「経済と社会」再構成問題の状況整理

「経済と社会」へのテンブルックの批判の後に起きたことの私なりの整理。

(1)マリアンネとヴィンケルマンの編集の「二部構成」の「経済と社会」は難解で、部分的には参照されても全体を体系的に論じる人はいなかった。

(2)そこにテンブルックが二部構成はそもそも間違っており、後から書かれた「社会学の根本概念」で全体を解釈するのは間違い、また「経済と社会」は出版社からの頼まれ仕事でヴェーバーの主著でも何でもないと批判。(1976年)

(3)折原浩、シュルフターなどがテンブルック批判を受け、「社会学の根本概念」の代わりに「理解社会学のカテゴリー」に準拠すべきと主張。そしてテンブルックの「主著ではない」批判は受け入れなかった。

(4)これまで「経済と社会」が全体として理解されなかったのは「間違った頭」のせいで、「理解社会学のカテゴリー」という正しい頭に付け替えて読めば体系的に読めるという思い込みが、主として折原浩によって主張された。

(5)しかし本来まったく体系的には書かれていない「経済と社会」を、またそれ自体に問題の多い「理解社会学のカテゴリー」に準拠しても、結局状況として誰も全体の構成を明解に説明することは出来なかった。

(6)シュルフターは途中でそれに気付き、ヴェーバーのカテゴリー論は途中で変化していったとして「理解社会学のカテゴリー」と「社会学の根本概念」の双頭説に転換し、折原との間で論争が行われたが、現状尻切れとんぼ状態で終わっている。

(7)折原浩は「経済と社会」の全体どころか、「宗教社会学」に限定しても再構成は出来ておらず途中で新訳の作業を放棄した。

 

ヴェーバーの著作は体系的か?

再度折原浩先生から引用「ヴェーバーの「宗教社会学」を、基礎カテゴリーから体系的に読めるように」、しかしヴェーバーの論考、文章はそもそもそんなに体系的なものなのでしょうか?

向井守「マックス・ウェーバーの科学論」P.249
「全体として彼の理想型(注:向井は「理念型」ではなく「理想型」)を見ると、限界効用学派経済学、歴史学派経済学、マルクス主義経済学、さらには法学、政治学、宗教学についての巨大な知識を背景にして彼の思想がとめどもなく爆発的に噴火し、体系的には制御しがたく奔流しているような印象を受ける。」

ヴェーバー「ローマ土地制度史」第2章注102より
「(前略)この論文の大部分の記述と同様に、そこにおいては学芸における最も困難なこと、つまり”ars ignorandi”(重要ではない情報を無視し、本質的な部分に集中するという学問・討論上の技法) が何重にも失われてしまっているのである。私は次のことを確かに自覚している。つまり私の記述において明確化という意味で成功していない多くの命題が見出され、それらについては個々の[文献]調査によって再検証されなければならないということである。それについてはただ私が、ここで提示した見解について、それをより大きな因果連関の中で検討する試みをせず、ただそれを何としても記述しなければならないという強迫観念に駆られていたことに、自分で気が付いていなかったと言える。 」

この2つの例を見るだけでも、ヴェーバーの論文というのは頭の中に浮かんで来た様々な雑多な知識をとにかく並び立てなければ気が済まない、といったもので、「体系的」な論文とはおよそ正反対であることが分かります。(こういうと差し障りがあるかもしれませんが、双極性障害の患者の躁状態の時の思考パターンとしては非常に典型的です。)

折原浩先生のやろうとしていたのは、元々まったく体系的でないヴェーバーの「経済と社会」を無理矢理「理解社会学のカテゴリー」の概念で統一的に構成されていると事実に反することを仮定して解釈しようとした、「想像の産物」であることを再度強調させていただきます。

「経済と社会」はもっとも教科書を書いてはいけないタイプの学者が無理に教科書を書こうとした、元々無理ゲーです。(笑)

ヴェーバーの学問は科学か?

