「ローマ土地制度史」の日本語訳(6)P.107~110

「ローマ土地制度史」の日本語訳の6回目です。ようやく本論に入り、ローマでの測量と区分割りの具体的な手法が登場します。公共建築で有名なローマの割りには、測量技術はかなり原始的というのが正直な印象です。この時代既にユークリッドの幾何学は完成していますし、ギリシアやアレクサンドリアでは現代と同じ三角測量の技術も開発されていました。
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I. 土地測量人による土地の分類とローマの国土についての国法・私法上の等級との関係

土地測量人による土地の分類

 ローマの土地測量人は、周知の通り、彼ら独自の基準によって地所を次の3つの主要カテゴリーに分類していた1):

1.ager divisus et assignatus [区画に分けられ割り当てられた土地]――このカテゴリーがさらに次の2つの下位カテゴリーに分けられる。
 a) ager limitatus, per centurias div[isus] et assignatus [小路=limitesによってケントゥリアと呼ばれる正方形の区画に分割され割り当てられた土地]、
 b) ager per scamna et strigas divisus et assignatus [東西に走る線=scamnaと南北に走る線=strigasによって区画割りされ割り当てられた土地]、

2.ager per extremitatem mensura comprehensus [全面積が測量されているが区画に分けられておらず、その境界が自然物{川など}による土地]、

3.ager arcifinius, qui nulla mensura continetur [敵国によって奪われたなどの理由で測量も区画割りも行われていない土地]。

1)フロンティン≪Sextus Julius Frontinus、c40~103年、ローマの技師・軍人・著述家。Frontinus 作とされる土地測量についての著作が存在する。≫、De agr. qual. p.1f.(ラッハマン前掲書)参照。

 次のことは特に吟味しなくても当然のことと見なして良いであろう。つまりこれらの異なった土地の区画割りの方法を利用するということは、何がしかの形でまた当該の領域の法的な規定に適合していた、ということである。だがしかしどのような形で?――それについて確実に述べることが出来るのはごくわずかな部分のみであり、その他のほとんどの部分については、[いくつかの事例からの]帰納法による仮説を提示出来るのみである。それにも係わらず、次のことは考慮に入れなければならない。つまりここではまた、全く疑いようの無い法的原理が、その適用においては例外を伴っていたものの形成されているということであり、ただ場合によっては非常に多くの例外が伴っていたこともあり、その結果として言えるのは、その法的原理はただ一時しのぎの間に合わせ的なものとして作られているということである。それは土地がこのように分類されていたという事実から、何らかの法的原理を抜き出して確立しようとする場合に、[そう判断することが結果的には]歴史的な現象の法的な把握をほとんど放棄したのと同じであろう。

 もっとも簡単に評価することが出来るのは極端な事例の場合である。例えば次のことはある一面を見た場合には疑いようが無い。つまり、海外での地所、つまりローマ帝国の全ての[海外の]自治市の中で、ある種の盟約によってローマ帝国の権力の直接的な影響が少なくとも理論上は及ばないと免除されているもの[の耕地]は、すべて ager arcifinius としてのみ分類されているということである。というのもローマが比較優位の立場にある自治市相手との盟約は、例えばアスパルティア2)≪エーゲ海南部のドデカネス諸島の一つで、ローマの自治市。BC106年にローマと盟約を結んでいるが、それはヴェーバーの説明とは異なり、表面的にはまったく平等な立場でのものだった。この島がローマの対ギリシア政策の上で何らかの重要な役割を果たしていた可能性が歴史家によって指摘されている。≫との盟約が挙げられるが、その自治市の耕地についての規定はまったく含まれておらず、さらにはその自治市のそれまでの領地がそのまま保持されるという規定も含まれていなかった。そういった盟約はつまり、ある種の政治的な capitis deminutio [法による個人等の権利・地位・資格の剥奪]と解釈されていたのかもしれない。別の一面を見てみると、次の事も同様に疑いようが無い。つまり、実質的にローマの市民によって開拓されたと考えられる全ての植民地における耕地と、その他のローマの領土における耕地の分類は、全て ager divisus assignatus [分割され割り当てられた土地]であるとされていたことである。しかしながら、数多い中間的な性格の耕地の分類と、個々の分類の実地における運用方法を確認することは、ローマでの耕地の分類と割り当ての技術的な側面を一瞥する機会を与えてくれている。

2)Corpus Inscriptonum Graecarum, II, 1485≪全集注では正しくは2485≫、ベック≪August Boeckh、1785~1867年、ドイツの古典学者、古文献収集家。≫編を参照。

耕地測量の技術

 ローマにおける土地の区画分けと、東西南北の方位に平行に定められたその境界線の双方が規則的な性格のものであった。そしてこれらの作業は原始的な十字型の照準儀≪グローマと呼ばれ、棒の片端に十字架上の棒を組み合わせ、その十字架の先端から重りを垂らした構造のもの≫を使って行われた。それを用いてまずは――この作業は明らかに夜間には行われなかった、視界不良で子午線を確認することが出来なかったので――日の出の方向にグローマの照準を合わせることによりおおよその3)東西の線を確定し、次に decimanus (=「分割点」)を、そしてその分割点上に垂直線を引き、更に cardo (=軸、天軸)をそれぞれ確定させ、それらを示すために杭を打った。

