「ローマ土地制度史」の日本語訳(22)P.164~167

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第22回目です。ここの注の 51)は、マリアンネが言うヴェーバーの「注釈の病」、また全集の注によるとこここそヴェーバーがマイツェンの方法論を無自覚にローマ史に適用した箇所のようです。(ヴェーバーは後に「古代農業事情」にてこういうやり方はやり過ぎだったと告白しています。)私から見て明らかに脱線した議論であり、また近代の事例を強引にローマでの事例の説明に利用しているように見えます。しかし驚くべきことに「後でこの類推については再度論じる」としております。大体ここの Reebning や Stufland などと言った用語は、Google検索でも全く出て来ませんし、ChatGPT4には間違った情報を与えられ、結局ネット上でなんとかハンセンの書を見つけてようやく内容を理解しました。ヴェーバーがこのシュレースヴィヒの例に拘っているのは、邪推すると「愛国青年」ヴェーバーが自身の誕生の3ヵ月前の戦争(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、プロイセン対デンマーク)によって新たにドイツ領になった土地に特別な関心を持っているのではないか、と疑いたくなります。

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この面積の割当てということが、この測量地図を作成して割当てを行う手続きの本来の目的である。しかしながら測量人達の時代においては、この手続きはその実施の際に様々な方向への本質的な改変を受けるようになっていた。まずはフロンティヌスが controversia de modo について次のように注記している(p. 45. 11ff):
Quom autem in adsignato agro secundum formam modus spectetur, solet tempus inspici et agri cultura. Si iam excessit memoria abalienationis, solet iuris formula (non silenter) intervenire et inhibere mensores, ne tales controversias concipiant, neque quietem tam longae possessionis inrepere sinit. Si et memoria sit recens, et iam modus secundum centuriam conveniat et loci natura indicetur et cultura, nihil impediet secundum formas aestimatum petere: lex enim modum petiti definite prescribit, cum ante quam mensura agri agatur modus ex forma pronuntiatus cum loco conveniat. Hoc in agris adsignatis evenit. Nam si aliqua lege venditionis exceptus sit modus, neque adhuc in mensuram redactus, non ideo fide carere debebit, si nostra demonstratio eius in agro non ante finiri potuerit quam de sententia locus sit designatus.

[しかし(再)割当てにおいて、いつ測量地図の土地について面積が見直されるかは、多くは検査の時と耕作(開始)の時期であった。所有権の移転がいつ行われたのか既に分からなくなっている場合は、測量人達は(無効になっていない)権利証を介在させ使うことで、そのような議論が行われるのを防止し、長期間の所有の平穏さが乱されるのを許さないようにする。もし所有権移転の日時が最近のもので、既にその土地がケントゥリアの形で割当てられ、また具体的な地所の場所が指定され、耕作も行われている場合は、測量地図[forma]に則ってその土地の再評価を要求することを妨げるものはなかった。法は実際に間違いなく、面積の再評価(要求の権利)を規定しており、以前どのようにその土地の測量が行われ、その土地の公表された測量地図による面積が決められたか再調査を要求出来た。このことは土地の割当ての際に実際に行われていた。もし何らかの土地の売買に関する法律に則り、その土地の売買契約にて面積が除外されており、さらにまたその土地の測量が行われていない場合、その土地の割当てに関する判断が完了する前に我々測量人がその土地の面積の証明を出来なくとも、そのことによって我々の信用が失われるべきではない。]

つまりここにおいては、いつ成立したか分からない所有状態と新しい割当ての実施が対立するものとなっている。フロンティヌスの叙述から分かる結果としては、測量地図に基づく請求権はもはや使えず、そのために本来の土地の面積に関わる訴えは進めることが出来ないということである 49)。しかしながらまた、いつ成立したか不明の所有状態が存在していない場合でも、公的な測量地図と正式な証拠による土地割当ての要求は、その請願人に帰属すべき面積について次のような考え方が適用されるまでには至ってはいなかった。それはある特定の土地区画が通常の Usukapion ≪長期にその土地を使用していたことの結果としての時効的なその土地の取得≫によってとまたローマ人の間での一般原則によって、さらにまた善意≪法律用語で、ある事情について知らなかったこと≫による獲得と引き渡し[emtio= emptio とtraditio]を理由とするその土地の利用の事実によって、その土地がその当事者の所有物としてそのまま認められる、という考え方までは適用されていなかった。ここにおいては、ある特定の土地の権利と例外としての面積についての要求は対立しており、そういう権利状態は、書類上の所有権と実質の所有権の間の、同様の状況として常に繰り返される[対立]関係を思い起こさせるのであるが、それについては後で更に広範に論じる。ここから既に生じていることは、古い耕地区画においての面積に関する訴えは稀であったということと、また早期の土地割当ての分については、そこでは非常に数多くの所有権移転が起こりまた土地区画の新規設定が行われたのであるが、それについて面積の訴えを起すことは多くの場合もはや実際的なことではなかった 50)。それについても測量人達がやはりそう述べている 51)。

50) ヒュギヌスが controversia de modo について述べている箇所(P. 131、16)を参照:
hoc comperi in Samnio, uti quos agros veteranis divus Vespasianus adsignaverat, eos jam ab ipsis quibus adsignati erant aliter possideri, quidam enim emerunt aliqua loca adjeceruntque suis finibus et ipsum, vel via finiente vel flumine vel aliquolibet genere: sed nec vendentes ex acceptis suis aut ementes adicientesque ad accepta sua certum modum t axaverunt, sed ut quisque modus aliqua, ut dixi, aut via aut flumine aut aliquo genere finiri potuit, ita vendiderunt emeruntque. Ergo ad aes quomodo perveniri potest … ?
[サマニウムについて私は以下のことを発見した、つまり神聖なるウェスパシアヌス帝≪在69~79年、皇帝ネロ死後に内戦状態になり3人の軍人出身皇帝が短期間に乱立した後を収拾し、初めてアウグストゥスの血統以外の者で皇帝になった。ローマの皇帝は多くが死後神格化した。≫がここにおいてどのように土地をヴェテラン兵達に割当てたかを。そういった土地は割当てられた人達自身によって様々に異なった形で所有されていた。ある者は他の場所の土地を購入し自分に割当てられた土地にそれらを追加した。別の者の土地は[ケントゥリアの本来の境界線を越えて]道路が境界線になっていたり、あるいは河川やまた他の種類のものが境界線となっていた:しかし彼らが割当てによって得た土地の一部を売ろうとしたり、または新たに買った土地を割当てられた土地に追加しようとする場合、彼らは[元々の割当てられた土地の]正確な面積の情報を持っていなかった。しかしながらともかくもそれぞれの土地の面積を何とか算定し、また前述したように道路や河川や他の何かが境界になっている場合の土地の境界線を確定し、売買出来ている。しかしながら一体どうやって金銭的価値を査定することが出来たのであろうか…?]

51) controversia de mode と de loco の間の全体の関係は、全ての土地制度史家に次の事項を思い起こさせるに違いない。デンマークの≪ヴェーバーがこれを書いている時はドイツ帝国領≫シュレースヴィヒ=ホルシュタイン地方において行われたReebning≪デンマーク語でReebはRebの古形でロープの意。ロープを用いた測量・囲い込みが原義でヴェ-バーがここで言及しているのは測量を定期的にやり直して耕地を再分配する耕地整理のこと。ここはドイツ領になる前から多くのドイツ零細農民が入植していた。≫においてのいわゆる Stufland≪ハンセンの書によれば、ドイツでのいわゆるフーフェの割当て地を分割時の面積の観点でJard、Drömel、Acker、Bredeの4種に分類したもので、その結果長方形に分割された土地が帯状(=階段状)に並んでいたのを言う。Stufは段階・等級のこと: Georg Hanssen, Agrarhistorische Abhandlungen, P.216: Uüberträgt man diese vier Abstufungen auf die Hufen verfassung selber so würden , wenn der Acker die ursprüngliche Quote der Vollhufe in jeder Gewanne war, korrespondiren Halbhufen mit Jard, Vollhufen mit Acker, Dreiviertelhufen mit Drömel Anderthalbhufen mit Brede .≫である。この Reebning の処理は知られている所では(ハンセン≪Georg Hanssen、1809~1894年、ドイツの土地制度史家・国民経済学者≫のAgrarhistorische Abhandlungen の第1巻のP. 54以下)、次のような状況で行われている。それはフーフェの制度に従って、つまり地主が耕地の中に点在する形で配置された耕地全体への新規の土地獲得さらに個々の地主の新規獲得というそれぞれが、というのはその処置によって土地所有の状態に混乱が生じており、土地を割当てられている地主達は、それらの個々人に新規に割当てられた土地、あるいは全体で得られた新規の土地については、もはや従来のフーフェの制度で割当てられた面積での所有に留まるのではなく、新たに測量し直し、必要な限りにおいてフーフェ法(ユッチュ[ユトランド]法、I. 49, 55;シェラン島[ゼーラント]法、II. 54)に基づいて、新たに分配されるべきと主張してからである。本来(のフーフェ制度での土地譲渡)は疑い無くただ一定の区画面積での譲渡(1/2、1/3、1/8 フーフェ≪ここでのフーフェは面積の単位≫など)のみが許されており、それもただ遺産分割の際においてのみであった。後に――それもかなり早い時代に――また(面積だけでなく)具体的な土地区画を切離して譲渡することが許されるようになった。そしてReebningの手続きが行われるようになった時代になると、次のような結果となった。つまりそのような titulo singulari ≪原義は単一のタイトルでの、遺産相続以外の方法で獲得した、の意味≫として獲得した土地、つまり Stufland であるが、Reebningの手続きに関係せずそのままに置かれていた限りにおいて、それらの土地は再分割対象の土地には入れられなかったに違いなく、そうではなくその所有者に対して所有についての何らかの証明が存在することを前提として、元の土地の境界がそのまま保たれた。(更にハンセンの前掲書のP. 56に引用されている、1770年1月26日のシュレースヴィヒにおける囲い込みによる土地の整理、を参照。≪このシュレースヴィヒにおける耕地整理については、https://core.ac.uk/download/pdf/144438104.pdf 田山輝明 著、「十九世紀北部ドイツにおける耕地整理法の生成」を参照。≫)それはまさに titulo singulari 一般によって獲得された土地に対しての処置と同じであったが、――後で述べることになる本来的な権利状態についてここで付け加えて言っておくべきことは:それは controversia de modo の結果として新たに分割し直された時効取得された耕地と同じことであるということである。この類推については後で更に述べることになる。――次のことは明白である、つまり土地区画の分割譲渡がしばしば行われていた耕地においては、Reebningの手続きはすぐに非現実的なものになったに違いない、ということである。

その他にしかしながら、我々が知っている裁判手続きに従って、裁判での争いが最後まで終らなかった場合には、controversia de modo の訴訟についての調査は、史書に登場する時代においては、所有状態を実際の土地について変更するということにはならず、どちらかへの金銭支払い命令といういことになったのであり、土地の面積に対しての要求は、先に引用したフロンティヌスの箇所が示している通り、aestimatum petere ex forma [測量地図に基づく査定請求]へと変化したのであり、その当時はそれ故確かに通常の所有権移転請求[vindikation]の特別な場合だったのであり、ただ特別な訴訟を起す動機だったのである。実際の土地の再測量は次の場合にのみ行われた。それは訴訟の当事者達が測量地図修正の判決に従った、その再測量は測量人達の協力によって実現したのであるが、そういう場合である。そしてそのことにより、controversia de modo は確かに効果の点においては根本的な所ではそれとはっきり区別されている controversia de loco に近付いていったのである。

controversia de loco との関連

この de loco については、通常の場合、ある特定の土地区画についての所有名義が保護されるのであって、その返還を目的とした合法的な、または actio publiciana ≪プブリキアーナ訴権、法務官プブリクスによって新たに認められるようになった、正式な所有権を証明出来ない場合でも、一定の時間の占有などでの事実上の所有者を保護する法的手段≫に基づく所有権移転請求である 52)。

52) フロンティヌス、P. 44, 8, そこでは controversia de loco の提起が、Interdictum Uti possidentis ≪執政官(praetor)が正式な所有権を証明する証拠書類を持っていない事実上の所有者の権利を保護するために発する命令のこと≫と vindicatio ex jure Quiritium ≪ローマ市民としての正規の所有権に基づく土地の返還請求≫と同一視されている。更にヒュギヌスの P. 129, 12: De loco si agitur. Quae res hanc habet quaestionem, ut nec ad formam nec ad ullam scripturae (= Munizipationsurkunde) revertatur exemplum. Sed tantum hunc locum hinc dico esse, et alter ex contrario similiter.
[もし土地の場所について訴えが起された場合。その土地の現状についての調査に基づき、例え測量地図への記載も無く、また何らかの購買の証拠がな無い場合でも、該当の土地が返還されるべきだと主張する、但しこの場所についてそのように主張したとしても、相手側も同様に反対のことを主張する。]

測量人はこの形式の訴訟においては従属的な役割しか果たしていなかった。それについては測量人達自身がそう述べている 53)。ある耕地の一断片の測量をやり直すなどということはここではもちろん全く考慮されておらず、ここで問題となっているのはただ、ある具体的な面積の地所が、法的に認められた所有の根拠に基づいた土地となるかどうかということであった 54)。つまり controversia de loco という訴訟形式の適用可能性と実務的な意義は、時が経つにつれて(成功の確率が低い)controversia de modo のそれを犠牲にすることにより、地所を獲得することが出来るかどうかであった。

53) ヒュギヌス、引用済みの箇所、P. 130, 1:Constabit tamen rem magis esse juris quam nostri operis, quoniam saepe usucapiuntur loca, quae in biennio possessa fuerunt.
[それにも関わらず、このこと(controversia de lolo)については我々測量人の仕事と言うより法の問題であるということをより認めるようになるだろう。何故ならば次のような場所はしばしば正当に獲得したとされる、つまり2年以上使用されていた場合である。]

54) ヒュギヌス、引用済みの箇所、Agg. Urb. P. 13, 9 参照。

ある耕地の中のある区画の譲渡が行われ、その際に売却された土地区画の面積が全く定められていないかあるいは少なくとも測量人による実測に基づいておらず、そうではなくてただ何かの適当な査定としてのみ購買客がそれを了承していた場合、後になってその土地の(正しい)面積を測量地図に記載するということは非常に困難であったか、または全く記載されないということがあり得たのであり、ただその場合での何らかのトラブルの調停は ただ controversia de loco の原則に基づいてのみ可能であった。

