「互酬-循環構造」続き

「互酬-循環構造」(あるいは「互酬-循環関係」)の議論の続き。
結局、折原先生の言いたかったのは、ある2つの要素が相互に循環的な影響を及ぼし合い、ポジティブな影響だけでなく時にはネガティブな影響を及ぼし合い、互いに互いを変えていく、と言う意味かと思います。
しかしもしそうだとすると、これは要するに弁証法的な史観ではないのでしょうか。ヴェーバーがヘーゲルをどの程度取り入れ、どの程度批判しているかは私の現在の知識を超えていますが、少なくとも以前「ロッシャーとクニース」などを読んだ限りでは、そのような単純化・モデル化した歴史研究を批判していた筈です。そもそも折原先生の「2つの要素」とは私から見れば単なる「理念型」です。そして「理念型」というものは議論を始めるための仮置きの概念としか思っておらず、それが何か歴史的にはっきりした実体を伴っていて、別の同じような理念型と相互作用を及ぼし合うという捉え方自体、違和感を強く感じます。「経済と社会」などの議論は、理念型からスタートし、決疑論を行い、それによって元の理念型を修正していく、そういう繰り返しだと理解しています。(最初の論文である「中世合名・合資会社成立史」からして、ローマ法のソキエタースが本来はまったく想定していなかった新しい人間関係をどのように取り込んでいって変遷したか、という観点で書かれています。)また宗教社会学でのインドや中国の研究は、ご承知の通り全て欧州の学者が書いた2次文献をベースにしています。そういう研究でそのような単純な弁証法的史観を採用するというのは、一般化・理論化があまりにも性急であり、とてもそのまま受け入れることは出来ません。また、現実の社会は2つの要素どころか無数に近い要素が複雑に絡み合ったマトリックスであり、この意味でもその中から2つだけ取り出してその相互作用だけを論じるという方法論には賛成出来ません。折原先生の宗教社会学の解説は一般向けに分かりやすく論じるため、という点を考慮しても、ヴェーバーの議論を単純化しすぎているように感じます。

折原先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」における用語法の問題点

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」について、宗教社会学についての先生のまとまった概説書は私見ではこれまで無かったので、今回それがきちんとまとめられたという意義は大きいと思います。
そういったポジティブな評価の一方で、残念ながら用語法の点においては、いくつか問題点があり非常に気になりました。

(1)「互酬」の不適切な使い方
この本の中で「互酬-循環関係」「互酬-循環構造」という用語が事項索引では8回登場します。その頻度から言ってかなり重要な用語として使われています。しかし私はこの言葉が出てくる度に強い違和感を感じて引っ掛かりました。何故ならば「互酬」という言葉の使い方が一般に社会学や人類学で使われている使い方と違うからです。(文化人類学を少しでも囓った人なら「互酬-循環」という言葉を聞いたら真っ先に連想するのはマリノフスキーの「クラ交易」でしょう。)この本での「互酬」は単なる相互に影響を及ぼし合う、という意味で使われています。例としては「プロテスタンティズムの倫理」が「資本主義の精神」を産みだし、一旦後者が成立するとその結果としてその持ち主の宗教心を弱め、いわゆる「精神無き専門人・心情無き享楽人」を産み出すものとして、「プロ倫」では描写されていることはご承知の通りです。しかしこのような関係に「互酬」という言葉を用いることは、下記の理由で不適切です。

[1]「互酬」は人間相互の関係に用いるもので、理念型のような抽象概念同士の関係に用いることは通常あり得ません。比喩としても無理があります。
[2] [1]のことから共時的な関係について言うのであり、歴史の中で長い年月が経る中で相互の要素が関係を及ぼし合って、というものには通常使いません。
[3] 互酬をこのように特殊な形で使用する一方で、P.206では互酬と同じ意味である「互恵」を今度は通常の互酬の意味(相互扶助)で使っています。
[4] 互酬は基本的には双方がポジティブな影響を及ぼすのであり(現代風に表現すればWIN-WINの関係、「互いにむくいる」関係)、折原浩先生が使われているような「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」が初期の関係から変質して前者が後者からある意味ネガティブな反作用を受ける、というものを表現するには不適切です。
[5] 「互酬」は文化人類学では「交換」や「営利」と対比される重要なタームであり、代表的な人にカール・ポランニーやマーシャル・サーリンズがいます。また贈与の互酬性を最初に説いたのはマルセル・モースで彼はデュルケームの弟子{甥}であり、社会学者でもあり、デュルケームの専門家でもある折原浩先生が知らない、ということは出来ません。
[6] ヴェーバー自身が「互酬」Reziprozitätを用いているのは「儒教と道教」にていわゆる儒教の「恕」の説明で、それは「互恵」(己の欲せざる所を人に施すなかれ)という意味でしかありません。すなわちヴェーバー自身の用語ではありません。

この問題は、2年前に書きかけの原稿をいただいた時にも「通常使われるのと別の意味での使い方であり、使いたいなら十分な説明が必要では」と私見を申し上げましたが、残念ながら私の意見はまったく考慮されずに今回の書籍が発売されています。

(2)「推転」P.245、249
私はこの単語を見たのは今回の本が初めてです。ネット検索で出てくる事例は非常に少ない上に、ほとんどがマルクス主義関係の書籍でした。(手持ちの辞書類には出てきません。)その後更に調べたら元々はヘーゲルの übergehen (あるいは名詞でÜbergang)の訳語として使われるようです。特に廣松渉氏がその書籍で使われていました。本来の意味は、「AからBへ持続的に徐々に変化していく」ということのようです。しかし「推転」という言葉からその意味を想像することはほぼ不可能で、元のドイツ語が非常に基本的な動詞であり誰でも意味を理解出来るのに比べれば非常に分りにくい訳語と言わざるを得ません。要するに英語で言うjargon(狭い範囲の専門家内での隠語)です。

