ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(55)P.297~300

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第55回です。この部分はまさしく「農業史」の部分です。しかしほとんどカトー、コルンメラ、ウァッローの農業書の内容をまとめているだけに見えます。しかもこの時代、ローマよりカルタゴの方がはるかに農業技術が進んでいて、ポエニ戦争の戦利品としてカルタゴのマゴが書いた農業書全28巻がローマに入り、それがラテン語に訳されてその技術がローマに入ったというのがあり、これは前記の3つの農業書にも書いてあるのですが、ヴェーバーはまったく言及していません。このことからも、この部分の「農業史」は駆け足で最低限のことをまとめただけ、というものだと思います。
しかしここの訳は、はうちわまめ、ルピナス、犂板(りとう)など知らない単語のオンパレードで時間がかかりました。さすがに麦の耕作なんてやった経験ないですから。
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IV. ローマの農業と帝政期における大地主制

経営方法の発展

この章においては主として帝政期における現象を取り扱うこととするので、それより古い時代のローマの農業について振り返ってみることは、概観的なものになる。特に次のことについては取り扱うつもりはない。テッレマーレ≪黒い土の意味で、ポー平原での中後期青銅器文化のこと≫においての発掘物調査と、ヘーン≪Victor Hehn、1813~1890年、エストニア・リトアニアのドイツ語話者在住地出身の文化史学者≫とヘルビヒ≪Wolfgang Helbig、1839~1915年、ドイツの考古学者≫の才知あふれる調査の成果を利用して、最初期の定住から一般的な農業の発達史を論じることである。史書に記録されている時代になると、ローマの農業が示しているのは、それは農業書の著者達[scripstores rei rusticae] が我々に示してくれているように、それが特別に珍しい性質を持っていない、ということである。先に次のことが時折主張されていたとしたら、つまりローマ人がゲルマン人に三圃式耕作≪中世ヨーロッパで、耕地を夏蒔きの穀物用、冬蒔きの穀物用、休耕地の3つに分け、この内休耕地は牧草地として利用し、これらを毎年入れ替えて連作障害を防止する農法≫をもたらしたとしたら、そうすると今述べたことはそれ故に理解不能となる。何故ならば最古のゲルマン人の制度として問題にされるような三圃式耕作は、個人による耕作の方式では全くなく、村ゲマインシャフトによって行われるものであり、(村ゲマインシャフトによる耕作強制と分かち難く結び付いているものだからである。ローマの農業書の著者達がしかし知っていたのはテューネン≪Johann Heinrich von Thünen、1783~1850年、マイツェンに先立つドイツの経済地理学の先駆者≫が「自由耕作」とでも呼ぼうとしたものだけであった 1)。

1) 大カトーの「農業について」は冬営地の軍への飼料の販売の議論において、灌漑された牧草地[prata irrigua]について述べているが、その際に飼料の刈り取りを請け負った者[redemtor → ヴェーバーの引用ミスで正しくは redemptor]は隣接する土地の所有者が許可した場所に限って隣接地に立ち入ることになり、――そして「両者は確定した日付を決めろ」[vel diem certam itrique facito]とされている。ここで扱われているのはゲノッセンシャフト的な共用の灌漑設備と相互利用している牧草地の区画である。ここではある権利を持った者が、いつ刈り取りをするつもりであるかの申し立てについてであるかのように見えるが、その確実な効果について詳細は不明である。この推測が正しいのであれば、次の結論は明らかである。つまり元々は刈り取りの日というものは耕作強制と同じくゲノッセンシャフトによって確認されるものであるが、ここで述べられている手続きは、その本来の手続きの個々の耕作者による代行の手続きだということである。