カール・ポパーという哲学者がいて、最近日本でもすっかり有名になっているアドラー心理学を科学ではない「疑似科学」と批判しています。その理由は
(1)反証することが不可能→そもそも明確な根拠も不明な諸前提に基づいた論で、科学的なエビデンスを出して反証することが不可能。
(2)なんでももっともらしく説明してしまう。
の2つです。
これってよく考えたら、ヴェーバーの学問にもそのまま言えるのではないでしょうか?プロ倫におけるヴェーバーテーゼはきわめて知名度が高いですが、そもそも本人が証明に失敗しているし、またはっきりと誤っているという証明に成功した人もいません。即ち反証不可能。
また、ヴェーバーの宗教社会学を見れば、色んなことをもっともらしく説明するのばかりだということは誰でも読めば分かります。
これって、誰でも気付きそうな内容なのにこれまで主張している人を見たことがありません。もしかするとこのことを明らかにするとヴェーバー教団から刺客が送られて暗殺される?(笑)
ちなみに前の投稿で、ヴェーバーの理念型のファイヒンガーの「かのようにの哲学」の影響を論じましたが、アドラーもまたファイヒンガーの「かのように」を心理学に応用した人です。
(余談ですが、私はブームになるはるか前からアドラー心理学は知っています。昔Nifty Serveの外国語フォーラムで野田俊作さんという日本におけるアドラー心理学のエヴァンジェリスト的な人と知り合いだったからです。岸見一郎氏はちなみにそのフォーラムのシスオペ{会議室管理者}でした。岸見氏のアドラー心理学は元々野田氏から教わったもの。)

マックス・ヴェーバーと森鴎外(2)

ヴェーバーの理念型がファイヒンガーの「かのようにの哲学」の影響によるものだという仮説について、同じことを言っている人を発見しました。
https://www.haujournal.org/index.php/hau/article/view/1675
Reality remodeled
Practical fictions for a more-than-empirical world
Lars Rodseth
Abstract
Most ethnographers have little use for models and other formal abstractions, yet even a staunch empiricist such as Franz Boas could appreciate the “aesthetic” advantages of idealization and simplification. These advantages have been largely ignored in recent decades, as anthropologists have come to favor ever more intricate and encompassing accounts. The resulting “ethnographic involution,” I suggest, has steadily diminished anthropology as a source of usable, socially shared knowledge. Much the same problem, interestingly, was confronted long ago by Max Weber, who developed the method of “ideal types” precisely as a way to grasp, represent, and investigate the complexity of historical reality. Weber converged in this regard with his contemporary at Halle, the neo-Kantian philosopher Hans Vaihinger (1852–1933). Since the late twentieth century, Vaihinger’s “fictionalism” has attracted renewed interest within philosophy and beyond. Yet his notion of “as-if” reasoning—a via media, I would argue, between particularism and positivism—remains virtually unknown within anthropology.

森鴎外は「かのように」の中で、当時の欧州で、ヴェーバーのような社会科学系だけでなく、プロテスタント神学(鴎外は社会を安定させるものとしてプロテスタント神学を「かのように」の中で高く評価しています、要するに神学では神をあたかもも存在しているかのように扱う訳です)、それどころか自然科学(例えば当時の物理学でのエーテルとか、電子、陽子などはその存在が確認されていたのではなく、モデルとして考案されたもの)にも共通する考え方であることをファイヒンガーの本を読んで理解しています。ちなみにファイヒンガーのこの本は900ページ近くありますが、鴎外は「かのように」での記述が本人の実体験に基づくものとすると、この2/3を何と一晩で読んでいます。恐るべきドイツ語読解力です。

前の投稿で書いたようにヴェーバーと鴎外はほぼ同世代ですが、この二人色んな意味でそっくりです。
(1)異常なレベルの広範囲な読解力
(2)攻撃的な論争が大好き
(3)高度な語学力
(4)そういった学問の間に女性と…(笑)(ヴェーバ-の場合のエルゼ・ヤッフェとミナ・トープラ-、鴎外の場合のエリスや児玉せき他)
鴎外はおそらくドイツに滞在した時に、ヴェーバーを読んだかどうかは不明ですが、社会科学系もそれなりに読んだのではないかと思います。それを鴎外が帰国後語っていないのは軍医という立場と大逆事件以降の思想取り締まりの影響との両方がありそうです。