上記のような問題点は有能な編集者であれば、出版前に著者に連絡して良く話し合うべきだと思います。しかし未來社の編集者がそういうことをしたという痕跡は残念ながら確認出来ませんでした。ちなみに非常に単純な誤植・誤記も数ヶ所容易に発見出来ています。

「マックス・ヴェーバー研究総括」Amazon注文分も到着

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」本日、Amazonで注文した分も届きました。 なお、書籍の奥付けによる出版は2022年10月14日、未來社のサイト上では2022年10月7日で最後の最後までサイトの情報は「蕎麦屋の出前」でした。

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」を先生より贈っていただき落手しました。9月30日に別にAmazonで予約していますが、そちらは10月14-16日出荷予定でまだ届いていません。また現時点ではAmazonの納期は「注文後1~2ヵ月で出荷」になっています。すぐに入手されたいのであれば、複数のオンライン書店をあたった方がいいかと思います。なお未來社のサイトでは10月7日発売となっていますが、例によって嘘情報です。Amazon他に出ている10月12日が本当の発売日だと思います。

マックス・ヴェーバー研究総括-Amazonで予約開始

「マックス・ヴェーバー研究総括」、ついにAmazonで予約出来るようになりました。しかし、未來社のサイトでは10月7日発売ですが(しかも発売予定日ではなく、発売日になっています)、Amazonでの発売日は10月12日、しかし配送予定(通常翌日)は14-16日になっており、本当の発売日は10月13日以降のようです。最後の最後まで嘘情報を流している未來社に再度失望しました。

未來社のサイトの問題点ー虚偽の発売告知の繰り返し

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」が出版間近になっています。
それはいいのですが、未來社のHPでの発売日告知がひどくて、これまで3回、まだ発売もされていないのに「発売中」と表示され、そればかりか「在庫有り」と表示され、更にはネット販売サイト(Amazon他)のリンクまで表示されていました。しかしながら、当然発売されていない書籍をオンライン書店で注文出来る筈もなく、リンクをクリックしても「そんなページはありません」と表示されました。そして過去3回ほどこの件について電話とメールで連絡しています。結果としてその後発売中表示はなくなり近刊予定に戻っていますが、それについて何のお詫びも改善します、という返信もありません。
おそらくはここのサイトは、Web開発業者に丸投げで、近刊予定の説明に入っている発売予定日が来ると、自動的に新刊の方に移る、という乱暴なロジックが入っているのだと思います。(最近はスクラッチでWebサイトを作ることはまずなく、何らかのCMS=Contents Management Systemを使います。ここのサイトのWordPressもそうです。そういったCMSにはまずあるコンテンツのアップ日を未来に設定しておいてその日になったら自動的にアップする、といった機能があります。)失礼ながら新刊の点数だって限られており別にこんな自動処理は不要だと思います。メールで返事が無いので社長のブログにもコメントしましたが、そちらも何の連絡もありません。また発売日が変更されたのはこれまで6~7回になると思います。遅れている事情は私もある程度は分かっていますが、いわゆる「狼が来た」の域を越えた杜撰なWebサイトです。出版業もこんな前近代的な体質(いわゆる蕎麦屋の出前)を引き摺るのはそろそろ止めて欲しいです。(以前ソフトウェア会社にいた時に、コンテンツとして辞書データなどを買う交渉に色々な出版社に行ったことがあります。しかし、名前は通っている出版社の多くについて、その規模の小ささに驚いた、という経験があります。)今は私がやっているように、Amazonで電子書籍も紙の書籍もどこの出版社も通さず販売することが出来る時代です。出版社がビジネスの基本を守れないのであれば、残念ながら英語で言う”go the way of the  dodo”ということになるでしょう。

過去のメール(一通は折原浩先生宛)

2022年9月20日のメール
未來社 ご担当者様

またも下記の書がまだ作業中の段階なのに、「発売中」「在庫有り」になっています。これで3回目です。何故こんな単純なことに対応出来ないのでしょうか?

XXXX

2022年8月23日のメール
XXXXと申します。
折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」が発売中になっており、「在庫有り」とも出ていますが、西谷社長の日記によれば事項索引のやり取りをしている段階であり、発売はあり得ないと思いますが。

オンライン書店へのリンクもありますが、当然そちらでも買えません。

2021年12月27日のメール(折原浩先生宛)
折原浩先生

「マックス・ヴェーバー研究総括」ですが、未來社のサイトで「新刊」の中に出てきて、オンライン販売サイトへのリンクもあるのですが、クリックするとどこのサイトもエラーになります。それで未來社に電話で聞いてみたら、出版が3月に遅れるとのことでした。
校正作業ぐらいでしたら、お手伝い出来ると思いますので、ご遠慮なさらずに声を掛けてください。丁度ここ1ヵ月半くらいは「中世合名・合資会社成立史」の再校正作業をやっていましたから、誤記や誤植の発見には勘が働くようになっています。

