係自体が稀であった。測量人的な視点においては、我々はそれを明白に ager per extremitatem mensura comprehensus [外周のみが測量され内部が区画分けされていない土地]のカテゴリーに関連付けることが出来る。それについてフロンティヌスはこう言及している:fundi excepti としてまた測量地図上に記載されている領域は、確かに耕地図上にまた per extretatem として測量されその領域が描かれている。既に次のことについては言及して来た。つまりフロンティヌスの地図(Fig. 4)が既に明らかにしているように、区画分けされていない地所は、ある統一的な特定の種類の区域として法的に定義されたものに、必ずしもなる必要がなかったように見える、ということである。この領域を巡るその他の公法的・行政法的諸関係については、それは古典期での物権の引き渡しにおいては非常にみすぼらしくしか見えないものではあるが、またローマにおける土地(農業)経済の発展において非常に重要な役割を演じたことははっきりしており、後で特別に詳細に取り扱うことにする。(第4章を参照)。――
植民市内部における法整備の状況
我々が次の問いについて考えようとするや否や、我々のそれについての知識が非常に貧弱な状態に留まっていることが明らかになる。その問いとは、あるローマの市民植民市において、その当該のゲマインデの内部においての法整備の状況がどのように変遷したか、どのような作用を及ぼしていたかということである。元からの居住者の植民者に対しての関係が、統一的な法形式としてどのように規定されていったかという問題はここでは取上げない。ノーラ≪カンパーニャ地方のもっとも古い都市、第2次ポエニ戦役で3度戦場になった。≫についてモムゼンは元からの居住者はここでは plebs urbana ≪ローマにおける最下層の平民≫に格下げされたという仮説を唱えているが、実際のところは、全ての領土が没収されたという、常に起こりうることがここで起きたのである。これに対立するもっとも極端な例は、古代のアンティウム≪ローマの南の海岸沿いのラティウムにあった都市、アンツィオ≫で起きたことで、そこでは元々の住民が全て植民者に編入されている。ポンペイについては以上の2つの偶発的なケースとは違い、何かの、おそらくは法的に不平等である2つの住民カテゴリーが作られ、おそらくは住民の異なった地位によって耕地の割当ても違ったやり方で行われていたように思われる 24)。
24) ニッセン≪Heinrich Nissen、1839年~1912年、ドイツの古代史家≫のPompeianische Studien[ポンペイ研究]とモムゼンのC.I.L. XIVを参照。もちろん詳細については全く不明である。次のことはすぐに確かなものと確認することは出来ない。つまり、北部の1/3の領域が他の領域から scamna と strigae によって区切られていたのかということである。そこにおいてはスッラの植民市がその領域を秘密裏に所有していたのと、または元からの住民がそこを課税地として所有していたからである。モムゼンは一般論として旧住民が市の複数の門の前方へ(つまり市外へ)追いやられた可能性を示唆している。≪Thoreを普通に「門」(複数)として訳したが、表現が非常に不自然であり(単に市外に追放したなら、市壁または城砦の外へと書く方が普通)もしかするともしかするとポンペイの西にあって、ポンペイと同時にヴェスヴィオ火山の噴火で滅んだ(現在の)トッレ・アンヌンツィアータのことではないか。Torre(伊)、Turris(羅)は「塔」の意味。トッレ・アヌンツィアータに相当する地名が当時もあり(ここの遺跡の地名はオプロンティス)、その固有名詞中に含まれる普通名詞を間違って「門」と解釈したのではないか。ここは二重都市についての注なので、元からの住民がトッレ・アヌンツィアータの方へ追いやられ、ポンペイと二重都市を構築したと考えるのは自然。ちなみにポンペイ最大の門は西側のマリーナ門であり、それには12の塔がある。そしてその門の外側はトッレ・アヌンツィアータなので、結局は「門」と訳しても同じことを意味しているかもしれない。この部分C.I.L.の原文を探しているが未確認。≫我々が知り得ている情報だけによって「二重都市」という名称を使うのは無理がある。そういった関係だと言っても良いのは、例えばヴァレンシアにおいてのように、2つの階層[ordines]と、それ故に2種の公権力がお互いに排他的な競争状態にあることが確認出来る、そういう場合のみである。そうでないとほとんどの植民市が「二重都市」ということになってしまう。