「経済と社会」における「理解社会学のカテゴリー」破綻例

「理解社会学のカテゴリー」のタームが、「経済と社会」の中で決して効果的にも説得的にも、意味整合的にも使われていないという例を見つけました。
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「支配の社会学」世良訳:P. 115 「四 官僚制的装置の永続的性格」

ひとたび完全に実現されると、官僚制は最もうちこわしがたいい社会組織の一つになる。官僚制化は、「ゲマインシャフト行為」を合理的に組織された「ゲゼルシャフト行為」に転移させるための、特殊的手段そのものである。したがって、官僚制化は、官僚制的装置を統轄する者にとって、支配諸関係の「ゲゼルシャフト化」の手段として、過去においても現在においても、第一級の権力手段なのである。
(元訳の「共同社会行為」などは「ゲマインシャフト行為」等に変更。)====================================
ここで言っているのは「ゲマインシャフト」を「ゲゼルシャフト」に転移させること(「ゲゼルシャフト化」)において官僚制化が有効と言っているのであって、ゲマインシャフト、ゲゼルシャフトにそれぞれ「行為」を付けるのは、それをヴェーバーが「理解社会学のカテゴリー」で定義していることを考えても、およそ無意味で誤解を招くだけです。成員の行為に変化が生じるのは、その共同体の性格が変わった結果であり、原因でも先行するものでもありません。

折原先生の説明だと、ヴェーバーは社会関係を所与のものとせず、個々の成員の行為から動的に構成されると論じているのですが、それが通じるのはゲマインシャフトの最初の形成の段階だけであり、ここのようにゲマインシャフトがゲゼルシャフトへと合理化する過程においては既に行為はその動因としては無意味になっています。従ってヴェーバーのカテゴリー論自体が破綻していると考えます。要するにカテゴリー論文が持っている元々の欠陥がここに現れているのであり、「頭」としては機能出来ていない例です。

マックス・ヴェーバーと森鴎外

以前、ヴェーバーにおいて重要な方法論である決疑論を説明するのに、森鴎外の小説「カズイスチカ」を紹介したことがあります。
ちょっと思い立ってまだ読んでいなかった鴎外の「かのように」を青空文庫で読んで見たのですが、その中に出てくる”Die Philosophie des Als Ob”(「かのようにの哲学」)という書籍があります。これは鴎外の創作かと思ったら、ファイヒンガーという哲学者が実際に書いた本でした。実は森鴎外は1862年生まれで、1864年生まれのヴェーバーとほぼ同時代人であり、鴎外がドイツ留学してベルリンにいた時にはヴェーバーは主としてハイデルベルクにいました。
それでふと思ったのですが、ヴェーバーはこのファイヒンガーの「かのように」の影響をかなり受けているのではないかと。(ファイヒンガーは新カント学派です。ヴェーバーの方法論が新カント学派の影響を強く受けているのは周知の事実です。)本が出たのは1911年ですが、そのかなり前から哲学雑誌に連載され話題になっていたもので、ヴェーバーが読んでいる可能性は高いと思います。ヴェーバーにおいての「かのように」の影響は、まずは理念型がまさにこの「かのように」であり、実際には存在しないものをあたかも存在するように扱うものです。また「理解社会学のカテゴリー」における「諒解」概念も、ある人間集団の人が制定律には拠らないが、それがあたかも「あるかのように」扱うということです。
それで鴎外の方も、「かのように」を書いたのはおそらくは自分の歴史小説の方法論としてであり、歴史そのままを書くのではなく、まさしく理念型的に歴史を構築したのが鴎外の歴史小説と言えると思います。
まあ思い付きですが、日本の研究者でヴェーバー-鴎外-ファイヒンガーという連関を論じている人は私が知る限りではいないので、ちょっと紹介させていただきました。

折原浩先生訳の問題点(5)

Vornehmlich diese praktischen Aufgaben von Predigt und Seelsorge sind es auch, welche die Systematisierung der kasuistischen Arbeit der Priesterschaft an den ethischen Geboten und Glaubenswahrheiten in Gang erhalten und sie überhaupt erst zur Stellungnahme zu den zahllosen konkreten Problemen zwingen, welche in der Offenbarung selbst nicht entschieden sind.