XXXX

翻訳の日本語 接頭辞の「没」について

マックス・ヴェーバーの日本語訳の多くは、1950年代~1970年代に訳されていると思います。
典型的には創文社の「経済と社会」の日本語訳がまさにそうだと思います。そういった日本語訳を読んでいて気になるのが「没」という接頭辞です。例えば没価値、没意味などです。没価値(性)の元のドイツ語はご承知の通り、die Wertfreiheitです。「没」という日本語には、私だけの感覚かもしれませんが、単なる「無」や「非」より強いニュアンスがあるように思います。端的には「没」の意味を今の若い人に聞いたら、まずは「原稿や企画が却下される(ボツになる)」ことでしょうし、また当然「人が死ぬこと」の意味も連想すると思います。Wertfreiheitを「没価値性」と訳すと、何だか価値を強く否定して頭から問わない、という風に聞こえます。しかし元のドイツ語は単に「価値を最重点にしない」ぐらいの意味ではないのでしょうか。そもそも「無」「非」の意味の接頭辞としての「没」は既に廃れているように思います。ある国語辞書ははっきり「古語」と書いていました。私は「無趣味」というのは使いますが「没趣味」を使うことはありません。また「没交渉」と「無交渉」では意味が微妙に違い、「没交渉」はこちらから積極的に交渉を止めている感じがします。羽入書批判の時も「没意味的文献学」という非難が飛び交っていましたが。これも単に「意味を重視しない文献学」というニュアンスでは無く、「一番大事な意味をなおざりにする文献学」といった余計な感情が入っているように思います。世良晃志郎さんの日本語訳は、名訳として有名ですが、残念ながらこの「没」については非常に多用されていて、違和感があります。時代と世代の違いと言ってしまえばそれまでですが。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(11)P.125~130

「ローマ土地制度史」の日本語訳の11回目です。ここでは色々な植民市が出てきて分りにくいので地図を作成しました。ローマがイタリア半島を統一していく足跡が見られて興味深かったです。
===============================================
 その他イタリアにおいて、そこにおける土地の割り当てが部分的に scamna と strigae を使って行われたと、liber coloniarum [植民市の本]が注記しているのは次の場所である:

アラトリ≪Aletrim→Aletri、現在ラツィオ州フロジノーネ県のコムーネ、BC306年にローマの植民市となった。≫(ケントゥリアと strigae)30)、
アナーニ≪Anagnia→Anagni、現在ラツィオ州フロジノーネ県のコムーネ、BC306年にローマに併合された。≫(strigae)31)、
アエクイコリ≪Aeqicoli、イタリアの山岳地帯に古くから住んでいたアエクイ族の土地をBC304年のアエクイの戦いでローマが支配下に置いたもの。≫(ケントゥリアの中での strigae と scamna)32)、
アルフェデーナ≪Afidena→Alfedena、現在アブルッツォ州ラクイラ県のコムーネ、BC298年にローマに征服された。≫(ケントゥリアと scamna)33)、
トリヴェント≪Terventm→Trivento、現在モリーゼ州カンポバッソ県にあるコムーネ、BC3世紀のサマニウム戦争の結果ローマの植民市となった。≫(praecisrae [境界で分けられた土地] と strigae)34)、
ヒストニウム≪Histonim、現在のヴァストでアブルッツォ州キエーティ県のコムーネ、アドリア海に面する。シーザーの時代にローマの植民市になったとされる。≫(ケントゥリアと scamna)35)、
ボヴィアヌム――おそらくはヴェトゥス≪Bovianm Vets、ローマの植民市とされるがその時代も場所も不明、現在のピエトラッボンダンテ=モリーゼ州イゼルニア県のコムーネであるという説があるが、2022年現在では疑われている。≫(ケントゥリアと scamna)36)、
アティーナ≪Atina、現在のラツィオ州フロジノーネ県のコムーネ、サマニウム人の都市であったがローマに征服された。≫(部分的に lacineis [断片状の土地] と strigae によるもの)37)、
リエーティ≪Reate→Rieti、元々サビニ人の土地でローマに征服された。現在のラツィオ州の都市で、「塩の道」の要衝だった。≫とノルチャ≪Nrsia→Norcia、現在のウンブリア州ペルージャ県のコムーネ、元々サビニ人の都市で第2次ポエニ戦役の時のローマの同盟市。≫(ケントゥリアの中での strigae と scamna)38)
である。今挙げた全ての場所は後にムニキピウム [自治都市] ≪元老院ないしローマ皇帝から自治を許されていた都市≫となっている。それらの中の一部の都市は、証明可能なことであるが、プラエフェクトゥラ≪praefectura、ローマのいくつかの属州をまとめたものがディオエケシス=dioecesis=管区とされ、いくつかの管区をまとめたものがプラエフェクトゥラ=道{どう}とされた。≫の前段階であった行政単位の中に組み入れられた。それらの都市とは、アナーニ、リエーティ、ノルチャ、アティーナ、及びまたアエクイコリであったと思われる。ボヴィアヌム・ヴェトスについては一般に得られる情報が不足しており、詳細は不明である。また以下のことについても分っていない。つまり strigae と scamna を使った土地割り当てが最初に行われたのが、ベテラン兵への土地割り当ての時がそうだったのか、あるいはその時には既に先行してそういう割り当てのやり方が存在しておりそのやり方が引き継がれただけなのかということである。またこのような特別な土地割り当てのやり方について、何か特別な理由があったのかどうかも同様に不明である。

30)liber coloniarum 230, 8: Alatrium, muro ducta colonia. populs deduxit. iter populo non debetur. ager eius per centurias et strigas est adsignatus.
[アラトリという町は、(ある)植民市において壁によって区切られていた(区画にあった)。(ローマの)人々がそれを拓いた。そこでは道路は個人の所有にはなっていなかった。そこの土地はケントゥリアとstrigaeによって分割割り当てされた。]

31)上掲書、P.230、17行目
32)P.255、17行目
33)P.259、19行目
34)P.238、10行目(正しくは14行目、全集の注による)
35)P.260、10行目
36)P.231、8行目
37)P.230、5行目
38)P.257,6~26行

