折原浩先生のHPの更新が4月30日以降途絶えており、その最後の書き込みでご健康の問題に言及されていました。また6月20日頃メールしましたが返信がなく、案じていました。本日折原浩先生より返信をいただきました。検査のために入院されていたそうです。
投稿者: Moritz
ChatGPTの有償版(GPT-4.0)を使い始めました。
ChatGPTについて、有償版(GPT-4.0)を契約して使い始めました。月20ドルです。まだ色々試している段階ですが、3.5に比べ確実に進化しています。以下は一例:
質問
ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーの学問に対するディルタイの解釈学の影響について教えてください。
マックス・ヴェーバー(1864年-1920年)とヴィルヘルム・ディルタイ(1833年-1911年)は19世紀と20世紀初頭のドイツの著名な社会科学者で、ともに社会科学の方法論とその本質に対する理解を深めるための作業に従事していました。それぞれが独自のアプローチを持っていましたが、ヴェーバーの作業は間違いなくディルタイの影響を受けていました。
ディルタイは社会科学の研究方法についての重要な考えを提供しました。彼は「理解」(Verstehen)という概念を通じて、社会科学が自然科学とは異なる独自の方法で行われるべきだと主張しました。ディルタイにとって、「理解」は他者の体験、意図、感情に対する洞察や共感を意味します。これは、人間の行動が単に観察可能な事象ではなく、それらが意味を持つ文脈において理解されるべきであるという彼の信念を反映しています。
マックス・ヴェーバーはディルタイの「理解」の概念を引き継ぎ、それを彼自身の社会学の方法論に組み込みました。ヴェーバーは社会科学が行動主義や経験主義の視点だけでなく、「理解」の視点からもアプローチする必要があると認識しました。彼は個々の行動がそれ自体で意味を持つだけでなく、それが集団や文化全体の複雑な文脈にどのように適合するかを理解することを重視しました。これは彼の「理想的な型」の概念にも表れています。
したがって、ディルタイの影響はヴェーバーの社会学の中心的な要素であり、彼が個々の行動と社会全体のダイナミクスを理解するためのツールとして使用しました。ヴェーバーはディルタイの考え方を引き継ぎつつも、それを発展させて自己の理論フレームワークに組み込むことで、新しい視点を提供しました。
ドイツ語翻訳ツールとしてのChatGPT
ChatGPTは外国語翻訳ツールとしては非常に有用で、例えば英語のメールを作成させるのでも、従来は日本語メール作成→翻訳という手順が必要でしたが、ChatGPTでは「~という内容の英文メールを作成して」で済み、そしてかなり程度の良いものを作ってくれます。
また純粋な翻訳ツールとして見た場合でも、従来のGoogle翻訳などに比べてはるかに精度的には上がっています。従来の翻訳ツールは要するに語学的な翻訳ツールでしかありませんが、生成AIは背後に膨大な世界知識を持っていますので、それが翻訳の質に大きく貢献しています。
以下、「ローマ土地制度史」の序文の所の、ドイツ語-ChatGPTの日本語訳-拙訳です。精密な解読というレベルではもちろんなくかなり端折った訳ですが、ざっとどういう内容が書いてあるかの理解には十分使用可能と思います。「農業」と訳されている部分の多くは正確には「土地制度」ですが、これは人間も間違えていますので、仕方がないかなと思います。
Vorbemerkung.
Die nachstehenden Untersuchungen können wohl nicht den Anspruch erheben, vollkommen das zu halten, was der Titel verspricht. Sie behandeln verschiedene Erscheinungen des römischen Staats- und Privatrechts unter einem einseitigen Gesichtspunkt: dem ihrer praktischen Bedeutung für die Entwickelung der agrarischen Verhältnisse.