3)日の出の正確な方向が季節によって変動することによって、この東西線の方向もまた変動した。既にポー平原の郊外の村の測量においてもそうであった。(ヘルビヒ≪Wolfgang Helbig、1839~1915年、ドイツの考古学者≫、Die Italiker in der Poebene)。後の時代になってようやく正確に東西に平行な線が確定されるようになった。(ハイジン≪Hyginus Gromaticus、1~2世紀のローマの技術書の著作家≫、De lim. const. p.170, 187)

以上のやり方が原則的な方法であったが、次のようなことも行われていた。それはその土地の周辺の地形との関係に応じて分割点の設定をその土地の形状において面積が最大になるように加減したり、または海岸においては、海に向かう方向に[基準線を]合わせるとか、あるいは場合によっては[基準線を]子午線に合わせるといったやり方である。さらにこれら以外のやり方を見て行くにあたって、我々は土地の区画分けの方法として、strigas [南北の線]と scamna [東西の線]による[長方形の区画による]区画分けと、centurias [正方形の土地の区画単位]によるそれとを区別する。これらに共通しているのは直線による区画分けであるということであり、その違いについての記述は、当時の測量人達の著作の中で多くの箇所で行われており、さらにはその者達より後の時代の測量人達によっても言及されているが、つまりは区分けされた土地の形が正方形か長方形かという違いである。我々はこの点については、そうした相違点が唯一のものではなく、また本質的なものでもないということを見て行くことになる。

1. Ager scamnatus [東西方向が長手である長方形の土地]の場合

 まず何より ager per scamna et strigas による土地の割り当てに関係するのは、それの個々の場合での分割の方法は後で詳しく述べる特別な場合においてのみ知られているのであるが、その測量による結果はしかしながら、常に耕地を長方形の区画によって分割するということであり、そしてその長方形の区画の長手方向が南北の場合に strigae 、東西の場合が scamna と呼ばれていた。一箇所の耕地において、この二つの一つだけが使われている場合と、同時に使われている場合があった。しかし scamna だけを使った区画割りの方がより多かったようである4)。

4)M・ユニウス・ニプサス≪Marcus Junius Nipsus、2世紀のローマの数学者≫は、ager centuriatus と並記してただ ager scamnatus だけを挙げている。(p.293、ラッハマン前掲書)

こういった区画割りの方法での一区画の面積が一定であったかどうかは不詳である。ある耕地における全ての区画が同一面積であったかについても同様に不詳である。フロンティン5)の著作の中の図(その年代は当然ながら不明である)を見れば区画の面積は一定ではない。

5)ラッハマン前掲書、図3

[ager divisus et assignatus の中での]2つのカテゴリーの対立において、そこで ager limitatus と呼ばれている形態では、それによって[区画と区画の間にスペースを空けて]典型的な道路システムが作り出されているが、そのことは ager limitatus の説明に出て来る limites [小路]という語によって示されている。しかしそれは ager scamnatus の方については本質的な特徴ではない。個々の strigae と scamna によって区画分けされた土地は、推論する限りでは、それからどのような手続きでかは不詳であるが個々の受領者に割り当てられ、そして地図の上の境界線で囲まれた土地の上にその者の名前が書き込まれた。

2.ager centuriatus [ケントゥリア{=正方形の土地単位}によって区画分けされた土地]の場合

 測量人達が我々に伝えている ager centuriatus においての ager per centurias divisus assignatus [小路=limites によってケントゥリア単位で区画分けされ割り当てられた土地]における手続きについては、その教示する内容はより広範囲に及ぶものである。というのはこの形態の土地の区画分けと割り当ては、彼らにとっては標準的なものであったのと同時に、もっとも完成度が高いものであったからである。さらにその形態は、おそらくは、シーザーと三頭政治の執政官達が広範囲の土地の割り当てを行った際にには、ほとんど唯一のやり方であり、実務的に最重要なものだったからである。その区画割り作業は次のような手順に拠っていた。つまり最初に定められた2本の基準線――decumanus maximus [東西の線]と card maximus [南北の線]――にそれぞれに平行に[2本の]線が引かれ、――この decumanus maximus と card maximus を基準として[ローマにおける都市の街路システム=一種の条里制である] decumani と cardines のシステムが作り出されるのであるが――、規則的に――必須とはされていなかったが――それぞれの[4本の]線によって囲まれた正方形の区画で、それぞれの一辺の長さが20 actus [≒710.4m]であり、1 actus = 120 ローマ・フィートであり、その面積はそれ故400平方 actus [約50.5ヘクタール、15万3千坪]となった。その区画はさらに 1 actus x 2 actus の長方形の区画= jugera [約765坪]に分けられ、つまり面積としては200 jugera となり、その面積の区画がケントゥリアと名付けられていたのである。そのケントゥリアとケントゥリアの間に decumani と cardiness という小路が様々な幅で作られていたが、そのサイズは変遷しており、しかし帝政期のイタリアでは8ローマ・フィート[≒2.37m]になっていた。