55) ヒュギヌス、引用済みの箇所、P. 131 参照。

controversia de modo は以上見て来たような権利状態においては、既に述べたように、ある特別な状況においてのみ適用可能な返還請求及び境界線再設定の訴えについての訴訟種別であるように見える 56)。

56) この境界線再設定の訴えについてはパーピニアーヌス≪142~212年、ローマの有名は法学者。≫が先に引用した箇所 D. 7 finium regundarum にて規定しているように思える。controversia de modo が単なる境界線再設定の訴えと少し異なっているということは、既に言及したし、また後に再度論じられる。

ウーラントの「聖なる春」

ご参考までに、Web上にあったウーラントの「聖なる春」の詩のドイツ語原文と、それをChatGPT4に日本語訳してもらったもの(若干手直ししています)をご紹介します。先の日本語訳の注では「凶作の時」としましたが、実際には戦争などで共同体全体が危機にある時に行われたようです。なお、私が最初にこの語に出会ったのはヴェーバーの「経済と社会」の中の種族ゲマインシャフトの所です。折原ゼミでたまたま私が訳読を担当したので良く覚えています。

https://nam-students.blogspot.com/2013/03/blog-post_3538.html
種族的共同社会関係 中村貞二訳

 疑う余地のないことなのだが、なにかの理由で無事平穏に母なる共同社会を分離ないし移住して、よその土地に共同社会を起したという思い出(「海外移民(コロニー)」「聖なる春(フェール・サクルム)」)、その他類似のことが生き続けているところには、一つのきわめて特殊な「種族的」共同感情がしばしば非常に強力に存在している。

Johann Ludwig Uhland “Ver sacrum” 1880

Als die Latiner aus Lavinium
Nicht mehr dem Sturm der Feinde hielten stand,
Da hoben sie zu ihrem Heiligtum,
Dem Speer des Mavors, flehend Blick und Hand.
Da sprach der Priester, der die Lanze trug:
»Euch künd ich statt des Gottes, der euch grollt:
Nicht wird er senden günst’gen Vogelflug,
Wenn ihr ihm nicht den Weihefrühling zollt.«
»Ihm sei der Frühling heilig!« rief das Heer,
»Und was der Frühling bringt, sei ihm gebracht!«
Da rauschten Fittige, da klang der Speer,Johann Ludwig Uhland
Da ward geworfen der Etrusker Macht.
Und jene zogenchzten, ward die Gegend grün,
Feldblumen sproßten unter jedem Huf,
Wo Speere streiften, sah man Bäum erblühn.
Doch vor der Heimat Toren am Altar,
Da harrten schon zum festlichen Empfang
Die Frauen und der Jungfraun helle Schar,
Bekränzt mit Blüte, welche heut entsprang.
Als nun verrauscht der freudige Willkomm,
Da trat der Priester auf den Hügel, stieß
Ins Gras den heil’gen Schaft, verneigte fromm
Sein Haupt und sprach vor allem Volke dies:
»Heil dir, der Sieg uns gab in Todesgraus!
Was wir gelobten, das erfüllen wir.
Die Arme breit ich auf dies Land hinaus
Und weihe diesen vollen Frühling dir!
Was jene Trift, die herdenreiche, trug,
Das Lamm, das Zicklein flamme deinem Herd!
Das junge Rind erwachse nicht dem Pflug
Und für den Zügel nicht das mut’ge Pferd!
Und was in jenen Blütegärten reift,
Was aus der Saat, der grünenden, gedeiht,
Es werde nicht von Menschenhand gestreift:
Dir sei es alles, alles dir geweiht!«
Schon lag die Menge schweigend auf den Knien,
Der gottgeweihte Frühling schwieg umher,
So leuchtend, wie kein Frühling je erschien,
Ein heil’ger Schauer waltet’ ahnungschwer.
Und weiter sprach der Priester: »Schon gefreit
Wähnt ihr die Häupter, das Gelübd vollbracht?
Vergaßt ihr ganz der Satzung alter Zeit?
Habt ihr, was ihr gelobt, nicht vorbedacht?
Der Blüten Duft, die Saat im heitern Licht,
Die Trift, von neugeborner Zucht belebt,
Sind sie ein Frühling, wenn die Jugend nicht,
Die menschliche, durch sie den Reigen webt?
Mehr als die Lämmer sind dem Gotte wert
Die Jungfraun in der Jugend erstem Kranz;
Mehr als der Füllen auch hat er begehrt
Der Jünglinge im ersten Waffenglanz.
O nicht umsonst, ihr Söhne, waret ihr
Im Kampfe so von Gotteskraft durchglüht!
O nicht umsonst, ihr Töchter, fanden wir,
Rückkehrend, euch so wundervoll erblüht!
Ein Volk hast du vom Fall erlöst, o Mars!
Von Schmach der Knechtschaft hieltest du es rein
Und willst dafür die Jugend eines Jahrs;
Nimm sie! sie ist dir heilig, sie ist dein.«
Und wieder warf das Volk sich auf den Grund,
Nur die Geweihten standen noch umher,
Von Schönheit leuchtend, wenn auch bleich der Mund,
Und heil’ger Schauer lag auf allen schwer.
Noch lag die Menge schweigend wie das Grab,
Dem Gotte zitternd, den sie erst beschwor,
Da fuhr aus blauer Luft ein Strahl herab
Und traf den Speer und flammt’ auf ihm empor.
Der Priester hob dahin sein Angesicht,
Ihm wallte glänzend Bart und Silberhaar;
Das Auge strahlend von dem Himmelslicht,
Verkündet’ er, was ihm eröffnet war:
»Nicht läßt der Gott von seinem heil’gen Raub,
Doch will er nicht den Tod, er will die Kraft;
Nicht will er einen Frühling welk und taub,
Nein, einen Frühling, welcher treibt im Saft.
Aus der Latiner alten Mauern soll
Dem Kriegsgott eine neue Pflanzung gehn;
Aus diesem Lenz, innkräft’ger Keime voll,
Wird eine große Zukunft ihm erstehn.
Drum wähle jeder Jüngling sich die Braut,
Mit Blumen sind die Locken schon bekränzt,
Die Jungfrau folge dem, dem sie vertraut;
So zieht dahin, wo euer Stern erglänzt!
Die Körner, deren Halme jetzt noch grün,
Sie nehmet mit zur Aussaat in der Fern,
Und von den Bäumen, welche jetzt noch blühn,
Bewahret euch den Schößling und den Kern!
Der junge Stier pflüg euer Neubruchland,
Auf eure Weiden führt das muntre Lamm,
Das rasche Füllen spring an eurer Hand,
Für künft’ge Schlachten ein gesunder Stamm!
Denn Schlacht und Sturm ist euch vorausgezeigt,
Das ist ja dieses starken Gottes Recht,
Der selbst in eure Mitte niedersteigt,
Zu zeugen eurer Könige Geschlecht.
In eurem Tempel haften wird sein Speer,
Da schlagen ihn die Feldherrn schütternd an,
Wann sie ausfahren über Land und Meer
Und um den Erdkreis ziehn die Siegesbahn.
Ihr habt vernommen, was dem Gott gefällt,
Geht hin, bereitet euch, gehorchet still!
Ihr seid das Saatkorn einer neuen Welt;
Das ist der Weihefrühling, den er will.«

ラビニウムのラテン人たちが
もはや敵の嵐のような攻撃に耐えられなくなった時、
彼らは彼らの聖域、
マルスの槍を見上げ、手を挙げて祈った。
その槍を持つ神官が言った:
「神が怒っていることを代わりに告げる、
彼は吉兆の鳥の飛来を送らないだろう、
もし彼に聖なる春を捧げなければ。」
「春は彼にとって聖なるものだ!」と軍は叫び、
「春がもたらすものは全て彼に捧げられるべきだ!」
すると羽ばたきが聞こえ、槍が鳴り響き、
エトルリア人の力は挫かれた。
そして彼らが去った後、地は緑になり、
馬の蹄の下で野花が芽吹き、
槍が触れた場所では木々が花を咲かせた。
しかし、故郷の門前での祭壇で、
すでに祝祭の準備で待っていたのは
女たちと若い乙女たちの明るい群れ、
今日咲いた花で飾られていた。
喜びの歓声が静まると、
神官は丘に立ち、聖なる杖を草に突き刺し、
敬虔に頭を垂れ、全人民の前でこのように言った:
「死の恐怖の中で勝利をもたらしたあなたに栄光あれ!
私たちが誓ったことを、私たちは果たす。
この土地に広げたこの腕、
この満ち溢れる春をあなたに捧げる!
この牧草地が育てたもの、
羊飼いの群れが持つ小羊や小山羊、
若い牛が耕すことなく、
勇敢な馬が手綱をとることなく、
そしてあの花園で熟したもの、
芽吹く種から育つもの、
人の手によって摘まれることなく、
全てがあなたのもの、全てをあなたに捧げる!」
すでに人々は膝をついて沈黙しており、
神に捧げられた春は静かに彼らに囲まれていた、
かつて見たことのないほど輝かしい春、
重い予感を持つ神聖な震えが支配していた。
そして神官は更に言った:「もう終ったと思うか、
誓いを果たしたと?古い約束をすっかり忘れたのか?
誓ったことを本当に考えたのか?
花の香り、晴れた光の中の種、
新しく生まれた群れで生き生きとした牧草地、
若者がそれらの中で踊らない限り、それらは春とは言えないのではないか?
羊よりも神にとって価値があるのは
若さの初めの花輪をつけた乙女たちだ;
仔馬よりも彼は望んでいる
最初の武装の輝きの中の若者たちを。
おお、無駄ではなかった、息子たちよ、
戦いの中で神の力に燃えていた君たち!
おお、無駄ではなかった、娘たちよ、
帰ってきて、君たちが見事に咲き誇っているを見た!
あなたは、マルスよ、民を敗北から救った!
奴隷の恥からそれを清く保った
そしてそのために生まれたばかりの幼児を欲している;
彼らを受け取れ!彼らはあなたに捧げられた、彼らはあなたのものだ。」
そして再び民は地に投げ出され、
ただ捧げられた者たちだけが立っていた、
美しさに輝いていたが口は青ざめ、
重い神聖な震えが全てにのしかかっていた。
まだ群衆は墓のように静かにしていた、
ちょうど神を呼び起こしたばかりで、
そこに青い空から一筋の光が射し込み、
槍に当たり、そこで炎上した。
神官はそこに顔を向け、
輝くひげと銀髪が波打ち;
天の光に輝く目で、
彼が明らかにされたものを告げた:
「神は彼の聖なる奪い物を放さない、
しかし死を望むのではなく力を望む;
枯れた、歓声のない春を望まない、
いや、みずみずしさに満ちた春を望む。
ラテン人の古い城壁から
戦神の新しい植民が行くべきだ;
この春から、力に満ちた芽が、
彼にとって偉大な未来が生じるべきだ。
だから各々の若者は花嫁を選び、
髪にはすでに花が飾られている、
乙女は信じる者に従い、
星が輝くところへ向かって行け!
今はまだ緑の穂を持つ穀物、
遠くで種を播くためににそれを持って行け、
今はまだ花を咲かせる木から、
苗と種を自分たちのために保存せよ!
若い牡牛は新たな地を耕し、
活気に満ちた小羊を牧場に連れて行け、
素早い仔馬は手元で跳ねる、
未来の戦いのための健全な一族!
なぜなら、戦いと嵐が君たちに示された、
それがこの強い神の権利だ、
彼自身が君たちの中に降りてきて、
君たちの王たちの世代を生むため。
君たちの寺院には彼の槍が留まる、
将軍たちはそれを振り鳴らし、
彼らが陸と海を渡り出て
地球を囲む勝利の道を行くとき。
君たちは神が望むものを聞いた、
行って準備し、静かに従え!
君たちは新しい世界の種子だ;
それが彼が望む聖なる春だ。」

「ローマ土地制度史」の日本語訳(21)P.160~164

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第21回目です。
ここでは私には懐かしい「ver sacrum(聖なる春)」が再度(というかヴェーバーの執筆順では最初)登場します。
この語はドイツではウーラントが詩にし、グスタフ・クリムトらのウィーン分離派が自分達の機関誌の名前に使ったことである程度知られていました。クリムトらは既存の画壇から分離独立して新しい芸術家集団を作ろうという意気の理由でこの語を採用していますが、ヴェーバーは身も蓋もなく、その本質は人減らしだと鋭く断定しています。
後半には様々な土地の争いの類型の話です。私は一応宅建持っていて、何回か不動産の取引きをした経験がありますが、今日でも境界線とか面積とかは多くトラブルの元になっています。実は今住んでいる家も、買う時に「境界石がどこかに行ってしまっていて、境界が不明です。」と仲介した不動産業者に言われました。
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38) (ローマの)征服戦争によって勝ち取られた領土においての(相続の権利のない)その他の息子達の扶養がもし不可能であったとしたら、その場合はそういった息子達を相続から除外することによって家族の所有地をそのままの大きさに保つことも不可能になっていただろう。同様の状況はゲルマン民族においては領土獲得欲を刺激されることとなった。ドイツにおけるいわゆる農民フーフェ≪村落共同体農民の所有する耕地≫の閉鎖性が長期間保たれたということは、農民自身の所有地は大地主[グルントヘル]へ依存している[から借りている]土地に比べれば最小限のレベルの面積に過ぎなかったという事情をまず考慮すべきであろう。ただ大地主から借りている地所において、ローマではそれが ager vectigalis ≪納税または農産物の貢納義務のある土地≫であったが、ドイツにおいては隷属農民がそういった土地を使用しており、そういった形でのみ地所が継続して分割されずに一体性を保つことが出来ていた。――そのことに関連し、その他の特徴としてそれらの文献の中で主張されている次のような関連事項が存在する。それはつまりローマの耕地領域の[対外侵略による]拡張が完了し、そして[植民市の建設とそこでの土地割当てという形で]定住のための土地が実質的に意味ある形で用意された後に、[相続を限定するための]遺言の自由が非公式の法的な擬制として百人組[ケントゥリア]裁判所で実践的に処理されるようになった、そういう事項である。――部分的に植民地開拓政策の意味を持っていたローマ古代の ver sacrum ≪聖なる春。古代ローマで凶作の秋の翌年春に生まれた新生児を神への捧げ物とし、その新生児が成長して一定年齢になると新植民市の開発のため未開の地に送り出された故事。≫は、それが故郷のゲマインデの中で余分な人間とされ、扶養家族の埒外に置かれていた者達の中から選ばれた者が、つまりはその理由のため新生児の時に神に捧げられその者が成長した若者を意味する限りにおいて、次のことは正しい。またこのやり方が神々への捧げ物という神聖な儀式として行われているということも、同様に次のことを正しいと思わせる。それはつまり、この ver sacrum が行われたのより更に古い時代の人口政策、つまり神への生け贄が、どちらもその目的は同じだったのであると。それは諸民族において、限られた食料自給体制の中で、対外的な拡張でそれを解決するのが不可能だった場合(例えばインドのドラヴィダ人≪インドでのアーリア人が優勢になる前の先住民族≫の例)に[口減らしのために]利用されていたのが、より後の時代になってもなお ver sacrum という形で[新植民地開拓という建て前で]まだ利用されていた、ということである。その他の同様な組織での例としては、ゲルマン民族において良く知られている故郷ゲマインデの何度も繰り返された移住であり、それは古代のゲノッセンシャフト≪タキトゥスのゲルマニアで描写されているような、主従関係のような縦の関係ではなく、同輩・仲間の横の関係を重視する人間集団。ギールケによってケルパーシャフトの反対概念としてドイツの集団の本質的な特徴とされた。≫的集団においても見られ、また同じく後の時代の余剰人口についての非組織的に行われた公知の土地への追放があり、その一部は既に存在している耕地であり、またその他の場合はゲマインシャフトが侵略戦争によって獲得した土地であり、こういったやり方が後の時代の土地制度の骨格を作り出すことになった。フロンティヌスは strat. の 4, 3, 12. において侵略と土地の割当ての段々と強まっていく相関関係について述べている。

