ローマ土地制度史-公法と私法における意味について」の日本語訳(34)P.212~215

「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第34回です。
ここで面白いのは、ヴェーバーが氏族関係が経済的な意味で働く例として自分の「中世合名・合資会社成立史」の内容を引き合いに出していることです。
それはいいんですが、納得出来ないのはここでの「ゲノッセンシャフト」の説明で、ゲノッセンシャフトなのに大規模家畜所有者がそこの主人のように振る舞っている、といった話が出て来ます。私はそれはもうゲノッセンシャフトではなく、そもそもローマの王制の頃とかあるいはその前がゲノッセンシャフト社会であったなどというのはまったく信じがたいです。ゲノッセンシャフトはそもそもカエサルのガリア戦記やタキトゥスのゲルマニアに出てくる、牧畜を主体として少し農耕もやるゲルマンの部族が、少人数で移動を繰り返しているような場合に、階層社会ではなくフラットな仲間関係の社会を構成しているというのが元々であり、ローマの太古の状態に敷衍出来るようなものとは思いません。
====================================================
ドイツのアルメンデとの類似はまた次の点にも現れている。それは compascua として存在している領域に対する管轄権に関して、統一された考え方は全く存在せず、しばしば直接的には非常に不透明なままであった、ということである。そのために、その領域に放牧権を持っている特定の所有者達は、compascua が通常の意味での共有物になっているということは全く当てに出来ず、いずれの場合も裁判による共有物の分割[actio communi dividundo]による調整によって、自由に随時分割するという方法は使えなかったのである。しかし他方では明白なこととして発生していたことは――そしてこちらの方が実務的にはより重要であったのだが――また非常に多くのケースでその土地に関連する人間関係と ager publicus の土地との境界についての疑念であった。フロンティヌスによる注解書では compascua について次のように述べられている(p.15, 26):certis personis data sunt depascenda, sed in communi: quae multi per potentiam invaserunt et colunt.[ある人達に放牧を行う権利が与えられたが、それは共有の形であった;そこに多くの者が力づくで侵入し耕作を行っている。]ここについては誰もが中世の末期で地主が垣による囲い込みで村のアルメンデを力づくで奪ったことを思い出すのではないだろうか?――そして実際の所、必要な修正を加えて考えれば[mutatis mutandis]二つの現象は同じ起源を持っているのである。

占有の起源。マルクとアルメンデ。

前章においては、次の前提から議論を進めて来た。つまりイタリアでの定住については、我々が知らされている限りにおいては、氏族社会に対立するゲノッセンシャフト的なものであったと。この見解はしかしながら、フーフェ制度の他の全てを説明し得ていないように思われる。公的な成果[戦争の勝利など]に基づく農地の分配やフーフェの土地に対する公的な権利に基づく測量といったことはゲノッセンシャフトとの相違点を示している。しかしそのことによって次のことを言おうとしているのでは全くない。それはローマ史の先史への入り口において、他のほとんどの国と同様に、そのより古い時代の社会組織については何も情報を持ってはいないが、家への隷属を伴う厳格な士族的組織が存在しており、その影の残余物が、例えばクリエント制≪ローマでのパトロンとクリエントという、一種の親分子分的な互酬の人間関係のこと≫やローマの家族制度の在り方において歴史時代においてもなお深く投げかけられているのであると 7)。

7) 我々の知る限り、歴史において人間のゲマインシャフトにおける組織の頂点に、純粋に経済的な観点から考えてそういった氏族組織が存在していた、ということはない。親族ないしは氏族団体を継承したのはむしろようやく後の時代に、土地制度以外の領域において――私が全く別の事例として私の論文である「中世合名・合資会社成立史(中世商事会社史)」において論証しようと試みたように≪おそらくは中世のイタリアで家計・家業ゲマインシャフトから合名会社などのゲゼルシャフトが発生したことを言っていると思われる≫――本質的に経済上の観点で組織されたものである。こういったことによって結果としてもたらされたのは、個々の家族がそれだけより緊密な形で一まとまりになったということである。≪家計ゲマインシャフトから生まれた合名会社はファミリーの財産を分散させずに一まとまりに保つのに貢献し、より巨大な財閥ファミリーへと発展するのに役立った。≫それ故にそれはもしかするとローマでも起こったことかもしれない。