Die ersten Kapitel versuchen den Zusammenhang der verschiedenen Aufmessungsformen des römischen Ackers mit dessen staats- und privatrechtlichen Qualitäten und die praktische Bedeutung dieser letzteren klar zu legen; sie unternehmen es auch, durch Rückschlüsse aus späteren Erscheinungen eine Anschauung von den Ausgangspunkten der agrarischen Entwickelung Roms zu gewinnen, und ich bin mir bewusst, bezüglich dieser Partien der Darstellung dem Vorwurfe mich auszusetzen, vielfach wesentlich konstruktiv verfahren zu
sein. Indessen dass die Konstruktion auf diesem Gebiet entbehrlich sei, wird nach Lage der Quellen niemand behaupten wollen, und gerade auf dem Gebiet der Agrargeschichte gibt es Fälle, wo man mit Schlüssen aus der »Natur der Sache« weiter kommt und relativ sicherer geht als auf anderen Gebieten. Die Organisation agrarischer Gemeinschaften bietet eben, wenn gewisse Grundlagen feststehen, nur eine beschränkte Zahl von Möglichkeiten. Es war nun hier die Aufgabe, rein experimentell zu untersuchen, ob, wenn man diejenigen Saiten des römischen Agrarwesens, welche unter dem Schutt der Jahrtausende für uns noch erreichbar zu Tage liegen, gemäss den jedem
Agrarhistoriker geläufigen Begriffen anschlägt, welche die Grundlage anderer indogermanischer Agrarverfassungen bilden, sie Accorde ergeben, oder ob sie sich stumm oder geradezu disharmonisch dazu verhalten — und ich möchte glauben, den Eindruck erreicht zu haben, dass ersteres der Fall ist. Es ist zunächst der Nachweis versucht worden, dass die Art der feldmesserischen Behandlung des römischen Bodens überhaupt in festem Zusammenhang steht einerseits mit den öffentlichrechtlichen Beziehungen der betreffenden
Territorien, andrerseits mit den privatrechtlichen Verhältnissen der Grundstücke. Inwieweit es dabei gelungen ist, die Art dieser Beziehungen im einzelnen nachzuweisen, ist mir zweifelhaft, es scheint mir aber schon ein Gewinn, wenn — wie ich glauben möchte — der Nachweis, dass ein Zusammenhang überhaupt besteht und zu ermitteln ist, als gelungen gelten kann. Stimmt man dem bei, so wird man, hoffe ich, auch den bunten Strauss von Hypothesen, welcher an diesem Punkte in die