物的訴訟

 特徴的なことは、非課税の私有地[ager privatus]に対する正式な返還手続きについての元々の制限である。(土地という)現物への強制執行という手段が無かったことと、先行する判例に従った利害関係の現金化は、訴訟において原告側の本来の土地の所有者に対し、土地を返還する代わりに、その土地の価格相当の現金を与えただけであったのだが、それは(19世紀末の)今日の取引所法の強制手続きにおいて、(証券の)差額の現金による精算執行と明らかに類似している。こうした類似が偶然のものではないということは、土地を巡っての人間関係についての訴訟においては一般的に採用されているやり方であるということが観察されることによって裏付けられている。

土地測量人が関わる訴訟の類型

ここにおいて、agrimensorische genera controversiam についてより詳しく見ていく必要があるだろう。それはある[測量人が関わる]訴訟類型のことで、その訴訟において土地測量人達が、ある場合は裁判官への技術的な助言者として、また別の場合は彼ら自身が権威のある専門知識を備えた第一審の裁判官として務めたのであり、それはその訴訟が土地の所有権に関するものである場合に限定されていた。測量人達は訴訟の争点となっている所有関係を”de fine”と”de loco”に分ける。前者 39) は土地の(周りの土地との)境界線がどうなっているのかという争いであり、我々にとっては取り敢えずは関心外のものであるが、後者は最初のカテゴリーの争点を超える土地の所有権とその所有そのものについての訴訟である。”de loco”に含まれる訴訟は問題となっている土地の各辺の長さが5ローマフィート(約1.48m)または6ローマフィート(約1.77m)を超えるものについてであり、何故ならそういった面積の土地についての争いは土地の境界についての規則の根本原則に基づいて取り扱うべきものであり、それ未満の面積の土地は正規の所有権訴訟においても、また正当な方法での獲得においても規則外と扱われたからである。”de loco”(広義での)の争点に含まれるのは、境界線の判定以外の全ての土地に関しての争点であり、取り分けde loco(狭義での土地の場所について)のものと、de modo(面積について)の訴訟のそれであった。

39) P.12. 37. 41. 126参照。

この2つの違いについては、特にフォイクト 40) ≪Moritz Voigt、1826~1905年、ドイツのローマ法学者≫が言及している。しかし私の考える所では、それは不当にもその2つの違いを単に裁判の際に使われた証拠の違いにしてしまっており、controversia de loco の場合は単なる何かの資料、controversia de modo の場合は本質的に返還請求と同等の意味を持つ任意のその他の何か、と特徴付けている。もちろん controversia de mode の場合にある一定レベル以上の文献資料を証拠として挙げることは本質的なことであり、controversia de loco の場合はそうではなかったが。しかしながらこの2つの違いはそれぞれにおいて異なっている訴訟原因と申し立ての法的な性質に関係しているのである。

Controversia de mode と de loco

 Controvesia de mode はある当事者の次のような主張の結果としてそう分類される。それはその当事者の土地の所有は耕地測量図[forma]に拠るのではなく、証拠能力のある所有権移転行為―特に(正規のやり方での)購入―の権利書式に拠るのであり、そのためその耕地における当該の面積の土地がその者に帰属する、という主張である。その当事者はここにおいて次のような主張をしているのではない。つまりここかどこかの特定の土地区画が法によってその者のものとなっており、それ故その者に引き渡されなければならない、という主張である。そうではなくて、(de modoと)書かれている通り、ただ事実上その者の所有となるべき一定の面積が公の測量地図においての面積とは一致せず、その者に本来帰属すべき全面積が測量地図に記載されていない、ということである;その者が要求するのは事実上の耕地同士の配置の変更とその者が権利を持つ全面積 42) の土地の割り当てである。これに対して controversia de loco の当事者は逆に、その者に既にある特定の土地区画が帰属し、その返還を要求し、その土地区画が測量地図の上では彼に帰属すべき面積の土地としてその所有とされていないと訴えているのではなく、むしろただ権利の保護、つまりそれによって彼が実際の土地の獲得が保証されること、それを要求しているのである。2つの訴訟の本質的な違いはそれ故にまず第一は、controvesisa de loco の方は多くの場合 ager arcificius ≪未分割の土地≫について起きているが、しかし de loco の方は既に分割割り当てが済んでいる耕地に対しても起こされることがある。一方 controversia de mode の方はそれに対し、ただ既に測量地図に載っている耕地に対してのみ起こされることが可能であった 44)。

40) Ges. d. Wiss. Phil. – Hilst の第6巻の論文の CL. 25, P.59 (1873) 参照。

41) P. 13, 45, 76, 131 参照。

42) それ故に643u.c.の土地改革法において、C.グラックスがカルタゴにおいて市民に与えた土地の内で一部のあまりにも大面積の土地区画を制限しようとした時に、以下のように規定している。
neive (IIvir) unius hominis (nomine) … amplius jug. CC in (singulos
homines data assignata esse fuisse judicato).
[もし(二人組により)一人の男(の名)に対して…200ユゲラ以上の土地が割り当てられている場合は(一人に割り当てられている、またはそう判定される場合には)]
controversia de mode はそれ故より広い面積の土地を得ようとすることは許されていなかったか、またはたとえ訴えることが出来ても何の成果も得られなかったかであり、その訴えが何とか認められたとしても、耕地に対しその認可の結果として耕地の(再)整理が行われ、そして権利者に対してごくわずかの面積の追加が認められたぐらいである。ただ面積のみが割り当ての対象であり、具体的な地所が対象物なのではなかった。

43) ラハマンのP. 13, 43, 80, 129を参照。

44) フロンティヌ P. 13, 3 controversia de loco について:haec autem controversia
frequenter in arcifiniis agris … execetur.
[この類型の訴訟はしかししばしば ager arcifiniis に対して行われている。]
しかし同じ書のZ. 7には:de modo controversia est in agro assignato. [controversia de modo は割り当てられ済みの土地に対して行われている。]同様のことが前注で引用した箇所でも引用されている。

Controversia de modo の法的性質

 まず第一に controversia de modo について考察してみたい。その実際の成果について、学説彙纂の D. 7 (actio) finium regundorum (10, 1)[境界線確定訴訟]が規定している:De modo agrorum arbitri dantur, et is, qui maiorem locum in territorio habere dicitur, ceteris, qui minorem locum possident, integrum locum assignare compellitur. [ある土地の面積について裁定が行われ、ある者で、その地域で大きな面積の場所を割当てられている者は、他の者で、より小さな場所しか持っていない者に対し、全体の場所を(再度)割当て直す(それによって自分の土地の一部をより少なくしか持っていない者に渡す)ことを強いられる。]

 全く同様のことが測量人達の言及する別の文書中にも登場しており(P.29, 45)、その結果として該当の耕地の一部分において事実上の新たな分割が行われており、境界線を新たに引き直すことにより、それぞれの土地の所有者に対してその者に帰属すべき面積の土地が(新たに)割当てられている。

45) フロンティヌス、de contr. agr. II P, 39, 11ff. 47, 21ff。

測量人はその際に forma に付属する土地の外形図を用い、その境界線を引き直し 46)、測量地図[forma]が個々の引き受け地の面積情報を提供している明細 47) を用いて、元の境界線をなるべく再現するよう努力する。その際にその土地の耕作状況についての手がかりとなるものを提供し 48)、あるいは測量人は新しい境界線を引いて、それによって各自に帰属すべき面積が保たれるようにする。

46) フロンティヌスのP. 47, 21, 48とニプススのP.286, 12f. 290, 17fを参照。境界線というのはただこの目的のためだけにあった。P. 168, 10ff。

47)つまりはフロンティヌスのP. 55, 13を参照:si res publica formas habet, cum controversia mota est, ad modum mensor locum restituit.
[もしローマ共和国が controversia de mode の訴訟の際に、その土地の測量地図を保持しているなら、測量人達はその面積をそれによって再確認する。]

ここでは間違いなく公有地について述べているのであり、面積に関する争いの解決については測量地図[forma]に記載されているものが決定的な力を持っていたということである。

48) フロンティヌス、前掲書、Agg. Urb. P. 11, 8f。

こういった手続きは境界線を調整する通常のやり方ではなかった。何故ならば古い境界線を新たに引き直すのは、目的を達成する上で取り得る数多い手段の内の一つに過ぎないからである。この新しい境界線を引き直すというやり方は、権利を受ける者に対して国家が[測量地図という]書面で確認している土地の割当てに対して行われている。しかしそういった土地については、公の測量地図においては、はっきりした境界線を持った具体的な地所が割当てられているのではなく、ただ一定の面積のみが割当てられていたのである。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(20)P.156~160

「ローマ土地制度史」の第20回目の日本語訳です。いよいよ話が難しくなってきて、日本語訳には苦労しています。おそらく最後まで訳してまた見直すことになるでしょうが、現時点での私の解釈をお届けします。ここでは土地の所有権の種類と相続というローマ法の根幹に関わる部分が論じられています。何度も言っていますが「農業史」ではありません。
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そういったことと対立することとしては、測量人達が、植民市におけるムニキピウムについて、法律が変更された 29) というケースを、はっきりと彼ら自身に関係する問題として取り扱っているということである。更にゲリウス≪115年頃~180年以降、ローマの著述家、Noctes Atticae(アッティカの夜)の作者。≫(16、13) 30) に拠れば、ハドリアヌス帝≪在位117~138年、五賢帝の一人≫の時代にはそのことが実質的な意味を持つようになっていた。そしてその結果として我々が知っているのは、プラエネステ≪ローマの東35Kmにある都市、パレストリーナ≫がティベリウス帝≪在位BC42~AD37年、アウグストゥスの後を継いだローマ2代目の皇帝≫の時代に、植民市の地位からムニキピウムに戻してもらいたいという要請をしているということであり 31)、それについては何か現実的な理由があったのに違いないのである。このことから次のことが直ちに推定される。つまりその理由は、ローマ式の測量方式を植民市の土地に適用するということに関係があり――しかしそこにおいての実際の動機を知ろうとすることは、次のことを行った後にやっと見解を得ることが出来る。つまりどのような法的かつ経済的な特性をこの測量方式の適用はもたらし、そしてどこにおいてその実質的な意義があったかということを明らかにすることが出来た後である。その際に我々としてはまずイタリア半島において、一貫して市民植民市に適用されたケントゥリアによる分割、つまり土地税が免除されたローマの耕地から考察を開始すべきであろう。

29) P.203, 8はそのように読める。
30) イタリカ≪スペイン南西部の植民市≫とユーティカ≪古代フェニキア及びカルタゴの都市で、後にローマの植民市となったもの。≫について述べられている。
31) ゲリウス、1.c. 参照。

II 私法的・経済的な非課税耕地の性質

原則的なこと:ただ次のような耕地、つまり割当ての手続きの際に土地税もその他の現物負担も無い状態で譲渡された耕地と、またはその耕地について特別法によってその耕地の法的な分類が特別に与えられた耕地は、それらが土地改革法の全体と関連付けられていたということは、疑い無く正しいと考えられる。そういった耕地の特権とは、それらは特に643u.c.(BC111年)の土地改革法からもまた生じたのであるが、次のようなものである:

耕地に与えられた諸特権

1.そういった耕地は censui censendo ≪ケンススに登録すべきもの≫であり、つまりケンススの登録簿の中に入れても問題無しとされた耕地で、そのことは兵役や納税義務の、及び政治的な権利の基準となったのであり、ケンススの帳簿に登録されるべきものであり、それによって専ら賃貸借の際の公的な引き渡し保証等の目的に使用されたのであり、その際に相続された家族の所有地(ager patritus [先祖代々の土地])について、ある確かな、しかし詳細はよく分っていない優先権が与えられたのである。

2.そういった耕地は、ただそれのみが、ローマの国家で認められた取引きの形態の、特に土地の購入の、それ故に更にまた対物訴訟においても対象とされ、その手続に従うものであった。