こうした特別な土地の分割割り当ては、例えば売却禁止の土地を与える場合に使われたのかも知れない――そしてこのような割り当てはアウグストゥス帝によっては行われなかった、という仮説は、考慮の余地がなく誤りである。その理由は、周知のこととして、この種の土地の売却が禁止されていたということが、その土地に課せられることになっていた税金に対する [皇帝の] 承認によって法的に明確に示されていたからである。アエクイコリの耕地は更に、[アエクイ族の] 鎮圧がされた後にいずれにせよ [ローマの新たな土地として] 公にされたのであるが、しかし多数の文献情報によればそれは個々人には割り当てられず、おそらくは [小作地として] 賃貸しされたのであり、だからこそ scamna [と strigae] を使って土地が分割されたのである。プラエフェクトゥラにおいては、少なくとも部分的には同様の事情が存在していた。そういった場所は多くの場合同様に戦争に勝利した結果として得られたものであり、その理由から [元々の] 土地所有者の立場としては、おそらくはその土地に対する権利がいつでも取り消されることがある、という前提に置かれていた。ボヴィアヌム・ヴェトスについては、そこが別名として Bovianum Undecimanorum [1/10税が免除のボヴィアヌム] と呼ばれていたことから推定して、十分確からしいと考えられることとしては、それは元々の土地の所有者に対して、その土地の使用料を徴収する権利が与えられた、そうした人々が集まった自治組織であったと解釈することが出来る。リエーティについてシクラス・フラッカス≪2世紀に生きたと推定される古代ローマの測量人・著述家≫が言及している内容によれば――P.136、20行目――多数の agri vectigalis [課税対象の土地] が存在しており、ピケナム≪Picenum、現在のマルケ州の南部、元はガリア人の土地だったのをローマ人が入植を進めた。アウグストゥス帝が定めた行政区分であるRegio Vとなった。≫についても同様であり、ヒストニウム≪Histonium、現在のアブルッツォ州キェーティ県のヴァスト、元々フレンターノ人の土地で、植民市ではなくムニキピウム [自治都市]。≫においての scamna で分割された土地ももしかするとピケナムの土地と同様に扱われたのかもしれない。≪ピケナムとヒストニウムはかなり離れており、原文直訳の「ヒストニウムの土地がピケナムに属していた」、という記述の真意は不明。ここでは同様のやり方が適用された、と解釈した。≫最後に残った可能性は、ある特定の場所のある部分において、つまり liber coloniarum の中でケントゥリア及び strigae と scamna によるよる土地の分割として言及されているような [ある土地のある] 部分は、単純に以前(全集版原文のP.111)ここで述べたベテラン兵への3分割した土地の割り当てとして行われたというものである。そしてそれは次のようなやり方で行われていた。つまり、測量人が一つのケントゥリアを2つの [原文は3つの ] 平行線で3つに分割し、そしてそれぞれの [長方形の] 部分を縦が長い場合に strigae、あるいは [横が長い場合に] scamna と名付けられたのである。これが行われた理由はおそらく次のことによる。つまり、ハイジンの時代において新しい方法として言及されているものが39)、つまり分割したそれぞれの土地の境界線を、ager centurias [ケントゥリアによる分割地] であった土地についても測量地図上に記載するということが、既に一般化していたということによる。

 いずれにせよ以上見て来たような実例が示していることは、特にスエッサ・アウルンカの例は、ager privatus として strigae と scamna を用いて土地を割り当てることも十分に可能であったにも関わらず、別のやり方が採用されており、その大部分の場合で、それぞれ何か特別な理由があってそうされたのであろうということは、かなりの程度間違いが無いということである。

39)P.121(全集注によれば正しくはP.119f)、前掲書

課税可能な植民市の土地の測量

 他方、scamna と strigae を使って、その土地の権利を制限された形で [ager privatus としてではなく] 割り当てられたのは、必ずしも [土地割り当て対象者の] 全員ではない、ということもまた確かである。課税可能な属州の土地の後の時代における割り当てについて、ハイジンは先に引用した箇所で、ハイジン自身はそれに反対していた立場だったようであるが、はっきりと次のように証言している。それはつまり、scamna と strigae を使った割り当てが、通常のケントゥリアと limitesを使った方法において [併用する形で] しばしば行われていた、ということである。そのことの実例におそらくなるのは、添付図1の中の銘文であり、そこに書かれていることによれば、明確にそれは測量図のコピーの一部であると述べられている。

 土地の分割がケントゥリアによって行われたということは、その測量図の断片上の表示から明らかである。≪以下の文の原文中のMaaßeはMaßeとして解釈した。≫ここでのケントゥリアの各辺の寸法は次の比率となっている。[ハイジンが引用している] ニプサスの書に出ている scamna によって分割された耕地は、240ユゲラの面積のケントゥリアにおいて分割が行われたのに違いなく、その場合の辺の比率は(6:5)[24 actus : 20 actus] となる。ニプサスはここでは明らかに、scamna によって分割された土地を課税対象の耕地として捉えている。というのもアラウシオにおいての scamna による分割地においては、そこの地図 [添付図1] が示しているように、単純な均等割り当てが行われたのではなく、明らかに個々の土地所有者 [割り当て対象者] に対し、様々なケントゥリアにおける様々に異なった土地面積の実質的価値に応じた割り当てが行われたからである。それは課税されることがなかった植民市における土地分割のやり方とまったく同じであった。モムゼンによる信頼性の高い原文修復の結果によれば、それぞれのケントゥリアでこのやり方は繰り返し行われている:”ex trib(utario) [tributario = 課税対象の、課税対象の土地から] ――その部分に対して数字が記載されている――red(actus) in col(onicum) [植民市において非課税の土地として与えられた]”――こちらについてもまた数字が記載されている。ハイジンがP.121で描出している箇所は、まさにこういった場合についてであり、そこでの描写は次の通りである:それまで測量がされておらず、割り当てもされていない(arcifinisches)[新たに占領した敵地など] 課税対象となるべき属州の土地が測量され、そして(免税とならない)アラウシオの植民市における境界線で分けられた耕地において、(新たに課税対象地としての)土地割り当てが行われた。アラウシオは [ガリア遠征による] シーザーが征服した土地における植民市である;そこでの全ての耕地がその当時分割され割り当てられたかは不明である。しかし碑文が刻まれた石自体が元の測量図と同じくらい古いものである必要はない。何故ならばそれは単なるコピーに過ぎないからである。