我々はここでただ次のことに思いが至る。それはこれまで見て来た限りにおいて、確実かつ決定的なこととしてゲノッセンシャフト的な観点での「植民」が発生していたに違いない、ということである。そのように確実にあったと思われる植民が意味したことは、しばしば直接的に、家父長的支配からのある種の解放ということである。大規模家畜所有者は、主要な放牧中心の経済が半遊牧民的な耕作を伴っていた時代においては、たとえ氏族制度が形の上で成立していない場合でも、経済的には他の部族ゲノッセンシャフトの主人であり、それ故に彼らは常に全ての確実かつ決定的に行われた植民の生来の敵対者だったのである;耕作地においての自由な牧草地の利用権と移住してきた植民者のためのアルメンデは、そういった大規模家畜所有者達にとっては再度奪い取って権利回復させなければならないものだったのであり、彼らは常に移住してきた植民者のゲノッセンシャフトのために分離されたアルメンデを共有のマルクの中に取り込もうと試みていた。土地を家畜の牧草地として利用することはしかし、全くもってマルクを搾取するただ一つの方法ではなかった。古代ゲルマンではよりむしろ別の形に刻印されたビファンク権が知られていた。それは新規に荒野や森林を開梱した土地[Rottland]の占有について、開墾した者が新たに手に入れた領域を私的に利用している限り、またその間その者がそこで耕作している限りは、その領域を垣で囲い込むことが許されたものである 8)。

8) フェスタス≪Sextas Pompeius Festus、2世紀後半のローマの文法家、フラックスの De verborum significatione という百科全書の要約版を作り、そこに語源と意味を追加したものを著わした。 ≫参照:Occupaticius ager dicitur qui desertus a cultoribus frequentari propriis, ab aliis occupatur. [占有されている土地とは、その土地を耕作していた者がそこを放棄し、別の者によって占有されているものを言う。]

そして耕作の意義が増大するに連れて、そして牧畜経営にとっては家畜に牧草を与える土地を得られる余地がどんどん少なくなっていく、という点でこのことは意味を持っていた。ローマ国家によって法に規定された状態においては、この占有については、それが禁止されていなかった限りにおいて、その占有地についてその地域における権力者に使用料を支払うことが行われるということにしばしばなっていた。そしてその意味で私はカルロヴァ≪Otto Karlowa、1836~1904年、ドイツのローマ法制史学者≫の見解 8a) である、アッピアノス≪AD95頃~165年頃、ギリシア人でローマ市民権を得て、全24巻の「ローマ史」を著わした。≫が報告している、より後の時代の占有の状態として記述している、その土地の収穫高に応じた一定の支払いが義務付けられた、ということを非常に確からしいと考える。おそらくは通常論じられているようにこの使用料の支払い義務が忘れられてしまったのではなく、世襲貴族達はそもそもその義務自体を一度も認識したことがなく、ただその時々の政治的な力関係によって大なり小なりそれに従わざるを得なかっただけである。もちろん次の場合、それは先行して発生していたことのように思われるが、つまり国家によって征服されたとかあるいは敵に奪われた開墾済みの土地領域について、特別な公示によって全ての市民に対して自由な占有が開放され、そしてこのことが確からしいこととしては公共の土地の国庫上の利害関心においての最古の利用方法であり、ここでは確固たる公課の宣告が行われ、アッピアノスによれば耕地の場合は1/10、森林の場合は1/5の税が間違いなく課されたのであるが、共有マルクにおいての開墾地においてはしかし根源的なこととして、この課税ということが行われることがほとんどなかったのであり、この2つの状況をきちんと区別して同定することは、その課税対象の土地の所有者の利害関係に依存することであって、非常に区別が難しいのである 9)。