ケンススに登録される資格を持つということ

上記の1について:グラックス兄弟による viritane Assignation ≪組織的ではない、個別植民への土地割当て≫は、それが ager vectigalis [課税地]とされた場合にはケンススに登録すべき土地とされた。またある耕地に viasii vicani ≪重要な道路(例:アッピア街道)沿いにあり、その道路の維持義務を負わされた土地≫の義務が課された場合にもその耕地はケンスス登録対象となった 32)。[しかしそれ以外の]グラックス兄弟によって割当てられた土地は完全な所有権に比べると譲渡権を持っておらず、クィリタリウム所有権≪quiritarisches Eigentum、ローマの市民のみに与えられたもっとも上位の所有権≫よりも劣った権利しか持っていない他の全ての土地はケンススの登録対象ではなかった、ということが結論付けられよう。ケンススにおいて、bonitarisches Eigentum≪善意による所有権、正規の法的な購入手続き以外の方法で入手された土地への[そしてそうとは知らず入手した場合の=善意の]所有権、クィリタリウム所有権より法的保護の面で劣る≫をどう扱ったかという問題については、私は同様に間違いないこととして次のように考える。つまりその種の所有権の土地はケンスス登録対象ではなかったのであり、ケンススへの登録対象であったかどうかということは、むしろ法律上のローマ市民の[完全な]所有権についての実質的側面であったのであると。上記の2についての更なる論述は後で、私はそう信ずるが、より高い明証性を持った根拠にのっとって提示される。

次のことは、ローマにおける土地所有権の全体の位置付けにとって更に特徴的である。それは土地改革法がそれによって私有地と宣言された土地の、ある一定のカテゴリーの売却可能性を、規模の大きな投機業においての担保物件の目的で使うことを、それについてはローマの行政がそういう機会を提供したのであるが、特別に規定した 33) ということである。

33) P.28

ローマにおいての最上位の権利を持った地所は、まさに他の何よりも、抵当物件として資金調達を可能にする資産でもあった。

銅片と天秤による取引き≪この表現は通常は奴隷解放の儀式のことであるが、ここでは対物訴訟のこと≫

上記の2について、同様に特徴的なことは、銅片と天秤を用いた物的取引きの制限であり、そして――根源的には――ローマの非課税の耕地に対するローマでの対物訴訟の制限であった。この点についてまずより詳しく述べてみることとする。

不動産の売買による所有権移転[Manzipation]と遺言の経済的な意味

不動産とそれに付随する権利の引き渡し形態である Manzipation は、全ての家族の負債と共通経済的な拘束事項から自由である土地について適用されるのであり、それは家族の遺言における無制限の[所有権移転を伴う]処置がそういった自由な土地に適用されるのと同じである。特に後者[=遺言]が本質的に土地政策上の意義を持っていたことは明白である。もし有形物、つまり実質的には不動産とその付属物についての、actio familiae (h)erciscundae [家族間での遺産の分割行為]に対する根源的な制限が、次の条項の結果として:”nomina sunt ipso jure divisa”[法律上は、帳簿(名目)上の資産・債務が分割される](相続人とその相続物という言葉の上での組み合わせに対しても適用される制限)、そういった有形物[不動産]は直ちに諸権利の中で家族との共生経済を故意に重視することと、そして家族間の均等分割の原理により家族の所有する地所が分割されるという危険を生じさせるのであるが、次の事実と結合している。それはそういった[遺産としての不動産の元の大きさのままでの]保持がもっとも重視された 35) ということと、同じく土地所有の政治的な意義においてもやはりそのことがもっとも重視されたに違いない、ということである。

34)より古い時代においても確かにそれらは帳簿上の財産として制限されており、それは「不動産という]その名前が示している通りであるが、その理由は明らかにその当時は私的な土地の所有権がまだ存在していなかったからである。

35) 参照:放蕩者に対する禁治産者宣告の書式と、既に考察して来た praedium patrium [先祖代々の土地]への優先権。

十二表法の制定は、ローマの農民に対して形式的な制限に結び付けられた遺言の自由においてのみ、次のような手段を彼らに与えた。それは生きている間においての家父長権と、また当該の遺産対象の財の選択をいつでも新しい遺言によって変更する可能性と結びつけられた上で、考えられるもっとも明確な形で、[ヴェーバー当時の]現代における我々が相続法と財産引き渡し契約によって達成しようと努めるのと全く同じ目的を追求するための、同時にまた家長の権威を無傷のまま保つための手段であった。後の時代において、こうした手段がどの程度までなお使われたかということは、次のことを扱う法源≪法の存在根拠、ここではその根拠を決定付ける事項≫の範囲によって示されており、それは遺言の単なる言葉の上での解釈と、特に相続に関係する集団である廃嫡者と代襲相続人≪ある正規の相続人が死んだりいなくなった時に代わって相続人になる人≫についての所である。相続人のためにローマにおける家父長は、その相続人以外の他の息子達を相続対象の財産 36) から排除した;それらの息子達は、「相続人の座に居る」者、つまり adsidui ≪ローマ市民の中で納税義務を負いまた軍人になる資格を持つ者≫に対比して、プロレタリウス≪ローマ市民の最下層の身分、プロレタリアの語源≫に所属する者に留まるのであり、その身分についてはまず「子供を設けることが出来ない者」と呼ばれたのであるが――それは蔑視的な表現だったと思われるが、法律上の公式な表現ではそのような言い方はまず許されていなかった――そうではなく「子孫」37)――つまり定住した市民の、――として表現されており、それ故そういった単にその理由のみで cives [ローマ市民]であった者達であり、それは彼らの祖先達がかつては土地所有者であることにより cives だったからである。

36) このことはここで採用された方策の目的と相反するように見えるかもしれない。しかし次のように考えることが出来る。つまり人間関係の政治的側面が確かに経済的側面より重視されたのであると。それに拠って生きるための地所の確保ということが目的だったのではなく、相続する息子とその子孫が、その手中に家のお宝を保持し、トリブスにおけるフーフェ[地所]の所有者として、かつ同等のケンススにおいての階級に留まるということが目的だったからである。

37) 参照:hidalgo (スペイン語、庶子)=fijodalgo, filius alicuius (その他の息子)

これらのプロレタリウス達は、それ故かなりの部分が字義通りの意味で廃嫡者であった。そして確かにまさに次のようなローマ民族の中のある階級の前景に登場するような破片の如き者だったのであり、その階級とは彼らの土地獲得への渇望が(グラックス兄弟の)土地の割当てとローマの侵略戦争[による外地の獲得]によって鎮静化された、そういう階級のことであるが、彼らはその耕作地に居住する[正規の]農民にしてもらった訳でもなく、また都市の小市民という身分にしてもらった訳でもないのである。土地所有についてのその処分の自由の厳格な実施とその完全な流動化を勝ち得たいという願望がローマの対外的な拡張を推進する上での強力な梃子となった 38)。

(注38の訳は次回。)

「ローマ土地制度史」の日本語訳(19)P.152~156

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第19回目です。最近ペースが遅いので、巻くため会社の昼休みにもやっています。そのため前回から10日でアップ出来ました。ここでは「二重都市」という興味深い概念が出て来ます。つまり元々の住民がいる所にローマの植民市が割り込んで来た場合に形成される「新市/旧市」状態です。私は日本での同様例で福岡-博多を思い浮かべていました。福岡-博多もある意味二重都市で元々の商人の町の博多に後から黒田氏がやって来て(黒田氏は播磨が出身地とされています)新たに福岡の町を作りました。この2つの地域は相互の行き来は出来ませんでした。その中間にあるのが中州です。
それから、ここでポンペイの例が出て来ます。ここの旧住民を「門の前方へ」追い出した、という表現が不自然で色々調べて私なりの仮説を得て書いています。
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割当てられなかった領域の法的な位置付け

 ある植民市の測量された土地[pertica]とその植民市の別の領域のある部分が一まとめにして把握された所においては、法の存立の状態は疑いなく元の古い状態のままであった。場合によってはこういう残余の土地はごくわずかでまた偶然生じたようなものであり――カウディウム 19) ≪南イタリアのサムニウムの地名でサムニウム族系のカウディニ族が住んでいた。≫ではそうであった――全体の領域が植民市が測量によって境界線を設定することで把握され、それからムニピキウム[自治市]の役所の権力は城壁の内側の地域に限定され、また実際はほとんど市場を取り締まる警察権と市場への司法権に限定された。

 それに対し植民市が測量によって設定した土地が元々あったゲマインデの領土のほんの一部に過ぎなかった場所では、そのゲマインデの内部に植民市の土地が設定され、把握され、2つのゲマインデがお互いに二重都市という形で成立することとなり、新市と旧市という形で並立した 20)。

19)C.I.L. IX, 2165. lib. col. p.232, 部族もまた異なっていた。参照:C.I.L. IX, 2167(ベネヴェント≪南イタリアのアッピア街道沿いの中小都市≫のステラティーナ族の植民市)、また2168(カウディニ族のフォレーリア)≪この注を含む数ページの注でヴェーバーはC.I.L.(Corpus Inscriptionum Latinarum、ラテン碑文集成)とすべきものをC.J.L.としている。おそらく誤記でCD-ROM版のテキストではC.I.L.である。しかし全集版の文献リストにC.J.L.は無く全集による説明もまったく無い。ius-jusのように、ラテン語でiとjの両方が特定の綴りで使われるケースはあるが、この場合はIしか考えられない。≫

20) おそらく Interaminia Praetuttianorum ≪現代のイタリア共和国アブルッツォ州北部のテーラモ。プラエトウッティ族の土地だったのをBC290年にローマが征服し植民市としたもの。≫がそう(Frontin、 p.18による。C.I.L. IX、5074とも一致する)。更にはポッツオーリ(Tac. Ann. 14, 27)、ヴァレンシア≪スペイン≫(C.I.L. II, 3745)、アプラム≪ルーマニア、ローマの要塞があった≫(C.I.L. III p.183)そしてティグニカ≪現在のチェニジア南西部≫。

そういった二重都市となった領域の実際の状態と相互の関係、つまり公的権力においての境界設定、がどういうものであったかについては、個々のケースについてそれを突き止めることは出来ないが 21)、少なくともそれが存在していたということについては疑いようがない。

21) そういった二重都市の司法権の相互関係については学説彙纂27§1のウルピアーヌス≪ローマ古典期晩期の法学者で学説彙纂の法文の内約1/3は彼の著作から取られている。≫の断片 ad municipalem et de incolis (50, 1)[ムニキピウムとその住民について]が扱っているように見える:ある者で常に植民市ではなくムニキピウムに滞在し、全ての祝祭等に参加する者は、そこで諸々の物を買い入れ、”omnibus denique municipii, nullis coloniarum, fruitur”[結局のところ、(その者は)ムニキピウムの全て良きものを享受し、植民市の何物をも享受していない]、その者は彼の domicilium in municipium [ムニキピウムの中での住居]を持ち、の所である。しかし、[学説彙纂の](リテラ・フロレンティーナ[写本]での)”colendi causadeversatur”[耕作のために住む]の所ではない。特徴的なのは、”rus colere”[耕作のための地所]というのが植民者の本質であるように見えることである。

同盟市戦争の時代には、それ[fundi excepti]は単に農村トリブスの中で登録されたのかもしれない。しかしその後の時代ではそれはもう可能ではなくなっていた。測量人達の記述によれば、それはむしろより独立した領域として構成されていた。そういった領域はゲマインデの領域に関しての手続きによって定められており、ケンススにおいては明確に独立したものとして一般的にはただローマの中央官庁の管轄下にあるのみと記載されていた 22)。

22) P. 53, 197, 10。類似のものについて第4章で取上げる。

同様にそういった領域は、時においては警察権力の一部としての市場についての司法権の管轄下にあった場合もあった 23)。

23) C.I.L. VIII, 270. Ephem. epigraph. II, P.271を参照。

確かにこういった関係は、ケンススによって課税と徴兵が実際に行われていた属州においては、イタリア半島においてよりも大きな意味を持っていたし、そもそもイタリア半島においてはこういった関係自体が稀であった。測量人的な視点においては、我々はそれを明白に ager per extremitatem mensura comprehensus [外周のみが測量され内部が区画分けされていない土地]のカテゴリーに関連付けることが出来る。それについてフロンティヌスはこう言及している:fundi excepti としてまた測量地図上に記載されている領域は、確かに耕地図上にまた per extretatem として測量されその領域が描かれている。既に次のことについては言及して来た。つまりフロンティヌスの地図(Fig. 4)が既に明らかにしているように、区画分けされていない地所は、ある統一的な特定の種類の区域として法的に定義されたものに、必ずしもなる必要がなかったように見える、ということである。この領域を巡るその他の公法的・行政法的諸関係については、それは古典期での物権の引き渡しにおいては非常にみすぼらしくしか見えないものではあるが、またローマにおける土地(農業)経済の発展において非常に重要な役割を演じたことははっきりしており、後で特別に詳細に取り扱うことにする。(第4章を参照)。――

植民市内部における法整備の状況

 我々が次の問いについて考えようとするや否や、我々のそれについての知識が非常に貧弱な状態に留まっていることが明らかになる。その問いとは、あるローマの市民植民市において、その当該のゲマインデの内部においての法整備の状況がどのように変遷したか、どのような作用を及ぼしていたかということである。元からの居住者の植民者に対しての関係が、統一的な法形式としてどのように規定されていったかという問題はここでは取上げない。ノーラ≪カンパーニャ地方のもっとも古い都市、第2次ポエニ戦役で3度戦場になった。≫についてモムゼンは元からの居住者はここでは plebs urbana ≪ローマにおける最下層の平民≫に格下げされたという仮説を唱えているが、実際のところは、全ての領土が没収されたという、常に起こりうることがここで起きたのである。これに対立するもっとも極端な例は、古代のアンティウム≪ローマの南の海岸沿いのラティウムにあった都市、アンツィオ≫で起きたことで、そこでは元々の住民が全て植民者に編入されている。ポンペイについては以上の2つの偶発的なケースとは違い、何かの、おそらくは法的に不平等である2つの住民カテゴリーが作られ、おそらくは住民の異なった地位によって耕地の割当ても違ったやり方で行われていたように思われる 24)。