文献史料の状態が劣悪なため、いずれにせよ次のことを行うことは出来ない。つまり新しく連れてこられた植民者と元からの住民の関係を詳しく調べることである。後者についてはある特別な法的地位に留められたかあるいは何かの原理に基づく存在として(その原理から)還元されて考えられたかではあるが、ここで出来るのはただそうした原理について調べることぐらいである。様々な植民市については、そういった原理という点でお互いに甚だしく異なっていたように見える。それについては我々は次のような考え方をすることが出来よう。つまり市民植民市でもあった諸ゲマインデについて、帝政期においてもまた、ローマ国家としてのそういったゲマインデとムニキピウムとの等しい法的な取り扱いにも関わらず、ムニキピウムと他のローマの諸ゲマインデの内的な関係については、ある観点に沿って見た場合には異なっていた、という考え方である。モムゼン 25) は次のことに言及している。つまりその他のゲマインデとは反対に、ある種のゲマインデでローマの[古代からの伝統的な]集団形成が先行していた所では、つまりクリアに分けられていた場合、植民市 26) においてはそれがトリブスになっていると。ローマにおいてはトリブスへの分割は疑いもなく耕地の分割と関係があったので、次の結論は明らかである。つまり、この2つに関係があったことは市民植民市においてもそうであり、それ故市民植民市の土地制度の状態は帝政期においてすらある本質的な識別のための目印を作り出していたということである。
25) Epehem. epigraph. II p.125参照。
26) アウグストゥスの植民市 Lilybaeum≪リリュベエウム、今のシチリアのマルサーラ。ポエニ戦争にて対カルタゴの前哨基地として栄えた。≫ と、Julia Genetiva Ursonesis≪スペインのセビリアにあったカエサルの植民市≫においてがそうであった。
そうした事情があったとしても、次のような可能性について確たることを言うことは出来ない。つまりアフリカ 27) の植民市においてクリアによる分割が行われたかということである。
27) 当時の Hippo Regius ≪現在のアルジェリアのアンナバ。フェニキア人が作ったとされ、後にローマの植民市となった。≫と Lambaesis ≪アルジェリア北部にあったローマの植民市で、ローマ軍によって作られた。≫についてそこでのクリアについて言及されているか、またそもそも本当に植民市であったかもはっきりしない。それに対してこのことは、Julia Neapolis ≪カルタゴの旧領、現在のチェニジアに作られた植民市≫の場合は該当していた(C.I.L. VIII, 974)し、更にはトラヤヌスス帝が作った植民市の Thamugadi ≪現在のアルジェリアのティムガッド≫もそうであった。(C.I.L. VIII, 5146)
そのことから考えて、ローマそれ自体においてはクリアとトリブスが隣接して存在していたということは、ある時代からの植民市法の該当のゲマインデへの適用の源泉となっているが、その時代においてはゲマインデにおける市民団体は都市参事会[デクリオネス]によって政治権力を奪われており、それは丁度ローマにおいて市民の権利が元老院によって奪われていたのと同じであり、それ故、言及されている土地制度の相違があった場所においては、それは続けて市民を新たに分割し直すという目的はもはや持っていなかった 28)。また帝政期において各植民市に対する純粋な等級としての称号の付与ということが多く起きるようになったのかもしれない 28a) ;そこにおいては確かに単に外面的な把握の仕方について争われたに違いなく、それは例えばあるゲマインデの地位が植民市の中で変えられた時に、そこでは新たな住民を[何らかの原理に従って]演繹的に作り出すということは行われず、必然として純粋に呼称について、その内部での人間関係についての実質的な意義は全く無しに、単なる表向きの称号だけ――例えば「四人組」[quattuorviri, IV viri]管轄地域ではなく、「二人組」[duoviri, II viri]管轄地域など≪「四人組」、「二人組」はその名前の通りの人数の者が委員として組んで植民市の行政に携わるもの。地位としては「二人組」の方が上。≫――が問題となっていたのかもしれない。
