翻訳の日本語 接頭辞の「没」について

マックス・ヴェーバーの日本語訳の多くは、1950年代~1970年代に訳されていると思います。
典型的には創文社の「経済と社会」の日本語訳がまさにそうだと思います。そういった日本語訳を読んでいて気になるのが「没」という接頭辞です。例えば没価値、没意味などです。没価値(性)の元のドイツ語はご承知の通り、die Wertfreiheitです。「没」という日本語には、私だけの感覚かもしれませんが、単なる「無」や「非」より強いニュアンスがあるように思います。端的には「没」の意味を今の若い人に聞いたら、まずは「原稿や企画が却下される(ボツになる)」ことでしょうし、また当然「人が死ぬこと」の意味も連想すると思います。Wertfreiheitを「没価値性」と訳すと、何だか価値を強く否定して頭から問わない、という風に聞こえます。しかし元のドイツ語は単に「価値を最重点にしない」ぐらいの意味ではないのでしょうか。そもそも「無」「非」の意味の接頭辞としての「没」は既に廃れているように思います。ある国語辞書ははっきり「古語」と書いていました。私は「無趣味」というのは使いますが「没趣味」を使うことはありません。また「没交渉」と「無交渉」では意味が微妙に違い、「没交渉」はこちらから積極的に交渉を止めている感じがします。羽入書批判の時も「没意味的文献学」という非難が飛び交っていましたが。これも単に「意味を重視しない文献学」というニュアンスでは無く、「一番大事な意味をなおざりにする文献学」といった余計な感情が入っているように思います。世良晃志郎さんの日本語訳は、名訳として有名ですが、残念ながらこの「没」については非常に多用されていて、違和感があります。時代と世代の違いと言ってしまえばそれまでですが。

ヴェーバーとタイプライター

ヴェーバーの論文は、理解するのが非常に困難である、という悪評がある意味定評にもなっています。その分かりにくさの理由の一つに、説明のための図や表などがまったく無い(ことが多い)、というのもあると思います。それでヴェーバーがどのように原稿を書いていたのかと思って、タイプライターの歴史を調べてみました。Wikipediaによると、タイプライターが一般向けに販売され始めたのは1880年代ぐらいのようです。そうすると「中世合名・合資会社成立史」や「ローマ土地制度史」を書いていた頃、ヴェーバーがタイプライターを使っていた、というのはまずあり得ないことになります。手書き原稿に図や表を入れるというのは困難でせいぜい「ローマ土地制度史」で巻末に2つの図が添付されていますが、その程度ぐらいしか出来なかったのでしょう。
その後タイプライターは20世紀に入ると次第に普及し、職業としてのタイピストも登場しています。野﨑敏郎氏の「ヴェーバー『理解社会学論』の執筆事情とその定位 ―リッケルト宛書簡を手がかりとして― 」という論考によれば、「理解社会学のカテゴリー」や「経済と社会」の旧稿が書かれた1909~1914年の頃は、ヴェーバーが肉筆で原稿を書き、それを妻であったマリアンネ・ヴェーバーがタイプ打ちして、それをヴェーバーがチェックして最終原稿に仕上げていたようです。もっともタイプ打ちでも表ぐらいは入れられますが、当然のことながら図は入っていません。
今回の「ローマ土地制度史」の日本語訳にあたっては、可能な範囲で図や表を入れようと考えています。複雑な土地の区画の話を文章で説明されるより、図にして見せれば一目瞭然というのが多数あるかと思います。幸いにしてネット上には著作権が大昔に切れた図表類がかなりありますので、そういうのを活用しようと思います。

浜島朗の「権力と支配」の版の違いについて

現在講談社学術文庫で入手出来る浜島朗(濱嶋朗)氏の「権力と支配」は、ヴェーバーの「経済と社会」の中の支配の諸類型他の日本語訳です。この翻訳には実は3つの版があります。

(1)1954年、みすず書房版
(2)1967年、有斐閣(書名が「権力と支配 : 政治社会学入門」に変更)
(3)2012年、講談社学術文庫(書名が「権力と支配」に戻る。)

実は、(1)→(2)の時に、構成に大きな変更があり、みすず書房版が第二部は「支配の諸類型」だったのが、有斐閣版以降はその中の「官僚制」を残して後は削除されています。
現行の版の内容は、創文社の世良晃志郎さんの訳とすべてかぶっていますので、現在では正直な所日本語訳としてあまり価値は高くありません。むしろみすず書房版の第二部が、現在これ以外では日本語訳が無いため貴重です。私はみすず書房版をamazonのマーケットプレイスで買えましたが、「日本の古本屋」サイトでは検索しても出てきませんでした。

参考までに現行の版とみすず書房版の章構成を引用しておきます。
(みすず書房版に入っている「社会主義」は講演であり、「経済と社会」には含まれていません。)なお、この翻訳は全集第3版に基づくもので、有斐閣版、講談社学術文庫版もそのままです。

現行版(講談社学術文庫版)