24) ニッセン≪Heinrich Nissen、1839年~1912年、ドイツの古代史家≫のPompeianische Studien[ポンペイ研究]とモムゼンのC.I.L. XIVを参照。もちろん詳細については全く不明である。次のことはすぐに確かなものと確認することは出来ない。つまり、北部の1/3の領域が他の領域から scamna と strigae によって区切られていたのかということである。そこにおいてはスッラの植民市がその領域を秘密裏に所有していたのと、または元からの住民がそこを課税地として所有していたからである。モムゼンは一般論として旧住民が市の複数の門の前方へ(つまり市外へ)追いやられた可能性を示唆している。≪Thoreを普通に「門」(複数)として訳したが、表現が非常に不自然であり(単に市外に追放したなら、市壁または城砦の外へと書く方が普通)もしかするともしかするとポンペイの西にあって、ポンペイと同時にヴェスヴィオ火山の噴火で滅んだ(現在の)トッレ・アンヌンツィアータのことではないか。Torre(伊)、Turris(羅)は「塔」の意味。トッレ・アヌンツィアータに相当する地名が当時もあり(ここの遺跡の地名はオプロンティス)、その固有名詞中に含まれる普通名詞を間違って「門」と解釈したのではないか。ここは二重都市についての注なので、元からの住民がトッレ・アヌンツィアータの方へ追いやられ、ポンペイと二重都市を構築したと考えるのは自然。ちなみにポンペイ最大の門は西側のマリーナ門であり、それには12の塔がある。そしてその門の外側はトッレ・アヌンツィアータなので、結局は「門」と訳しても同じことを意味しているかもしれない。この部分C.I.L.の原文を探しているが未確認。≫我々が知り得ている情報だけによって「二重都市」という名称を使うのは無理がある。そういった関係だと言っても良いのは、例えばヴァレンシアにおいてのように、2つの階層[ordines]と、それ故に2種の公権力がお互いに排他的な競争状態にあることが確認出来る、そういう場合のみである。そうでないとほとんどの植民市が「二重都市」ということになってしまう。

 文献史料の状態が劣悪なため、いずれにせよ次のことを行うことは出来ない。つまり新しく連れてこられた植民者と元からの住民の関係を詳しく調べることである。後者についてはある特別な法的地位に留められたかあるいは何かの原理に基づく存在として(その原理から)還元されて考えられたかではあるが、ここで出来るのはただそうした原理について調べることぐらいである。様々な植民市については、そういった原理という点でお互いに甚だしく異なっていたように見える。それについては我々は次のような考え方をすることが出来よう。つまり市民植民市でもあった諸ゲマインデについて、帝政期においてもまた、ローマ国家としてのそういったゲマインデとムニキピウムとの等しい法的な取り扱いにも関わらず、ムニキピウムと他のローマの諸ゲマインデの内的な関係については、ある観点に沿って見た場合には異なっていた、という考え方である。モムゼン 25) は次のことに言及している。つまりその他のゲマインデとは反対に、ある種のゲマインデでローマの[古代からの伝統的な]集団形成が先行していた所では、つまりクリアに分けられていた場合、植民市 26) においてはそれがトリブスになっていると。ローマにおいてはトリブスへの分割は疑いもなく耕地の分割と関係があったので、次の結論は明らかである。つまり、この2つに関係があったことは市民植民市においてもそうであり、それ故市民植民市の土地制度の状態は帝政期においてすらある本質的な識別のための目印を作り出していたということである。

25) Epehem. epigraph. II p.125参照。
26) アウグストゥスの植民市 Lilybaeum≪リリュベエウム、今のシチリアのマルサーラ。ポエニ戦争にて対カルタゴの前哨基地として栄えた。≫ と、Julia Genetiva Ursonesis≪スペインのセビリアにあったカエサルの植民市≫においてがそうであった。

そうした事情があったとしても、次のような可能性について確たることを言うことは出来ない。つまりアフリカ 27) の植民市においてクリアによる分割が行われたかということである。

27) 当時の Hippo Regius ≪現在のアルジェリアのアンナバ。フェニキア人が作ったとされ、後にローマの植民市となった。≫と Lambaesis ≪アルジェリア北部にあったローマの植民市で、ローマ軍によって作られた。≫についてそこでのクリアについて言及されているか、またそもそも本当に植民市であったかもはっきりしない。それに対してこのことは、Julia Neapolis ≪カルタゴの旧領、現在のチェニジアに作られた植民市≫の場合は該当していた(C.I.L. VIII, 974)し、更にはトラヤヌスス帝が作った植民市の Thamugadi ≪現在のアルジェリアのティムガッド≫もそうであった。(C.I.L. VIII, 5146)

そのことから考えて、ローマそれ自体においてはクリアとトリブスが隣接して存在していたということは、ある時代からの植民市法の該当のゲマインデへの適用の源泉となっているが、その時代においてはゲマインデにおける市民団体は都市参事会[デクリオネス]によって政治権力を奪われており、それは丁度ローマにおいて市民の権利が元老院によって奪われていたのと同じであり、それ故、言及されている土地制度の相違があった場所においては、それは続けて市民を新たに分割し直すという目的はもはや持っていなかった 28)。また帝政期において各植民市に対する純粋な等級としての称号の付与ということが多く起きるようになったのかもしれない 28a) ;そこにおいては確かに単に外面的な把握の仕方について争われたに違いなく、それは例えばあるゲマインデの地位が植民市の中で変えられた時に、そこでは新たな住民を[何らかの原理に従って]演繹的に作り出すということは行われず、必然として純粋に呼称について、その内部での人間関係についての実質的な意義は全く無しに、単なる表向きの称号だけ――例えば「四人組」[quattuorviri, IV viri]管轄地域ではなく、「二人組」[duoviri, II viri]管轄地域など≪「四人組」、「二人組」はその名前の通りの人数の者が委員として組んで植民市の行政に携わるもの。地位としては「二人組」の方が上。≫――が問題となっていたのかもしれない。

28) 唯一の例外はネアポリス[ナポリ]であったかもしれない。もしそれがカエサルの植民市であったとしたら。しかしこのことは全く確からしくない。(プリニウス≪ガイウス・プリニウス・セクンドゥス、23年~79年、「博物誌」の著者でかつローマの属州総督。≫はこの植民市を知っていない。

28a) D.1 §3 de censibus [ケンススについて]50, 15: Ptolemaeensium … colonia … nihil praeter nomen coloniae habet. [プトレマイオスの植民市は、名前は植民市となっているが、その中身で植民市的なものは何もない。]

「ローマ土地制度史」の日本語訳(18)P.148~152

「ローマ土地制度史」の日本語訳の第18回目です。ここは注の14~16に出てくるラテン語の訳でかなり悩みました。そしてここでもChatGPT4が良き相談役になってくれ、何とか納得出来る意味を掴むことが出来ました。
本文中に注釈としても書きましたが、ヴェーバーのこの論文のラテン語をきちんと理解するためには、小型のラテン語辞書(羅英辞書)は役に立ちません。オクスフォード羅英大辞典のみがヴェーバーが参照している測量人達のテキストをコーパスとして用いています。
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ager extra clusus、subseciva、そして loca relicta の全てを合わせた地所は、法そのものの効力によって新しいゲマインデの職権に支配されているのではなく、帝政初期においては、土地を割り当てる植民市の役所の権力下に、ただ法律上形式的に留められていたに過ぎない 8)。これらのその他の領土については、[通常の土地種別とは]異なったやり方で取り扱われていた可能性がある 9)。この種の土地が、特に loca relicta の場合にもっともしばしばあったことであるが――ゲマインデによって共有地として、つまり pascua publica [共有の牧草地]として、または売却や譲渡の対象から除外された樹木地に割り当てられた可能性がある。あるいはその土地での放牧権が定められ、多くの場合境界線の無い―― fundi [牧地]として割り当てられたのかもしれない――つまり ager compascuus [隣人間で共有される牧草地]である 10)。あるいは別の可能性としては:これは ager extra clusus の場合にしばしばあったことであるが、ゲマインデが自分のものとしたか、あるいはまた一時的にかあるいは賃借料と引き換えに誰かに引き渡されたかである 11)。仮にそういった土地について何も規定が無かった場合には、それらの土地はローマ市民の ager publicus [公有地]に留まるのであり、ゲマインデまたは私人が、それは subseciva の場合にしばしばあったことであるが、その土地を開墾した場合、共和政時代の公有地の占有[Okkupation]と同様の法的な位置付けの土地となったのである。そういった土地の利用で利益を得ることは非常に不確実だったのであり、いつでも新しい割り当てによってその土地が没収されたり、または国家によって賃借料を課されたりする、ということがあり得たのである 12)。皇帝ウェスパシアヌス≪在位AD69~79。皇帝ネロの死後の内乱期の後、60歳で皇帝になりローマの財政建て直しや公有地貸し出しの見直しを行った。≫がこういった政策を精力的に行い、そうした土地の所有者に大いに不満を抱かせる結果となった。そして皇帝ドミティアヌス≪在位AD81~96、ウェスパシアヌスの次男、前皇帝ティトスの弟≫までに、永遠に続くかと思われた諸ゲマインデの不安は全て解消された。その過程でドミティアヌスはこれらの古い意味でのイタリアの公有地の残りの部分を、その占有者に対して、当時の測量人達の内の一人によって言及されている一般的処分を行った。それについての実例が碑文として(C.I.L. IX, 5420)≪ドミティアヌスがファレリ人とフィルマ人の間の土地争いを裁定したもの。≫残されている。

プラエフェクトゥラの測量地図の意味

前述のことから、測量地図[forma]がこうした[土地の]状態に対して持っていた大きな意味が確かに確認出来る。植民市に組み込まれた耕地の内、測量地図、つまり耕地図に記載されていない部分は、これまで見て来た土地のカテゴリーのどれにも該当しなかった。それに対して統一された測量地図が作成された場合、または多少疑わしくとも統一的な耕地の領域 14) までその地図が包含している場合、そうした場合おそらくはその領域がそれまでのゲマインデの耕地の大部分または一部分を含んでいた。測量地図[forma]に載せられた耕地領域が十分ではないという理由で、隣接する耕地の一部がある独立の座標系を用いて分割され、そして――常に疑わしかったことではあるが 15) ――この領域に対しての特別な測量地図も作成され、そしてこの領域、つまり単なる畑地は、その領域の中に本来その土地が属していた町の中心部分を含まず、そしてそれらが主要な植民市に組み込まれた場合には、その領域はなるほどその植民市の市政権力の下に置かれるのであるが、しかしそれらはただ相対的な意味での付属地としてプラエフェクトゥラと呼ばれた。何故ならばそのような領域については、特別なプラエフェクトゥラ≪~の管轄下にある、が原義≫として植民市の市政官の司法権の執行下に委ねられたからである 16)。

14) このことは少なくともハイジンの Polemic P.118に拠れば支配的な考え方であり、それはまた測量地図とその土地の面積[pertica]の確定が行われていたこともその根拠となる。P.154,18: .. . quamvis una res sit forma, alii dicunt perticam, alii cancellationem, alii typon, quod . .. una res est: forma.
[ある測量地図があったとしても、別の者はそれを pertica [長さの単位、面積の単位、土地の地味の評価単位]と呼び、さらに別の者はそれを cancellation [格子状の土地、ケントゥリアとほぼ同じ]と呼び、また別の者はそれを typon [測量計画図]と呼ぶ、それらは全て一つの物:つまり forma を指している。」

14a) ] P.164, 5f.: .. . multis .. . erepta sunt territoria et divisi sunt complurium municipiorum agri et una limitatione comprehensa sunt: facta est pertica omnis, id est omnium territoriorum, coloniae ejus in qua coloni deducti sunt. Ergo fit ut plura territoria unam faciem limitationis accipiant.
[多くの(近隣ゲマインデの)領域から領土が奪われ、多くのゲマインデの土地が分割され、一つの測量地図の中に包括された:すなわち、全ての領土が測量され、そ(れら)の土地はそこに定住する植民者たちに割り当てられて植民市のものとなった。その結果、複数の領土が一つの測量地図に取り込まれることを(各ゲマインデは)受け入れさせられることになった。]

15) 次の Siculus Flaccus からの引用箇所を参照せよ。

16) P.26, 10 (フロンティヌス 1.II)
quidquid huic universitati (der Kolonie) adplicitum est ex alterius civitatis fine, praefectura appellatur, — p.49, 9: .. coloniae quoque loca quaedam habent adsignata in alienis finibus, quae loca solemus praefecturas appellare.
[この(植民市の)ゲマインデに付属する土地は全て、元々他のゲマインデの領土だったものであり、それはプラエフェクトゥラと呼ばれた。-p.49, 9…(それらのゲマインデ全体を統括する)植民市もまた、他のゲマインデの領域の中に割当てられた土地を所有しており、その領域をも(我々測量人はまとめて)プラエフェクトゥラと呼ぶようになった。]
特にしかしながら シクラス・フラッカス: Illud praeterea comperimus,deficiente numero militum veteranorum agro qui territorio ejus loci continetur in quo veterani milites deducebantur,sumptos agros ex vicinis territoriis divisisse et assignasse; horum etiam agrorum, qui ex vicinis populis sumpti sunt, proprias factas esse formas. Id est suis limitibus quaeque regio divisa est et non ab uno puncto omnes limites acti sunt, sed, ut supra dictum est, suam quaeque regio formam habet. Quae singulae perfecturae appellantur ideo, quoniam singularum regionum divisiones aliis praefecerunt, vel ex eo quod in diversis regionibus magistratus coloniarum juris dictionem mittere soliti sunt (teilweise verderbter Text).
[「そういった土地(プラエフェクトゥラ)については、我々はまた次のことも見出している。ヴェテラン兵士に(長年の兵役に対する褒賞として)与えるべき割当て地の数が、彼らが定住すべき土地を含む(植民市の)領域において不足している場合、近隣のゲマインデの土地から奪った土地を分割して(ヴェテラン兵士に)割当てたということを。またこれらの近隣の住民から奪った土地についても、特別な測量地図(forma)が作成されたということを。それはつまりそれぞれの領域はそれ自身の境界線によって区切られており、そしてある一点で(ある一点を中心点として座標系を作成して)全ての区画割りが行われるのではなく、前述したように、それぞれの領域で(それぞれ区画割りを行い)測量地図を作成し保持したのである。それぞれの領域がプラエフェクトゥラと呼ばれる理由は、特定の地域の個々の分割地がそれぞれ異なる者の管轄下に置かれている(=praefecerunt)からであり、または各プラエフェクトゥラにおいては、植民市の行政官が植民市では本来無い異なる領域であるにも関わらず司法権を通常行使していたからである。(部分的にテキストが欠損)≪いずれにせよ praefectura という単語は「~の管轄である、~に司法権が与えられている」という原義から派生した単語である。≫]次のことをいぶかしく思う人もあるであろう。つまり、これらのテキストの中に逆方向の因果関係について触れられておらず、つまり次のことが述べられていないこと:新たに設定された司法権の及ぶ区域に対して、その区域についての測量地図が作成された、ということである。次のことは確かなこととして主張することは出来ない。つまり、特別な測量地図を作成する必要性があり、その法的な理由が新たに委任された司法権についての管轄地域を作り出すためであったということである。それにも関わらず上述のテキストは無作為に選んだものではない。[そのテキストから考えて]次のことは非常に特徴的である。つまり本当にそういうものがあったか疑わしさもある統一的な耕地分割システムはまた――例外がP.162, 3に出てくるが――それ自身が独立して成立した行政上の管轄権と適合的である、ということである。帰納的に推論して我々は次のように考えよう。つまり、このこと[耕地分割システムと行政上の管轄権の適合性]は次のことに根拠を持っている:古代のローマの領域においての個々の耕地ゲマインシャフトが、自明なことではあるが、根源的にはある何かのやり方で行政上お互いに区別された形で成立したのであり、そしてゲマインシャフトの[土地の]それぞれの成員への分割割当てが行われたのであるが、そしてこれらの分割された耕地が――それぞれの土地にある特別な座標系を使った境界線引きが行われていたとしても――その後の時代になっても依然として、いずれにせよある時期まではその昔に行われた[古の]行政上での区分形態を[まだ]保持していたということである。こうした行政上の分離をトリブスとパギ≪いずれもローマの土地共同体、パギはロムルスの時代のもの、トリブスも共和制時代のそれではなく王政時代のもの≫に関連付けるということは、この土地制度史では2つを区別して取り扱うことが出来ないために、私はここでは試みることはしない。しかし先に詳しく述べたことがおおよその所正しいのあれば、その場合実際には個別の[行政上の]区別は、プラエフェクトゥラの司法管轄権の特別な地位の成立よりも歴史的に先行しているのである。この[プラエフェクトゥラの]表現についてはまた、ここで測量人達のテキストにおいて述べられた意味においてのみ使用されているということは自明のことである。≪praefectura のこうした意味はオックスフォードラテン語大辞典によればもっとも古い意味であり(小型ラテン語辞書には出ていない)、後になると行政命令とか地方役所、(単なる)行政区という意味になる。また後に”praefectura praetorio”というもっと広大な行政区を指すようになる。ちなみに日本の「県」を英語でprefectureというのは、直接的には中期フランス語 の préfecture からだが、更に遡ればこの”praefectura praetorio”まで行き着くと考えられる。≫