農業書の著者達は輪作についてはただ時折語っているだけであり、それ故にこの方向に進んで行く習慣が確実に存在していたということを議論の前提にすることは出来ない。彼らは次のような耕地を知っていた。それはそこで毎年(春と冬との2回)穀物の種を蒔き(連作地[ager restibilis])、そしてそのことで毎年施す肥料が最終的に穀物へと転換される土台を作っている、そういう耕地であり、それ以外に彼らが知っていたのは純粋な休耕であった 2)ー;一般的に言って施肥された飼料の栽培 3) ≪積極的に肥料をやるというより家畜がそこで糞尿をすることで自然に肥料となる≫で中断される穀物類の栽培 4) が農場経営の中核を成しており、その穀物栽培とは冬蒔き小麦と夏蒔き小麦(timestris [3ヵ月で]収穫出来る)で個々にかなりの程度まで品種改良されたものであり、それは必要を満足する程十分な家畜の頭数およびそれらの家畜の厩舎の中での飼育 5)、そしてその結果としての(家畜の糞尿を利用した)高頻度の施肥と有機的に結び付いている 6)(ウァッロー≪Marcus Terentius Varro、BC116~BC27年、ローマの政務官・学者、「農業論 Rerum rusticarum」の著者。≫ 第2章)。

2) カトー、農業論、35

3) カトー、農業論、29

4) 鋤いて埋める目的ではルピナス≪荒地でも育つ。根粒菌が窒素固定を行う作用を利用して緑肥として利用される。≫、インゲン豆類≪同じく緑肥として利用。≫、ヤハズエンドウ≪俗称ピーピー豆≫の栽培。カトー 農業論37。干し草の収穫 同じ章の53。

5) カトーの農業書の13:牛類のための冬用、夏用の家畜小屋。――家畜小屋での飼育 農業書4――乾燥地での飼料[pabulum aridum]農業書29以下――飼料:新鮮な葉(ニレの若葉[frons ulmea]、ポプラ、オークとドングリ、ワインの搾りかす(農業書54)、まぐさまたはその代用品としての塩漬けの麦わら、その間にルピナスとクローバー、またはヤハズエンドウとソバ。――刈田飼い≪畑に少し残した穀物で家畜を飼うこと≫はわずかに例外的に行われた。ウァッロー農業書I、52。

6) カトー農業書29以下:ハトと羊の糞。C.I.L.XIII, 2642の碑文はほとんど中国においての糞尿利用の状態を思い出させるが、その中に、羊などの家畜を放牧しているエリア[campus percuriarius]の中への資格の無い者の立ち入りに対しての警告板が含まれている。その警告板に記載されている脅し目的の罰則は、罰金が強制的に徴収される以外に、現行犯だった場合には、その者自身の(その者自身のと更に?)1日分の糞尿が取上げられる、とされていた。

穀物類の耕作方法で、そこへ投入された労働力についての我々の概念からすると集約的と言うことが出来、また常にそうであったということを、ロードベルトゥスが正しく主張している;そこで既に述べられているのは、輪作が普通に行われていたということと 7)、そのことと農機具が非常に未発達であったということは関連しているということであるが:犂板(りとう)は鋤によって耕す際にまだ一度も広く使われるようにはなっておらず 8)、しかしこの当時の鋤はゾムバルトの観察によればカンパーニャ地方において(ヴェーバー当時の)現代でもなお使用されている 9)。穀物類の栽培の農場経営の技術的な側面については、農業書の著述家達が述べているところによれば変化が少なく、このことは利益を増大させるために穀物栽培の比率を減らしていったのと関係している。

7) このことによって必然となる細心の注意が要求される耕作方法のために、奴隷による農作業の不都合な点についての嘆きが述べられている。コルンメラ 農業書I第7章。

8) 種蒔きのための鋤返しの目的で”Tabellis additis ad vomerem simul et satum frumentum in porcis et sulcant fossas, quo pluvia aqua delabatur.”
[鋤の刃に小さな板を加えることによって、種蒔きにおいて蒔かれた穀物の種を土で覆い、そして鋤で引いて畝を作り、そこに雨水が流れ込むようにする。]ウァッロー 農業書I、23。