第一部 権力と支配
 第一章 正当性の妥当
 第二章 官僚制的行政幹部をそなえた合法的支配
 第三章 伝統的支配
 第四章 カリスマ的支配
 第五章 カリスマの日常化
 第六章 封建制
 第七章 カリスマの没支配的意味転換
 第八章 合議制と権力分立
 第九章 政党
 第十一章 代表
 第十二章 身分と階級       

第二部 官僚制
 1 官僚制の特徴
 2 官僚の地位
 3 官僚制化の前提と根拠
 4 官僚制機構の永続的性格
 5 官僚制化の経済的および社会的帰結
 6 官僚制の権力的地位
 7 官僚制の発展段階
 8 教養と教育の「合理化」

みすず書房版(初版)
第一部 支配の諸類型
一 正當性の妥當
二 官僚制的行政幹部をそなえた合法的支配
三 傳統的支配
四 カリスマ的支配
五 カリスマの日常化
六 封建制
七 カリスマの沒支配的意味轉換
八 合議制と權力分立
九 政黨
十 沒支配的團體行政と代議政治
十一 代表
十二 身分と階級

第二部 支配の諸類型
第一章 支配
第二章 政治共同體
第三章 勢力形象。「國民」
第四章 階級、身分、黨派
第五章 正當
第六章 官僚制

附錄 社會主義

 

 

宗教社会学の邦訳の誤訳

創文社の「宗教社会学」邦訳において、「中世合名・合名会社成立史」に出て来る事項について誤訳がありましたので指摘しておきます。

場所:邦訳(武藤・薗田訳)のp.273(第11節の四、生の宗教的-倫理的合理化と経済的合理化との緊張関係の中)

P.273、6行目

誤:ピサの利益協定(コーンステイトウートウム・ウースース{振り仮名})

正:ピサのConstitutum Usus(1161年に編纂されたピサにおける様々な慣習法、特に商慣習法の集成。Constitutum=協定、法規、Usus=慣習、両方で「慣習法」)

誤:収益率を定めた上で参加する(commenda dare ad proficuum de mari)
正:固定配当金による出資型のコムメンダ(通常のコムメンダは資金提供者と貿易業務の実行者の間で利益を3:1に分けるが、この特殊なコムメンダは資金提供者がただ資金を提供し、貿易が完了した場合に仕向先別に(それぞれの航海の危険度を考慮し)あらかじめ決められている固定配当金を上乗せして資金を回収する、というもの。教会法における利子禁止に抵触すると考えられたこともあり、後に廃れている。)

どちらの事項も、「中世合名・合資会社成立史」の第4章で詳しく解説されています。
この邦訳は他にもAnstalt(人がその意志とは関係なく取り込まれるように所属するようになった集団、例えば国家や幼児洗礼による教会など。対立する語がVerbandで人が自分の意志で参加するもの、結社。)を「施設」と訳していたりして問題が多いです。(つまり「理解社会学のカテゴリー」の概念が使われていることを理解しないで訳している訳です。)

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」発売日

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」が未來社の新刊一覧に出て来ていて、販売サイトへのリンクも貼ってありますが、どれを押してもエラーになります。未來社に問い合わせたら、発売が2022年3月に延期になったとのことです。

ドイツ語の tralaticisch の意味

「ローマ土地制度史」で今訳している所に„Tralaticische” Quellencitate habe ich thunlichst beschränkt verwendet という文章が出てきます。この„tralaticische”という形容詞が、紙の辞書、オンラインの辞書とも出てきません。しかしググるといくつかの昔の文献で使用されているのが確認出来ます。おそらくこの形容詞は英語での相当語は”tralatitious”ではないかと思います。もしそうならOEDによれば、語源はラテン語のtrālātīciusです。綴りの相似から見て、„tralaticische”はこのラテン語をドイツ語化したもので間違いないでしょう。その場合の意味は、「伝統的な、代々伝えられてきた、慣習となっている、通常の」と言った意味になります。ここでは「伝承的な≪本当にオリジナルの文献通りの引用か疑問がある≫文献引用については、私は可能な限りそれへの準拠を最小限に留めた。」という訳になるかと思います。ローマ法というのは、十二表法という名前の通り12枚の板に刻んで書かれていた原本が内乱で完全に失われており、その後に出た法学書に引用されている条文から元の法文を再現することが行われています。また、ユスティニアヌス帝によるローマ法の再現である学説彙纂について、ヴェーバーの時代に編纂者が表面的に辻褄が合わない所を恣意的に変えた可能性がある、ということで見直しが行われていました。そういう背景から理解すべき文であると思います。 (「中世合名・合資会社成立史」の翻訳の際に、そのことについての記事を書きましたので、必要であればご参照ください。)