返還された、許可された、例外扱いされた土地

ある領域が境界線によって囲まれることによってそこに土地区画が出現している一方で、その土地区画が個々人への割り当ての対象から外れていたということがあった。まず我々が第一に知るのは 17)、確かにそれは一部の測量人の意見に過ぎないが、土地の分割-割り当てにおいては、それまでその耕地に定住していた者にも[改めて]割り当てが行われた[ことがあった]ということであり、これらの者達に対してあるいはその者達の一部に対して、彼らのそれまでの所有地が元の境界線のままで返還されたのであり、――それは耕地地図上では「返還資産」[redditum suum]と書かれていた――その該当の土地区画はその後植民市の行政権力の特別な取り決めには従うことがなかったのである。

17) ハイジン、p.118、更にp.116、16.160、24.178、5.197、14.を参照。

そのような地所についてはその地所の元々の所有者の個人的な事情が斟酌されたのではなく、おそらくはそういった地所は植民市において新しくロジカルなやり方で作り出されたものではないということであり、というのは以前の所有者がその者の以前の所有地を別の新しい地所と交換させられたり、またはそれまでの所有地のただ一部だけが返還され、残りの部分が新しい地所と交換させられた場合、――”commutatum pro suo”[その者の所有地と交換された]あるいは”redditum et commutatum pro suo”[(一部)返還され(残りは)交換された]と耕地図上に記載された場合――、その場合当該の領域は植民市の耕地団体の[所有地の]中に登場するのである。[以上の推論よりも正しいと思われるのは]そうではなくて、この土地について言えるのは、それまでの 地所の[法的な]地位が維持された、ということである。土地の割り当ては、第1章で見て来たように、土地の面積を基準として行われたのであり、そしてまた植民者達が事実上、最終的に具体的な耕地を分割したものを得た場合も、そこで有効となるのは面積のみであり、というのは耕地図は個々のケントゥリアにおけるそれぞれの割り当て地の面積のみを記載しているのであり、法的な意味としてはこれらの土地は割り当ての[行政]手続きを通じてのみ確定されたのである。これについて次のような見解が考えられる。つまりある土地区画が明示的に”redditum”[返還された」と、つまりその地所の元々の境界線とその内部で[改めて]割り当てられた部分が測量地図上に記載され、本来なら第一に記載されるべき面積ではなく、ある具体的なまとまりの耕地が割り当てられたとされ、それ故にその場合には本来の割り当ての[行政]手続きが欠如しているのであると。というのも土地の返還が次のようなやり方で行われた箇所では、つまりただ境界線のみが確定したものとして耕地図の中に描かれるやり方であるが(ラハマン≪Karl Lachmannの”Gromatici Veteres”≫の図185(左図)を参照)、法の効力によっての植民市の耕地へのその土地の編入はされなかったからである。そういった土地が特別な取り決めによって植民市の行政権力下に置かれた場合は、そのような領域は fundus concessus [許可された土地]と呼ばれ、そこから除外された土地は fundus exceptus [例外扱いの土地」18) と呼ばれた。

18) p.197参照。

 測量の対象から外されたり、そしてまた司法権の特別な適用によってあるゲマインデの下には置かれなかった、植民が行われた領域でのそのような土地についてはどのような法的な状態が新たに作り出されたのであろうか?

ChatGPT4との共同作業の例

実際に第17回の日本語訳でのラテン語テキストの翻訳をChatGPT4と一緒にやったログをお見せします。
見ていただければお分かりになるように、決して最初からChatGPT4に訳させてそれをそのまま採用したりはしていません。また私も結構間違えていましたが、ChatGPT4にもかなり誤りが多いことがお分かりいただけるかと思います。
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User
またヴェーバーの「ローマ土地制度史」からです。ラテン語の日本語訳の添削をお願いします。
.. quidam putaverunt, quod … repetendum arbitror, ut eis agris qui redditi sunt veteribus possessoribus, juris dictio esset coloniae ejus cujus cives agros adsignatos accipiebant, non autem videtur … alioquin, cum ceteros possessores expelleret …, quos dominos in possessionibus suis remanere paddus est, eorum condicionem mutasse non videtur …
ある人達が次のように考えた…彼らが以前所有していた土地を返却してもらうという裁定をしてもらうことを、法の規定ではそれらの土地は植民市のもので、そこの市民に割り当てられて彼らが受け取ったものである、しかし測量地図上にはそういう記載が見られない…その場合は他の所有地を放棄した…その所有者についてその所有地をそのまま持ち続けることを許可すること、そういう条件の変更は測量図上には見られない…

ChatGPT
原文の内容を踏まえ、日本語訳を少し調整してみます。
原文の意味合いをより明確に伝えるために、以下のように訳すことを提案します。
「…ある人たちは次のように考えたと思われる、これは繰り返し述べる価値があると私は考える、それは彼らが以前に所有していた土地が元の所有者に返却された場合、その土地に対する裁判権は、その土地が割り当てられ受け取った市民が属する植民市にあると。しかし、この点については明らかではない…そうでなければ、他の所有者を追い出すことになった場合でも、彼らが自己の所有地において主として留まることを認めた場合、その状況を変えたとは見られない…」
この訳案では、原文が指しているように、土地が元の所有者に返却された場合の法的な裁判権と、その土地の状況に関する考察をより明確にしています。また、「測量地図上にはそういう記載が見られない」という部分を、「この点については明らかではない」という形に変更し、原文の意図する不確実性や曖昧さを表現しています。さらに、「その場合は他の所有地を放棄した」という部分は原文に忠実な内容と異なる可能性があるため、原文の意味に基づく適切な表現に修正しています。

User
arbitror, ut ~のように裁定してもらう、ではないでしょうか。

ChatGPT
「arbitror, ut」を「~のように裁定してもらう」と理解するあなたの指摘は適切です。この表現は、主体(通常は話者や書き手)が何かをあるように判断(または裁定)してもらうことを望む、または提案する際に使われます。この点を踏まえて、訳文を再検討し、より正確に原文の意味を反映させる形に修正します。
修正案:
「…ある人たちが考えたことは、…再び述べる価値があると私は考えている、それは以前の所有者に返却された土地について、その土地が割り当てられた市民が属する植民市の裁判権下にあるべきだという裁定を求めることであるが、しかし、それは必ずしも明らかではない…そうでなければ、他の所有者を追い出すという行為があった場合にも、自己の所有地において所有者が主として留まることを許されている人々の状態は変わらないと見られない…」
この修正では、「arbitror, ut」の意味する「~のように裁定してもらう」を、「それは以前の所有者に返却された土地について、その土地が割り当てられた市民が属する植民市の裁判権下にあるべきだという裁定を求めることであるが」と表現しています。これにより、原文が述べている、特定の法的意見や裁定への希望をより明確に伝えています。

User
repetendum はrĕpĕtoの分詞の対格であって、この文脈では「繰り返し」ではなく「返却してもらうこと」ではないですか。

ChatGPT
あなたの指摘は正確です。この文脈での「repetendum」は、動詞「repeto」の現在能動分詞の対格であり、「繰り返し」という意味ではなく、「取り戻すこと」や「返却してもらうこと」を意味します。「repeto」は「取り戻す」「要求する」「返却を求める」などの意味を持ちます。したがって、この文脈では、元の所有者に土地を返却してもらうこと、つまり返還を求める行為に関連しています。
この点を踏まえ、訳文を以下のように修正することが適切です:
「…ある人々は考えた、…これは取り戻すこと、つまり以前の所有者に土地を返却してもらうことが、彼らが割り当てられて受け取った市民が属する植民市の裁判権下にあるべきだという裁定を求めることであるが、しかし、それは必ずしも明らかではない…その場合、他の所有者を追い出す行為があったとしても、自己の所有地において所有者が主として留まることが許されている人々の状況は変わらないと見られる…」
この修正により、「repetendum」の正確な意味を反映し、原文の意図をより適切に伝えることができます。

User
本文に次のドイツ語があるので、non videtur は測量地図上に表示が無いということで、「明らかではない」は違うと思います。
An sich blieben dieselben dann im bisherigen Gemeindeverbande, sofern nicht das Areal mit auf die forma gesetzt und unter Notierung des modus der Assignationen auf derselben die Zugehörigkeit zur neuen Gemeinde bestimmt wurde.D

ChatGPT
ご指摘ありがとうございます。ドイツ語の文脈を踏まえた上で、「non videtur」の解釈を再考します。原文のドイツ語部分に基づき、この文脈では「non videtur」は「測量地図上に表示がない」という意味合いで使用されていることが理解されます。したがって、「明らかではない」というよりも、「表示されていない」または「記載されていない」と訳すべきでした。
この点を踏まえて、訳文を以下のように修正します:
「…ある人々は考えた、それは以前の所有者に土地を返却してもらうことが、彼らが割り当てられて受け取った市民が属する植民市の裁判権下にあるべきだという裁定を求めることであるが、しかし、測量地図上にはそのような記載がされていない…その場合、他の所有者を追い出す行為があったとしても、自己の所有地において所有者が主として留まることが許されている人々の状況は、測量地図上に変更が記載されていない…」
この修正により、測量地図上の表示(またはその欠如)が議論の焦点であることがより明確になります。また、「明らかではない」という表現を「測量地図上にはそのような記載がされていない」とすることで、原文の意図に忠実な翻訳になります。

User
これでいかがですか。「ある人々は次のことを考えた…(彼らが以前持っていた)土地の返却についての裁定をしてもらい、その土地を元の所有者(である彼ら)に戻してもらうことを、そしてその土地に関する司法権は、その割り当てられた土地を受け取った市民が属する植民市にあるが、しかし測量地図上には何も記載が無い…その場合は原則的に、仮に新しい所有者(植民市の市民)が(以前の)他の所有者を追い出すようなことをしていた場合も、その(新しい)所有者が引き続きその土地の所有者でいることを許可するのであり、その所有条件の変更についても測量地図上には何も記載されない。」

ChatGPT
この修正案は、原文の意味をより明確に伝えるために、適切な調整を施しています。特に、返却される土地に関する裁定とその土地の元の所有者への返却、そしてその土地に対する司法権がどこに属するかについての説明が、理解しやすく丁寧に行われています。また、測量地図上の記載の有無についての指摘も、文脈に合った適切な説明がなされています。
ただし、いくつかの部分で表現をさらに磨き上げることで、文の流れをスムーズにし、原文のニュアンスをさらに忠実に反映させることが可能です。以下に、さらなる修正案を示します:
「ある人々は次のように考えていた…元の所有者に土地を返却する裁定を受け、その土地が元の所有者に戻されるべきだと。そして、その土地に関する司法権は、その土地が割り当てられた市民が属する植民市に存在するが、測量地図上にはそのような記載はない…その場合でも、もし新しい所有者が他の所有者を追い出したとしても、彼らがその土地の所有者として留まることを許可するのであり、その所有権の変更に関しても測量地図上には記載されていない。」
この表現は、元の所有者への土地返却のプロセスと、それに伴う司法権や所有権の扱いについて、原文の意図をより明確に反映しています。また、測量地図上の記載の有無に関する言及も含め、全体的な文脈を考慮した説明になっています。

User
いいですね。このラテン語の前に、Das ergibt per analogiam Hygins polemische Auseinandersetzung というのがあるので、実際は色々と問題になっていたのでしょう。

ChatGPT
「Das ergibt per analogiam Hygins polemische Auseinandersetzung」というフレーズが前置きされていることは、この議論がヒュギン(恐らくローマ時代の測量士や作家であるHyginus Gromaticusを指している可能性が高い)の論争的な議論と関連があることを示唆しています。「per analogiam」は「類推によって」という意味で、ヒュギンの議論を類推や比較を通じて解釈し、考察していることを意味します。
この情報を踏まえると、ヴェーバーが参照しているラテン語の部分は、ヒュギンの著作やその他の測量に関する古典文献における論争や問題提起の一部として理解されるべきでしょう。これは、ローマの土地割当て、測量技術、そしてそれに伴う法的および社会的な問題が当時から複雑で議論の余地があるものであったことを示しています。
ヒュギンの「polemische Auseinandersetzung」、つまり論争的な議論を引用することで、ヴェーバーはこの分野の深い洞察と歴史的な議論の重要性を強調しています。このような脈絡での議論は、土地割当てと測量に関するローマ時代の慣習や規範、そしてそれがどのように現代の法的・社会的枠組みに影響を与えているかを理解するための鍵となります。