28) 唯一の例外はネアポリス[ナポリ]であったかもしれない。もしそれがカエサルの植民市であったとしたら。しかしこのことは全く確からしくない。(プリニウス≪ガイウス・プリニウス・セクンドゥス、23年~79年、「博物誌」の著者でかつローマの属州総督。≫はこの植民市を知っていない。
28a) D.1 §3 de censibus [ケンススについて]50, 15: Ptolemaeensium … colonia … nihil praeter nomen coloniae habet. [プトレマイオスの植民市は、名前は植民市となっているが、その中身で植民市的なものは何もない。]
「ローマ土地制度史」の日本語訳の第18回目です。ここは注の14~16に出てくるラテン語の訳でかなり悩みました。そしてここでもChatGPT4が良き相談役になってくれ、何とか納得出来る意味を掴むことが出来ました。
本文中に注釈としても書きましたが、ヴェーバーのこの論文のラテン語をきちんと理解するためには、小型のラテン語辞書(羅英辞書)は役に立ちません。オクスフォード羅英大辞典のみがヴェーバーが参照している測量人達のテキストをコーパスとして用いています。
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ager extra clusus、subseciva、そして loca relicta の全てを合わせた地所は、法そのものの効力によって新しいゲマインデの職権に支配されているのではなく、帝政初期においては、土地を割り当てる植民市の役所の権力下に、ただ法律上形式的に留められていたに過ぎない 8)。これらのその他の領土については、[通常の土地種別とは]異なったやり方で取り扱われていた可能性がある 9)。この種の土地が、特に loca relicta の場合にもっともしばしばあったことであるが――ゲマインデによって共有地として、つまり pascua publica [共有の牧草地]として、または売却や譲渡の対象から除外された樹木地に割り当てられた可能性がある。あるいはその土地での放牧権が定められ、多くの場合境界線の無い―― fundi [牧地]として割り当てられたのかもしれない――つまり ager compascuus [隣人間で共有される牧草地]である 10)。あるいは別の可能性としては:これは ager extra clusus の場合にしばしばあったことであるが、ゲマインデが自分のものとしたか、あるいはまた一時的にかあるいは賃借料と引き換えに誰かに引き渡されたかである 11)。仮にそういった土地について何も規定が無かった場合には、それらの土地はローマ市民の ager publicus [公有地]に留まるのであり、ゲマインデまたは私人が、それは subseciva の場合にしばしばあったことであるが、その土地を開墾した場合、共和政時代の公有地の占有[Okkupation]と同様の法的な位置付けの土地となったのである。そういった土地の利用で利益を得ることは非常に不確実だったのであり、いつでも新しい割り当てによってその土地が没収されたり、または国家によって賃借料を課されたりする、ということがあり得たのである 12)。皇帝ウェスパシアヌス≪在位AD69~79。皇帝ネロの死後の内乱期の後、60歳で皇帝になりローマの財政建て直しや公有地貸し出しの見直しを行った。≫がこういった政策を精力的に行い、そうした土地の所有者に大いに不満を抱かせる結果となった。そして皇帝ドミティアヌス≪在位AD81~96、ウェスパシアヌスの次男、前皇帝ティトスの弟≫までに、永遠に続くかと思われた諸ゲマインデの不安は全て解消された。その過程でドミティアヌスはこれらの古い意味でのイタリアの公有地の残りの部分を、その占有者に対して、当時の測量人達の内の一人によって言及されている一般的処分を行った。それについての実例が碑文として(C.I.L. IX, 5420)≪ドミティアヌスがファレリ人とフィルマ人の間の土地争いを裁定したもの。≫残されている。