Darstellung hineingeflochten ist, und zahlreiche, vielleicht in der Form nicht immer vorsichtig gefasste Bemerkungen allgemeinerer Art mit in den Kauf nehmen oder doch milder beurteilen: das Bestehen eines Zusammenhanges zwischen zwei historischen Erscheinungen lässt sich nun einmal nicht in abstracto, sondern nur so zur Anschauung bringen, dass eine in sich geschlossene Ansicht über die Art, wie dieser Zusammenhang sich konkret gestaltet habe, vorgetragen wird.
ChatGPT
前書き:
以下の研究は、タイトルが約束することを完全に守ることを主張することはできないでしょう。それらは、一方的な視点でローマの公法と私法のさまざまな現象を扱っています。具体的な農業関係の発展における実用的な意義について述べます。最初の章では、ローマの土地測量方法とその公法的および私法的な性質、およびこれらの後者の実用的な意義の関連を明らかにしようとします。また、後の現象からの推論を通じて、ローマの農業発展の出発点についての観点を得ることも試みます。私は、この記述の一部において、多くの点で本質的に建設的な方法を取っているという非難を受けることについて自覚しています。ただし、情報源の状況を考慮すると、この領域での構築が不要であると主張する人はいないでしょう。農業史の領域では、「事柄の本質」に関する結論を他の領域よりも確実に導くことができる場合があります。特定の基礎が確立されている場合、農業共同体の組織は限られた可能性しか提供しません。したがって、ここでは実験的に、ローマの農業制度の弦が、数千年の土砂の下で私たちにまだ到達可能なものであるかのように、各農業史家にとって一般的な概念に基づいて鳴らされる場合、それが調和したコードを形成するか、無音またはまったく不調和な関係を持つかを調査することが目的でした。そして、私は前者の場合が起こるという印象を与えることができたと信じています。まず、ローマの土地測量の方法の性質が、関連する領域の公法的な関係と土地の私法的な関係と密接に関連していることを証明しようとしました。具体的な関係の性質を個別に証明することがどの程度成功したかは疑問ですが、関連性が存在し、それを特定することができることを証明できたと考えれば、それだけでも収穫です。それを認めるならば、私は、この段階で挿入されたさまざまな仮説や、おそらく常に慎重に構成されていない一般的なコメントを受け入れるか、少なくとも寛容な判断をすることを期待しています。歴史的な二つの現象の間に関連性が存在することは、抽象的にではなく、具体的にその関連性がどのように具体的に形成されたかについて統一された見解を示すことでしか視覚化することはできません。
拙訳(注釈類を削除)
序文
以下の研究においては、人がその表題から期待するような内容を完璧に行うことは、まったくもって約束出来ない。この研究はローマの国法と私法に関する様々な諸事実をある見地、即ちそれらが様々な土地制度の発達を促したという実質的な意義という見地から取上げる。
最初の章では次のことを試みている。つまり、ローマでの耕地に対する様々な測量方法とそれらの耕地自体との相互関係を明らかにすることと、そしてその耕地の国法および私法においての価値評価方法と、更にはその価値評価方法が持っていた実際的な意義を解明することである。そこではまた、次のことも試みている。つまり、後代の諸事象からの帰納的推論によって、ローマにおける土地制度の発展の出発点についての見解をまとめることである。その際に私は次のことについては自覚しているつもりである。つまり、この最初の章の記述において、本質的にはひたすら何らかの仮説や理論を作り出そうとしているだけではないかという非難を受ける可能性が高いということである。だからといって、この領域においての仮説・理論構築的なアプローチが無駄であるなどとは、この時代の文献史料の状態を知っている者は誰もそうは言わないであろう。そしてまさに土地制度史の領域においては、次のような場合が存在するのである。つまり、「事物の本性」 からいくつかの結論を得て先へ進み、他の領域におけるよりも相対的に見てより確からしさを高めることが出来た、そういう場合である。土地所有ゲマインシャフトの諸組織は、いくつかの条件が満たされている場合には、まさに限定された種類のものが存在していた可能性を確認出来る。ここでは純粋に実験的な研究を、次のテーマについて行うということが課題であった。