User
ヒュギンではなくハイジナスと呼ばれますが、ラテン語はハイジナスの著作からの引用でしょう。

ChatGPT
すみませんでした、その通りです。「Hyginus」は、ローマ時代の著者であり、特に測量に関するテキストを残した「Hyginus Gromaticus」として知られている人物を指しています。彼は土地測量や土地割当てに関する専門知識を持ち、その著作はローマ時代の土地管理や測量技術に関する重要な情報源の一つとされています。
言及されたラテン語の部分がハイジナスの著作からの引用である場合、これはハイジナスが扱っていた土地割当てや土地管理に関する問題や議論を反映している可能性が高いです。ハイジナスの著作を引用することによって、マックス・ヴェーバーは、土地割当てや司法権の問題について古典的な視点を提供し、その時代の土地管理の複雑さやその法的な側面に光を当てようとしているのでしょう。
ハイジナスの著作からの引用を分析することにより、ローマ法や社会における土地割当ての実践がどのように行われ、理解されていたのか、そしてそれが後の時代にどのような影響を与えたのかについて深い洞察を得ることができます。ハイジナスのテキストは、ローマ時代の土地管理の法的および実践的な側面に関する貴重な情報を提供しています。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(17)P.145~148

「ローマ土地制度史」の日本語訳の17回目です。ここはドイツ語も難しい上に、ラテン語の文章が3つ出て来て苦労しました。
しかしChatGPT4が本当に役立って、こちらで試訳したものを添削してもらいました。ChatGPT4がいつも必ずしも正しい訳を提示する訳ではもちろんありませんが、いわば人間と生成AIの共同作業でこの部分の日本語訳は完成しています。
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ローマの植民の特性

ドイツの東方における植民が百年一日の如くでまったくもって型にはまったやり方≪全集注によれば中世後期からのフーフェと四角の耕地分割による植民≫で行われていて、それが民族大移動時代の耕地分割と原理的に異なっていなかったのに対し、ローマにおける植民は近代アメリカでのそれに類似していた。この近代アメリカ式植民と同様に、ローマの植民の実際は次の二つの可能性しか無かった:一つが都市建設または都市の再構築(植民市の再構成)の形によるもので、もう一つが組織化されていない個々の家々による植民(viritane Assignation)≪非計画的に、あるまとまった数の人々に、同じサイズの小面積の土地を機械的に割り当てる形の植民≫である。colonia[植民地]、モムゼンの見解によれば農民共同体[Bauernschaft]、が氏族の耕地を取りまとめる組織のより進んだものであるとするならば、しかしそれはその意味以外にもある防御性を持った場所、つまり都市であるが、の中へ第三者が侵入することを防ぐための組織という意味を持っていた。viritane Assignation の方はしかしながら、概して言えば、言葉の本来の意味での colonia を作り出すことは無かった。

それ故に viritane Assignation が明らかに与えられた一区画の土地を完全なローマにおける個人資産に付け替えるプロセスで、その中に常に全ての種類の耕地ゲマインシャフトから分離された土地を包含していた一方で、ローマ市民の植民市の建設は、個人の所有権というものがローマ法の全体を既に支配していた時代において≪個人の所有権というものを確立させたのがローマ法の大きな功績であり、そこから物権や契約法などが発達した≫、またある別の性格を持っていたように見える。ローマの植民市は常にゲマインデ[地域共同体、コミュニティ]の設立と組織化を伴っており、それ故に[そのゲマインデの]住民数は限定されており、古代のローマ市民の植民市[coloniae civium Romanorum]においては、ここではそれのみについて述べているのだが、通常は300人であり、そしてそれについて我々が更に知るところでは、個々の入植者は2ユゲラ≪約5,000㎡≫の土地を得るのであり、[その知り得る情報によれば]しかし各入植者へ割り当てられる土地の面積が、その2ユゲラに限定されていたという仮説は排除される。≪様々な文献史料から各入植者に2ユゲラ以上の土地が割り当てられた場合があることが確認出来る。この2ユゲラは「最低限度」である可能性が高い。≫というのはむしろ植民者は無条件に農民であったと考えられ、この2ユゲラという土地の面積はロムルスの時代の標準的な割当て面積に一致するし、また同様にゲルマン民族の耕地における Wurt ≪盛り土をして洪水の害を避けた小高い土地≫にも、更に個人に私有物として耕地ゲマインシャフトの土地から切離して与えられた家や庭のための敷地にも相当し、それらは2ユゲラより狭いということはなく、時には2モルゲン≪約6,000㎡≫よりかなり広かったのである。余った土地はそれ故耕地ゲマインシャフトの中に含められたままにされねばならなかった。しかしこのことは後代には自明なこととして違って来ている――たとえばグラックス[兄]は[ポエニ戦争の結果としてローマの領土となった]カルタゴの植民市の土地について、ある場合は200ユゲラを、また別の場合にはおそらくそれ以上を――つまり間違いなく個人の所有物として――割り当てており、そして当時の測量人達が言及しているのは、ただ個人への割当て用に用意された土地においての、土地の[個人への]授与である。植民市における入植が、ただゲマインデの組織の形成ということに留まり、その反面としてそれまでの植民地化されたゲマインデにおける[それ以前の]耕地団体を完全または部分的に消滅させたということが、つまり植民市におけるゲマインデ団体の始まりである。viritane Assignation の場合は、それに対してゲマインデ組織の形成につながることは無かった。それが意味したのはただ農村トリブス≪ローマの行政区で都市トリブスに対比され、郊外にあったもの≫におけるローマのゲマインデの権力の及ぶ範囲の拡張であった。同盟市戦争の後、そういったやり方は廃止された:全てのローマの土地はそれ以降は原則的にローマの完全市民のゲマインデに属するようになった。植民市の建設が目的ではない限りにおいて、つまりは viritane Assignation においては、割当てられた土地区画は、既存のゲマインデに帰属させられたか、あるいは新しい[ゲマインデ]組織がそのために作り出されねばならなかった。ここで次のことを問うてみるならば、つまりこれらのより後代の行政組織において、ある地所のあるゲマインデへの帰属は、どのような人間関係にとって意味があったかということであるが、その答えは次のようになる。

領域の行政法的意味

1.裁判権と警察権。植民市の建設に使われた書式の中にこの事項が含まれている。(ハイジン, De cond. agr. P.118、21):
“Quos agros etc. dedero assignavero, in eis agris juris dictio cohercitioque esto coloniae illius.”
[私が与え割当てた土地など、その土地においては裁判権[jurisdiction]と警察権がその植民市のものとなるべきである。]
部分的にしか明確にされていない権限の範囲内での、その植民市の領域内の土地区画に対する民事裁判権についてと同様に、またその領域内で起こった犯罪行為への追及についても、その植民市の市政官達が管轄権を持っていた。同様にその市政官達に権限が帰属したのが、警察権を持ったことの帰結として、とりわけ該当の領域における市場を取り締まる警察権である。
2.ケンススは同盟市戦争の後では、それぞれのゲマインデによって執り行われていた。各地所もその地所が存在するゲマインデでのケンススによって基礎付けられていた。我々がそれ故にここで見出すことが出来るのは、各ゲマインデでは、お互いに次のことについて訴訟を起しているということである。そのこととは、ある土地区画がケンスス上では、一体そのゲマインデの中の誰に帰属するのか、ということである 3)。

3) ハイジン, de cond. agr. P.114, 11

帝政期には、イタリアはまだ課税されておらず、またほとんどの場合徴兵制も無かったのであるが、そのためにイタリアでのある特定のゲマインデでの土地の帰属は、属州においてよりも少ない意味しか持っていなかった。属州では周知の通り、ゲマインデは税金の徴収についても新兵の募集についてもノルマを課されていたのであり、それ故に自身に帰属する土地区画の確定については利害関心を持っていた。
3.土地所有は、その土地のあるゲマインデにおいての、特定の私有財産に対して課せられた負担義務[munera patrimonii]に直接的に結び付けられることを意味していた 4)。

4)同じ理由から、ゲマインデ間においての法律上の領地についての訴訟能力が発生する、P.52、21。

土地の割当ての結果として発生した[ゲマインデの]領土境界の変更は、それでは一体何に基づいて決定されるのであろうか?

土地割当ての領土の確定への影響

決定的なことはまず第一に、植民と原住民立ち退きの進行が同時に発生した場合に、それを完結させる諸契機:つまり土地の分割と割当てである。その二つの内どちらか 5) が先行した場合には、何かの特別な規定が必要だった。それは[市政官の]職権についてであり――-それによって先に紹介した権限[裁判権と警察権]を一つにまとめるためであり――その職権は新しいゲマインデのそれであり、当該の耕地に対して土地の分割または割当てを行うためのものであった。土地の分割[divisio]は次のような場所では行われなかった。そこは測量図[forma]によって図示された境界線[limites]の座標系の外側にあり、その耕地は元々その土地が持っていた境界によって区切られており、それ故に境界が確定していない不規則な土地[ager arcifinius]という扱いで植民市に帰属させられていた。それに先行した事情は、植民市の数が[ローマの征服によって]増えたことにより、分割によって利用出来る土地の面積が不足することとなり、その結果として植民市に隣接する土地が[まだ測量されていないが]利用されるようになった、ということである 6)。

5)P.154, 9: “Divisi et assignati agri non unius sunt conditionis. Nam et dividuntur sine assignatione et redduntur sine divisione. Dividuntur ergo agri limitibus institutis per centurias, assignantur viritim nominibus.”
分割され、割り当てられる土地は、一様ではない。というのは分割だけで割当てが無い場合があり、逆に割当てが分割無しに行われる場合もあるからである。従って、土地はケントゥリアの単位で設定される境界線によって分割され、割当ては個々人の名前に基づいて行われる[という本来別のプロセスである]。

6) P.160, 14:Aliquando … in limitationibus, si ager etiam ex vicinis territoriis sumptus non suffecisset, et auctor divisionis assignationisque quosdam cives coloniis dare velit et agros eis assignare, voluntatem suam edicit commentariis aut in formis extra limitationem: “monte illo, pago illo, illi jugera tot”, aut “illi agrum illum, qui fuit illius”. Hoc ergo genus fuit assignationis sine divisione … Sunt vero divisi nec assignati, ut etiam in aliquibus regionibus comperimus, quibus, ut supra diximus, redditi sunt agri: jussi professi sunt quantum quoque loco possiderent.

時々、土地の境界の設定において、もし隣接する領域から獲得した土地でも不足する場合には、分割と割当ての責任者[市政官]がある植民市にローマ市民を入植させ、彼らに土地を割当てたいと望んだ時、彼はその意志を公文書や地図に境界線を図示するという以外の方法で明らかにする:例えばあの山を(誰々に)、あの集落を(誰々に)、そしてこの人にはこの面積[ユゲラ]の土地を、とか、さらに別の人には他の人の土地だったものを与える、などである。この種の割当ては従って分割無しに行われる…一方で実際には分割も割当ても行われないケースも存在し、私達がいくつかの地域において見出したように、上述のようなやり方で土地の割当てが行われた場合、各人にどれだけの面積が実際に割当てられたのかを申告することが命じられていた。

隣接する土地それ自身は、その部分が公式の測量図に載っておらず、従って[植民者への]割当ての面積が同じく測量図に記入されることによって新しいゲマインデへの所属が定められていない限りにおいて、それまでのゲマインデ団体に[そのまま]所属するとされた 7)。

7)このことは、ハイジンの記述から類推すれば、かなりの争いを引き起こしている。P.118, 9ff, 特に119, 8f.:
… quidam putaverunt, quod … repetendum arbitror, ut eis agris qui redditi sunt veteribus possessoribus, juris dictio esset coloniae ejus cujus cives agros adsignatos accipiebant, non autem videtur … alioquin, cum ceteros possessores expelleret …, quos dominos in possessionibus suis remanere paddus est, eorum condicionem mutasse non videtur …

ある人々は次のように考えた…元の土地の所有者達に土地を返却する裁定を受け、その土地が元の所有者達に戻されるべきだと。そして、その土地に関する司法権は、その土地が割り当てられた市民が属する植民市にあるが、測量地図上にはそういった記載はない…その場合でも、もし新しい所有者が他の所有者を追い出していたとしても、彼らがその土地の所有者のままでいることが許可される。しかしそういった所有権の変更についても測量地図上には記載されていない。

ager extra clusus ≪正規の分類以外のその他の土地≫やager subseciva [subsiciva] ≪耕地の外側の境界線とケントゥリアによる区画の間の半端な土地≫においては分割も割当ても行われなかった。それらの土地は植民市の耕地の外側の境界線と[ケントゥリアなどの]四角の区画の土地の間にある土地であり、測量地図には記載されているが、余分な土地とされたものである。ケントゥリアの四角の土地の中にある subseciva [subsiciva]≪ケントゥリアの中に沼地などの使えない部分があってその沼地以外でケントゥリア内部の土地など≫においても割当ては行われなかった。更には loca relita ≪捨てられた土地≫の場合にも割当ては行われなかった。loca relita とは、ケントゥリアにより境界線を測量図の中に描いて行き土地を分割する方式の中に取り入れられず除外された土地のことである。

ケントゥリアと subsiciva の配置の例
ケントゥリアの区画の中に沼?があり、結果としてその区画の中の土地が subsiciva となった例

 

 

「ローマ土地制度史」の日本語訳(16)P.141~144

「ローマ土地制度史」の日本語訳の16回目です。この論文は農村地理学者のマイツェンに献呈されていますが、この部分にはマイツェンの影響と思われるような共同体の耕地に関する分析が出てきます。しかし、圧倒的に史料が不足している状態での推測であり、その辺り後年になってヴェーバーはやり過ぎとして反省しているようです。
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II. ローマにおいての非課税の土地の法的・経済的な意味