折原訳
主としてこの、説教と司牧という実践的課題が、倫理的な命令や信仰上の真理にかかわる祭司層の働きを、決疑論的な体系化の方向に釘付けにした。というよりもむしろ、そうした課題が、およそ祭司層を、啓示そのものにおいては未決定の無数の具体的問題に取り組み、自ら初めて態度決定をくださざるをえないように、仕向けたのである。

丸山訳
主として、伝道や司牧にかかわるこうした実践的な課題こそが、祭司達の決疑論的な実務を、倫理的戒律や信仰上の真理に沿った形で体系化させ続ける原動力となり、そして同時に、啓示そのものでは決定されていない無数の具体的問題について、祭司たちの態度を明確にすることをも迫るのである 。

この部分は折原訳で「釘付けにする」に引っ掛かって原文を確認したもの。
in Gang erhalten は「動いてる状態=Gangを保持する」、つまり推進力・原動力となる、という意味です。何も難しいことはありません。「釘付けにする」というと固定するような意味になり、また否定的なニュアンスになってしまい明らかな誤訳です。

折原先生はこの「私家版」について創文社への手紙で、「しかし、今回は、上記のような事情を踏まえ、前訳の大いなる長所と無理からぬ欠陥を明示明記したうえ、後者[注:解説と訳注]は補填し、読者がこんどこそ、ヴェーバーの「宗教社会学」を、基礎カテゴリーから体系的に読めるように、半生の研究成果を注いで全力を尽くしたいと思います。こんどは、正式の全訳・解説者と名乗り出て、形式上も全責任を負います。この点、御社にも、武藤氏他の初訳者各位にも、ご了承いただけるものと確信いたします。」
と書いていますが、「半生の研究成果を注いで全力を尽くした」結果の日本語訳であるとはまったく評価出来ません。途中で投げ出されたレベルの低い日本語訳です。申し訳ありませんが、折原先生は典型的な「人には厳しく自分には甘い」人であり(マタイ7:3、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」)、また「眼高手低」(言っていることは正しいがいざ自分がやるとまるで出来ない)の人でもあります。ここまで折原訳をチェックして来てそう結論付けざるを得ません。

折原浩先生訳の問題点(4)

今回の箇所の折原訳は本当にひどいです。中途半端に創文社の訳の注を参照して勝手に解釈して奇妙な訳語を多用しています。
ムフティーについての創文社の注で「ユダヤ教のラビに相当」とあるのをいいことにそのまま「律法学者」と訳しています。言うまでもなくイスラム教に律法学者などという人はいません。
ダルヴィーシュ=シャイフも「托鉢修道団長」などというおよそ意味不明の訳を使っています。普通にスーフィー派という用語を使った方がはるかに分かりやすいと思いますし、シャイフは修道団長ではありません。木村・相良の独和辞典にDerwishが「(回教)の托鉢僧」とあるのに引き摺られたんでしょうが。
それにこういう専門用語が多数使われている箇所で訳注まったく無しというのは信じられません。創文社の訳は現在でも講談社からオンデマンド出版で販売されていますが、確か6,000円くらいした筈です。新訳なのに旧訳の訳注を参照しろなどというのは新訳の意味がゼロです。

Die Ratschläge der Rabbinen im Judentum, der katholischen Beichtväter, pietistischen Seelenhirten und gegenreformatorischen Seelendirektoren im Christentum, der brahmanischen Purohitas an den Höfen, der Gurus und Gosains im Hinduismus, der Muftis und Derwisch-Scheikhs im Islam(以下略)

折原訳
ユダヤ教におけるラビ、キリスト教では、カトリックの聴罪師、敬虔派の牧者、対抗改革派の霊的指導者、さらには、バラモン教の宮廷付き教父、ヒンドゥー教のグルとゴーサーイン、イスラムの律法学者や托鉢修道団長

丸山訳と訳者注
ユダヤ教におけるラビ(N1)、キリスト教では、カトリックの聴罪司祭(N2)、敬虔派(N3)の傾向を持つ牧師、カトリック改革派(N4)の霊的指導者、さらには、バラモン教の宮廷祭司(N5)、ヒンドゥー教のグルとゴーサイン(N6)、イスラム教におけるムフティー(N7)やダルヴィーシュ=シャイフ(N8)