そのテーマとは、ローマの土地制度の本質のある一面として、何千年紀の間の時間の中瓦礫に埋もれながらなお何とか我々に把握出来る状態にある史料類を、すべての土地制度史家におなじみの概念に沿う形で評価しようとする場合と、その本質として他のインドゲルマンの土地制度に関しての法形成を促進する根本原理となっている場合において、その根本原理が調和をもたらしているのか、それとも何も影響を与えていないのか、あるいはまったく逆に不協和をもたらしているのか、そういうことを研究するということが課題であった。――そして私としては、調和をもたらしたというのが正解であるという印象を得たのである。まず始めに、次の証明が試みられる。つまりローマの土地の土地測量上の取り扱いが、一般的に言ってある一面では当該の領土の公法における取り扱いと、また別の面では地所の私法における取り扱いとが、それぞれ密接に関連しているということについての証明である。その際にどの程度まで個々の事例においてそういった取り扱いの仕方の証明に成功したかということについては、私はあまり自信が無い。しかしながら次のような場合には成果を上げたと言えるであろう。つまりある何かと別の何かの関連性が一般論として存在している場合に、それを発見出来たという証明を――私はそう信じたいが――、きちんと行うことが出来た場合である。そうした証明について同意していただける方は、私はそう願いたいのであるが、さらにまた色とりどりの花をまとめた花束のような様々な仮説と、その花束というのはこの公法・私法と土地制度の関係性という点でこの論文の叙述の中にちりばめられているのであるが、そして更には数多い、場合によっては必ずしも目に見えるようなはっきりとした形では把握出来ない観察事項をも、一般的な形で余録として受け取ることも出来るであろう。
リッケルト「自然科学の概念形成の限界。歴史科学への論理的入門」を入手。
「理解社会学のカテゴリー」論文の冒頭に言及されている文献の内、リッケルト(リッカート)の「自然科学の概念形成の限界。歴史科学への論理的入門」は残念ながら日本語訳が出ていません。それでドイツ語版を取り寄せようとしたのですが、これもなかなか面倒でインドの出版社によるファクシミリ版をようやく入手しました。(なお、このファクシミリ版は1ページがかすれれていてほぼ判読不能です。)
ファクシミリ版の表紙に「第一部」とあったので、第二部があるのかと思って探しましたが、結局このファクシミリ版は第一部と第二部を合本したものでした。第一部(第一~三章)が出版されたのは1896年で、第二部(第四~五章)は1902年で6年開いています。リッケルトの緒言によれば、第一部は「自然科学の方法論の限界について、つまり歴史の科学がそれではないこと」について述べたもの、第二部が「歴史科学の本質について」となっています。ヴェーバーが参照しているのは、当然両方です。
なお、邦訳がある(岩波文庫)「文化科学と自然科学」は1901年と第一部と第二部の間に出ており、著者自身が「限界」論文の入門編としても読める、と述べているので、こちらを読んでも大枠は分ると思います。(私は現在他の文献も平行して読みながらこちらを読書中です。)
なお目次部分(第二部の冒頭にあります)について、スキャンしたものを載せておきます。画像はクリックで拡大します。
ちなみに、ヴェーバーとリッケルトは一つ違い(リッケルトが一つ上)ですが、ギムナジウムでの同級生だったようです。そういう意味でヴェーバーの良き論争相手でした。
雑誌「ロゴス」についてのメモ
ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」とフッサールの「厳密な学としての哲学」の発表誌はどちらも哲学雑誌「ロゴス」誌です。これについてちょっと調べました。まず正式な名前は”Logos. Internationale Zeitschrift für Philosophie der Kultur.”です。単なる哲学雑誌ではなく、「文化の哲学」のための国際雑誌、となっています。「文化の哲学」と聞くとまずリッケルトを思い出しますが、実際に編集に携わったゲオルク・メーリスはリッケルトの弟子筋にあたる新カント学派の哲学者です。出版社はおなじみモーア・ジーベックです。「国際」の方はロシア語版他の各国語版が計画されていたようです。1910年創刊で年1冊のペースで刊行されたようで1933年まで続きます。その後ナチスの政権奪取で雑誌の性格が変わってしまったようです。ここにどなたが作られたか存じ上げませんが、各巻の執筆者とのその表題の一覧があります。それを見ると、フッサール、リッケルト、ヴィンデルバント、ジンメル、ラートブルフ等々、「理解社会学のカテゴリー」の冒頭で言及されている学者が多数登場します。タイトルからも分るように、純粋な形而上学に限定した雑誌ではなく、幅広い分野の学者が寄稿していたことが分ります。ちなみにマリアンネも2回寄稿しています。最初の寄稿はヴェーバーより先です。
実験心理学の今日的な意味