9) また打穀≪棒などで穀物を叩いて脱穀する方法≫の際には、家畜の力を使った打穀も既に行われており、家畜にローラーを引かせる以外に板に(金属の)歯を付けたものも使われていた。ウァッロー 農業書I、52。穀物は多くの場所で半月状の鎌(利鎌)を使って刈り取られていた;大鎌を使った刈り取りについては言及されていない。ウァッロー I、50によれば刈り取り作業は左手で穀物の茎をつかんだ状態で切断を行っていたが、それは収穫作業として非常に時間のかかるものであった。多くは先に穂の所だけを切断し、藁の部分は後で別に刈り取っていた。

もしそういった記述の際に穀物栽培が農場経営の中核として描写されている場合には、それはただ次のことを意味しているに過ぎない。つまりまた経済状況が不利であった場合でも、また大規模経営(で自給自足的な性格が強かった)の場合は家族(奴隷などを含めて)を養うという観点でそれが不可避であった、ということであり、特に古代において穀物中心の食事が一般であった場合にそうであった、ということである。≪ヴェーバーは「菜食主義」と書いているが、「穀物中心の食事」と解釈した。≫ここでカトーの農業書での農場経営の予算の立て方についての記述を見てみると、そこで見出されるのは、一人の労働者当たりの月ごとの小麦消費量は夏が4 1/2モディウスで冬は4モディウスとされており、そして足枷を付けられた奴隷についてはパンが相対的にそれより多くの量で想定されており、それ以外にはただ2番搾りのワインとそして副食物(pulmentarium)としてオリーブの落果≪自然に落ちたオリーブの実は油が取れる量が少ないため、塩漬けや酢漬けにして苦みを取って食用にした。≫があるだけであり、時々は塩漬けの魚、またオリーブ油と塩が供せられたが、しかしチーズ、モチノキの実、肉類については言及されていない。そこからまとめとして言えることは、コルンメラ 10) の時代には、面積1ユゲラ当たりで、最初の鋤き返し(proscindere、耕起)で2-3人日、2番目の作業である畝立て(iterere)が1-2人日、3番目の作業である再耕起≪土を更に細かくして整地する≫に1人日、種蒔き用の溝作り(lirare)について2.5ユゲラで1人日、以上を合計して耕起関連の作業だけで1ユゲラ当たり通常4人日が見込まれており、それ故に6-7ユゲラの耕地を一人が作業した場合は、その同じ期間に1ユゲラ当たり4-5モディウスの小麦が蒔かれたのであり(コルンメラ、II、9章)、そしてその種蒔きの量のせいぜい3-4倍強の収穫を計算することが出来たのであり、その結果として生じたことは、大体の正確な見積もりをすることは出来ずに、純益となる部分はいずれにせよ地主が労働者を養っていく上で必要としていた仮構のものに過ぎなかったのであり、もしその地主がその所有地の内で半分以下の部分にワイン、オリーブ油、そして他の園芸作物を育てようと欲した場合には、その時には例えばカトーの例では100ユゲラの土地のブドウ畑については、もっとも上手くいった場合で 10a) 16人の常勤の労働者を確保しなければならなかった(カトー 農業書10)。その他に明らかなこととしては、既にカトーにおいて穀物栽培への関心がブドウや特にオリーブの耕作のために背後に追いやられている、ということである。穀物についての記帳が単にある種の単式簿記でただ収入と支出を記入したものであった一方で、ブドウとオリーブの勘定は売り上げ、購入物に対しての支払金、売り上げの状態を示している売掛金が分かるようになっている(カトー 農業書2)。さらにオリーブ油の販売がその時々のオリーブ油の市況に合わせて調整されるべきとされていた一方で、穀物と(その当時はまだ)ワインの販売も定められた規則に従う業務の流れに沿ったものではなく、余剰のものが存在していることを前提として、古くなった在庫品の売却という扱いで、病気であったり年老いた奴隷がその業務を行っていたものだった 11) 。

10) コルンメラ II、4。
10a) コルンメラはまた7ユゲラのブドウ畑に対して一人の固定した、経験豊かな労働者をあてがうことを想定している。1,III、第3章。
11) カトー 農業書2。

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