N1<丸山>ユダヤ教の宗教的指導者・聖職者。トーラーを教えることを職業とする。元々パリサイ人の中から発生し、タルムードの時代に発生した。</丸山>
N2<丸山>カトリックにおいて司教より聴罪を許可された司祭のこと。信徒の死に際しての告解の秘蹟に際してその告白を聴き取って教え導く。</丸山>
N3<丸山>ドイツのプロテスタントにおいて、17世紀中頃から末にかけてシュペーナーが起こした形式的な宗教実践よりも信者の敬虔さを重んじる宗派。</丸山>
N4<丸山>イエズス会など。</丸山>
N5<丸山>Purohita、元々は宮廷の大祭司であるが、時代が下ると家庭にて結婚式や葬儀を司る家庭祭司という意味が強くなる。</丸山>
N6<丸山>ヒンドゥー教の中で苦行を行う行者(サドゥー)の集団のこと。グルが正規の宗教的指導者であるのに対し、非正規の聖者。</丸山>
N7<丸山>イスラム教で宗教法的な判断を下す専門家、法的顧問。</丸山>
N8 <丸山>ダルヴィーシュはスーフィー(イスラム神秘主義)の修道僧のことで、シャイフはその中で一般のスーフィー達を教え導くことを許された年長者のこと。</丸山>

折原浩先生訳の問題点(3)

今回は誤訳というより語彙の選定の問題です。

Sie kann aber auch individuelle Belehrung über konkrete religiöse Pflichten in Zweifelsfällen sein, oder endlich, in gewissem Sinn, zwischen beiden stehen, Spendung von individuellem religiösem Trost in innerer oder äußerer Not.

折原訳
とはいえ、それは、具体的な宗教的義務について疑いが生じた場合に、当の義務にかかわる個別的な教化でもありうる。さらには、これらふたつの場合の、ある意味における中間項、すなわち、内的ないし外的な窮境における個別的な慰藉の分与でもありうる。

丸山訳
しかしそれはまた、具体的な宗教的義務について判断に迷う場合には、当の義務に関する個別的な助言でもあり得るし、さらに状況によっては、これら二つのある意味中間的なもの、即ち内的または外的な苦境に陥っている個人に対して宗教的な慰めを施すことでもありうる 。

「内的ないし外的な窮境における個別的な慰藉の分与」って原文をより難しくて読む人に余分な努力を強いるような訳だとは思いませんか?何故もっとこなれた日本語が書けないのか理解に苦しみます。これぞ悪い意味での翻訳調でしょう。

大学文系学部不要論の実証?

試しに「大学文系学部 不要」でググってみたら、トップで表示されたのが次のページ。
https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/C_00186.html

何と東京大学のHPで、「東京大学教員の著作を著者自らが語る広場」だそうです。
そこにあったのは吉見俊哉という人の「「文系学部廃止」の衝撃」という集英社新書の内容を著者自身が語っているものです。で、そこに書いたあった内容に笑ってしまいました:
「こうした視座を、本書は文系的な知の歴史をたどりながら明らかにしている。中世の大学における「神学」「法学」「医学」に対し、リベラルアーツが持っていた根底的な役割。近代の出版と結びついた哲学や人文学の発展。19世紀以降の産業革命と理工系的な知の拡大のなかで、初めて自然科学と人文社会科学がはっきりと分離し、後者の存在価値が問われるようになっていったこと。そして20世紀初頭、マックス・ウェーバーをはじめ新カント派の人々によって、人文社会科学は「価値」の学であるという結論に達していったことを再確認した。」

ここをご覧になっている方には改めて説明は不要でしょうが
(1) ヴェーバーは新カント派の影響を強く受けているけど、新カント派そのものとまでは言えないし、筆頭に来るような代表者でもない。
(2) 言うまでもなくヴェーバーは「価値判断」と学問を切り離す価値自由を提唱したのであり、人文社会科学が「価値」の学だとはまるで言っていない。

奇しくもGoogleがこのページをトップに出して来たのは「御意。仰る通り、大学の文系学部はもう不要です。その証拠ページを出します。」という高度なSEO(検索エンジン最適化)?をやった結果としか思えません。(笑)
ちなみにこのページの日付は2018年になっており、7年間放置状態です。もはや大学の自己修正機能が停止しているとしか言いようがありません。