 ”redactus in colonicum” [植民市において与えられた] という表現は次のことを示している。つまり、その領土のある部分は、植民市の土地としてようやく後の時代になってから [土地割り当てなどの用途に] 転用されたのであると。アラウシオにおける耕地の分割は、常に、何度も考察して来た [実際にはこの論文では初めての言及、おそらくローマの測量人達が何度も言及している、という意味か。]マミリア法 ≪Lex Mamilia Roccia Peducaea Alliena Fabia、Corpus Agrimensorum Romanorum の中に3つほど断片が収録されている、割り当ての際の土地の最大の面積を定めている法。≫ の中のシーザーによる命令に従って行われている。シーザーは良く知られているように、海を渡った土地の植民市について、最初にそれを大規模に切り開いたが、 そのことから明らかなこととして推測出来るのは、このマミリア法における彼の命令が、属州の土地に対しても適用されたということは、ケントゥリアによる土地の割り当てが非課税の土地についてだけでなく、課税対象となる土地についても適用されたということの、まさに証拠であった。この形の土地割り当ては、植民市における平地の測量においても、次の理由から不可欠なものであった。つまり、測量人達は規則に従いながら異なった面積の土地を、それぞれの価額に応じて分割せねばならなかったのであり、それを scamna を使ってやると多大な労力が必要だったのに対し、他方ケントゥリアを使えば単純にあるケントゥリアではXユゲラ、別のケントゥリアではYユゲラが、それぞれ等しい価値を持つものと設定出来た、そういう理由からである。

ager quaestorius [財務官{クワエストル}が収入のため売却した公有地] における測量とその法的な性格

 それにも関わらず、以上見て来たようなある意味原則からの逸脱とも考え得る現象から更に見て取ることが出来ることとしては、通常 [の私有地として] よりも権利が制限された耕地が存在したということである。そういう耕地は scamna をベースにした土地割り当てが行われていなかった。これらは ager quaestorius であり、つまり次のような土地であった。それは定期的な土地使用料の支払い ≪Rente≫ を条件にして国家から与えられるのではなく、一回だけのお金(資本)の支払い [購入] を条件として与えられた土地である。

 この ager quaestorius の場合の土地分割については次のやり方が知られている。つまり、limites を用いて四角形の土地(laterculi または plinthides)を切り出し、それは一辺が10 actus の正方形=面積50ユゲラ [10×10÷2] の平面、として作られ、これらの土地区画が――規則に則って、オークションのようなやり方で――購買希望者に対し公開され、それからその測量地図が作られ、その地図の上にその土地を買った(受け取った)者の名前が、その者に売却された土地の面積と一緒に記載されたのである。40)

40)上掲書のP.115、P.110の8行目、P.125の下部、P.136の15行目、P.152、P.153の3行目、P.154。

この ager quaestorius と ager centuriatus の本質的な違いは、laterculi の面積がケントゥリアとは違うという点にあるのではなく、limites がここでは小路 [道路] ではなく、その文字通りの意味の通り単なる境界線 [リミット] となり、事実上は単に decumani の線を「分割するもの」となっており――それはこの名称が東西と南北の方向に関係なく使われていることからも分る。ここにおいての limites は [ケントゥリアの場合そうだったような] 公的な道路システムの意味で使われているのでは全くなく、ただ Raine [境界] の意味で使われており、それはそこにおいて土地の売却が行われた、個々の土地区画の境界を形作るものであった。それは scamna における rigores [直線] と同じ意味であり、その証拠としてシクラス・フラッカスは”limites, id est rigores” [limites 、それは直線である。] と書いている。ここでの limites は一番最初の土地分割の際の境界設定という意味しか持っていなかったので、その他の場合においてはその土地の継続的な権利保持の保証にも根拠にもならなかった。それ故に所有者が変わった場合には、limites 自体は消滅してしまっていた。そのために(フロンティン、P.154、5行目)次のような記述が残されている:”emendo vendendoque aliquas particulas ita confuderunt possessores, ut ad occupatoriam condicionem reciderint” [私はある土地区画の境界線を修正した上で売却する。そのように土地の所有者達は個々の土地区画を合筆し、新たな{売却のための}占有契約のために新しい境界線を設定する。]。

 様々な種類の土地の法律上の性質については後で更に詳しく述べるが、次のことを理解することが不可欠であると思われる。つまり、ager quaestorius については、土地と法律の関係という問題を先取りしていたということである。というのはこの制度において本質として理解すべきことは、事実上分割の方法と分割された土地の法律上の価値との意識的な関連付けが行われていたことである。