9) 同様の区別の難しさという点での混乱がまた、ager occupatorius ≪戦争の勝者によって占有され、元の住民が追放された土地≫の概念からもまた生じて来ると思われ、それが ager occupaticius ≪元の耕作者が放棄し、別の者が占有している土地≫とは別のものであるということが多くの者によって強調されている。(例えばモムゼンルドルフ≪Adolf Friedrich Rudorff、1803~1873年、ドイツのローマ法制史家≫、―ブルンズフォンテス p.348 N.5、Roemische Feldmesser II, 252)まず第一に、今挙げた最後の文献の言及する所では、使用料支払い義務のある占有地という形で利用された(略奪による)占有地が成立していたのであると。シクルス・フラックスは p.138 で次のように述べている:
Occupatorii autem dicuntur agri quos quidam arcifinales vocant, quibus agris victor populus occupando nomen dedit. Bellis enim gestis victores populi terras omnes, ex quibus victos ejecerant, publicavere atque universaliter territorium dixerunt intra quos fines jus dicendi esset. Deinde ut quisque virtute colendi quid occupavit, arcendo vicinum arcifinalem dixit.
[しかし占有された土地と言われるものは、ある者が”arcifinales”(未測量の土地)と呼ぶ土地であり、勝利した方の国民がそれを占領することによってその名前が与えられた。戦争が終わった後、勝利した国民は全ての領地を、そこから敗れた者達を追放して占領した。勝者はその土地を公有地とし、そのすべてを領土と呼び、その中で司法権が行使される境界を定めた。それから各々の者がその耕作の能力に応じてある土地を占有した場合、その者はその土地に隣接する周りの土地を保護し、それを arcifinales と呼んだ。]
それに対して、ヒュギヌスが De cond. agr. p.115, 6 で言っているのは、明らかに同様に先に名前を出した ager occupatorius についてのものである:… quia non solum tantum occupabat unusquisque, quantum colere praesenti tempore poterat, sed quantum in spem colendi habuerat ambiebat(参照:シクルス・フラックス p.137, 20)
[何故ならば各人がその時点で耕作出来る土地を占有しただけではなく、また先々に耕作する見込みがある土地を囲い込んで持っていたからである]
事実上の耕作の範囲に依存していたのは、おそらくはただ新規開墾地の占有の場合だけでなく、収穫高に応じた税という条件での征服された土地の占有の場合もそうであろう。というのも国家は、1/10税を徴収する主体として耕作地の領域の範囲に利害関心を持っていたからであろうし、そして継続して未耕作の土地は他方では放棄されたのである。ここで言及されている占有、つまり「(将来)耕作する見込みのある土地を所有していた」は。2つのケース(占領によるものと、新規開墾によるもの)のどちらでもなく、通常の ager arcifinius について言っているのであり、つまりそれは市民ムニキピウムの土地で、ローマ式の測量が未実施のものである。というのも643 u.a.c. 年の土地改革法によって個人の占有が許された土地はほとんどがローマの征服地においての ager occupatorius だったからであり、そのためにそこの(新たな)住民は(未測量の)不規則な形の土地ブロックを全て自分の所有地と同一視したのである。それ故私には ager occupatorius はより範囲の広い、測量といういう観点で ager arcifinius と、そして将来の所有を期待するといういう意味でガビイの土地≪地権はあるが未測量・未割当ての土地≫と同一視すべき概念と思われ、一方 ager occupaticius の法はビファンク権≪開墾者がその土地の占有を許される権利≫から派生した所有形態の特別な場合と思われる。――以上述べたような土地の種類の同一視はまた次のことの理由でもある。それは何故 “vetus possessor”≪以前の所有者≫が、つまりモムゼンの納得の行く説明(C.I.L., Iでの lex agraria への)に拠れば “ager publicus”のある種の占有で、その所有状態がグラックス兄弟の制定した諸法律もしくは u.a.c. 643年の土地改革法の前に根拠付けられたものであり、その時々において一般的に未測量・未割当て地の所有者と同一視される、ということへの理由であり、そのようにシクルス・フラックスの引用箇所や、更には(より具体的な把握として)フロンティヌスの p.5, 9 や、同じくシクルス・フラックスの p.157, 22 とヒュギヌススのp. 195, 17 が述べている通りである。そしてこのことは更に次のことの理由でもあったのかもしれない。それは何故 ager arcifinius が一般に完全な個人所有権を認められたものになっていなかったということの理由であり、そのことは三人組委員会による土地の強制的な買い上げと、一般的に言って強制的なやり方でのそれまでの旧所有者達への全てまとめての新規耕地の再分配に現れており、それはそれらの文献において法的な視点で実質的なこととして表現されている限りにおいて、そうだと言える。

もちろん次のことも想定出来るかもしれない。つまり、十二表法の時代での耕地分割の際の公共地の牧草地化についての書類整備と同じく、それぞれの土地への課税が一般的に導入されたか、あるいは導入されねばならなかった、ということである。というのは単に普通の開墾済みのマルクの自由な占有だけではなく、牧草地のそれも認容されていたということは、私が考えるに、元々その者には権利が与えられていなかった領域でのビファンク権の侵害という性格も持っていたのである。古い耕地ゲマインシャフトが併合と分離の機会において、それが元々持っていたアルメンダがその際におそらくは一般的なこととして、ager publicus という容器の中に投げ入れられたのであり、またそれまでの所有状態については特定の個人の fundus に応じての compascua への割当てということが各地で行われたのであり、それはまさに後の時代の土地の割当てと同様であり、それこそ測量人達が述べていることである。