プラエフェクトゥラの測量地図の意味
前述のことから、測量地図[forma]がこうした[土地の]状態に対して持っていた大きな意味が確かに確認出来る。植民市に組み込まれた耕地の内、測量地図、つまり耕地図に記載されていない部分は、これまで見て来た土地のカテゴリーのどれにも該当しなかった。それに対して統一された測量地図が作成された場合、または多少疑わしくとも統一的な耕地の領域 14) までその地図が包含している場合、そうした場合おそらくはその領域がそれまでのゲマインデの耕地の大部分または一部分を含んでいた。測量地図[forma]に載せられた耕地領域が十分ではないという理由で、隣接する耕地の一部がある独立の座標系を用いて分割され、そして――常に疑わしかったことではあるが 15) ――この領域に対しての特別な測量地図も作成され、そしてこの領域、つまり単なる畑地は、その領域の中に本来その土地が属していた町の中心部分を含まず、そしてそれらが主要な植民市に組み込まれた場合には、その領域はなるほどその植民市の市政権力の下に置かれるのであるが、しかしそれらはただ相対的な意味での付属地としてプラエフェクトゥラと呼ばれた。何故ならばそのような領域については、特別なプラエフェクトゥラ≪~の管轄下にある、が原義≫として植民市の市政官の司法権の執行下に委ねられたからである 16)。
14) このことは少なくともハイジンの Polemic P.118に拠れば支配的な考え方であり、それはまた測量地図とその土地の面積[pertica]の確定が行われていたこともその根拠となる。P.154,18: .. . quamvis una res sit forma, alii dicunt perticam, alii cancellationem, alii typon, quod . .. una res est: forma.
[ある測量地図があったとしても、別の者はそれを pertica [長さの単位、面積の単位、土地の地味の評価単位]と呼び、さらに別の者はそれを cancellation [格子状の土地、ケントゥリアとほぼ同じ]と呼び、また別の者はそれを typon [測量計画図]と呼ぶ、それらは全て一つの物:つまり forma を指している。」
14a) ] P.164, 5f.: .. . multis .. . erepta sunt territoria et divisi sunt complurium municipiorum agri et una limitatione comprehensa sunt: facta est pertica omnis, id est omnium territoriorum, coloniae ejus in qua coloni deducti sunt. Ergo fit ut plura territoria unam faciem limitationis accipiant.
[多くの(近隣ゲマインデの)領域から領土が奪われ、多くのゲマインデの土地が分割され、一つの測量地図の中に包括された:すなわち、全ての領土が測量され、そ(れら)の土地はそこに定住する植民者たちに割り当てられて植民市のものとなった。その結果、複数の領土が一つの測量地図に取り込まれることを(各ゲマインデは)受け入れさせられることになった。]
15) 次の Siculus Flaccus からの引用箇所を参照せよ。
16) P.26, 10 (フロンティヌス 1.II)
quidquid huic universitati (der Kolonie) adplicitum est ex alterius civitatis fine, praefectura appellatur, — p.49, 9: .. coloniae quoque loca quaedam habent adsignata in alienis finibus, quae loca solemus praefecturas appellare.