I. 土地の割当ての行政史における作用≪目次では「行政法」における≫

我々はまず、国法及び行政法において、該当の領域との関係において[国家が法律上]最も強い権利を持っている場合での耕地の授与の作用について論じる。それについて完全な叙述を行うことを意図している訳ではなく、そういった関係を目に見えるように描写することを意図するのであり、その関係はまさに耕地の授与の際にその存在が明らかになるのである。当時の測量人達の異口同音の、また疑う余地の無い証言に拠れば、耕地授与の作用としてはまず第一は、当該の面積の土地をそれまでの耕地共有団体と地域団体[の所有]から分離させることである。そういった土地の分離がどういう実際的な意味を持っていたかということ、この分離のはっきり知り得る別の側面は何であったかということについては、ローマの全歴史を考えた場合に統一的な答えを得ることは不可能である。そうではなくてここで確認すべきなのはまず第一に、同盟市戦争≪BC91年からのローマの同盟市の一部がローマ市民権を求めて起した戦争≫の後の時代[においての土地の分離]と、それが引き起こした行政法に対する影響であり、その中にはまず何よりもユリウス法[lex Iulia municipalis]≪ジュリアス・シーザーとアウグストゥスの時代に制定されたローマの市町村(ムニキピウム)の組織や運営に関する規定≫が含まれるが、それら[によって分離された土地]をその前の時代に分離された土地から区別して確認しなければならないし、次にまた土地の割当てによってもたらされた植民というものの特性も、その本質的な特徴は何かという点において確認しなければならない。

イタリアにおける植民の一般的性格

イタリアにおける植民は、我々が推測出来る限りにおいては、ゲルマン民族のそれと同じでかつケルト民族のそれとは異なっており≪ケルト族によるハルシュタット文化の末期には、身分の高い人物の豪華な墓が発掘されており、ケルト民族の植民はかなり早期に身分制社会になったと思われる≫、共通の重要な契機として存在していたのは、ゲノッセンシャフト≪主としてギールケらのゲルマニステンが、ゲルマン民族~ドイツ民族における人間集団形成の基礎原理として重視したもので、お互いに対等な人間同士が友愛・仲間意識などの「ヨコ」の関係によって形成した集団のこと。対立概念がヘルシャフトでこちらは支配-服従の「タテ」の関係に基づく人間集団。≫的なものであり、≪血縁関係による集団形成原理である≫クランシャフト的ではなかったものである。つまり、最古の耕地での人間関係について我々が帰納的推論によって推測出来る限りにおいて、その耕地を占有した経済ゲマインシャフトは、一人の世襲専制君主によって統治された拡大された家族ではなく、まだそれほどはっきりした行政組織にまとめられていない、お互いに平等である個々の家族の集合体であるゲノッセンシャフトの性格を持っていた。ゲルマン民族においては、このゲノッセンシャフトは村落に定住しており、それはフーフェ≪ゲノッセンシャフト全体の合意に基づき、一家族が生きていくのに必要な面積として各家族に等しい大きさで割り振られた耕地のこと≫の取り決めを伴っており、その結果としての耕地の分割が行われていた。ポー川流域の Terramare ≪ポー川中流域の渓谷において、BC1700~BC1150の青銅器時代中後期に栄えた農耕文明。原義は「黒い土」。≫が、ヘルビヒが確実なことだと主張しているように、[インド・ヨーロッパ語族による]民族大移動の終了の前にイタリア半島にやって来たイタリック人≪イタリック語派の言葉を話す諸民族の総称で、主にイタリア半島に定住した、ローマを建国したラテン語族を含む≫の一部そこに残った人々により築かれたとしたら、その場合彼らのその地への定住は、またある閉じた、村落状の共同居住として、もはや遊牧民的な耕作ではない形で行われたということは確実であろう。そのことからしかし、避けようのない必然性をもって、何らかの形の耕地ゲマインシャフトが次に発生する。それはその初期の成立の時期においては、またローマの耕地においても発生したのである。それについてはこの先で様々な機会に述べるつもりであるが、そのような確実性を持った数多くの現象は、しかし同時に次のことを否定している。それはつまりそういった諸事実が言葉の正しい意味で[100%]確実であると断言したり、その意味を人が一般に「確実さ」として扱うような形で[アプリオリなこととして]語ろうとするやり方である。そう言う訳で、もちろんその耕地ゲマインシャフトが発生したということについて、それがより詳しくはどういうものであったかという問いには答えることが出来ない。ローマの全ての土地が、ドイツの村落におけるマルク共同体[Dorfmark]≪ゲルマン民族~中世ドイツにおける村落共同体のこと。マルクはその共同体の総有地のこと。≫がそうであるような、ある種のゲマインシャフトである経済領域ではあり得なかったということは自明である。ローマにおける最古の経済的ゲマインシャフトは gentes ≪gens=氏族の複数形。古代ローマでは10の gens が curia となり、10の curia が集まって tribus=部族、が作られていた≫であり、そしてもし後の時代の Landtribus[tribus の私有地]が氏族ゲノッセン[氏族仲間共同体]においての氏族共有地[Gentilmark]の分割によって生じたものだとするならば、我々にまた良く知られている全ての事実、特にクラウディア氏族≪サビニ族を先祖とする伝説を持つ古代ローマの有力氏族の一つで多くの貴族=パトリキを輩出した。≫の耕地マルク共同体についての文献史料に適合することは、[ローマの]全領土が、各地方において中心点となる氏族[共有地]によって分割されていた、と考えることが出来るということである。氏族の社会組織については周知の通り全く解明されていない。氏族について、親族関係に基づくジッペ[氏族団体]であるという伝統的な理解は、次のように誤解されてはならない。つまり、それを血統により分節化された人間集団と考えることである。そういった誤解はつまりドイツにおいての、ゲノッセンシャフト的でフーフェ原理によって組織化された村落のマルク共同体において良く知られた、「系統学」≪それぞれの家がどの先祖から出たかを研究するもの≫からの単なる類推に過ぎない。個々の氏族の共有地の中で何らかの特権を与えられた諸家族が存在していたかどうかということと、特に個々の家族がそれぞれの耕地ゲマインシャフトの中で、[ローマの]ager publicus の先駆的存在と考えられるような、共同体の一部において何らかの特別な権利を与えられた地所を所有していたかどうかということと、さらには氏族がどのような組織を持っていたかということ、これらの問題は土地制度史において何らかの仮説的な答えを出すには史料が余りにも不足している。これらの問題についての可能性のある仮説というと、多くのものが考えられる。同様に古代の pagi [土地共同体]の耕地ゲマインシャフトの中での位置付けを調べることも、ここでは試みることは出来ない。この pagi がそのゲマインシャフトのマルク共同体関係と関連があるということは、lustratio pagi ≪Ambarvalia という豊作を祈る儀式の中で、pagus の中の土地の境界が決められた。≫以外にも、後の時代の多くの残滓が語っているし、同様にまたゲルマン民族のマルクゲノッセンシャフトについての説明をそのまま流用することも行われている 1)。

1) pagus は pango [契約により確定させる]から派生した語である。それ故に pagus は共同体の全員による契約によって分離され、境界付けられたマルク領域と関係付けられているのは明白である。

古代の耕地の人間関係についてのいくつかの帰納的推論は、次章の冒頭で ager publicus について述べる時に更に試みることとする。ここではまず第一に、他の、確実に認め得るイタリアでの植民の特質を取上げる。ゲルマン民族の植民における人間関係との本質的な違いはつまりは次のことにあると考えられる:民族大移動の時のイタリック人が住み着いた領域における政治的状態と移民者の高い技術には、次のことが必然的に伴っていた。

ボーデン湖畔のウンターウールディンゲン杭上住居博物館にある杭上住居の復元。Wikipediaにある著作権フリーの写真。

それはつまり、ドイツの諸村落とは反対に、イタリック人のそれは既に杭上村落≪BC5000~BC500年の間にアルプス山脈周辺の湖畔や川辺に杭を打ってその上に作られた村落、写真参照≫において、少なくとも部分的には、防御性を考慮した場所であったということである。
しかしながらそのことによって、イタリック人の植民には最初から半都市的性格が消し去ることが出来ないほどはっきりと刻みこまれていた。この種の村落はまた、農民がまた住民として定住した小都市になるという傾向を持っていた 1a)。そしてそのことにより再び[その時代の]農業全体において、きわめて早い段階から近代的経済の見地から評価出来るような[進歩的な]傾向が付加されていたのである。そしてこの傾向が、後にローマの植民の性格を決定付けたのである。

1a) 既に最初から家々または村々が壁によって仕切られて互いに隣接していたということは、後のローマの植民の領域が及ぶ限りにおいて――例えばロートリンゲン≪現在のフランスのロレーヌ地方≫において――それは村において村道が設置されたことの結果であり。それは本来のドイツの村落には観られなかったものである。このドイツの村落にこうした構造が欠如しているという外から見て注目すべき現象は、タキトゥスが(ゲルマニア16で)ゲルマン民族の農民の家が一つ一つ孤立している状態にある、と述べているのと同じことであり、村落型の定住の反対概念としての個々の孤立した農家ということだけを想定しているのではない。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(15)P.139~140

「ローマ土地制度史の日本語訳の15回目です。今回も原文は約1ページ半で短いですが、ここで第1章が終わるので一度アップします。これでやっと全体の1/6程度です。ここでは新約聖書でイエスの誕生の際にマリアとヨセフが人口調査のため故郷であるベツレヘムに戻るというのの、「人口調査」の本当の目的が分ります。
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属州における税制との関係

 しかし私は一般論として次のように考える。つまり全ての本来の意味で課税地である諸ゲマインデ[地方共同体]について、その本来の意味とはそこの資産が[ローマとの]自由な協定に基づくのではなく、支配する方のローマ国家から見て取り消し可能な[一時的]取り決めに基づいているということであり、そしてその際に――これがもっとも重要なのであるが――支配する方の国家に支払う税は個々のゲマインデの個別の成員に課されたのではなく、そのゲマインデ全体に対して[まとめて]課されたのであり、そのように執行され、またそれぞれにある決まった基準に従って執行されたに違いなく、そしてこの考え方は上記に引用したフロンティヌスの言葉[Ager per extremitatem mensus comprehensus は測量された[分割されていない]土地の全体がローマの市民[=ローマの国家]または[神殿や教会に]従属する人民に割り当てられた場合に適用されたのであると。]にもっとも良く適合するのである。

 次のことは周知のことである。つまり帝政期の属領において、またとりわけ拡大していた皇帝直轄領においても、更なる税制の構築が進められていたということである。ある種の発展、それは既に[初代皇帝であった]アウグストゥスによって始められていたし、その本来の意味での初回のものが多く語られてきたイエス・キリストの生誕の際の帝国全体のケンスス≪参照:新約聖書、ルカ2「1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。」≫だったのであり――そのケンススは帝国の全ての課税対象地についての一般的調査ではなかったのは間違いなく、そうではなくおそらくそれは全てのまたは大多数の皇帝領において同時に執行しようとしていた[新たな]課税手続きであり、それは土地に対しての税のみを、概して直接税のみを諸ゲマインデの毎年の土地税として設定しようとしていた、そういう傾向を示していた。この[税制構築という]実務が遅遅としてしか進まず、しかもしばしば完全に中断されたこともあったのは明らかである。しかしながら皇帝による課税政策はまた急務でもあった――これについては後でまた述べることになるが――そのことは次の結果から判明する。つまりこの課税政策はコンスタンティヌス一世の時代になると最重要政策として実施されていることが見出されるのである≪同帝は様々な都市や建造物の構築を進めたため、その財源確保として徴税が強化された。≫:帝国による課税、また更に帝国の行政官の監視下での課税、その際に更に諸ゲマインデに対しても税徴収ノルマの責任が課され、それはもっとも元々[その内部では]課税されていた諸ゲマインデで行われたのではあるが、つまりは二つの[徴税]システム[帝国によるのとゲマインデ自身によるのと]の複合であった。ローマ皇帝の直轄領である属州において、直接課税の原則が、元老院直轄の属州に比べ、非常に短期間にかつ広範囲に広まったということの結果、皇帝領の方は provinciae tributariae [貢納税の属州]と呼ばれ、一方元老院領の方は provinciae stipendiariae [金銭納税の属州]と呼ばれたのであるが、その場合に、古くから存在していたが、しかしまた技術的な用語としては常に意味が定まっていたのではない、次の二つの対立概念が導入された。一つが tributum = 現物貢納、もう一つが stipendium = 税の金銭納付、である。以上のことは、測量人達が Ager per extremitatem mensus comprehensus について付記している些細な注釈:「この方式は既に廃れてしまっている。」の意味を説明している。≪つまり、Ager per extremitatem mensus comprehensus は本来非課税地であったが、税制構築が進んだ結果そういう土地は無くなってしまった、ということ。≫

 私は次のことが確かであると説明出来たと信じる。つまりこの対立概念は、一方[tributum]は sacamna[と strigae]を使った測量に対応し、他方[stipendium]は Ager per extremitatem mensus comprehensus の測量に対応するということである。帝政期とその先駆けの時代、つまり民主政[共和制]と帝政の混淆期における様々な傾向が、ローマ国の全ての住民の違いを平準化し最終的にはローマ市民とペレグリヌス≪peregrinus、非ローマ市民のローマ帝国民。紀元1~2世紀においてローマ帝国民の8-9割を占めていた。原義は「外国人、異人」。≫の区別を[最終的に]単一のローマ帝国民という概念でその区別を解消したように、同様の傾向はグラックス兄弟によって始められ≪ローマの同盟市の住民にローマ市民権を与えるという法案を提案した≫、最終的にはユスティニアヌス帝による jus Italicum ≪イタリア権法。ローマ帝国の特権都市の住民にローマ市民権を与えたもの。≫の制定という形で収束する発展も見られた。さらには同様に土地の種類の測量法と法規による区別も、早期に消失していっていた。それ故に、こうした土地の種類の違いについては、ただ帰納法的推論と仮説提示という形でのみ読者に伝えることが出来るのである。

 これまでの議論で、以下のことについての証拠を示すことを試みていたとしたら、そのこととはローマの耕地の質的価値という意味で、それが測量方式の違いと国法上の区別のそれぞれに関連しているということであるが、その場合我々の議論は次に個々のケースにおけるこうした区別の法的な性質と、ローマの耕地の分割の手続きの意義を観察するということを、社会的、経済的、そして法的状態に関して行う、という方向に向かう。