実験心理学の創始者のヴィルヘルム・ヴントは、元々哲学の教授でした。なので1879年に彼が作った実験心理学の研究室は、ライプチヒ大学の哲学部の中にありました。そのことからも分るように、当時の心理学は、人間の精神の研究によって哲学をトップとする様々な精神科学への基礎となる、というある意味強い思い込みと同時に自己の学問への過大評価をしていました。
これに対する様々な反動が起き、フッサールの現象学やヴェーバーの理解社会学も広い意味でそうなのですが、1910年頃から、通常の哲学者達によって
(1)実験心理学者が哲学の講座を担当すること
(2)実験心理学の教室が哲学部の中にあること
に対する反対運動が起きたのだそうです。(出典:高橋澪子著、心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生、第四章第三節)
確かに、当時の実験心理学のレベルについて、全ての精神科学の基礎を作り上げるというのは、単なる「プログラム」であり、また実現性も極めて低いものだったと思います。しかし、ChatGPTを試していて思ったのですが、このAIは既にアラン・チューリングが提唱した「チューリング・テスト」をクリアしているのではないかと。(つまり、人間の回答とAIの回答を見分けることはもう不可能になっているということです。)そうであれば、こうした生成型AIは完全ではないにせよ、人間の脳の働きをかなりの部分まで模倣することに成功していると言えるかと思います。そしてそれはプログラムと大量の学習データによって作られており、「工学的に」構成可能なものです。AIがそこまで来ているのであれば、今再びかつて実験心理学が構想していた「大それた」試みを、再度検討することが非常に現実的になっているのではないでしょうか。コンピューターの発達と人間の脳の研究は並行して発展して来た面があると思います。なので実験心理学が19世紀末に投げかけた問題は、単なる昔の話ではなく、十分今日的な意味を持つと思います。
20世紀初頭の心理学ー江戸川乱歩の「心理試験」より
20世紀初頭の心理学がどういったものであるかを、江戸川乱歩の「心理試験」(1925年)が良く描写していますので紹介します。(引用元:青空文庫)元々、高砂美樹著、「心理学史はじめの一歩 改訂新版: ルネサンスから現代心理学へ 」の中のコラムで紹介されているものです。当時の心理学がこうした装置を用いて人間の心理の動きを数値やグラフにして調べようとしていたことが良く分ります。
「蕗屋(注:殺人犯)の考によれば、心理試験はその性質によって二つに大別することが出来た。一つは純然たる生理上の反応によるもの、今一つは言葉を通じて行われるものだ。前者は、試験者が犯罪に関聯した様々の質問を発して、被験者の身体上の微細な反応を、適当な装置によって記録し、普通の訊問によっては、到底知ることの出来ない真実を掴もうとする方法だ。それは、人間は、仮令言葉の上で、又は顔面表情の上で嘘をついても、神経そのものの興奮は隠すことが出来ず、それが微細な肉体上の徴候として現われるものだという理論に基くので、その方法としては、例たとえば、Automatograph 等の力を借りて、手の微細な動きを発見する方法。ある手段によって眼球の動き方を確める方法。Pneumograph によって呼吸の深浅遅速を計る方法。Sphygmograph によって脈搏の高低遅速を計る方法。Plethysmograph によって四肢の血量を計る方法。Galvanometer によって掌の微細なる発汗を発見する方法。膝の関節を軽く打って生ずる筋肉の収縮の多少を見る方法、其他これらに類した種々様々の方法がある。」
ChatGPTにヴェーバーの社会学について聞いてみました。
今話題のChatGPTを試してみました。残念ながら最初の段落以外は誤りだらけでした。学生がこれでレポート書いても良くてC(可)ぐらいですね。厳しい先生ならD(不可)でしょう。しかし、一般の人はこういう間違いをそのまま信じてしまうんでしょうね。
A: マックス・ヴェーバーは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したドイツの社会学者であり、官僚制やプロテスタントの倫理、権力や支配などのテーマで重要な業績を残しました。
彼は社会的な行為や社会構造を理解する上で、社会的行為の根本的な動機としての「価値観」という観点からアプローチしました。ヴェーバーによれば、人々は自分たちの行動にあたって、ある種の価値観に従って行動するということが重要であるとされました。
また、彼は「官僚制」という概念を提唱し、現代の行政機関や企業などの組織が、正確で効率的な運営を実現するために、権限や職務が明確に定められた大規模で階層化された組織形態を取り入れる必要があると考えました。
ヴェーバーはまた、支配や権力についても研究し、政治的な権力や経済的な力の他に、知識や情報を有する者が支配することがあるとし、これを「知識人の支配」と呼びました。
彼の社会学には、社会現象の理解に必要な「価値観」や「意味」に着目する「理解社会学」と、社会構造を分析する「構造社会学」の二つのアプローチがあり、後の社会学の発展に大きな影響を与えました。