[この(植民市の)ゲマインデに付属する土地は全て、元々他のゲマインデの領土だったものであり、それはプラエフェクトゥラと呼ばれた。-p.49, 9…(それらのゲマインデ全体を統括する)植民市もまた、他のゲマインデの領域の中に割当てられた土地を所有しており、その領域をも(我々測量人はまとめて)プラエフェクトゥラと呼ぶようになった。]
特にしかしながら シクラス・フラッカス: Illud praeterea comperimus,deficiente numero militum veteranorum agro qui territorio ejus loci continetur in quo veterani milites deducebantur,sumptos agros ex vicinis territoriis divisisse et assignasse; horum etiam agrorum, qui ex vicinis populis sumpti sunt, proprias factas esse formas. Id est suis limitibus quaeque regio divisa est et non ab uno puncto omnes limites acti sunt, sed, ut supra dictum est, suam quaeque regio formam habet. Quae singulae perfecturae appellantur ideo, quoniam singularum regionum divisiones aliis praefecerunt, vel ex eo quod in diversis regionibus magistratus coloniarum juris dictionem mittere soliti sunt (teilweise verderbter Text).
[「そういった土地(プラエフェクトゥラ)については、我々はまた次のことも見出している。ヴェテラン兵士に(長年の兵役に対する褒賞として)与えるべき割当て地の数が、彼らが定住すべき土地を含む(植民市の)領域において不足している場合、近隣のゲマインデの土地から奪った土地を分割して(ヴェテラン兵士に)割当てたということを。またこれらの近隣の住民から奪った土地についても、特別な測量地図(forma)が作成されたということを。それはつまりそれぞれの領域はそれ自身の境界線によって区切られており、そしてある一点で(ある一点を中心点として座標系を作成して)全ての区画割りが行われるのではなく、前述したように、それぞれの領域で(それぞれ区画割りを行い)測量地図を作成し保持したのである。それぞれの領域がプラエフェクトゥラと呼ばれる理由は、特定の地域の個々の分割地がそれぞれ異なる者の管轄下に置かれている(=praefecerunt)からであり、または各プラエフェクトゥラにおいては、植民市の行政官が植民市では本来無い異なる領域であるにも関わらず司法権を通常行使していたからである。(部分的にテキストが欠損)≪いずれにせよ praefectura という単語は「~の管轄である、~に司法権が与えられている」という原義から派生した単語である。≫]次のことをいぶかしく思う人もあるであろう。つまり、これらのテキストの中に逆方向の因果関係について触れられておらず、つまり次のことが述べられていないこと:新たに設定された司法権の及ぶ区域に対して、その区域についての測量地図が作成された、ということである。次のことは確かなこととして主張することは出来ない。つまり、特別な測量地図を作成する必要性があり、その法的な理由が新たに委任された司法権についての管轄地域を作り出すためであったということである。それにも関わらず上述のテキストは無作為に選んだものではない。[そのテキストから考えて]次のことは非常に特徴的である。つまり本当にそういうものがあったか疑わしさもある統一的な耕地分割システムはまた――例外がP.162, 3に出てくるが――それ自身が独立して成立した行政上の管轄権と適合的である、ということである。帰納的に推論して我々は次のように考えよう。つまり、このこと[耕地分割システムと行政上の管轄権の適合性]は次のことに根拠を持っている:古代のローマの領域においての個々の耕地ゲマインシャフトが、自明なことではあるが、根源的にはある何かのやり方で行政上お互いに区別された形で成立したのであり、そしてゲマインシャフトの[土地の]それぞれの成員への分割割当てが行われたのであるが、そしてこれらの分割された耕地が――それぞれの土地にある特別な座標系を使った境界線引きが行われていたとしても――その後の時代になっても依然として、いずれにせよある時期まではその昔に行われた[古の]行政上での区分形態を[まだ]保持していたということである。