「ローマ土地制度史」の日本語訳(10)P.122~125

「ローマ土地制度史」の日本語訳の10回目です。今回は英訳の迷訳に笑わせてもらいました。しかしとはいえ、ヴェーバーの注釈は本当に細かいことについて詳細に言及するので訳すのが大変です。
===========================================
このような固有の土地税に関連付けられるか、あるいは少なくとも理論的には関連付けられた土地において――、個々の土地区画の境界線を測量地図上で明確に識別出来るようにすることについては、行政面では何の価値も無かった。ケンスス≪ローマにおける市民の登録とその所有財産の調査で今日の国勢調査の走り≫においてはしかし、土地のユゲラ数――即ち面積 [modus] 26a)――を申告する必要があったし、その申告においては、最初にその土地の割り当てを受けた時の測量地図 [forma] を添付する必要があった。従って、個人財産の証書類の提出 [の一つ] としてケンススにおけるよりよい管理という目的のために利用された可能性がある。それにもかかわらず、フロンティンが(p.4)特別に注記していること、つまり scamna と strigae による土地の分割は、”ava publica in provinciis coluntur” [属州においてその時点で耕作が行われていた公有の耕地] においてのやり方であると言っているということであるが、それに関して次のことは疑いようが無い。つまり、こうした土地の分割においては、特定の測量理論に従って実施されねばならなかったのであり、その場合はその土地は ager optimo jure privatus [非課税の私有地] にはならず、特に次のような場合において行われていたということである。その場合とは、土地が地代の納付という条件を了解することを条件として与えられたか、あるいはある種の土地税またはその土地からの収穫物への税が課せられたか、そういう場合であり、[フロンティンが] 完全な所有権が与えられると説明している場合には、そこでは [scamna と strigae によるのではなく] ケントゥリアによる境界線引きと土地割り当てが行われねばならなかった。ケントゥリアによる土地割り当てにおいては、それ故にいずれの場合でも:die coloniae civium Romanorum juris Italici [イタリアの法によるローマ市民の植民市] だったのであり、それは一人一人に [私有地として] 分割し分け与えられた土地区画であり、それに対しては完全なローマにおける土地所有権が貸与されたのである。

26a) キケロの”Pro Flacco”の32,80に “majorem agri modum” [その土地の面積の大部分を] という記述がある。

Scamna の適用

 Strigas と scamna を使った土地の割り当ては、次のような理論に従って行われていたのかもしれない:全ての agris vectigales [課税対象の土地] は、ローマの役人によってそういうものとして [ケントゥリアとは別のものとして] 貸与され、そしてその土地には国家への納税義務が付随していた。更にそのような属州の土地は、その土地の以前のまたは新しい所有者に対し、個々の土地区画に対して、現金による税支払いや、または農作物の引き渡しなどの、その土地に対する物上負担 [人ではなく物が負担すべき一種の債務] として一般的に課せられる支払いを条件とした上で引き渡されていた。更に分析を進めるとすれば、我々は次のフロンティンの記述に着目すべきであろう。それは scamna と strigae による土地割り当ては、arva publica [公有の耕地] を分割貸与する際に使われたのであり、次のことを結論付けている。つまり、この形の土地分割方法は元々、公有地において定期賃貸借の形で与えられる土地に対して適用された方法と同じであり、その場合は次の目的で測量されることが多かった。つまり、測量上の併用方式、即ち limites を用いる方法と scamna を用いる方法を併用し、その場合法的には ager privatus と ager vectigalis が同時適用された “ager privatus vectigalisque” [私有地であって課税される土地] という形式に適合しているのである。

 国家の名において賃貸しされた耕地が、法の取り決めに従って測量地図上に記載されなければならないということは、グラニウス・リチニアヌス≪Granius Licinianus、2世紀のローマの歴史家、その著作については若干の断片のみが現存している。≫の著作に一部に出ている。その記述によれば、部分的に個人によって占有された ager Campanus [カンパーニャ地方の耕地] の [所有権の] 変更に当たって、元老院によって全権委任された執政官の P. レントゥルス≪Publis Comelius Lentulus Spinther、BC101~BC47年頃、BC57年に執政官を務めた、ローマの政治家・軍人≫が語ったところに拠れば――それはモムゼンのC.I.L., X P.386における解読に従えば――:
 Agrum (e)u(m) in (fundos) minu(t)os divisum (mox ad pr)et(i)um indictu(m locavit et mu)lto plures (quam speraverat agros ei rei) praepositus reciperavit formamque agrorum in ae(s) incisam ad Libertatis fixam reliquit, quam postea Sulla corrupit.

[ 彼が小さな単位に分割した土地を、次にあらかじめ決められた価格によって契約を結んで貸与した。そういった資産としての土地を、その担当者は、あらかじめ予測されていたものよりもはるかに多く、復元させることが出来た。彼はその土地の測量図を青銅の板に刻み、それを自由の女神{リベルタース}の神殿に設置して残した {測量図を含むケンサスの記録がこの神殿に保管されていた}、後にそれはスッラによって破壊された。]

 もっとも確からしいと思われることは、ここではある土地を地図に載せて登録するという目的に沿って、個々の土地区画の境界線が測量地図上に記載された、ということである。その理由は、そうでないとしたら、何のためにそのような [余計な手間のかかる] 地図を作成しているのかの目的がどこにも見出せなくなるということである。Ager Campanus は、というのも、シーザーの時代においてすら、未だに ager vectigalis (スエトン、Div. Jul. c. 20)であったからである。いずれにせよ、より確からしいのは、当時の測量人達が limites を用いた測量より、strigae と scamna を使ったやり方の方をより頻繁に行った、ということである。Limites を用いる方法は、その本来の目的では、一般にこの地域では使うことが出来なかった。というのはこの記述の部分では、元老院からの土地評価の要請に基づく行政行為としての測量のみが扱われているからである。