ちなみに英訳はこの部分を”Lengthy quotations from the primary sources have been kept to a minimum in the interests of brevity;”(「元々の原典からの長々とした引用は文章の簡潔さを保つため最小限に留めた。」)と訳して、„tralaticische”を「lengthy=長々とした」と訳しています。もちろん間違いです。この翻訳者は古典語学者ということで期待していましたが、ダメですね。何故ヴェーバーがわざわざ引用符まで付けてラテン語起源の特殊な単語を使っているのかまったく理解していません。それに「文章の簡潔さを保つため」という内容も元の文章にはありません。大体ヴェーバーは「文章の簡潔さを保つ」よりも、可能な限りありとあらゆる留保条件まで書いて正確さを重視する人であるのは言うまでもありません。

折原浩先生のHPの移動

折原先生のHPですが、昔YusenがやっていたgyaoのサービスとしてのHPサービスが今はSo-netが運営しているのですが、そのサービスが来年の1月28日で終了するとのことで、新しいサイトに移動になります。

新しいURLは http://hkorihara.com/ になります。
実は私が引っ越しのお手伝いをして、独自ドメインを取っての運用になります。

P.S.(2020年12月3日)
本当はgyaoの方のページでリダイレクト処理して新しいサイトに飛ばそうと思っていたのですが、先生の方で既に11月末でgyaoのHPサービスを解約されてしまったとのことで、現時点で旧サイトはアクセス出来なくなっています。

問題の多い翻訳者:大塚久雄について

今訳している「中世合名会社史」の第4章の中に、”dare ad proficuum de mari”という制度が登場します。これはConsitutum Ususの中に出て来るものです。実はこれが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にも出てきて、大塚単独訳のP.88になります。(「資本主義の精神」の注1)

dare ad proficuum de mari
英訳でのパーソンズの注
“a loan in which shares of gain and loss were adjusted according to degrees of risk”
大塚久雄訳での注
「危険の等級によって利益および損失の分配率を定める貸付け」

あまりにもそのままなので、まさか英訳をそのまま日本語化したのかと思いましたが、念のため原文を見たら元々原文中にあった注釈でした。なおより詳しい説明は次回の「中世合名会社史」の日本語訳の中に出てきます。

また同じ箇所のちょっと前にfoenus nauticamというのが出てきますが、これの大塚訳が「海上貸借」になっています。注釈はありません。(英訳にも注釈無し。)
ちなみに、この語は「中世合名会社史」にも登場し、私が今回の訳の中で付けた注は:
「foenus nauticam《foenusはfaenus(利息)で「海事利息」の意味。海事契約利息とも言う。ある貸主が貿易を行うものに資金を貸し付けるが、借主は船が無事に戻って来た時のみに返済義務を負い、海難事故で船が全損した場合は返済不要という内容のもの。返済の際には借りた金額より多い金額を返すため、一種の海上損害保険の先駆けともみなせるが、教会の利子禁止の裏をくぐるような利息付き貸し付けともみなせるため、1236年に法王庁から非難されたことがある。参考:Palgrave Macmillan, A. B. Leonard編, “Marine Insurance Origins and Institution, 1300 – 1850 (Palgrave Studies in the History of Finance)” 》」です。
大塚の訳語の「海上貸借」は私は聞いたことがありません。(Web上では「冒険貸借」という訳語があり、その言い換えとして「海上貸借」ともいう、とあります。もしかしてこの大塚の訳が広まったのかも知れません。)ラテン語を直訳したら私の説明にあるように「海事利息」です。
要するにヴェーバーは教会の利子禁止と抵触しない利子付き貸付けに近い例として紹介しているのですが、大塚氏はそういう文脈をほとんど無視して適当な訳語を付けているように思えます。(以前指摘したRentenkauf→年金売買という不適切訳もまったく同じです。)

以上のことから分るのは、
(1)大塚は「中世合名会社史」をきちんと読んだ形跡がここでも窺えない。
(2)読者が知らないであろう単語にも訳者注は付けない。(コムメンダ、ソキエタス・マリス、海上貸借のどれにも訳者注無し。)
(今回の「中世合名会社史」の日本語訳で今の所一番参照数が多いのは「コムメンダ」の解説部分です。つまりかなりの人は「コムメンダ」が何だか知っていません。)
(3)読者が誤解しないような訳語を付けようという姿勢に乏しい。

少なくとも私は今回の翻訳ではこうした大塚氏の姿勢を他山の石としたいと思います。

formalとformell

ドイツ語で英語のformalにあたる形容詞としては、formalとformell、そしてförmlichというのもあります。後の2つはほぼ同義語です。
私見ですが、ヴェーバーはformalとformellを使い分けているように思います。
これは私の解釈であってどこまで正しいかは保証致しかねますが、formalはある意味ニュートラルな表現で、ともかく外見として何かの形(form)に沿っている意味だと思います。これに対し、formellはどちらかと言えば何かの法律とか規則とかの「内容に」適合している、という感じかなと思います。またformellは口語的なニュアンスですが、「形式張って堅苦しい」といった意味もあると思います。
なので、この2つが出てきた場合、機械的に「形式的な」と訳すのは時によっては適当でないことになります。