中野氏の「ヴェーバー入門」における「心理学」の説明への疑問
色々と「理解社会学のカテゴリー」の周辺の書籍を読んでいった結果として、当時の心理学、つまり実験心理学がどういうものであったのか調べていますが、中野敏男氏の「ヴェーバー入門」に登場する「心理学」という単語が使われている説明は、いくつかの概念を混同していて、正しく使われておらず、読者に誤解を与えるものだと思います。
まずは氏は、シュモラーの例のヴェーバーとの学問における価値判断の取扱についての論争の説明で、シュモラーの立場を「心理学により正義を語る国民経済学」としています。そこで「当時進展を見せていた科学としての心理学の知見」をシュモラーが議論の支えにした、とあります。(下線部は原文は傍点)そして「正義の理念は、必然的な心理過程から発生し」ということを引用しています。しかし、当時の「科学としての心理学」で一体だれが、正義の理念の発生を解明するまでの業績を挙げたのでしょうか?先に書きましたが、この当時の「科学としての心理学」というのは、実験心理学のことです。その具体的な業績とは、例えばヘルムホルツが神経における神経興奮の伝達速度が、1秒当たり30m前後であることを突き止めた、とかそういうことで、まさしく「実験室で」「実験によって」確かめられたものです。また、ヴェーバーの「ロッシャーとクニース」の中で言及・批判されている心理学者は、ヴィルヘルム・ヴントとヒューゴー・ミュンスターバーグ(同書の日本語訳中ではミュンスターベルク)などの実験心理学者であり、フロイトやユングではありません。
それから更に、ヴェーバーの理解と科学的心理学の違いの説明として、「代償行為」とか「防衛機制」等を「科学的心理学の立場からの説明」としています。この説明はヤスパースの「精神病理学原論」のような精神病理学であれば成り立つと思いますが、「当時の」科学的心理学の説明としてはまったく不適です。
それからもっと大きな問題は、中野氏がこういった当時の実験心理学に対する批判的な発展として、哲学の認識論の分野での心理学主義を一まとめにして「科学的心理学」としてしまっていることです。ディルタイは解釈学を打ち立てる前は「記述的分析心理学」を提唱していました。そして何度か紹介しているフッサールも、彼の現象学というものは、当時の実験心理学が人間の表象などの心的現象をきちんと定義も無しにアプリオリなものとして扱っているのに対し、哲学の認識論的なバックグラウンドを与えて厳密化しようとしたものと言えるでしょう。そしてそのディルタイに対する批判としてヴィンデンバルトやリッケルトが登場しまたフッサールもディルタイ批判を「厳密な学としての哲学」でしています。またディルタイの主張を発展させて自分なりに作り替えたのがジンメルであり、これらの学者は全てヴェーバーが理解社会学というものを提唱する上で大きな影響を与えています。
これらのディルタイ、ヴィンデンバルト、リッケルト、フッサールについての説明は中野書にはまったくといって良いほど出ていません。例外的にP.50でヴェーバーの理解は解釈学的な流れではなくむしろ哲学的な認識論につながる、と説明がありそこにディルタイが登場しますが、ここもまたおかしな説明で、ディルタイもヴィンデンバルトもリッケルトもジンメルもフッサールも、カント以来の伝統である哲学的な認識論からスタートしているのであり、ヴィンデンバルトやリッケルトが「新カント学派」とされていることからもそれは明らかです。
ヴェーバーの科学論文で言及されている「心理学」とは
それから「カテゴリー」論文他のヴェーバーの科学論文で言及されている「心理学」についての注です。一般に「心理学」というと、フロイトの夢分析やリビドー説、ニーチェのルサンチマン説、そういったものをイメージされる方が多いと思いますが、ヴェーバー他がこの時代に言及している「心理学」は「実験心理学」という、「自然科学の一分野としての」心理学です。名前の通り、「実験」という自然科学の手段(例えば刺激の強弱による神経の反応度合いの変化の測定実験)で理論を構築するものです。それを提唱したのは、誰をさておき、ヴィルヘルム・ヴント(1832-1920)です。ヴントが提唱した自然科学的な心理学を応用することで、全ての精神科学もそれが人間の精神の働きである限りにおいて、心理学によって基礎付けることが出来るという考え方が「心理学主義」であり、ディルタイがまず精神科学の手段として記述的・分析的心理学を打ちだし、またフッサールも最初はまさにそういうことをやろうとしており、彼の最初の著作は「算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―」です。フッサールは最初の著作が「その立場では科学の客観性が担保されない」という批判を受けてから、心理学批判の方向に転換し、「現象学」を以て「真の」心理学を構築しようとします。ヴェーバーもクニース批判の中でヴントに言及していますし、また同じく実験心理学者であったミュンスターベルクについての批判もあります。