 我々が次のことを正しいと仮定する場合、つまり scamna と strigas を使った土地割り当ては、既にかなり早い時代においても、また後の時代においても、もっぱら公共の土地あるいは半ば公共の土地の測量についてのみ利用されていたと仮定する場合、だからといって次の2つはいずれも正しいとは言えない:
1.scamna と strigas がそういう場合だけに使われたということ
2.公共の土地あるいは半ば公共の土地は常に scamna と strigas を使って分割されたということ
この2点については、むしろ逆であったことが証明出来よう。[scamna と strigae を使うのは他の場合の方が一般的だった、公共の土地の分割については他の方法の方が多く行われていた。]

 フロンティンによれば、scamna と strigas を土地割り当ての手段として使うやり方は、概して古代のやり方であると記述されている。我々は scamna と strigae が若干の自治市において行われているのを確認することが出来る。それらの自治市については後に論じる。そしてそれはローマ市民によって建設された2つの植民都市でも使われていた:それはオスティア 27)≪オスティア・アンティカ、ローマの外港でテヴェレ川河口にあった港湾都市。≫スエッサ・アウルンカ 28)≪現在のセッサ・アウルンカ、アッピア街道とローマ街道の中間にあり、紀元前4世紀以降ローマ市民による植民が行われた。≫である。オスティアの方は、ローマによるローマ市民の植民市として知られている最古の都市であり、古代における植民市の特質について論じる場合には、何をおいても真っ先に取り上げられるべき都市であり、その成立の実際についての議論がこれまで行なわれて来ているし、そしてまた [後に] 皇帝アウグストゥスの植民市にもなった。それに対してスエッサ・アウルンカの方は、元々はラテン人≪ラテン植民市の市民で、ラテン語を話すがローマ市民よりは一段下に扱われた。≫の植民市だったのであり、ローマの同盟市戦争≪BC91年から数年間、イタリア半島南部の都市国家や部族がローマ市民権を求めて蜂起した戦争。≫以来のムニピキウム [都市国家] であり、三頭政治の時にローマの植民市となった。スエッサについてまず言えることは、scamna と strigae を適用するに当たって、何か特別な理由があったように思われることである。フロンティンは次のように述べている(P.48、16):

 ”et sunt plerumque agri, ut in Campania in Suessano, culti, qui habent in monte Massico plagas silvarum determinatas.” [そのほとんどが次のような土地であった。それはつまりカンパーニャとスエッサにあった耕地で、マッシコ山の麓にあった平野で森に囲まれていた。]

 それ故に、この記述からは、ある理由から次のことについての必要性があらかじめあったように思われる。それはフロンティンが記述しているように、森林の利用の規制である。つまり、森林のある一部を伐採して土地を拓いた場合、――それは特定の種類の土地区画に割り当てられねばならなかったし、またそれを可能にするために、測量人達はまずは他のことに先駆けて、既に所有権が誰かに与えられている土地の境界線と同様に、[伐採された] 森林の中の土地の境界線も測量地図上に明記する必要があった。つまりは scamna と strigae を使ったのである。その他の詳細については不明であり、いつ誰によってこうした土地分割のやり方が始められたのかは分からない。しかしながら三頭政治時代の争乱の中で実施された行政手続きについては、既に存在していた土地の分割割り当ての方法を単純に引き継いだと考えるのが、全くの所正しいと思われる。28a)

27) l. Col. (Liber coloniarum) 236, 7, Ostensis ager ab imp[eratoribus] Vespasiano, Trajano, et Hadriano, in praecisuris, in lacineis et perstr iga s, colonis eorum est adsignatus. [オスティアの土地については、皇帝ウェスパシアヌス、トラヤヌス、そしてアドリアヌスによって、切り分けられ、境界を与えられ、そして strigae を使って、その地の植民者達に割り当てられた。]
明らかなこととして、互いに隣接し合っている土地の割り当てのやり方は、それより以前の土地割り当ての方法が引き継がれており、ここに言及されている3人の皇帝によってそのやり方が継承されている。

28)フロンティン、P. 3。

28a) このことから、スエッサのラテン市民による植民市については、次のように推論すること、つまり土地の分割割り当ては全て scamna と strigae を使って実施されたのであると、そういう風に結論付けるのは性急過ぎるであろう。

 オスティアに関しては、――仮説構築を試みることは出来るであろうが――むしろどうやったら仮説に留まらず事実に近付けるだろうか?――この地における scamna と strigae を用いた土地の分割は、そこにおける都市住民と関連付けて考えるべきであろう。その都市住民は、明らかに少なくともオスティアの人口の一定部分を占めていたのである。それ以外にまた、オスティアはイタリアにおける2番目の大きさの穀物の輸送港であり、それはUC560年(BC194年)に建設されたと推定されているローマ市民の植民市であるプテオリ≪現在の Pozzoli、ナポリ市内のコミューン。≫に続く規模であり、さらにその下位にはコルシカ島の [これはヴェーバーの間違いと思われ、正しくはサルディーニャ島の] トゥリス・リビソニス≪Turris Libyssonis、現在のポルト・トッレスでサルディーニャ島の北西端部に位置する港町。≫の港町がそれに続いている。更に仮説として提示出来るのは、まさに scamna と strigae を使って測量され地図に記載された耕地の法律上の特質が次のようなものであったということである。その特質とは、まず当該の土地を割り当てられた者が、その土地を Landtribus [平民の私有地] として扱うことが難しかったということである。次にその割り当てられた耕地の質に関して、それぞれにその土地が産み出す利益との関連付けが、改めて行われていた、ということである。その利益に対して、当該の土地の所有者は、首都であるローマへの穀物供給という点で、viasii vicani ≪公道の側の土地の所有者でその公道の管理義務を負わされた者。≫や navicularius ≪小型の船舶の所有者、例えばポンペイウスはBC57年にローマへの穀物の海上輸送に従事させる目的でこうした船主にローマの市民権を与えている。≫と同様に、何らかの税(義務)が課されていたのであり、分割されて与えられた土地区画は、そういった条件付きであったが故に、[完全な] ager privatus [私有地] として割り与えられることはなかったのである。29)