こうした行政上の分離をトリブスとパギ≪いずれもローマの土地共同体、パギはロムルスの時代のもの、トリブスも共和制時代のそれではなく王政時代のもの≫に関連付けるということは、この土地制度史では2つを区別して取り扱うことが出来ないために、私はここでは試みることはしない。しかし先に詳しく述べたことがおおよその所正しいのあれば、その場合実際には個別の[行政上の]区別は、プラエフェクトゥラの司法管轄権の特別な地位の成立よりも歴史的に先行しているのである。この[プラエフェクトゥラの]表現についてはまた、ここで測量人達のテキストにおいて述べられた意味においてのみ使用されているということは自明のことである。≪praefectura のこうした意味はオックスフォードラテン語大辞典によればもっとも古い意味であり(小型ラテン語辞書には出ていない)、後になると行政命令とか地方役所、(単なる)行政区という意味になる。また後に”praefectura praetorio”というもっと広大な行政区を指すようになる。ちなみに日本の「県」を英語でprefectureというのは、直接的には中期フランス語 の préfecture からだが、更に遡ればこの”praefectura praetorio”まで行き着くと考えられる。≫
返還された、許可された、例外扱いされた土地
ある領域が境界線によって囲まれることによってそこに土地区画が出現している一方で、その土地区画が個々人への割り当ての対象から外れていたということがあった。まず我々が第一に知るのは 17)、確かにそれは一部の測量人の意見に過ぎないが、土地の分割-割り当てにおいては、それまでその耕地に定住していた者にも[改めて]割り当てが行われた[ことがあった]ということであり、これらの者達に対してあるいはその者達の一部に対して、彼らのそれまでの所有地が元の境界線のままで返還されたのであり、――それは耕地地図上では「返還資産」[redditum suum]と書かれていた――その該当の土地区画はその後植民市の行政権力の特別な取り決めには従うことがなかったのである。
17) ハイジン、p.118、更にp.116、16.160、24.178、5.197、14.を参照。
そのような地所についてはその地所の元々の所有者の個人的な事情が斟酌されたのではなく、おそらくはそういった地所は植民市において新しくロジカルなやり方で作り出されたものではないということであり、というのは以前の所有者がその者の以前の所有地を別の新しい地所と交換させられたり、またはそれまでの所有地のただ一部だけが返還され、残りの部分が新しい地所と交換させられた場合、――”commutatum pro suo”[その者の所有地と交換された]あるいは”redditum et commutatum pro suo”[(一部)返還され(残りは)交換された]と耕地図上に記載された場合――、その場合当該の領域は植民市の耕地団体の[所有地の]中に登場するのである。[以上の推論よりも正しいと思われるのは]そうではなくて、この土地について言えるのは、それまでの 地所の[法的な]地位が維持された、ということである。土地の割り当ては、第1章で見て来たように、土地の面積を基準として行われたのであり、そしてまた植民者達が事実上、最終的に具体的な耕地を分割したものを得た場合も、そこで有効となるのは面積のみであり、というのは耕地図は個々のケントゥリアにおけるそれぞれの割り当て地の面積のみを記載しているのであり、法的な意味としてはこれらの土地は割り当ての[行政]手続きを通じてのみ確定されたのである。これについて次のような見解が考えられる。つまりある土地区画が明示的に”redditum”[返還された」と、つまりその地所の元々の境界線とその内部で[改めて]割り当てられた部分が測量地図上に記載され、本来なら第一に記載されるべき面積ではなく、ある具体的なまとまりの耕地が割り当てられたとされ、それ故にその場合には本来の割り当ての[行政]手続きが欠如しているのであると。というのも土地の返還が次のようなやり方で行われた箇所では、つまりただ境界線のみが確定したものとして耕地図の中に描かれるやり方であるが(ラハマン≪Karl Lachmannの”Gromatici Veteres”≫の図185(左図)を参照)、法の効力によっての植民市の耕地へのその土地の編入はされなかったからである。そういった土地が特別な取り決めによって植民市の行政権力下に置かれた場合は、そのような領域は fundus concessus [許可された土地]と呼ばれ、そこから除外された土地は fundus exceptus [例外扱いの土地」18) と呼ばれた。
18) p.197参照。
測量の対象から外されたり、そしてまた司法権の特別な適用によってあるゲマインデの下には置かれなかった、植民が行われた領域でのそのような土地についてはどのような法的な状態が新たに作り出されたのであろうか?