29)モムゼンが確認した所によると、オスティアの住民の中にはヴォトリア人≪ローマの古代の有力な種族で、オスティア・アンティカを最初に建設したとされる。≫がいた。他方、ある銘文によれば、オスティアの住民の中にはパラティーナ人≪イタリア半島に古くから居た種族で4都市部族の一つ。≫もいたことは疑いようがない。そのことに適合するのは、土地分割における顕著な区別、つまり lacinae [断片状の土地]、praecisurae [境界で分けられた土地]、と strigae であった。lacinae については既に前に [注18参照] アンティウムにおいての、方形の土地単位による分割と、最初期の耕地ゲマインシャフトとして形成された可能性が高いものとして説明済みである。もしこの説明が正しいのであれば、オスティアにおける lacinae は古い植民市における耕地として説明出来るであろう。これに対して strigae と scamna は、その土地の受領に当たって、ローマ市への穀物供給においての一定の義務を課された所有者の耕地に対して使用されたのかもしれない。それはアウグストゥス帝の指令によるものか、あるいはもっと古くから存在したかもしれない。しかしながら、次のようなことまで述べるのは、奇を衒い過ぎているであろう。つまり、これらの3つの港湾都市について、直接的にその意味を穀物輸送 [だけ] と決めてかかり、また各都市において [それに専任で従事した] 諸部族の存在を前提にする、ということは。Naviculari [船主] については但し、知られている限りでは、オスティアではそのような [船による穀物輸送の] 義務は課されておらず、そこでの銘文に記載されている naviculari は本来のオスティア人ではなく、よそ者である。Naviculariは――Codex Theodosianusu のXIII、5-7を参照――むしろおそらくはただ海上輸送のための穀物積み出し港に [オスティアは積み出し港ではなく、ローマの穀物需要を満たす上での陸揚げ港] より多くいたのだと思われる。それに対してオスティアでも多数いたことが銘文によって証明されるのは、その時々の穀物価格 [annona] の決定に関与している同業者組合 [collegia、ギルド] のメンバーである。――プテオリにおいては、周知のこととして、UC560年(BC194年)に建設されたと推定される植民市と並んで、古い形での自治コミュニティ [municipium] が成立しており、それは帝政期まで続いた。植民市が存在したことの証明はそこから――その当時の状況からして妥当な理由としては――おそらくはただ穀物供給の確実性を高めることか、あるいは少なくともそれが理由の一つであったと言うことが出来るであろう。C.I.L.、X、1881の銘文は、関連する市民への金銭の分配について述べており、そこから読み取れるのは、第一の身分としては10人組長 [decuriones] が居り、二番目が皇帝アウグストゥスの配下の者達、それに続いてギルド [corporati] に属する自由市民とベテラン兵士、そして最後に自治コミュニティの構成員という順番になっており、それぞれに分配された金銭の割合は、12:8:6:4であった。ベテラン兵士は本来は手工業者のギルドのメンバーでは全く無かったので、ここの妥当な解釈は、まずはギルド [Korporation] が穀物の流通に従事していることについて述べているのであり、ベテラン兵士については土地区画を受け取る代償としてその土地に関係付けられた一定の義務 [税] が課されたのであり、自由民 [ingenui] がこの碑文では自治コミュニティの構成員 [municipium] に対立する存在として扱われていることから分かるように、古くからの植民市の市民としてその義務 [税] を負わねばならなかったのである。これに類似の例として、viasii vicani [公道の管理義務を負う公道の側の土地の所有者] や navicularii [穀物輸送の義務を課された船主] があるのである。オスティアにおいては、この種の金銭を受け取ることで、ウェスパシアヌス帝、トラヤヌスス帝、そしてハドリアヌス帝の時も継続して穀物供給義務が課されていたのではないだろうか。何故ならば、穀物流通のための労働力の需要は増大したに違いないし、また新たに割り当てる土地も枯渇するようになっていたと考えられるからである。

面白すぎる「ローマ土地制度史」の英訳

「ローマ土地制度史」の第1章の注29が結構難しくて、一応英訳も見てみたのですが、そのあまりの斬新な訳に大笑いしてしまいました。

原文(注29の最後):auch Landlose ledig geworden sein konnten.
英訳:landless men could be bachelors [and childress]
(土地を持っていない者は独身であり子供がいなかった可能性がある)
私の日本語訳:また新たに割り当てられる土地も枯渇していたと考えられるからである。

英訳はLandloseのlosを英語のlessだと思って訳しています。しかしこの語は既に何度も登場しており、割り当てのために区画割りされた土地単位のことです。ledigも「独身の」という意味ではなく、「枯渇した、無くなった」という意味だとしか取りようがありません。その前に、穀物流通のための労働力需要は増大した、とあるので、しかし独身者が増えたので労働力が十分供給出来なかったとおそらく解釈しているのでしょう。
こんなレベルの人が古典語の学者として通用しているとは本当に信じられません。